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カテゴリー: ヨーロッパ

ハレム

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 小笠原 弘幸 、 出版 新潮選書
ハレム(ハーレム)は「酒池肉林」につながります。
ハレムという言葉はアラビア語(その元はアッカド語)の「ハラム」から来ている。聖なる、不可視の、タブーとされたという意味。
オスマン・トルコの前、アッバーズ朝は改宗の時期を問わず、ムスリムであれば信徒はみな平等とした。そこで、イスラム帝国とされている。その前のウマイヤ朝は、アラブ帝国だった。
アッバース朝のカリフの寵姫たちは、ほとんど奴隷身分の出身だった。アッバース朝のカリフ37人の母親のうち35人は奴隷身分の出身だった。イスラム教では、女奴隷の子は認知されたら、正妻の子と変わらない権利が認められていた。また、ムスリムを奴隷にすることは禁じられていた。逆に奴隷はムスリムになった。
君主にとって、みずからにとって代わる可能性のある親族よりも、奴隷の側近はよほど信頼のおける臣下だった。イスラム世界の諸王朝では、「君主の奴隷」が国や軍事の中心を占める例がしばしば見られた。
ハレムで働く女官や宦官も、基本的に奴隷身分だった。ハレムはまさしく奴隷の世界だった。奴隷はイスラム世界の諸王朝の発展の原動力のひとつだった。
ハレムには400もの部屋があり、一見すると無秩序のように見える。しかし、実際には、住人と役割に応じて、きわめて合理的に空間が分割されていた。スルタンの区画、母后の区画、使用人の区画(女官の区画と黒人宦官の区画もある)という三つの空間から成り立っている。母后の区画は、中央に位置し、スルタン・黒人宦官・女官の区画とそれぞれ個別に直接つながっていた。すなわち、母后は、ハレムの最高権力者だった。
奴隷は、戦争捕虜と有力者からの献呈によって入ってきた。たとえば、ムラト3世の母后は、ベネチア船に乗っているところを海賊に捕らえられて奴隷になった。
女官になると、まず、イスラムに改宗し、新しい名を与えられた。トプカピ宮殿のハレムで働く女官の人数は、残された俸給台帳の記録から500人を上回ることはなかった。
ハレムの女官たちが料理をつくることは基本的になかった。スルタンに叛逆したとされた女官は袋に詰めて海に沈められた。
ハレムで働く女官は25歳までが多く、7年間から9年間ほど働いた。その後は官邸の外で市井の帝国臣民として人生を過ごした。奴隷身分から釈放され、自由人として新しい人生を歩みはじめた。
ハレムから出廷(卒業)した女官はまず、第一に改名した。そして多くは結婚した。その多くは時計を所有したが、それほどステータスが高く、豊かな財産を有するものもいた。ハレムは、管理された後継者生育の場だった。
アッバース朝の宮廷には、1万1千人の宦官がいた。その内訳は7千人の黒人宦官、4千人が白人だった。
ハレムは王位継承を円滑に運用するため、厳格に運用された。ハレムは、王位継承者を確保するといいう目的に最適化された組織だった。ハレムは、まぎれもない官僚組織だったが、王位継承者の生育という目的に奉仕する、特異な性格を持つ、官僚組織だった。
江戸城の大奥という、女性ばかりの空間に好奇心をもっていますが、同じようにオスマン帝国のハレムについても知りたくて一読しました。基本的に目的を達成しました。
(2022年3月刊。税込1815円)

