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カテゴリー: フランス

丸刈りにされた女たち

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 藤森 晶子 、 出版 岩波現代文庫
 第2次大戦中のフランスでドイツ兵と親しくしていた女性たちが終戦後、ナチス・ドイツへの復讐といわんばかりに、頭髪を丸刈りにされ、市中を行進させられました。この本は、その被害にあった女性を訪ねて、その心境、そしてその後どのような人生を送ったのかを掘り起こしています。
 著者は広島生まれの40代の日本人女性です。どうやら、フランスでは先行研究があまり多くはないようです。
 この本によると、戦後のフランスで丸刈りにされた女性が2万人いて、そのうち半数がドイツ人兵士と性的関係をもっていた。残り半分の女性は、経済的協力者、密告者、対独協力的組織に加入していた政治的協力者など。
捕まった女性は、対独協力が市民として許容範囲内とされたら釈放され、そうでなければ祖国反逆罪を問われ、公民権が剥奪された。
 公共の場で丸刈りをするというのは、実は、ナチス・ドイツが始めたもの。これに対しては市民が被害者に同情を抱き、ナチスに対して拒否的な態度をとる市民は多かった。
フランスでドイツ人兵士と性的関係をもったフランス人女性は多かったが、実際には、丸刈りを免れた女性のほうが圧倒的に多かった。それは、人前で大っぴらに付き合っていなかったら分からなかったから。
 ノルウェーには多くのドイツ人兵士が駐留していたことから、人口3千万人の国にドイツ人兵士が父親とされる子どもは1万2千人近くもいるとされている。
フランスで女性の丸刈りを実行したのは住民が自発的にやったこととされてきたが、実はレジスタンスの活動家が8割を占めていた。そして、それは、占領下のときから準備されていた。
 丸刈りの対象となったのは、娼婦については比較的に寛容であった。女性たちは、身体ではなく、心を売ったことが咎(とが)められたのだった。
 歴史は、いつの時代にあっても、ジグザグに進むものなんだな…。そんな感想を抱きました。
(2025年4月刊。1060円+税)

