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カテゴリー: アラブ

第三次中東戦争全史

カテゴリー:アラブ

著者   マイケル・B・オレン 、 出版   原書房
 私が大学に入った年、1967年6月に始まったイスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンのあいだの6日間戦争は、あっというまにイスラエルが圧勝して終わりました。
 600頁もの大作ですが、この第三次中東戦争の実相を縦横無尽に調べ尽くしていて、まことに興味深いものがあります。結果としてはイスラエルの先制攻撃によって始まりましたが、エジプト側も先制攻撃を企図していました。イスラエルの政府と軍部のあつれきのなかで先制攻撃が始まっているのですが、それに至るまでのイスラエルの首相の苦悩のほども伝わってきます。だって、下手すると、イスラエルという国が地上から抹殺される危険もあったわけですから・・・。
 そして、エジプトです。イスラエルなんてちょろいものという根拠のない楽観論が支配していたようです。十分な軍備と指揮命令が確立しないまま、大量の将兵が最前線に送られ、先制攻撃するつもりが、イスラエルの空軍によって一日目にして壊滅させられ、あとは逃げる一方のところをエジプト将兵は、大量虐殺されていったのでした。ところが、なんと、そのときエジプトのメディアは勝った、勝ったと嘘の報道をして、欺された国民は狂喜乱舞していたのです。まるで、日本軍のミッドウェー開戦についての大本営発表です。
 そして、アメリカとソ連の対応も興味深いものがあります。全体としてはイスラエル支持のアメリカですが、イスラエルの先制攻撃を支持して国際社会から叩かれるのだけは避けたいのです。ソ連は、政府指導部内で対立抗争があり、身軽にエジプト支援には動けませんでした。そして、ソ連が支給した武器を装備したエジプト軍が崩壊して、大きく威信を失うのです。
エジプト支配層は、敗戦の実相が国民に知られると、第二の嘘をつき始めます。イスラエルに負けたのではなく、アメリカとイギリスが直接乗り出してきたから負けたという嘘です。
 支配層というのは、どこでも日本と同じように嘘をつくものなんだと改めて思ったことでした。
 エジプトのナセル大統領は、34歳で権力の座についた。エネルギッシュで断固とした気構えの人だった。スエズ運河を国有化し、ソ連装兵器を取得し、英仏イの三国進攻を撃退し、アラブを統一した。
 ナセルはユーモアがあり、他人に対する気遣いの人として知られた。静かで、妻と子どもたちとの家庭生活はつつましく、職権乱用の収賄が幅を利かすエジプトでは珍しく汚職をしなかった。しかし、1967年ころには、肥満体となり、目がどんよりして精神不安定、被害妄想の気が濃厚で、すぐにカッとなって怒った。ナセル体制下の法律は、あってなきが如き存在だった。
 100%近い得票で再選され、閣議を統裁するナセルは、自分だけがしゃべり、暴言を吐いて怒鳴りちらすことがよくあり、執念深い軍人独裁者に堕していった。
 ナセルとアメル元師とは、親友であり、危険な敵同士であった。アメルは野心満々の人物で、反対者には冷酷だった。エジプト軍の上級幹部は、能力ではなく、門閥、血縁関係、帰属政党によって決まった。さらに悪いことに、中級幹部は、意図的に無能な人材が選ばれた。反抗され、上級幹部に脅威となっては困るからである。将校は忠誠心に欠け、将校同士、一般兵同士の信頼関係も薄かった。
 エジプト軍部のなかに反対勢力が存在した。強固な主戦派である。欠点はあっても、軍はイスラエルと比べて、航空機、戦車、火砲どれをとっても数倍をもっている。この優位性でアラブの勝利は間違いないと信じていた。
イスラエルのラビン参謀総長は、開戦前、神経衰弱によって職務遂行能力を失っていた。 9日間というあいだ、ほとんど何も口にせず、睡眠もとらず、矢つぎ早に煙草を手にして吹かし続けた。疲労困憊し、すっかり衰弱してしまった。
 エジプト軍の保有戦車のうち、想定で20%は戦闘で仕えない代物だった。火砲の4分の1、作戦機の3分の1が同じく使えなかった。そして、部隊のうち所定の位置についたのは半分以下。そこへ配置転換命令が出て、大変な混乱状態にあった。ナセルはアメリカの武力介入を恐れた。そして、ソ連の強力な支援を信じていた。
 アメリカ政府にとって、中東和平のために努力するものは、必ず双方から棍棒で殴られるという結論に達していた。それほど厄介な問題だった。アメリカのジョンソン大統領の脳中は複雑だった。苦境にあるイスラエルを助けたい。同時にアラブ世界の親米政権も支援したい。雪だるま式にグローバル規模になるような戦争は防止したい・・・。
イスラエル国防軍の兵力27万5000。戦車1100両、航空機200機。
 6月5日、午前7時10分、イスラエル軍の航空機が発進した。ミラージュ65機。エジプト軍の基地にいたツポレフ爆撃機が次々に爆発していった。
 この朝、エジプト空軍は420機のうち286機を失った。ところが、エジプトのラジオはまったくの逆の報道をした。1時間ごとに、赫々たる大戦果を報じた。すべてでっちあげ。カイロの群衆は、嘘で固めた戦勝報道に酔い痴れ、拍手喝采し路上で踊り狂った。なんと・・・。エジプト軍の高官たちは、恐れをなくしてナセルに事実を報告しなかった。ナセルが事実を知ったのは、午後4時のこと。そして英米軍が直接関与したというデマを流すことにした。これによって小国イスラエルに手もなくやられたというエジプトの不名誉は小さくなるし、ソ連の介入を求める理由として使える。
 そのうえで、エジプト軍の総退却を命じた。逃げるエジプト軍をイスラエルの空軍と陸軍が襲いかかった。大虐殺の始まりです。あまりの捕虜の多さに、イスラエル軍は、エジプト軍の将校のみを捕虜としました。
 この戦争の推移は、今なお中東世界に尾を引いていると指摘されていますが、この本を読むと、それも当然だと実感します。しっかり分析するというのは、この本のようなことをさすのだと認識させられたことでした。読みごたえ十分の本です。五月の連休中の成果でした。
(2012年2月刊。6800円+税)