ノブレス・オブリージュ、イギリスの上流階級

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 新井 潤美 、 出版 白水社
イギリスやフランスには、今でも実は上流階級が厳然として存在していると聞きました。今でも貴族が実在しているというのです。驚きます。日本でも旧華族が幅をきかす社会が東京のどこかにあるのでしょうか。昔は学習院大学がそのバックボーンになっていたようですが、今はどうなんでしょうか…。
イギリスの上流階級って、いったいどんな生活をしているのか興味本位で読みはじめました。
イギリスの貴族がヨーロッパの貴族ともっとも違うのは、爵位が長男しか継がれないこと。イギリスの貴族は、息子たちはみな長男と同じ教育を受けるが、成人に達したとたん、勝手に自活するようにと、家を追い出される。次男以下の息子は、「ヤンガー・サン」と呼ばれ、爵位も財産も継げない。かといって、彼らはどんな職業についてもいいわけではない。そこで、聖職者や、軍の士官、外交官そして法廷弁護士を目ざすことになる。
貴族の息子であっても、次男以下は、爵位がなく、土地の相続もできずに、何らかの職業につかざるをえない。したがって、ミドル・クラスの仲間入りをする。
そうすると、同じ家族であっても、アッパー・クラスとミドル・クラスが混在することになる。
同じ家族でも、親戚でも、さまざまな階級に属し、異なった境遇に身を置くことになる。
貴族たちは、19世紀の終わりころから、屋敷と土地の維持のため、アメリカの富豪の娘と結婚するケースが少なくなかった。相続した屋敷と土地を維持し、社交を怠らず、毎週末にハウス・パーティーを招く。
このような「ノブレス・オブリージュ」には、相当の財力と、それをなしとげるだけの気力、体力そして資質が伴わなければならない。しかし、19世紀後半、土地からの収益は減る一方だった。
アメリカの富豪の娘たちが19世紀後半から20世紀初めにかけて次から次へと(100人以上)、イギリスの貴族と結婚したのは、持参金もさることながら、彼女たちの育て方からくる魅力が大きかった。彼女たちは外見にお金をかけていただけでなく、社交的で自信にあふれていて、ヨーロッパの社交界に入っても臆するところはなかった。
アメリカの富豪の娘は、イギリスと違って、相続人の一人であった。そして、アメリカの女性は、イギリスと違って、結婚しても自分の財産をもっていたし、アメリカ人の夫は仕事以外は妻の決断にまかせていた。
イギリスのアッパー・クラスの人々は、所有するカントリー・ハウスを一般公開した。有料で観光客を迎えた。生活しながら、観光客をもてなした。
日本人だったカズオ・イシグロはナイトとなった。このナイトは一代限りで、世襲制ではない。カズオ・イシグロは、ナイトになったので、名前の前に「サー」がつく。ロード・サー・レイディの称号が名前につくのか、名字なのか、結婚後はどうなのかなどによって、その人物が貴族のどの爵位なのか、長男なのか、次男以下なのか、妻なのか、未亡人なのか、または離婚した妻なのかといったことが、ある程度わかる。
アッパー・クラスの人は、大きな屋敷や土地の維持に苦労していて、経済的に困窮している。そして、経済的な理由だけでなく、アッパー・クラスの人は他人(ひと)の目など気にしないので、身なりにもかまわないし、衛生にも無頓着。
イギリスの上流階級の実情、そしてイギリスの庶民がどうみているのかを知ることができました。でも、嫌ですよね、皇室とか貴族(華族)とか…。早く廃止してほしいです。万民が本当に平等の世の中に早くなってほしいです…。でも、その前に経済的な格差のほうを少しでも克服するのが先決でしょうね。
(2022年3月刊。税込2420円)

ロシアトヨタ戦記

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 西谷 公明 、 出版 中央公論新社
ロシアがウクライナ侵略戦争を始めて1ヶ月あまりたって、こんなときにロシアに関する本を読んでどうするんだ…、と思いつつ読んだ本です。
まったく期待せず、さっと読み飛ばすつもりだったのですが、意外や意外、とても興味深い内容の本でした。なるほど、今のロシアって、そんな国だったのか、ウクライナへの侵略戦争を始めた理由、そして、ロシア国民の7割がプーチン大統領を支持しているという理由が、やっと理解できました。つまり、ロシアにトヨタが進出していったとき、どんな扱いを受けたのかを通じて、ロシアというのは、どんな国なのかがよく分かったということです。
ロシアという国に正義など存在しない。そのことはロシアでの苦い経験から、身をもって学んだ。裁判による企業側の勝訴率は20%以下と言われていた。下手な取引(ディール)に応じてしまえば、いずれもっと大がかりなたかりの標的にされ、将来に取り返しのつかない禍根を残してしまうことになりかねない。
当時のロシアは粗野で、不条理にみちていた。「当時」と、今では違うと言えるのでしょうか…。それが問題です。
ロシアで土地を取得し、そこに社屋を建設するとなれば、きれいごとだけですまない。これは分かっていた…。実際に社屋建設に向かって動きだしてみると、ロシア社会の実態が分かってきた。その社会の無法ぶりに泣かされた。資材や機材を輸入するとき、厄介な通関手続の代行をふくめて、巨大な輸入ビジネスのすそ野を形成していた。認証料や手数料などの名目で、あちこちへお金が落ちるしくみになっていた。どこでも「袖の下」が求められた。
ロシア人は請負師であって、自らは仕事せず、中央アジアからの出稼ぎ労働者に仕事をさせる。ロシアは、まぎれもなく階層社会だった。
ロシア経済は、原油への依存に大きく偏りすぎていた。貿易では輸出の65%以上、財政では歳入の50%以上を石油とガス、その関連製品が占めていた。
ロシアは経済危機におちいると、いっとき高級車が飛ぶようによく売れる。それは、ロシア人が自動車を換金性の高い資産と考えているから。
ロシアの人々は、家族と自分自身の日々の生活だけを重んじて、政治や社会、他人については無頓着で、無関心だった。他人を押しのけて生きるのはあたり前。
残念ながら、ロシアは、今もって成熟しておらず、欧米や日本の通念に照らして「ふつうの国」からほど遠い。
ロシアでは犯罪は容易につくりあげられ、正義はなきに等しい。
ロシアでは貧富の差が拡大し、社会のひずみが身近に感じられる。経済のそこここに利権がはびこり、行政の腐敗、汚職と賄賂が蔓延している。交通警察の陸送へのいやがらせもひどかった。
プーチン大統領は、国家に管理された資本主義の方向に向かった。それは中央集権的な政治を目ざすということ。ところが、ロシア国民にとって、プーチンは、祖国を分裂と崩壊の淵から救い出し、国家としての一体性を回復させて、ふたたび大国へと導くための道筋をつけた恩人だった。だから、支持率70%は当然だった。
ウクライナへの侵略戦争を始めた今日でも、なお70%もの支持率だといいます。マスコミがプーチンによって統制されて、ほとんど戦争の真実をロシアの人々に伝えていないからでもあるでしょうが…。
近代ロシアの歴史は、一貫して権威主義的な専制君主国家として、上からの垂直的な統治があり、下には上に従う多数の国民がいる。
トヨタは、ロシアでレクサスをふくめて多くの車の売り込みに成功したようですが、その内実がいかに、大変だったのか、この本を読むと、その大変さのイメージがつかめます。
ロシアのウクライナ侵攻の背景にある、ロシアという国の本質を垣間見ることができる本として、一読をおすすめします。
(2021年12月刊。税込2420円)