私が決める、私の幸せ

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 大畑 典子 、 出版 ワニブックス
 29歳のとき、一級建築士の女性が思いたって単身フランスに渡り、フランスで「結婚」し、2人の子どもを育てている生活を振り返っています。
結論として、「キラキラしたフランス生活ではないけれど、夢見ていた平凡で温かな暮らし」を実現しているとのこと。写真の笑顔でそれを実感できます。なにより、2人の子と一緒に過ごしているパートナーの写真がホッコリさせてくれます。
 肩の力を抜いて、自分の夢に向かって軽やかに生きていくことを著者は大切にしているのです
 東京では建築士として、がむしゃらに働いていて、ふと思ったのでした。こんな生活をし続けていて、本当に幸せな未来が待っているのか。何か大切なことを見失いかけていないか…。まあ、それにしてもフランス語も話せないのに、よくもフランスに行こうという気になったものですね。いえ、フランスに観光に行くというのではないのです。何日、何ヶ月間の観光旅行なら、フランス語が話せなくてもなんとかなりますよね、きっと。著者は英語は話せるのですが、それではフランスでは生活できません。
 日本の建築士の資格はフランスでは通用しません。そこで、著者はナントにある建築大学の大学院に応募して、無事合格したのです。やはり、ただ者ではありませんね。
そして、フランスでパートナーの男性と出会って、2人の子どもをもうけて、現在も子育て中です。
先ほど「結婚」と書きましたが、正確にはPACSというフランス独特の制度を利用していて、結婚したのではありません。今は、フランス国籍の子どもの母親としてフランスに滞在する権利があります。
著者が住んでいるのは、ナントという地方都市。フランス史では「ナントの勅令」が有名です。私も名前は知っていますが、残念ながら行ったことはありません。
 フランス人の食生活は、ともかく日常的に大量の乳製品を摂取する。それにあわせるのは日本人にはきついので、和食中心に切り替え、子どもが生まれてからも週に半分ほど和食の日にしているそうです。
 著者は自分にとって心地よくないという人間関係は手放すことにしたと思います。大賛成です。先日も、この依頼者とはうまくやれそうもないな、いつ、どうやって縁を切ろうかと思っていると、先方から解任の話が出て、心底からほっとしました。これは、お金には代えられません。
フランスでは、婚姻届出が23万7千に対して、PACSの届出も19万2千あります。結婚よりほんの少しだけ少ないのです。連想ゲーム的にいうと、日本でまだ実現できていない選択的夫婦別姓なんて、なんで反対する人がいるのか、まったく理解できません。頑迷固陋な右翼は、戦前(明治)の家族(江戸時代までは日本も夫婦別姓でした)に無理矢理に戻したいというのです。日本の伝統を無視した、愚かな人たちとしか言いようがありません。
 著者は「国際結婚」をしたことになりますが、その難しさを実感しています。わが家にも国際結婚した娘がいますので、よく分かります。その点からも、参院選のとき、「日本人ファースト」なんて叫んだ政党を許すことができませんでした。
 外国在住経験のない人が国際結婚すると、「モラハラ関係」になりやすい。そうなんですよね。はやり、誰だって自分が体験していないことは、なかなか理解できないのです。それを日頃から口に出してはっきり言える関係をつくり出す必要があるのです。でも、これって、案外むずかしいことなんです。
大切なことは、国際カップルは、お互いに経済的自立しておく必要があるということ。依存関係では、破綻したときにたちまち困るのです。
 フランスには離婚保障手当なるものがあるそうです。初めて知りました。離婚したあと、収入の少ない配偶者の生活レベルが下がってしまわないよう、収入の多い側が少ない側に支払うものです。ただし、ずっとではないようです。
 フランスの家庭に客を招いたとき、靴を脱がせるのは失礼にあたる。これは、まったく生活習慣の違いですね。
フランスには家事代行を利用している家庭が多いが、その費用の半分を国が負担してくれる。それは、共働き夫婦を支援する制度。いやあ、これはいいですね。
 フランスでは在宅保育制度についても、国が費用を半分負担する。これまた、国の少子化対策のひとつだと思います。日本でもやったら、どうでしょうか。
 排外主義がはびこっているのはフランスも同じのようですが、この本を読むと、ますます、みんな同じ人間なんだから、どこかで折りあいをつけて共生していこうという気になります。
(2025年3月刊。1760円)

