法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: ドイツ

普通の組織・ホコローストの社会学

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)

著者 シュテファン・キュール 、 出版 人文書院

 ヒトラー・ナチス体制下で、普通の人々がユダヤ人の大量虐殺に進んで参加していた。それは、なぜなのか…。この問いかけを、実行していた殺戮(さつりく)部隊をさまざまな角度から分析した400頁もの大作です。

 ハンブルグの第101警察予備大隊は、そのナチ国家の「殺戮部隊」だった。この大隊が注目されているのは、その隊員が明らかに「普通の人々」だったから。

 ハンブルクで警察官として採用された人々は、港湾労働者、美容師、職人、商人であった。そして家族もちの男性だった。500人ほどの大隊員のうち積極的なナチ党員や親衛隊員はごく少数だった。

第101警察大隊は2年以上にわたり、ゲットー解体、強制移住、大量射殺に何度も参加した。大隊の指揮官は、村の集合場所で隊員たちに任務を説明した。村を包囲し、ユダヤ人を武力で家から連行し、広場に集めた。労働可能な男性を選別したあと、残り全員を森で射殺せよ。捜索隊が家屋を捜索中に、老人・病人・乳幼児のような移送不可能な者、抵抗する者を見つけたら、その場で殺害せよ。

 第101警察大隊の隊員の平均年齢は40歳弱で、他の国防軍の部隊よりもかなり高い。ほぼ全員が家族もちで、労働者階級か中度階級の出身者が多い。

隊員の動機づけのために、隊は魅力的な目的を提供した。また、組織から離脱することは不可能という強制が働いていた。隊員を拘束する第三の方法は同僚関係にある。第四は、金銭であり、第五は行為の魅力にあった。

 隊員が大量射殺に関与したくない場合には、重篤な体調不良や精神的な過負荷を申告すれば免除された。神経衰弱を装ったら、大量射殺に参加しないことは可能だった。ただし、あからさまにユダヤ人への同情を表明したり、ナチ親衛隊への敵意を示せば、自らが射殺されることになる。

 多くの隊員は、「臆病者と思われたくなかった」し、隊員の前で「恥をさらしたくはなかった」ので、大量射殺に参加した。

 昼間は数千人の殺害を命じた父親が、夜は自分の子どもにおやすみの物語を読み聞かせていた。

隊員は、ユダヤ人資産の収用から利益が得られることを知っていた。10万人以上のハンブルク市民が、ユダヤ人から没収された家具、食器、衣類、玩具を叩き売り価格で手に入れていた。占領地でのユダヤ人資産の私的横領は、ほとんど野放しだった。

ナチ国家では、法律とは総統(ヒットラー)の命令以外の何者でもない、という一般的は合意が成立していた。1933年3月の全権委任法によって、帝国首相(ヒットラー)は、帝国議会にはかることなく法律を制することができ、その法律は帝国憲法に違反することをできた。

  ちなみに、ドイツ帝国の国民の過半数がナチスの政策に肯定的な態度をとっていた。ナチ体制は「合意独裁」だった。 「当惑、無関心、鈍感な従属」の混じりあう「無言の多数派」が市のなかでに支配的だった。

第101警察大隊のほとんどの隊員はドイツ敗戦後、再び「普通の生活」を送った。大隊の幹部たちはハンブルグの警察に復帰した。

 著者は、本書の結論として、ナチ国家が近代社会の産物である「普通の組織」に頼ることが出来たからこそホロコーストは実行可能だったという、きわめて挑発的な問題提起をしています。大量殺戮の実行を専門とする組織のメンバーが普通の人々であるというだけでなく、大量殺戮を計画し実行する組織もまた普通の組織としての特徴を示しているというわけです。

 アンナ・ハーレントがアイヒマンについて「凡庸な人物だ」と拝したのと相通じる指摘なのでしょうか……。ずっしり重たい指摘に満ちた本です。

(2025年4月刊。6600円)

ナチス党員とは誰だったのか

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)