ユダヤ人を救ったドイツ人

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 平山 令二 、 出版 鷗出版
ナチスがユダヤ人を迫害し、大量に虐殺したことは歴史的事実です。
ところが、少数ではありますが、迫害されるユダヤ人を身の危険をかえりみず救ったドイツ人もいたのです。本書は、それを丹念に掘り起こして、詳しく紹介しています。そのような人たちは「静かな英雄たち」と呼ばれています。
映画「戦場のピアニスト」は実話を描いていますが、そこに登場しているドイツ軍将校の素顔が紹介されています。気まぐれとか偶然とかでユダヤ人ピアニストを救ったのではないことを初めて知りました。
ヴィルム・ホーゼンフェルトは、教師の父、両親とも厳格なカトリック教徒であり、本人も父と同じく教師となり、ペスタロッチの教育観の影響を受けた。ホーゼンフェルトは突撃隊に入隊し、ナチス教師連盟にも加盟しているが、次第にナチス党に違和感をもつようになった。反ユダヤ主義に共感できなかった。そして、アウシュビッツ強制収容所のガス室の存在を知り、「こんなひどいことを見逃しているなんて、なんと臆病なことか、我々も全員が罰せられるだろう」と1942年8月13日の日記に書いている。
「ユダヤ人のゲットーはすべて焼け跡になった。獣の仕業だ。ユダヤ人の大量虐殺という恐ろしい所業をして戦争に敗北するというわけだ。拭いようのない恥辱、消すことのできない呪いを自らに招いた。我々は恩窮に値しない。みんな同罪だ」(1943年6月16日)
「労働者たちはナチスに同調し、教会は傍観した。市民たちは臆病すぎたし、精神的な指導者たちも臆病だった。労働組合が解体され、信仰が抑圧されることを我々は許した。新聞やラジオでは自由な意見表明はなくなった。最後に、我々は戦争に駆り立てられた。理想を裏切ることは報いなしではすまない。我々みんなが尻拭いをしなければならない」(1943年7月6日)
これって、今のロシア、いえ、日本にもあてはまりませんか…。
ホーゼンフェルトがユダヤ人ピアニストのシュピルマンに出会ったのは1944年11月17日、そして、かくまい続けた。
ホーゼンフェルトは、ドイツ軍が敗走するなかで、ソ連軍の捕虜となり、白ロシアの軍事法廷でワルシャワ蜂起弾圧の罪で懲役25年の刑が宣告された。ポーランドで著名な音楽家となっていたシュピルマンは、ホーゼンフェルト救出に尽力したが、ホーゼンフェルトは2度目の脳卒中でついに1952年ン8月13日、死に至った(57歳)。
ドイツ軍大尉として、ヒトラーを支持しながらも、ユダヤ人救済者でもあったというわけです。
1943年2月末、ベルリンには2万7千人のユダヤ人が暮らしていた。そして、戦争中、6千人のユダヤ人が潜行していた。1人のユダヤ人を救うのに7人の救済者がいたとすると、単純計算ではベルリンだけで4万人もの救済者がいたことになる。
救済者の一人として、ベルリン警察署長がヴェルヘルム・クリュッツフェルトがいた。そして、その部下も署長とともにユダヤ人を救っていた。
多くのユダヤ人を救ったドイツ国防軍の軍曹もいました。シュミット軍曹です。大胆にも軍のトラックを利用してユダヤ人を安全地帯に移送した。それがバレて、軍法会議にかけられ、シュミット軍曹は死刑に処せられた。このアントン・シュミット軍曹は思想的背景はなく、他人の苦しみに同化し、必要とされたら他人を助けるという本能に従って行動した。処刑される寸前に妻あての別れの手紙にシュミット軍曹はこう書いた。
「私は、ただ人間たち、それもユダヤ人たちを、死から救っただけ。それで私は死ぬことになった。愛するお前たちは、私のことは忘れてくれ。運命が望んだような結果にまさしくなっているのだから」(1942年4月13日)。
この本には、保守的で閉鎖的と思われていた農村でも、ユダヤ人が隠まわれ、戦後まで生きのび例があることも紹介されています。それは、裕福な自立した農民であり、家族の絆(きずな)を大切にし、敬虔(けいけん)なキリスト教徒だった。
ユダヤ人救済に身を挺したドイツ人が少なくないことを知ると、心がいくらか安まります。
(2021年9月刊。税込3520円)

