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カテゴリー: アラブ

イスラム国、テロリストが国家を作る時

カテゴリー:アラブ

著者  ロレッタ・ナポリオーニ 、 出版  文芸春秋
 
 今注目されているイスラム国とは何者なのか・・・。
 イスラム国は、その前は「タウヒードとジハード集団」の一部だった。タウヒードとは、神の唯一絶対性を表す言葉だ。神はすべてであり、神はあまねく存在するという意味。
 人差し指を突き出して、神は唯一無二であることを表す一神教の仕草は、今日ではイスラム国の公式の挨拶となっている。
 イスラム国では、女性は男性の親族の付き添いなしで外出してはならず、全身を覆わなければならず、公の場でズボンを着用してはいけない。
イスラム国の支配する地域の住民は、過激なサラフィー主義に改宗するか、でなければ処刑される。
 イスラム国を育んだのは、グローバリゼーションと最新のテクノロジーである。
イスラム国が過去の武装集団と決定的にちがうのは、その近代性と現実主義にある。
 イスラム国がムスリムに向けて発する政治的なイメージは、力強く、魅力的だ。それは、カリフ制に回帰しよう、これこそがイスラムの新しい黄金時代だというだという呼びかけである。
 イスラム国は、支配した地域の住民の承認を得ることにも熱心だ。道路を補修し、家を失った人のために食糧配給所を設置し、電力の供給も確保した。
 イスラム国の第一義的な目的は、スンニ派のムスリムにとって、イスラエルとなること。つまり、かつての自分たちの土地の権利を現代に取り戻すこと。
 イスラム国は、ソーシャルメディアを巧みに活用している。残虐行為をスマートな動画や画像に編集して、世界じゅうに流している。恐怖は宗教の説教よりは、はるかに強力な武器になる。イスラム国は、ケータイで簡単に見れる形式で残酷な処刑や拷問の写真や動画を投稿している。のぞき見趣味のはびこる現代のハンチャル社会では、きれいに切り取って差し出されたサディズムは格好の見せ場となる。
 イスラム国は、アル・バグダディとカリフ制国家にまつわる神話を織り上げた。
イスラム国は潤沢な収入源をもっている。シリア各地の油田や発電所をおさえている。また支配下にある地域の企業から税金を取りたて、武器・装備品をはじめとする商品の取引にも課税している。
 イスラム国が過去の武装組織にまさっているのは。軍事行動力、メディア操作、制圧地域での生活改善プログラム、そして何より国家建設である。
 アル・バグダディは、アメリカ軍に捕まり5年のあいだ服役していた。その服役中は非常におとなしく、目立たなかった。アル・バグダディは、バグダッド大学でイスラム神学の学位をとっている。
 アル・バグダディは、どんな新参者も歓迎する。他の組織は、スパイや密告者を恐れて、志願者を受け入れないことが多い。
 イスラム国は、どこからも支援をうけずに財産を築き自立を果たした。
 イスラム国は、軍隊や行政に階層構造をもち込んだ。そのおかげで、個々の部隊が犯罪者集団や烏合の衆に堕落する危険は少なくなっている。
 イスラム国の歩兵の平均給与は、月41ドルで、イラクの肉体労働者の給与に比べてはるかに低い。つまり、イスラム国の兵士の士気を高めているのは、報酬の高さではない。
 アメリカ軍は過去50年間、ずっと戦争してきた。そのアメリカ軍が敗北したということは、軍事的行動以外でしか物事は解決できないということを証明している。外国の軍事介入が中東の不安定化の解決にはならない。戦争以外の手段を模索するしかないのだ。
 アメリカの失敗に大いに学んでいるイスラム国です。アメリカのような軍事一辺倒で解決するはずがないということを認識させてくれる本でした。
(2015年2月刊。1350円+税)