イスラームの「英雄」サラディン

カテゴリー:アラブ

著者   佐藤 次高 、 出版   講談社学術文庫
 12世紀のアラブ世界で十字軍の侵略に真っ向から対決し、ついにエルサレムを奪回したイスラムの英雄・サラディンの一生を詳しく紹介した本です。とても面白く、最後まで一気に読み通しました。十字軍の内部も決して一枚岩ではありませんでしたが、対するアラブ世界も一枚岩どころか、四分五裂の有り様でした。同じイスラム教徒といっても、やはり主導権争いは激しかったのです。サラディンは12世紀の人です。イラク生まれのクルド人でしたが、30歳でエジプトを手中におさめ、十字軍からエルサレムを奪回したのでした。
 イスラムの世界は中国と並ぶ「書の世界」であり、サラディンの生涯に関する伝記史もかなり豊富である。うむむ、これは知りませんでした。アラビア文字の、あのとらえどころのない字体から、漢字のように書の世界が展開していたなんて夢にも思っていませんでした。
 サラディンは1137(1138)年にイラク北部の町タクリート(今のティクリートでしょうか?)に生まれた。父はクルド人の代官だった。現在、イラク北部からトルコにかけて1500~2000万人のクルド人が住む。アーリア系のイラン人を基礎に、アルメニア、アラブ、トルコ、モンゴル民族の侵入と混血をへて今日のクルド民族が形成された。3分の2がスンニー派、3分の1がシーア派だ。
サラディンの性格として二つのことが言える。一つは、近親者の要求を優先した。サラディンは、兄弟や自分の子どもに厚く報いた。二つ目は、性急には武力を行使せず、忍耐強かった。
サラディンは17人の息子と1人の娘に恵まれた。17人の息子のうち2人は奴隷女に生ませた子どもだった。
 サラディンが十字軍との戦いを続けられたのは、エジプト・シリアの政治的な統一に加えて、エジプトの富を十分に活用することができたからである。
 エジプト経済の基礎は農業にあった。ナイル川の西岸には豊かな農耕地が広がり、個々で生産される農産物が都市の人口を養った。
 エジプトの農民たちは、遊牧民と結託して、しばしば納税拒否の反乱に立ち上がった。農村地帯には、伝統的な遊牧生活をおくるアラブ部族がおり、農民からみれば彼らは機動力と武力をあわせもつ「強い味方」だった。
 イスラム世界では、世代をこえて受け継がれていく固定的な「騎士の身分」は存在しなかった。由緒正しいアラブの血を引く者であれ、よそ者の奴隷兵(マムルーク)であれ、騎馬戦士はすべて騎士(ファーリス)の名で呼ばれた。彼らは、いわば職業的な戦士であって、商人や職人あるいは、農民が騎士にとりたてられる道は開かれていなかった。正規軍を構成する騎士は初めの小規模なイクターを与えられ、スルタンへの忠実な奉仕を続けて戦功をあげれば、やがて軍団を統率するアミールに任じられた。
 アミールはイクター収入を用いて子飼いの騎士を養い、スルタンから出陣の命令が下れば、みずから戦備をととのえ、これらの騎士をひきいて参戦することが義務づけられていた。ヨーロッパの騎士へ与えられた封士は相互の契約にもとづいたが、イスラムの騎士へのイクターの授与はスルタンへの絶対的な服従を前提としていた。
