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カテゴリー: ドイツ

ナチズム前夜

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 原田 昌博 、 出版 集英社新書
 ワイマル共和国と政治的暴力というサブタイトルがついています。ヒトラーのナチスが政権を握る前、ワイマル共和国体制の下で、政治的暴力が日常茶飯事だったことを初めて認識しました。主としてナチスのSAと共産党のあいだでの暴力です。それは銃器も用いていて、たびたび人が何人も死んでいます。
 当時のベルリンは人口400万人というドイツ最大の都市。市の西側に高級住宅街やブルジョア地区が広がり、東側はプロレタリア的色彩の濃い地区だった。
 政治的にみると、ベルリンでの左翼陣営の得票率は常に50%をこえていて、1930年に入ると共産党への支持が社会民主党を上回っていた。1930年初頭のベルリンでは、ナチ党、共産党、社会民主党が三つ巴(どもえ)の闘いを展開していた。
 ナチスと共産党は、互いを明確な敵として認識していた。共産党は「ファシストを見つけたら叩きのめせ」というスローガンを唱えた。ファシストとはナチスだ。
 ナチスのSA隊員は急増した。30年春に3千人だったのが32年初めに1万人をこえ、夏には2万2千人となった。その50%以上が労働者であり、失業者と若者から成った。
 SAの急成長と労働者地区への侵入の本格化は、そこを牙城とする共産党の敵愾(てきがい)心を刺激し、ベルリンの治安状況を悪化させた。
 ワイマル共和国の不安定さの中で、暴力で状況を変えられるという誤った信念が社会に浸透していった。
 共産党は1928年以降、コミンテルンの方針を受けて戦闘的な極左路線をとり、社会民主党についてファシズムの片棒を担(かつ)ぐ「社会ファシスト」と呼び、ときにナチス以上の主要敵とみなした。そのため、1930年代にフランスやスペインで成立する社共統一の人民戦線はドイツでは非現実的だった。
 ベルリンの東側に位置する労働者地区は、老朽化した建物が密集し、生活環境は劣悪で、人口密度や犯罪発生率の高さ、ひどい衛生環境が特徴的だった。
 住民たちにとって何より重要だったのは、侵入してくる「敵」に対して自分たちの「縄張り」を守り通すことだった。
 ワイワル期には、政治的党派ごとにメンバーやシンパがたむろする酒場が発展した。「常連酒場」と呼ばれSAの酒場は「突撃隊酒場」と称した。1930年2月に、ベルリン市内に共産党の常連酒場が193軒、ナチスの酒場が51軒あった。その後、ナチスSAの酒場は急増し、同年末には144軒となった。酒場の出入り口には歩哨を立てて周辺を警戒した。
 政治的暴力が日常化した結果、人々が行きかう街頭は暴力で対抗した。ナチスであれ、共産党であれ、若者たちの一部が暴力に魅せられ、日常生活の中で暴力に手を染めていった。
 1933年1月30日、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に任命した。ナチスは政権成立から1ヶ月足らずでSA隊員を補助警察官とし、経済界から半ば強制的に資金援助を受け、政敵(共産党)を撲滅に乗り出した。
 ワイマル前期から中・後期にかけてのドイツ社会には左翼から右翼に至るまで暴力を忌避しない政治文化が広がり、「暴力の政治化」あるいは「政治の暴力化」とも呼ぶべき状況が生み出されていた。社会に蔓延(まんえん)する政治的暴力は、それを忌み嫌う市民感情とは別に、暴力に魅力を感じ、積極的にコミットしようとする人々(とくに若者と失業者)を惹きつけ、各党派の「政治的兵士」を生み出した。暴力に直接的に関わらなかった人々も、暴力を公然と行使する政党に票を投じた。1932年7月の国会選挙において、ベルリンではナチ党と共産党の得票率の合計は56%であり、投票者の過半数が両党のどちらかを選択した。逆に暴力に消極的な政党の得票は減少した。暴力を忌避しない政党であるからこそ、ナチスや共産党を支持したという人々が多数存在した。
 暴力で「こと」を動かそうとすると、その結果として生まれる新たな状況もまた暴力の洗礼を受ける。暴力は結局のところ暴力で回収せざるをえなくなり、暴力が暴力を呼ぶ負のスパイラルが生じていく。
 皮肉なことだが、意見表明の自由が保障されたワイマル憲法の下で、党派間の激しい対立が暴力の行使を常態化させた。
 ワイマル共和国の実態、人々が政治的暴力の日常化するなかで生きていて、結局、ナチスの暴力という圧政を招き入れたという教訓は今日なお大切なものだと痛感します。
 ウクライナもガザも、暴力の連鎖を断ち切る必要があります。それもトランプ流のやり方ではなくて…。大変刺激的な内容で、とても勉強になりました。今日に生かすべき教訓にみちた新書だと思います。
(2024年8月刊。1320円)