中東民族問題の起源

カテゴリー:アラブ

著者  佐原 徹哉 、 出版  白水社
 20世紀はじめのトルコにおけるアメニスト人虐殺事件がとりあげられています。
オスマン体制のもとで、アルメニア人は、よく順応し、長くスルタンにもっとも忠実なキリスト教臣民と見なされていた。
 オスマン時代の都市は、居住地区と商工業地に明確に分かれていた。居住地区では、同じ宗教に属する者たちが集まって暮らす傾向にあり、ムスリム、アルメニア人、ギリシア人、ユダヤ人などといった宗教ごとの街区(マハラ)が存在した。街区は、モスクや教会などの宗教施設を除くと民家が集まっているだけの場所であり、とくに用事のない限り、よそ者が入っていくことはなかった。他方、商工業地区は、宗教・民族の違いをこえた都市住民の共通空間ある。都市に居住するアルメニア人の多くが商人・手工業者であったため、ムスリムが彼らと接触する場所も市場だった。市場付近には、大きなモスクもあり、ムスリムが結集しやすい条件も備えていた。そのため、暴動が市場地区で始まり、居住区に向かうのは、暴動が自然発生的であったことを示唆している。
 アルメニアとトルコの双方に陰謀説がある。しかし、両方の説とも荒唐無稽なものであり、史料にざっと目を通すだけで欠陥が明らかになるお粗末な代物だ。ところが、今もって権威ある定説としてまかり通っている。
 武器商人たちが、公衆の面前で武器を売り歩いた。この商人たちは、武器の売り上げを増やす目論見から、虐殺や反乱の噂を利用した。あるときは、キリスト教徒が、またムスリムがまもなく虐殺をはじめるという話が、武器商人のセールストークを通じて拡散した。そのため、人々の疑心暗鬼はとどまるところを知らなくなり、先を争って武器弾薬を手に入れようとする風潮が広まった。さまざまな武器が市場で、店頭で、また道端で堂々と売られた。
 新聞は、武器の入手が合法であり、家族の命と財産と名誉を守るために必要だというキャンペーンを展開し、アルメニア人コミュニティの指導者たちも武器の購入を奨励していた。聖職者たちも武装することを推奨した。
 多数のアルメニア人が軍事訓練をはじめた。このようにして、アルメニア人は、一方的に武装をはじめた。
 アルメニア人の地主は、ムスリム地主よりも、農業経営に熱心だった。あからさまな経済格差が、宗派コミュニティ間の緊張を生む原因となった。半飢餓状態で暮らすムスリム農民たちは、アルメニア人たちのいい暮らしぶりをねたんだであろうし、ときには敵意すら感じただろう。
騒乱がアルメニア人の陰謀でなかったことを証明する、おそらく最良の証拠は、騒乱の間中、アルメニア人が一貫して専守防衛に徹していたことだろう。アルメニア人の方からムスリム側の陣地に攻撃を仕掛けることはなかった。
 アルメニア人たちの一致団結した戦いに比べて、ムスリム人たちの攻撃は、場当たり的だった。人数こそ圧倒的だが、ムスリム人は島合いの衆にすぎなかった。ムスリムたちは、せいぜい拳銃程度の火器しか準備していなかった。ほとんどのムスリム暴徒たちは、手近にあった道具を武器代わりにしていた。これは襲撃に計画性がない、何よりの証拠である。
暴動の小さかった地区では、多くの行政官と治安当局者がアルメニア人を敵視せず、混乱の原因がムスリム民衆の動揺にあると分析していた。この適切な状況認識にもとづいて効果的な予防措置を講した。役人たちが冷静で慎重な態度を示したことで、ムスリムとアルメニア人の双方が一定の信頼関係を保ち、しばしば共同して防衛体制を構築することができた。これは、正しい判断と適切な措置を講じることによって破滅的な事態を回避できたことを意味する。
暴動や略奪を開始したのは、難民や季節労働者だった。
 20世紀の初めに起きた虐殺事件の総括から、冷静な対応によって防止することが出来るものだという教訓が導き出されています。今の日本のような「ヘイト・スピーチ」は、まさに日本を戦争への道にひきずり込もうとする危うい道なのです。絶対に繰り返してはなりません。大変に勉強になりました。
(2014年7月刊。3200円+税)

「アラブ500年史」(下)