南フランスの文化・地域社会と産業

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 亀井 克之 、 出版 関西大学出版部
 私は南フランスには少なくとも2回行ったことがあります。夏の南フランスは最高です。まず雨が降らず、夜10時まで明るいのが助かります。傘の心配なんかすることなく自由に動きまわれます。そして何より美食の国ですから、食事がどこで食べても美味しいのです。ワインにしても高くないのに味が良くて、料理にぴったりあいます。
私の1回目の南フランス滞在は41歳のときでした。7月20日に日本を出発して8月31日に帰ってきました。まさしく夏休み、それも40日間です。妻も子どもたちも置いて独身気分で出かけました。南フランスではエクサンプロヴァンスに3週間滞在。学生寮に寝泊まりします。男女混合の部屋(もちろん同室ではなく個室です)で、このほうがフロアーを分けるより、かえって安全だというのです。寮の入口にはコンドームの自動販売機があるのにも驚かされました。そしてお昼は、学生食堂でランチを食べます。ワインの小瓶もついているのです。これにも驚きました。さすがフランスです。ワインは水替わりなのです。
 さて、この本です。なつかしいエクサンプロヴァンスの街並みが写真つきで紹介されています。市街の中心にはミラボー大通りがあり、両側はプラタナスの大木が緑豊かなトンネルとなっています。一角には美術館もあります。静かで落ち着いたローマ時代から今日に至る町並みが残っています。
ここは画家のセザンヌが生まれ育ったところです。といっても、セザンヌは生前はあまり評価されていなかったとのこと。遠くに白い大きな山、サント・ヴィクトワール山を眺めます。セザンヌがよく描いている山です。
市場の紹介があります。フランスの街歩きの楽しみの一つが、この市場、マルシェめぐりです。私は夕食は、広場に面したレストランで何度も食事していたので、マダム(女主人)に顔を覚えられ、昼間すれ違ったときにも「ボンジュール、サヴァ」と声をかけられました。
 私が40日間の夏休みをとったのは弁護士になって15年すぎて、マンネリを脱却するため、フランス語の勉強を弁護士になって以来ずっと続けていたので、ブラッシュ・アップするため、というのが口実でした。人生、たまには決断のときがあるのです。
 今振り返っても、あのとき、本当に良い決断をしたと考えています。
 この本の著者もエクサンプロヴァンスの大学院で経営学を学ぶため、まだ幼い子どもたちを連れて行ったのでした。フランスの小学校に子どもを入れるのも大変だったようですが、子どもはもっと大変だったでしょう。フランス語なんて、もちろん話せないのですから…。でも、そこが子どもです。ぐんぐん吸収してまたたくうちにフランス語ペラペラになっていきます。人間の適応力って、恐るべきものがありますね…。
 私は還暦前祝いと称して、60歳になる前、妻と二人で南フランスを旅行しました。もちろんエクサンプロヴァンスにも行きました。このときは、ニースも、ポン・デュ・ガール(ローマ時代の水道橋)も、そしてカルカッソンヌにも行きました。なかでも印象深いのは、エズです。鷲の巣村とも呼ばれます。敵の攻撃を防ぐため、山の山頂にある小さな集落ですが、細い通りが道路のように入り組んでいます。
 ああ、また南フランスに行きたくなりました。ぜひ、みなさん行ってみてください。本当にいいところです。朝、起きて、さて、今日は何をしようかな。何かいい映画でもやってるかな…。そんな、自由に過ごせる日があってもいいと思いませんか…。
(2025年3月刊。2700円+税)
 男女同権は今やあたりまえのこと。でも、現実にはなかなかそうなってはいません。ですから、男女共同参画を推進してきました。
 ところが、参政党は、真っ向から反対して、そんなものつぶしてしまえと叫んでいます。ひどいです。
 選択的夫婦別姓は、夫婦別姓を選択できるようにしようというものですから、夫婦別姓を強制するものではありません。
 参政党は反対しています。そんなのは共産党のイデオロギーだというのです。多くの人が望んでいることなのですから、参政党の反対はまったく理解できません。