ナチスに抗った教育者

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 對馬 達雄 、 出版 岩波ブックレット
 ヒトラー・ナチスと戦い、刑死した教育者がいたのですね。私は知りませんでした。
 名前は、アドルフ・ライヒヴァイン。反ヒトラー市民グループの主要メンバーであり、ヒトラー暗殺が成功したあと、ナチス後のドイツの文部大臣に予定されていた。
 1944年7月20日、ヒトラー暗殺を企画した事件が起き、失敗した。同年10月20日、ライヒヴァインは国家反逆者として処刑された。遺体は焼却され、遺灰はばらまかれた。遺族に死亡を公にすることも禁じられた。享年46歳。
 ドイツの大学教師の3分の1がナチスによって職を奪われ、2000人以上が国外に亡命した。しかし、ライヒヴァインは国内にあえてとどまった。
ヒトラーは学校の教員が大嫌いだった。
 「教師になろうとする者は、独立した職業では成功がおぼつかないタイプの人間。他人の助けを借りず、自分の努力だけで成功をつかめると思う者は、まず教師になろうとはしない」
 これって、いかにも浅はかな考えですね…。
 ライヒヴァインは大学の教授職を奪われ、ベルリンから40キロ離れたところの小さな村(ティーフェンガー村)の農村学校の校長として赴任し、6年間つとめた。学童は40人前後。
学校は、毎朝、歌を歌いながらの体操から始まる。時間割はないけれど、数ヶ月間、一貫しておこなわれる総合的な「計画学習」が設定された。この「計画学習」には、村の祭りも組み込まれた。夏季の野外中心の自然学習。植物の内的循環の観察、動物世界の生態の観察、郷土の地形図作成もある。人形劇の制作と上演。そして、午後は、工作の時間。温室を大人(大工)の手伝いを受けながら、つくりあげた。その温室で植物栽培をし、観察したのです。
 もっとも注目すべきは、夏休み中の2週間もの大旅行です。これはすごいですね。自転車を使った旅行です。学童12人に大人が3人、付き添っての旅行です。
 貧しい家庭には、村役場が補助し、みな小遣い銭なしの旅行です。
 いやあ、これは、子どもたちにとって最高の思い出になったことでしょうね。
 干し草置き場で眠り、星空のもと徹夜でたき火をしながらの生活です。子どもたちは、それまで海を見たことがなかった。初めて見る海。そして、船に乗るのです。
 「地球は丸いことがよく分かります」と、感想文に書かれました。
 子どもたちに、開かれた世界への視野を育てようとした旅行でもありました。
 子どもたちは、興味の火花を点火されることで、学びを喜ぶ存在だとライヒヴァインは確信していた。いやあ、すばらしい教育実践をしていますね。
86頁の薄いブックレットですが、ライヒヴァインの子どもたちへの熱い思いがひしひしと伝わってきました。
(2024年9月刊。680円+税)