著者 ウルリヒ・ヘルベルト 、 出版 現代書館

 ナチス党員とは誰だったのかという問いかけは、独裁体制の性格を問うもの。

最近の研究の成果によると、ナチス党員は、1935年時点で、20歳から35歳までの男たちで、戦争時青年時代から成る。ここで戦争とは、第一次世界大戦のこと。

ナチス党内の労働者は、国民全体の比率に比べてはるかに低い。会社員と公務員が大挙してナチス党になだれ込んだ。また、ナチス党員は、大都会より広い地方都市出身。カトリックよりもプロテスタント。

ナチス党への入党の動機は、反ユダヤ主義、反マルクス主義、国民社会主義の理念。そして、青年については、理想主義、日和見主義、外圧があった。

ナチズム時代に政治的社会的エリートだった人々の多くは、戦後、手がつけられず、処罰されることもなく数年もたたずに職業上の出世を続けていった。ナチ犯罪の責任はヒトラーと、そのわずかな取り巻きだけに押しつけられた。

ドイツ国民は、わずかな例外を除いて、ナチスの戦争犯罪の事実を知らなかったとして、ドイツ人の大多数は自分に罪があるとは感じず、むしろ自分は戦争の犠牲者である、自分たちの身に降りかかった独裁体制の犠牲者だと感じた。ナチス犯罪は、いわばタブーとなった。

そこで、ドイツを占領したアメリカ軍は、ドイツにはひとりのナチも見つけることが出来なかった。ドイツ人全員がナチだったとしたら、誰もナチではない。これが世間に広まった確信だった。

戦時中、ベルリンの学生は愛国的に燃え上がった。その大半は戦争を積極的に支持し、体験した。有名な白バラ事件のとき、彼らに呼応するドイツ人の学生がほとんどいなかったことを思い出します。でも、だからといって、白バラ事件を起こした彼らがムダなことをしたとは私は思いません。

ナチスのユダヤ人絶滅政策は、狂気の思想家や反社会的な犯罪者タイプの過激な行為ではなかった。それはむしろドイツの戦争政策と占領政策全体の一部として、その合理性は、ドイツの利益のあくなき追及だった。すなわち、ドイツの普通の市民は「絶滅」されたユダヤ人の富を分配を受けていたのです。

ナチズムは、戦争の申し子であり、第一次大戦による敗戦の申し子である。

ユダヤ人は異常に高い割合でブルジョア階級に属していた。近代産業経済界、大学人、銀行人、新しい商業チェーン組織のなかでユダヤ人はきわめて多数を占めた。ユダヤ人の手取収入はキリスト教徒の5倍もあった。ところが、ユダヤ人は、第一次世界大戦において、兵士の数でも負傷兵と戦死者の数でも、抜きんでて多かった。

敗北と革命のなかで、反ユダヤ主義が1918年から1919年以降、大々的に広まった。

非ユダヤ人の商人も同じようにインフレで儲けた。しかし、それは目立たなかった

1933年以降のドイツ系ユダヤ人からの強奪は、ドイツ史上最大の財産没収行動だった。

ナチス党員の権力掌握は、社会全般よりも大学のほうが簡単だった。それは、大学教授の多くが愛国保持的な考えをもち、民主主義的な議会主義に拒絶的だったことによる。1933年時点のドイツの大学教授2千人のうち3分の2は、反共和国的な考え方の持ち主だった。これは意外でした。大学教授だからといって進歩的とは限らないのですね。そして、学生のあいだでは、ナチズムへの親近性は、教授よりも高かった。

戦時中、残虐に殺されたユダヤ人は570万人。ガス室で死んだのは、殺されたユダヤ人の半数以下。他のユダヤ人は、射殺、殴り殺され、また伝染病や飢えと衰弱によって死亡した。

ナチスの「第三帝国」へのドイツ国民の大多数の忠誠心は、軍事的また経済的な成功を結びついていた。成果が見込めなくなると、ナチス政権は、その正当性の根拠を失った。

ナチ社会は、コネ、汚職、不当利益にもとづいていた。

ドイツでは、戦時中、ほぼ毎日大入り満員の客を前にして演奏するオーケストラが運営されていた。一般大衆は、気軽な楽しみ、おしゃべり、ユーモアを求め、実際これらを手に入れていた。