カテゴリー:アラブ

著者  ユージン・ローガン 、 出版  白水社
 1952年7月、エジプトのファルーク国王は国外へ去った。国王に代わった自由将校団は平均年齢が34歳だった。
 1954年10月、ムスリム同胞団がナセルを暗殺しようとした。しかし、ナセルは銃声にたじろがず、演説をそのまま再開した。ナセルは1954年末から70年に死ぬまで、エジプトの大統領とアラブ世界の総司令官をつとめた。
 モロッコでは、フランスは独自のテロ組織をつくり、ナショナリストを暗殺し、支持者たちを威嚇した。
 1955年8月、アルジェリアではFLN(民族解放戦線)が入植者の村を襲い、男女子ども123人を殺害した。フランス軍は直ちに残酷な報復措置に出て、少なくとも数千人のアルジェリア人を殺害した。
 1956年のスエズ危機は、エジプトにとって、軍事的敗北を政治的勝利に変えた典型的な例だった。ナセルの大胆な言葉と勇気ある抵抗は、どんな軍事的成功にも勝るものだった。
 1950年代にエジプトは地域のもっとも影響力のある国家として頭角をあらわし、ナセルはアラブ世界の文句なしのリーダーになった。ところが、ナセルの目覚ましい成功の進展は、1960年代にしぼんでしまった。
 1962年以降、ナセルはエジプト革命をアラブ社会主義路線に乗せた。ソ連と運命をともにして、その国家主導型経済モデルに従うことにした。
 アルジェリアの独立戦争は、1962年9月のアルジェリア民主人民共和国の樹立まで、8年間、全土で猛威をふるった。100人以上の人々が生命を失った。
 1956年9月、首都アルジェで3発の爆弾が炸裂した。「アルジェの戦い」として知られる激しい作戦の始まりだった。
 1958年には、フランス自体がアルジェリア問題で分裂しつつあった。1954年のフランス軍は6万人だったのが、1965年には50万人と9倍にもふくれあがっていた。フランスの納税者は、巨額の戦費を負担に感じるようになっていた。徴兵されたフランスの若い兵士は言語を絶する恐怖の戦争に巻き込まれたことに気がついた。
 フランスの世論は、フランス兵が第二次大戦中に、野蛮なナチスがフランスのレジスタンス運動を抑圧するのと同じ方法をつかったことを知り、衝撃を受けた。
 アルジェリアの危機は、フランス人共和国そのものを崩壊させる危険があった。そのことに気がついたドゴールは立場を変え、アルジェリアのフランスからの離脱をフランス国民に覚悟させはじめた。そして、ドゴール暗殺計画が企図された。それでも、1962年、アルジェリアの国民投票はほとんど全員一致で独立に賛成した。1962年6月だけで、アルジェリアのフランス人30万人が出国した。
 1967年のナセルにとって、イスラエルとの戦争は、いちばんやりたくないものだった。しかし、自分の成功のせいで、やらざるを得ない羽目に陥っていた。
 1967年の敗北のあと、ナセルは辞職を申し出た。しかし、民衆が、それを阻止した。幻覚から覚めた人々は、アラブ世界において、政府に対するクーデターや革命を引きおこした。
 1967年の戦争で、アメリカがイスラエル側に立って参戦したというナセルの主張は事実無根だった。実際は、まったく逆で、イスラエル軍はアメリカの情報収集艦「リバティー号」を攻撃し、アメリカは多数の死傷者を出した。
 1964年、「ファタハ」のイスラエルに対する作戦は軍事的には失敗だったが、宣伝行動としては成功した。アラブ世界は、波乱に富んだ1970年代に、石油の力によって変貌した。しかし、石油を武器としてつかうのは、言うのはやさしく、行うのは難しい。
 1973年10月、エジプト軍がシナイ半島に進攻し、基地を築いた。「10年戦争」は、外向的勝利でもあった。
 1970年代、テロリスト暴力が吹き荒れるなか、パレスチナ強硬派とイスラエル諜報機関「モサド」の双方とも、積極的に敵を暗殺していった。
 ヨーロッパの軍需企業は、欧米寄りの「穏健な」アラブ諸国に対して、アメリカと競って重火器を売り込んだ。
 1981年10月6日、サダド・エジプト大統領が公衆の面前で兵士たちから暗殺された。
 1983年10月23日、レバノンのベイルートで強力な爆弾が自爆攻撃によって爆発し、300人が死亡した。アメリカ海兵隊の将兵241人、フランス軍の将兵58人がふくまれていた。
PLOの指導者アラファトをイスラエル軍は暗殺しようとした。
 イスラエルの侵攻ほど、レバノンにイスラム原理主義運動を助長した出来事はない。「ヒズボラ」が生まれたのは、イスラエルに負うところが大きい。パレスチナ人は、イスラエル軍との対決で決して武器をとろうとしなかった。非暴力であることが、パレスチナ人のさまざまな運動家を「インティファーダ」に引きつけた。
 アラブ世界の揺れ動く内情を少しでも理解しようと思い、上下2巻の大作に挑戦してみたのです。少しだけ感触を得ることができました。
(2014年1月刊。3300円+税)

「アラブ500年史」(上)