ファーブル伝

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ジョルジュ・ヴィクトール・ルブロ 、 出版 集英社
『ファーブル昆虫記』で名高いファーブルの評伝です。著者はフランスの医師であり、国会議員もつとめた政治家でもありますが、生前のファーブルと親交があったようです。なので、ファーブルの昆虫観察ひとすじの生活ぶりが詳しく紹介されています。
そして、とてもこなれた日本文になっていますので、476頁もある大著ですが、スラスラと読みすすめることができました(私は、日曜日の昼に読みましたが、3回で読了しました)。
ファーブルの人生においては、何もかもが真剣で、常にある一つの目標に向かっていた。
ファーブルの90年あまりの長い生涯は、3つの時期に区分できる。
その一は、60年近くにわたるもので、「荒地」を手に入れるまで、その二は、孤独と深い沈黙の時期。しかし、この時期がいちばん活発で、収穫も豊か。その三は、人生の最晩年の10年間で暗闇のなかにいきなり光があたったような時期。
ファーブルは、どんなときでも、何もしないで時間を過ごすということがなかった。
ファーブルにとって、子どもと虫、この二つこそが大きな喜びだった。子どもたちに、毎日(木曜日と日曜日を除く)午後2時から4時まで講義した。
何より必要なのは、生き物に対する強い共感。
優れた観察者というものは、実際には想像力をはたらかせてものを創り出す詩人だ。
ファーブルは、本能とは何かを定義したり、その本質を深く掘り下げたりはしない。本能は定義できないし、その本質もまたはかり知れないからだ。しかし、ファーブルは、『昆虫記』において、本能と、その無限の多様性について、多くのことを学ばせる。
昆虫は、やり慣れた作業や習慣的な行動から逸脱することができない。なので、ファーブルは、虫には知性がないとした。
ファーブルは、何事もこまかく突きつめていく性格だった。実証的で、厳格で、独立心が旺盛だった。
ファーブルは、ダーウィンと同世代の人で、手紙のやりとりをしていた。ファーブルはダーウィンの進化論を否定して賛同せず、表向きは敵というか、論争の相手だった。しかし、この二人は、互いに深く尊敬しあっていた。
ファーブルは、あらゆる動物、たとえば犬や猫、家で飼っているカメだけでなく、ぷっくりと膨れて、皮膚のべとべとしたヒキガエルとさえ仲良くしていた。
生きとし生けるものは、みな神聖なつとめを果たしている。この教えをファーブルも大切にした。
ファーブルは、ごくフツーの、誰にでも分かるコトバで語ろうと努力した。
ファーブルは、素朴でイメージの富んだ呼称や、ありふれた俗称など、一般やの人々がつかう生き生きした用語のほうを使うのを好んだ。
ファーブルの最晩年は「貧窮」のうちに生活していた。
フランスには、日本ほど大の男がチョウチョウなどの昆虫を愛していると公言する人はいないようです。日本には有名な俳優にも政治家にも、昆虫大好きだと公言してはばからない人がいますし、世間が受け入れていますよね。私も、その一人です…。
(2021年5月刊。税込4620円)

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