映画館の入場数は、1933年以降5倍に増えた。映画の大多数は気楽な娯楽映画、とりわけコメディーだった。ラジオの放送時間(毎週190時間)のうちに6時間が娯楽と流行歌にあてられた。

ナチス党員の正体を知った気になりました。これを今の日本に置き換えると、排外主義をあおりたてている参政党や維新・国民民主党をすぐに連想します。お互い、流されないように、しっかり踏んばるときです。

 

 

(2025年8月刊。4400円+税)

ベルリン地下組織、1938~1945

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)

著者 ルート・アンドレーアス・フリードリヒ 、 出版 未来社

 ナチス支配下のベルリンで、1938年から1945年まで、反ナチの活動を秘かにしていた地下グループの実情を日記形式で伝えてくれる本です。

メンバーは当然のことながら匿名(偽名)で活動していましたが、戦後、判明したところによると、ジャーナリスト、音楽家(指揮者)、新聞記者、院院長(医師)、外務省参事官、空軍少佐、作家、牧師、作曲家などで、なんとユダヤもいたそうです。ベルリンにソ連赤軍が進入してくる状況までが描かれています。

当初、ユダヤ人の多くがナリスの支配は長く続かない、続くはずがないと考えたようです。

 「4週間もすれば、あいつは破綻をきたしているだろう」と堅く信じ込んだ。

 夕刊に、「武器を所持しているユダヤ人は20年の保護検束」とある。ナチの連中は、つかまえられる限りのユダヤ人男性をひっぱっていった。勾留命令は出ていない。何らの法的手続きも踏んではいない。着の身着のままで連行されていった。ある者は靴さえ履いていなかった。

 ブーヘンヴァルトから、ザクセンハウゼン(強制収容所)からの帰還者を見る。頭は丸坊主にされ、目は悲しみに満ちている。そこは、百人に一つの便所しかない。

 ユダヤ人は胸に黄色いダビデの星をつけなければいけない。子どもたちは、この星をつけた人を見かけると、「ユダヤ人やーい」と、はやし立てる。黄色い星は隔離を容易にする。

 全ユダヤ人は、食料配給において特別規制の対象とされた。もはや食肉配給券も、卵もタバコもない。

 ユダヤ人「疎開者」の運命について、恐ろしい噂が流れている。集団銃殺や餓死、拷問そして毒ガス殺人…。いずれも本当に、しかも大々的に実行されていたわけですが、まだまだ噂でしかなかったようです。あまりにも恐ろしい事実なので、にわかに信じられない、信じたくないという反応があったようです。

 ユダヤ人の夫を救うため、非ユダヤ人の妻が6千人も広場に集まり、夫を救い出そうと思い、ナチのSS司令部に殺到した。さすがに6千人の非ユダヤ人女性に向けて機関銃は撃されない。

 ミュンヘンの大学で、反ナチのビラをまいた学人たちが捕まった(1943年2月)。

 これは有名な「白バラ」グループのことですね。そして、逮捕されて2日後には、断頭台で処刑された。彼らが学内でまいたビラを手に入れて、紹介されています。

アメリカを主体とする連合軍がノルマンディー上陸作戦を成功させたこともすぐに地下グループは知って、このニュースを拡散します。

 「荷が届きました。なかなか良さそうな品物です。待望久しい連合軍の上陸でした(1944年6月7日)。

 ヒトラーに対する暗殺計画が実行され、失敗したことも、すぐに知らされました。ワルキューレ作戦です(1944年7月21日)。そして、悪運強いもヒトラーは死なず、すぐに残忍な報復を開始したのです。この7月20日事件は、映画館でニュース映画として上映されたものの、すぐに中止された。

 地下グループは1945年4月になると、街頭に「ノー」とペンキで大書しはじめた。

 息づまる戦時下のベルリンの生活が活写されている本です。

(1991年4月刊。3000円)

 わが家の庭のサツマイモを堀り上げました。地上にはツルが勢いよく伸びて葉も茂っているのですが、肝心の地下には小さなイモしかないということが何回もありました。さて、今年はどうかな…。