 キリスト教徒の騎士にとって、学問や教養はかえって武勇のさまたげになるとみなされていた。この点は、イスラム社会の通念とは大いに異なっていた。
 ムスリム騎士は軽装であり、十字軍騎士は重装だった。
サラディンは死後に継承されるべき政治体制を確立することなく病没した。自らはスルタンを名乗らなかったことからも明らかなように、国家の首長の地位そのものがあいまいだった。ここに至るまでのアイユーブ朝は、サラディンの個人的な権威や人望によって、かろうじて一つにまとまっていたにすぎない。そのため、人々がサラディンを「スルタン(王)」と呼んだとしても、その権力は、決して絶対的なものではなかった。
 十字軍はアラブ世界に200年も侵略、占領、滞在していたようですが、当然のことながら、最後にはアラブの人によって放遂されました。ムスリムの首長であったサラディンの実像を初めて知ることができました。
(2011年12月刊。960円+税)

ソルハ

カテゴリー:アラブ

著者:帚木蓬生、出版社:あかね書房
 著者の『水神』は福岡県南部を舞台とする感動的な本でした。今回は、ぐっと趣きを変え、遠くてアフガニスタンの地が舞台となっています。タイトルの「ソルハ」とは、アフガニスタンの言語の一つであるダリ語で「平和」を意味します。
 アフガニスタンのカブールに生活する、普通の庶民の家庭で育つ少女が主人公です。少年少女向けの物語ですが、実際には、私たち大人にも面白く読むことが出来ます。私も、最後まで一息で読み通しました。
 著者も恐らくアフガニスタンの現地に足を踏み入れたことはないと思うのですが、実際にそこで生活していたかのような臨場感にあふれています。その筆力は、いつもながら感嘆してしまいます。さすが、たいしたものです。
 そして、著者の優しい目線と柔らかい語り口にも、ほとほと感嘆します。
 今、アメリカはイラクから軸足をアフガニスタンへ移そうとしています。オバマ大統領はアフガニスタンへアメリカ軍の増派を決めていますが、それを批判した司令官を更迭してしまいました。アフガニスタンへ少々増派してもどうにもならないという現実を前にして、アメリカの支配層のなかにも隠しきれない矛盾があるわけです。
 他民族を力で抑え込もうとしても、うまくいくはずがありません。アメリカの野蛮な力の政策は必ずみじめに破綻すると思います。
 そうなんです。どこの民族だってプライドがあるのです。この本は、民族のプライドが子どものころより育まれている現実を思い出させてくれます。そんなアフガニスタンへ日本が自衛隊を派遣するなんて、とんでもないことですよ。武力の前にやることがあります。
 アフガニスタンで今もがんばっておられる、ペシャワール会の中村哲医師のがんばりには、本当に頭が下がります。ときどき西日本新聞に掲載されるアフガニスタンにおけるペシャワール会の活動ぶりに大きな拍手を送ります。最新のレポートは、砂漠で米づくりが出来たというものでした・・・。中村先生、安全と健康には、くれぐれもご注意くださいね。
 子どものころの気持ちを忘れそうになっているあなたに、強く一読をおすすめします。
(2010年4月刊。1400円+税)