ロベスピエール

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 髙山 裕二 、 出版 新潮選書
 フランス革命の闘士、そして恐怖政治を遂行した独裁者であったロベスピエールは、1758年に生まれ、1794年に処刑されて死亡した。
 「私は人民の一員である」と言い続けたロベスピエールは、元祖ポピュリストだった。ロベスピエールは、代表者(議員)の役割を重視し、彼らが一般的な利益を示すことで人民との透明な関係性をつくるべきだと考えた。
 同時代人から、ロベスピエールは、「清廉(せいれん)の人」、つまり腐敗していない人と呼ばれていた。ところが、ロベスピエールは、恐怖政治をすすめた「独裁者」として、ひどくイメージが悪い。
 ロベスピエールの父親も弁護士。というか、ロベスピエール家は300年前にさかのぼる法曹一家である。ロベスピエールは若くして父親を亡くしたものの、11歳のとき、成績優秀のための奨学金を得てパリの名門コレージュに入学した。ここでも成績優秀のためルイ16世に賛辞を捧げる代表にも選ばれている。
 ロベスピエールは、弁護士として活動しはじめた。ロベスピエールは、1789年、選挙人による投票で全国三部会に参加する代表の一人として選ばれた。議員総数は1200人。会場のヴェルサイユ宮殿に入るにしても、第一、第二身分は表口から、第三身分は裏口からという差別があった。
1789年7月14日、パリの民衆5万人がアンヴァリッド(傷病兵の慰安施設)に武器を求めて押しかけ、次に弾薬を求めてバスティーユ監獄に向かった。このとき監獄には、有価証券偽造犯の4人をふくむ7人しか「囚人」はいなかった。
人権宣言案は、二つの国民、つまり「能動市民」と「受動市民」という考えによって立っていた。「能動市民」とは、教養のある有産者であって、3日分の労賃に相当する直接税を支払う25歳以上の男性のみに選挙権があるとした。ロベスピエールは、これに反対した。
 1790年3月後半からの一時期、ロベスピエールは。ジャコバン・クラブの会長をつとめた。
 1791年6月、ルイ16世がパリを抜け出した。ヴァレンヌ事件と呼ばれる。フランス王が国外脱出を図った事実はフランス全土に知れ渡り、国王への信頼が大きく揺れた。
1791年5月、ロベスピエールは、議員の再選禁止法案を提案した。このときから、ロベスピエールは、「清廉の人」と呼ばれた。
 1792年4月、フランスはオーストリアに対して宣戦布告した。このとき、ロベスピエールは他の6名とともに反対票を投じた。
 革命は、人々を「陰謀」に駆り立て、対外戦争がそれを加速させた。ロベスピエールは、戦況悪化のスケープゴートとされた。
 1792年9月、国民公会議員を選出する選挙が実施された。投票権は21歳以上の男子に限られた。家内奉公人や無収入の人には与えられなかった。投票率は10%未満で、投票したのは70万人ほどでしかない。
1793年1月、ルイ16世を含む387人が死刑が宣告された。そして、死刑に執行猶予をつける案が投票に付され、賛成310票、反対380票で否決されて死刑が確定した。1月21日、ルイ16世はギロチンによって処刑された。
 1793年、ロベスピエールは一貫して私的所有権を擁護し、「財の平等」には否定的だった。それは「権利の平等」であって、その思想に共産主義思想の原型は認められない。
 1793年6月、国民公会は新憲法(1793年憲法)を採択した。
 1793年春から夏にかけて、フランスは全ヨーロッパとの全面戦争に突入した。春には、ベルギー戦線で、オーストリア軍に対する敗北とデュムリエ将軍との裏切りがあった。
 ロベスピエールより過激だったマラが7月13日に暗殺された。8月14日、国民公会は18歳から25歳までの独身男性全員を徴兵できる国家総動員令を発生した。
 1793年10月、国民公会が「革命政府」を宣言し、マリー・アントワネットやブリソ派指導者を処刑した背景には、国内外の混乱と鬱積(うっせき)する民衆の不満があった。
 9月5日、パリの民衆(サン・キュロット)が国民公会に押し寄せてきたとき、国内外の「革命の敵」が攻勢に出るなか、議会に対して「恐怖を日常に」と要求した。
 1793年3月、特別刑事裁判所(革命裁判所と呼ばれた)が設置された。これを主導したのは元法相のダントンだった。そして、ダントンも1994年4月に裁判にかけられ、3日後には死刑判決が確定して、即日処刑された。34歳だった。
 恐怖政治のなかで、30万人が逮捕され、1万7千人が処刑された。裁判によらない処刑をふくめると4万人はいるとみられている。
 貴族の処刑の割合が倍増した。革命の理想によるというより、増悪や復讐心によるもの。
ロベスピエールはこのころ、体調を崩して自宅で療養していた。精神的ストレスが加速して、心身ともに疲弊していたのだろう。
 1793年6月、全会一致で国民公会議長に選出されたロベスピエールが「最高存在の祭典」を主宰した。
 1793年3月から6月まで、死刑判決は1日3月から6月まで、死刑判決は1日3人だったのが、7月末までは1日28人に激増した。このなかで、恐怖政治に批判的な議員たちにとって、ロベスピエール一派は不安の根源であり、元凶はロベスピエールだった。
 1794年7月、ロベスピエールが久しぶりに国民公会に姿を見せ、演説した。ところが、以前のように熱狂的に受け入れられなかった。そして、ロベスピエールの逮捕が提案されると、なんと全会一致で逮捕が議決されたのでした。このとき、ロベスピエールが作ったという処刑予定者リストなるものがデッチ上げられ、今やらないと自分たちのほうが処刑されるぞと脅していた議員がいたのです。
 ロベスピエールは逮捕されるとき、顔面に銃弾が貫通して言葉を発することも出来ない状態になった。そして、裁判もなく、即日処刑された。
 ロベスピエールは、怪物ではなく、ごく普通の人だった。恐怖政治は、彼が創造したものではなく、危機的な状況に対する集団的な反応だった。自由や熱狂は、憎悪や恐怖と隣りあわせだった。フランス大革命のときの恐怖政治を考えさせられました。
(2024年11月刊。1750円+税)