 大きなイモがごろごろと出てきました。ヤッター…です。11月半ばまで待って掘り上げたのが良かったのでしょう。虫に食われた穴がいくつもあるのは残念でした。農家は、きっと何か対策をとっていると思います。

 早速食べてみましたが、鳴門金時も紅あずまも、少し甘さが足りませんでした。なので、家人には不評でした。まあ、飢饉に備える食料ですので、文句は言うますまい。

ナチズム前夜

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 原田 昌博 、 出版 集英社新書
 ワイマル共和国と政治的暴力というサブタイトルがついています。ヒトラーのナチスが政権を握る前、ワイマル共和国体制の下で、政治的暴力が日常茶飯事だったことを初めて認識しました。主としてナチスのSAと共産党のあいだでの暴力です。それは銃器も用いていて、たびたび人が何人も死んでいます。
 当時のベルリンは人口400万人というドイツ最大の都市。市の西側に高級住宅街やブルジョア地区が広がり、東側はプロレタリア的色彩の濃い地区だった。
 政治的にみると、ベルリンでの左翼陣営の得票率は常に50%をこえていて、1930年に入ると共産党への支持が社会民主党を上回っていた。1930年初頭のベルリンでは、ナチ党、共産党、社会民主党が三つ巴(どもえ)の闘いを展開していた。
 ナチスと共産党は、互いを明確な敵として認識していた。共産党は「ファシストを見つけたら叩きのめせ」というスローガンを唱えた。ファシストとはナチスだ。
 ナチスのSA隊員は急増した。30年春に3千人だったのが32年初めに1万人をこえ、夏には2万2千人となった。その50%以上が労働者であり、失業者と若者から成った。
 SAの急成長と労働者地区への侵入の本格化は、そこを牙城とする共産党の敵愾(てきがい)心を刺激し、ベルリンの治安状況を悪化させた。
 ワイマル共和国の不安定さの中で、暴力で状況を変えられるという誤った信念が社会に浸透していった。
 共産党は1928年以降、コミンテルンの方針を受けて戦闘的な極左路線をとり、社会民主党についてファシズムの片棒を担(かつ)ぐ「社会ファシスト」と呼び、ときにナチス以上の主要敵とみなした。そのため、1930年代にフランスやスペインで成立する社共統一の人民戦線はドイツでは非現実的だった。
 ベルリンの東側に位置する労働者地区は、老朽化した建物が密集し、生活環境は劣悪で、人口密度や犯罪発生率の高さ、ひどい衛生環境が特徴的だった。
 住民たちにとって何より重要だったのは、侵入してくる「敵」に対して自分たちの「縄張り」を守り通すことだった。
 ワイワル期には、政治的党派ごとにメンバーやシンパがたむろする酒場が発展した。「常連酒場」と呼ばれSAの酒場は「突撃隊酒場」と称した。1930年2月に、ベルリン市内に共産党の常連酒場が193軒、ナチスの酒場が51軒あった。その後、ナチスSAの酒場は急増し、同年末には144軒となった。酒場の出入り口には歩哨を立てて周辺を警戒した。
 政治的暴力が日常化した結果、人々が行きかう街頭は暴力で対抗した。ナチスであれ、共産党であれ、若者たちの一部が暴力に魅せられ、日常生活の中で暴力に手を染めていった。
 1933年1月30日、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に任命した。ナチスは政権成立から1ヶ月足らずでSA隊員を補助警察官とし、経済界から半ば強制的に資金援助を受け、政敵(共産党)を撲滅に乗り出した。
 ワイマル前期から中・後期にかけてのドイツ社会には左翼から右翼に至るまで暴力を忌避しない政治文化が広がり、「暴力の政治化」あるいは「政治の暴力化」とも呼ぶべき状況が生み出されていた。社会に蔓延(まんえん)する政治的暴力は、それを忌み嫌う市民感情とは別に、暴力に魅力を感じ、積極的にコミットしようとする人々(とくに若者と失業者)を惹きつけ、各党派の「政治的兵士」を生み出した。暴力に直接的に関わらなかった人々も、暴力を公然と行使する政党に票を投じた。1932年7月の国会選挙において、ベルリンではナチ党と共産党の得票率の合計は56%であり、投票者の過半数が両党のどちらかを選択した。逆に暴力に消極的な政党の得票は減少した。暴力を忌避しない政党であるからこそ、ナチスや共産党を支持したという人々が多数存在した。
 暴力で「こと」を動かそうとすると、その結果として生まれる新たな状況もまた暴力の洗礼を受ける。暴力は結局のところ暴力で回収せざるをえなくなり、暴力が暴力を呼ぶ負のスパイラルが生じていく。
 皮肉なことだが、意見表明の自由が保障されたワイマル憲法の下で、党派間の激しい対立が暴力の行使を常態化させた。
 ワイマル共和国の実態、人々が政治的暴力の日常化するなかで生きていて、結局、ナチスの暴力という圧政を招き入れたという教訓は今日なお大切なものだと痛感します。
 ウクライナもガザも、暴力の連鎖を断ち切る必要があります。それもトランプ流のやり方ではなくて…。大変刺激的な内容で、とても勉強になりました。今日に生かすべき教訓にみちた新書だと思います。
(2024年8月刊。1320円)