ナチスと大富豪

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 ダ―フィット・デ・ヨング 、 出版 河出書房新社
 大金持ちって、ホント、あくまでもえげつないことをする人たちだと改めて実感させられました。ヒトラー・ナチスにうまくとり入り、ナチスへの入党もためらいません。
 まず、ユダヤ人経営者を追い出し、ユダヤ系企業を安価で乗っ取ります。そして自分のものにした工場で戦車や武器・弾丸をどんどんつくって儲けます。工場に人手が足りなくなったら強制(絶滅)収容所の「囚人」を死ぬまで酷使します。
 ヒトラーが自殺し、ナチスが敗北した戦後は、ナチスに協力させられたのは強制なので、真意ではなかったと強弁し、自分の責任は決して認めません。酷使した元「囚人」に対する賠償も拒否し続け、いつのまにかナチス時代のように繁栄し、再び大富豪に返り咲きます。そこでは、あくまでお金がすべての世界です。
 そして「賢い人」は、マスコミ取材を一切拒否して、自分の姿が世間から見えないようにします。この本は、そんな彼らの実相をトコトン明らかにしています。
この本でもう一つ詳明に明らかにされているのは、ゲッペルスの妻マグダの行状です。マグダは大富豪の妻だったのです。ところが、大富豪と離婚すると、ナチスに憧れ、ついにゲッペルスと結婚し、6人の子をもうけたのです。ヒトラーの自殺のあと、ゲッペルス夫妻はベルリンの首相官邸の地下室で6人の子どもを青酸カリで死なせたあと、自分たちも自殺しました。
ところが、マグダには、もう一人、別れた大富豪との間に男の子がいたのです。この子はナチス軍に入り、戦後まで生きのびました。
 マグダは恋多き女性だったようです。夫以外の男性と次々に関係を結び、夫とは離婚しようとしますが、ヒトラーが許さなかったのでした。ナチスの理想的なカップルとして売り出していたので、それが壊れては困るとヒトラーは考えたようです。妻の浮気に対抗して、ゲッペルスも女優を愛人としました。
 ヒトラーが政権を握る前、ナチスには選挙資金が枯渇していました。それを救ったのがドイツの経営者たちでした。
 民主主義を葬り去るための資金提供に、大物実業家たちは何の抵抗も感じていなかった。1933年2月のことです。ゲッペルス(当時35歳)は、日記に「300万ライヒスマルク(今の2000万ドル)もの選挙資金が集まった。やったぞ!これで資金はととのった」と書いた。このなかにはIGファルベン社(40万ライヒスマルク)も含まれている。
ドイツ人実業家たちは計算高く、無節操な日和見主義者にすぎず、自分の事業を拡大するためなら手段を選ばなかった。ゲッペルスは、作家、劇作家、ジャーナリストの道に進もうとしたがうまくいかず、発足まもないナチ党に1924年に入党した。弁が立ち、派手な演説に長(た)け、ヒトラーに対して絶対的な忠誠を示したので、一気に出世を遂げた。
 ゲッペルスは情報の力についてよく把握していた。ゲッペルスは、いつも他人(ひと)より優位に立つことを求めていた。
 ゲッペルスの取り柄は、機転がきくところと、ヒトラーへの忠誠心だけだった。
 マクダをめぐるゲッペルスのライバルは、ほかでもないゲッペルスが崇拝するヒトラーだった。マクダとゲッペルスが結婚した(1931年)とき、ヒトラーは花婿付添人をつとめた。
 ユダヤ人実業家たちは、とんでもない低額で企業をナチスに加担した起業家に譲り渡さなければならなかった。それはロスチャイルド家でも同じだった。2100万ライヒスマルクもの保釈金を支払って、ようやくアメリカに移住できた。いまのお金で3億8500万ドルに相当する保釈金です。
 ベルリン郊外のヴァンゼーで開かれた会議(ユダヤ人問題の最終的解決をテーマとする)について、ゲッペルスは日記に次のように書いた。
 「実に残酷な措置が施されることになる。そうなれば、ユダヤ人という人種が生き残る道はほぼ絶たれるだろう」
 いま、イスラエルはガザ地区でかつての自分たちがされたことをアラブ人住民にしています。どちらも許せません。
 ドイツ人の男性は兵士にとられてしまったため、労働力が著しく不足していた。それを埋めるのが「東方労働者」(ソ連やポーランドの人々)であり、強制収容所の「囚人」たちだった。
 奴隷労働に関して、ドイツ企業はSSの運営する強制収容所と連携していた。囚人たちは「奴隷以下」の扱いを受けた。
 戦後、1970年の西ドイツの資産トップの大富豪4人は、いずれも元ナチ党員だった。
 そして、そのなかに、ドイツの右派、極右の政治団体に大口献金していた。ナチス時代の自分の行為をまったく反省していないというわけです。
 ドイツ敗戦後の連合軍によるニュルンベルク裁判にかけられた実業家は一人だけで、それも有罪にはなったけれど、刑期が短縮されて、すぐに出所してきて、やがて西ドイツ一の大富豪になった。
 BMW、ポルシェ、エトカー(プリン)など、日本でも有名な大企業の裏の歴史が暴かれている本でもあります。知らなかったことがたくさんありました。ぜひ、ご一読ください。
(2024年5月刊。3960円)