ルポ戦場出稼ぎ労働者

カテゴリー:アラブ

 著者 安田 純平、集英社新書出版 
 
 あのイラクへ出稼ぎ労働者として潜り込んだ日本人記者の体験記です。すごい勇気ですね。とても真似できるものではありません。
ペルシャ湾岸の国々では、労働者のほとんどを出稼ぎ労働者が担っている。クウェートに在住する300万人のうち、7割はアジアからの出稼ぎ労働者である。
 たとえば、公園掃除は、食事・宿泊費を別に月給8千円。電気技師でも食事・宿泊込みで月給2万8千円。イラクで働けると、未熟練労働者でも相対的にかなりの高給となる。
 イラクにある数千人、数万人規模のアメリカ軍の兵士を食べさせるアメリカ軍基地の食堂はメニューのほとんどは調理済みのレトルトパック食品を温めるだけ。著者の場合は30人ほどを相手にするので、レトルト食品は使わず、基本的に一から作った。
 そうなんです。日本人記者である著者は、コック見習いとして基地の一つに何とか潜り込めたのでした。
ネパール人警備員の月給は1250ドル。監督は1700ドル。護送部隊のイギリス人コマンダーは2万4000ドル、イギリス人司令官は5万ドル。このほか、1ヶ月に100ドルの生活費、40ドル分の携帯電話プリペイドカードが支給される。
 人質にとらわれたとき、身代金はネパール人は6千ドル、日本人なら1万5千ドル。アメリカ人は2万ドルという相場がある。
 「イラク人は、昼間は労働者として基地内で働き、警備状況や人数、武器などを調べ、夜は民兵として活動している」
 こんな話も聞かされたのでした。
2007年5月の時点で、イラクには15万人のアメリカ兵をふくめ、36ヶ国から集まった労働者12万人がペンタゴン(アメリカ国防総省)関連で仕事をしていた。民間人労働者の死者は、その時点までに少なくとも917人、負傷者は1万2千人以上だった。
 イラクが混乱したのは、生活が改善されないことから自暴自棄になった人々が無数にいるから。アメリカ軍が、これを武器で抑えつけようとして、ますます強い反発をうけた。イラクの人々に対して柔軟に対応できない硬直化した体制が、占領の「失敗」につながった。アメリカ軍の基地内の掃除や通訳などで、10万人以上のイラク人がアメリカ関連の業務についているが、「アメリカの協力者」として民兵に襲われる事件が絶えない。
 イラクの復興事業費のうち、アメリカ政府の試算によると22%、国連関係の調査では40%が警備関連に費やされている。そして、アメリカのべクテル社は、発電所復旧事業について20億ドルを手にしながら、戦前の水準にまで戻すことすら出来ないうちに2006年に撤退した。
 戦場労働者は、自らの労働が戦争を動かしていると実感することはない。無意識のまま心身ともに戦争の歯車となっていく。
 よくぞイラクの戦場労働の現場に潜り込めたものです。その勇気を讃えるとともに、苛酷なイラクの現実を知らせていただいたことに感謝します。 
(2010年3月刊。720円+税)
 消費税を10%に値上げする理由として、日本がギリシャのようになったら大変だということがあげられています。でも、本当にそうでしょうか。ギリシャは消費税を引き上げると同時に法人税を大幅に引き下げたので、国の税収が大きく減ったことから財政危機に陥ったという指摘もありますよね。ギリシャに行ったことはありませんが、一国の首相が見てきたようなウソを言っているのではないのかという気がしてなりません。
 しかも、国の財政が危機だというのなら、フランスやドイツでもすすめられているようですが、今の5兆円の軍事費を1兆円減らしたらどうなんでしょう。それに、アメリカ軍の基地がグアムに移転するのに、総額で3兆円も日本が負担するという話もありますよね。アメリカ軍への思いやり予算だって毎年3千億円でしょう。これんあか真っ先になくしてしまうべきではないのでしょうか。選挙の時こそ、みんなで考えたいものですよね。