ナチスに抗った教育者

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 對馬 達雄 、 出版 岩波ブックレット
 ヒトラー・ナチスと戦い、刑死した教育者がいたのですね。私は知りませんでした。
 名前は、アドルフ・ライヒヴァイン。反ヒトラー市民グループの主要メンバーであり、ヒトラー暗殺が成功したあと、ナチス後のドイツの文部大臣に予定されていた。
 1944年7月20日、ヒトラー暗殺を企画した事件が起き、失敗した。同年10月20日、ライヒヴァインは国家反逆者として処刑された。遺体は焼却され、遺灰はばらまかれた。遺族に死亡を公にすることも禁じられた。享年46歳。
 ドイツの大学教師の3分の1がナチスによって職を奪われ、2000人以上が国外に亡命した。しかし、ライヒヴァインは国内にあえてとどまった。
ヒトラーは学校の教員が大嫌いだった。
 「教師になろうとする者は、独立した職業では成功がおぼつかないタイプの人間。他人の助けを借りず、自分の努力だけで成功をつかめると思う者は、まず教師になろうとはしない」
 これって、いかにも浅はかな考えですね…。
 ライヒヴァインは大学の教授職を奪われ、ベルリンから40キロ離れたところの小さな村(ティーフェンガー村)の農村学校の校長として赴任し、6年間つとめた。学童は40人前後。
学校は、毎朝、歌を歌いながらの体操から始まる。時間割はないけれど、数ヶ月間、一貫しておこなわれる総合的な「計画学習」が設定された。この「計画学習」には、村の祭りも組み込まれた。夏季の野外中心の自然学習。植物の内的循環の観察、動物世界の生態の観察、郷土の地形図作成もある。人形劇の制作と上演。そして、午後は、工作の時間。温室を大人(大工)の手伝いを受けながら、つくりあげた。その温室で植物栽培をし、観察したのです。
 もっとも注目すべきは、夏休み中の2週間もの大旅行です。これはすごいですね。自転車を使った旅行です。学童12人に大人が3人、付き添っての旅行です。
 貧しい家庭には、村役場が補助し、みな小遣い銭なしの旅行です。
 いやあ、これは、子どもたちにとって最高の思い出になったことでしょうね。
 干し草置き場で眠り、星空のもと徹夜でたき火をしながらの生活です。子どもたちは、それまで海を見たことがなかった。初めて見る海。そして、船に乗るのです。
 「地球は丸いことがよく分かります」と、感想文に書かれました。
 子どもたちに、開かれた世界への視野を育てようとした旅行でもありました。
 子どもたちは、興味の火花を点火されることで、学びを喜ぶ存在だとライヒヴァインは確信していた。いやあ、すばらしい教育実践をしていますね。
86頁の薄いブックレットですが、ライヒヴァインの子どもたちへの熱い思いがひしひしと伝わってきました。
(2024年9月刊。680円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.