アウシュヴィッツの小さな厩番

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 ヘンリー・オースター、デクスター・フォード 、 出版 新潮社
 ナチス・ドイツ軍の電撃作戦は有名です。ところが、実は、この作戦を支えていたのは汽車でもトラックでもなく、馬だったのです。すると、ドイツは大量の馬を確保する必要があります。そこで、アウシュヴィッツ収容所でも馬を生産・育成していました。その厩番(うまやばん)にユダヤ人の男の子が使役されていたのです。まったく知りませんでした。
 ドイツ軍は戦車やトラック、戦闘機に使うガソリンを少しでも多く必要としていた。そのうえ、ロシアの鉄道は広軌なので、ドイツの列車をそのまま乗り入れることはできなかった。そのため、ドイツ軍は、すべての占領地で兵士や武器、食料を運搬する馬車を引く馬を大量に必要としていた。
 ドイツ軍は囚人より馬のほうをずっと貴重だと考えていた。なので、馬そして仔馬に何かあったら厩番の生命はないものと考えるほかはない。
 メスの馬2頭とオスの種馬の世話をさせられた。著者は馬の餌として与えられたクローバーも食べた。貴重な栄養源だった。クローバーって、生のままでも食べられるんですね…。
 たんぽぽも花が咲く前に摘みとったら食べられる。花が咲いたら驚くほど苦くなって、食べられない。
 馬の交配にも立ち会い、介助していたとのこと。大変危険な作業だった。オス馬は気が荒く、けったり、かみついたりしてくるので、怪我だらけになった。
 馬の尻尾も危険。馬の毛はヤスリのように固く、ざらついている。
 囚人が収容所から逃亡すると、ドイツ兵は、その報復として脱走者1人あたり10人を無差別に殺した。著者も危うく銃殺されそうになりました。
 薬のないときの銃創の治療法は、傷口に尿をかけるもの。もし、ばい菌が入ったら、鼻水で傷を覆ってしまえばいい。
ドイツが敗戦し、アメリカ軍が収容所に入ってきて、解放した。ブーヘンヴァルト強制収容所にいて解放された2万1000人もの人々を保護して食べさせた。少しずつ、少しずつ、食べていった。一度にたくさん食べてしまうと、身体不調となって死に至る危険性は強かった。だから、収容所に入れられていた人々が、「もっと」「もっと」と求められても、少しずつしかもらえなかった。
 当時16歳だった著者は、体重35キロ、身長は13歳の少年並みだった。ナチス・ドイツが大量の馬を必要としていて、その馬を養成していたユダヤ人の少年がいるのは、とても珍しいことだと思います。
(2024年8月刊。2100円+税)

ナチス逃亡者たち

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 ダニ・オルバフ  、 出版 朝日新聞出版
 ナチス・ドイツの体制を支えていた幹部たちは、敗戦と同時に逃亡し、身分を偽って世界各地で生きのびました。南アメリカの各国は、ナチ残党を喜んで受け入れたことで有名です。アイヒマンは偽名で生活していましたが、ドイツから妻も息子たちも呼び寄せて家族で楽しく暮らしていたのです。
この本は、アイヒマンのような逃亡者ではなく、スパイとして暗躍した人間たちを追跡しています。
 ナチス時代と同じく反共精神ではアメリカのCIAと共通するということで、その下でスパイになって働く人間もいましたが、逆にソ連のスパイになった人間も少なくはなかったのです。そして、二重スパイも多数いました。
 ナチス・ドイツの情報機関にいて、戦後はアメリカ(CIA)と協力して活動したゲーレン機関のお粗末な内情も明らかにしています。ゲーレンはアメリカに売り込むときには誇大妄想的なところがあった。この本では、ゲーレンは、しぶとい出世主義者でしかなく、有能とは言えないと冷たく突き放した評価をしています。
 アメリカは使えると思えば、リヨンのゲシュタポ隊長だったクラウズ・バルビーをスパイとして使いました。バルビーは数千人に及ぶフランス人の処刑・拷問に責任のある男なのです。
なぜ、人はスパイになるのか…。それは単純に金銭のみではない。もちろん金銭は大事だ。それとともに、冒険がもたらすスリルそして、二つの強大な政治勢力を操ることで得られる満足感も動機の一つだった。うむむ、なるほど、そうなんでしょうね。
 ドイツ敗戦後、ボンにいる政府幹部で、ナチ狩りをしたり、ドイツの暗い過去に光を当てたいと思う者はほとんどいなかった。支配層のエリートたちは、無傷とは言えない人物と関係して信用を危くしたくはなかった。フリッツ・バウマー検事長の熱意と実行力がなかったら、ドイツだって今の日本と同じようなへっぴり腰でのぞんでいたことでしょう。やはり、誰か歴史を動かす原動力となる人は必要なのですね。
(2024年5月刊。3600円+税)

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