地雷処理という仕事

カテゴリー:アラブ

著者:高山良二、出版社:ちくまプリマー新書
 こんな危険な仕事を自らすすんでやっている日本人がいるなんて素晴らしいことです。しかも、私と同世代の人です。自衛隊を定年退職したあと、一度派遣されて行ったカンボジアに再び渡って地雷処理の仕事をしているのです。
 自衛隊の人も、戦争大好きだという人ばかりでないのを知って、とてもうれしく思います。人を殺すより、人を助けるのに生き甲斐を見いだすって、本当に素敵ですよね。
 英語もカンボジア語もよく出来ないのに、おじさん(現地では、おじいさん、ターと呼ばれています)が現地にとびこむのです。なんという勇気でしょうか。しかも、日本に妻子を置いての単身赴任です。すごいですね・・・。
 地雷除去の作業は、まず2人で1組、1人が地雷探知員となり、幅1.5メートル、奥行き40センチの範囲の雑木や草を地面ギリギリまで取り除き、金属探知機を操作できるようにする。うしろで待機している地雷探知員は金属探知機で、その場所を探知する。金属反応がなければ、さらに40センチ前に前進する。この作業を繰り返し進めていく。
 金属反応があったときには、その場所を地雷探知棒や小さなショベルで磁石などをつかって、金属が何であるかを慎重に調べる。このときが大変危険な作業であり、地雷を作動させてしまう部分に触れないように細心の集中力を要する。
 寸刻みで土を取り除き、再び探知機で探知しながら、金属の正体が分かるまで繰り返す。
 地雷原が戦闘地域であったことから、小さな鉄片や小銃弾ということも多い。40センチを進むのに1時間以上を要することがある。
 地雷が発見されたら、その場所に地雷標識を立て、午前中の終わりころか、午後の終わりころにTNT爆薬で爆破処理する。この爆破にあたるのは、地雷探知員ではなく、爆破作業の訓練を受けた隊員が行う。専門家がそれを確認する。
 無金属の地雷はない。72A型対人地雷のように、9割以上がプラスチック製であっても、撃針など一部はどうしても金属を使わないといけない。
 また、地雷や不発弾には、必ず爆薬が使われている。爆薬の有無の確認には、地雷探知犬が使われている。ここでは、83頭の地雷探知犬が活動している。
 地雷探知員(デマイナー)は、33人で一個小隊、ひとつのグループをつくる。99人、3個小隊で地雷処理作業にあたる。平均年齢24歳。半分近くが女性。40度をこす厳しい天候なので、30分作業して、10分休む。
 地雷処理という危険な仕事をするときに大事なことは、基本的な動作を慎重にやること。怖いと常に思うことが大切。怖くなくなったら、デマイナーはしないほうがいい。怖くなくなったときに事故が起きる可能性が高くなる。
 うひゃあ、そういうことなんですね。慣れは、この場合、よくないのですね。なにしろ生命がもろにかかった仕事ですから、そういうことなんでしょう・・・。
 カンボジア全土に埋められている地雷は400~600万個。これをデマイナーが手作業で取り除いている。年間に処理する地雷は1万個。
 地雷処理車を使ったらと思うかもしれないが、現地には手作業しかできないところも多いので、仕方のないこと。
 そして、著者たちが除去している地雷は、実は、なんと村人自身が埋めたものだったのです。村人は元クメール・ルージュの一員だったのでした。なんということでしょうか・・・。ポルポト軍に命令され、やむなく埋めた地雷を今、生命がけで除去しているというのです。
 すごく分かりやすい、いい本でした。
(2010年3月。780円+税)

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