パリ十区、サン・モール通り209番地

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 リュト・ジルベルマン 、 出版 作品社
 もう久しくフランス、そしてパリに行っていません。ひところは毎年のように行っていました。パリ、リヨン、ボルドーそしてモンサンミッシェル、アヌシー、シャモニー、エズなど観光地にも行きました。もはや30年前のことになりますが、フランスに40日間いました。南仏のエクサンプロヴァンス大学での外国人向け夏期集中講座に参加したのです。大学の学生寮に3週間も暮らしました。独身貴族の気分をたっぷり味わうことができました。今はもうそんなことをする元気(勇気)がありません。なんでも思い立ったときにやっておくことだと、今になってつくづく思います(反省しているのではなく、やっておいて良かったという意味です)。
さて、この本に戻ります。パリはパリ・コミューンが戦われた舞台でもあり、この本でも少し紹介されています。
 1870年、ナポレオン3世がプロシアに宣戦布告し、結局、敗北。そこで、パリ市民が決起し、市民軍(国民衛兵)がつくられた。そして、1871年3月、ついにコミューン評議会が成立し、パリを支配した。そこへ、ヴェルサイユ政府軍が攻撃を仕掛けてきた。最新兵器の前に市民軍は次々に敗退していく。このパリ十区でもバリケードが築かれ、激しい市街戦が展開したようです。
 敗れた市民軍は次々に処刑され、ニューカレドニアを流刑地として流されたのでした。
 1942年7月、ナチス・ドイツの支配するパリでユダヤ人狩りが始まった。実行したのはパリ警察で、フランス人警官が動いた。十区については、152の検挙班が組織された。
 7月16日午前9時現在の逮捕者数は4044人。パリ十区の209番地では18人が逮捕された。ユダヤ人住人の多くが一斉検挙を免れた。
 この本は109番地で生活していたユダヤ人一家の行方を丹念に追跡しています。意外なことに絶滅収容所に送られても戦後、生還した人がいました。
 7月16日と17日に逮捕されたユダヤ人は1万3152人にのぼる。この冬期競輪場に7日間、閉じ込められたあと、各地にある収容所に送られた。
 この状況を描いた映画を私は観ました。あまりにも悲惨な状況です。食事はなく、水も不十分。そして、トイレがない(圧倒的に足りない)広場に1万人以上も集められ、7日間を過させられたのです。想像するだけでも恐ろしい状況です。
 そして移送列車に乗せられます。母は無理矢理子どもと離されたのでした。ひどい話です。ひどすぎます。ナチスはユダヤ人を人間と考えていませんでした。
 一斉検挙のとき、幼い子どもは泣きださないように、口にアメ玉を押し込まれ、母親と同じベッドで息を潜めていた。それが生きのびた戦後、大人になって突然に思い出されたりする。思い出したくない過去だけど、つい現れてしまう過去の記憶というものがあるようです。
 映画にもなっているようですが、そちらは観ていません。パリの一区画に住んでいた人々を追跡した貴重な労作です。
(2024年8月刊。3600円+税)

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