カテゴリー:アラブ

著者  ユージン・ローガン 、 出版  白水社
 アラブの近代史を上・下2巻にまとめた本です。宗教の違いとは、こんなにも大変なことなのか、ついため息を尽きたくなるほどの重苦しさを覚えました。
イギリスによる1917年のイラク・バグダットの解放は、1798年のナポレオンのエジプト解放と何ら変わりがなかった。イギリスは、1916年に軍事同盟国であるフランスとの間で、すでにアラブ世界の分割に同意していた。
 2003年に、アメリカのブッシュ大統領が独裁的なサダム・フセインの支配からイラク国民を解放するために侵略戦争の準備をしていたころ、アラブ人は占領というオオカミが解放という羊の毛皮をまとっているという相変わらずの事実をみんな知っていた。一国の国民の知性を見くびって侵攻するほど、恥ずべきことはない。
 「マムルーク」とは、アラビア語で「所有された者」つまり「奴隷」を意味する。しかし、マムルークは、エリート軍人階級を形成していた。彼らはユーラシア平原やカフカス地方のキリスト教領土からカイロに連行され、そこでイスラム教徒に改宗させられ、武術の訓練を受けた。一人前のマムルークになると、やがて奴隷の身分から解放され、支配階級エリートの仲間入りをする。
マムルークは、白兵戦における究極の戦士だった。1249年にはフランス王ルイ9世の十字軍を敗北させ、1260年にはモンゴル軍をアラブ領土から追い払い、1291年には最後の十字軍をイスラム領土から放遂した。このように、中世最強の軍隊を次々に打倒した。
オスマン人はいろいろなテンでマムルーク人に似ていた。どちらの帝国でも、エリートはキリスト教奴隷の出身者だった。
 マムルークと同じく、オスマン人も奴隷のなかから新兵を補充するという独自の制度を活用した。それは、イエニチェリ(新兵)と呼ばれる最強の歩兵軍団を構成した。
 オスマン帝国の軍国の軍隊や政府内でエリート階級入りするのは、だいたいイエニチェリ出身だった。
 18世紀に入って、オスマン人の世界で、「国民兵」という概念が登場した。それまでの兵士は、奴隷出身の軍人階級と思われていた。労働者や農民から徴用された兵隊(国民兵)という概念は耳新しいものだった。イエニチェリの兵士たちは妻をめとり、息子も「イエニチェリ」に入れるようになった。
 1807年、イエニチェリは反乱を起こし、セリム3世を退位させ、「新式」軍を解隊した。
 マムルークとして、ハイルッディーンは奴隷から政治勢力の最高峰にまで出世した最後の人物だった。
 1875年、オスマン帝国の中央政府は破産宣告寸前だった。この20年間に、オスマン帝国は16ヶ国とのあいだで、総額10億ドルもの借款契約をした。借款が増えるたびに、オスマン帝国の経済は、ヨーロッパのよる経済支配に強く牛耳られるようになっていた。借款が成功しても、自国の経済に充てるための投資にあてることができたのは、わずか1割ほどの2億2550万ドルほどでしかなかった。
 ヨーロッパの帝国主義がアラブ世界の触手を伸ばしはじめたのは、1875年以降のこと。フランス軍のアルジェリア征服が始まった。1847年までに、11万人のヨーロッパ人がアルジェリアに入植した。1870年、25万人のフランス人の入植者をもつアルジェリアは正式にフランス領に併合された。
 イラクで「1920年の革命」として知られる1920年の蜂起は、現代イラク国家のナショナリストの神話の中で、1776年のアメリカ革命に匹敵する特別な地位を占めている。欧米人の大半は1920年の蜂起をまったく知らないが、イラクの小学生たちは、何世代にもわたって、ファルージャ、ルクーバー、ナジャフの町で、外国軍と帝国主義に抗議して立ちあがったナショナリストの英雄たちことを学びながら成長している。
 パレスチナのユダヤ人コミュニティは1882年から1903年にかけて、2万4000人から5万人へと倍増した。さらに1914年までに、ユダヤ人の総人口は8万5000人に達した。
 ユダヤ人の入植と土地購入は委任統治のはじめから、パレスチナに緊張状態を高めた。
 1922年から29年にかけて、7万人ものシオニスト移民がパレスチナにやって来た。そして、ユダヤ民族財団はパレスチナ北部の土地24万エーカーを購入した、移民の急増と土地購入の拡大が1929年にパレスチナでの暴動を次々に起こす原因となった。
 ドイツでナチスが政権をとったあと、移民流入のピークは1935年で、6万2000人が入国した。
 1938年から39年のあいだに、100人以上のアラブ人が死刑を宣告され、30人以上が実際に処刑された。これは、パレスチナ・アラブ人のイギリス支配への抵抗運動だった。
皮肉なことに1930年代、アルジェリアの完全な独立を要求したのは、フランス本国で外国人労働者として働く活動家たちだった。フランスにいる10万人をこえるアルジェリア人労働者たちのなかで政治活動をしていた一握りの人々が、共産党を通じてナショナリズムに肩入れした。
 パレスチナにユダヤ人の民族領土をつくるというシオニストの夢を実現させたイギリス政府に、ユダヤ人入植者が戦争を仕掛けるなんて信じられないだろう。しかし、第二次世界大戦がすすむなかで、イギリスはパレスチナのユダヤ人コミュニティから、ますます攻撃にさらされるようになった。
 複雑怪奇という言葉がぴったりくるアラブ世界の動きとその意義が、生々しく、そして総体として語られています。大変勉強になりました。
(2014年1月刊。3300円+税)

イスラムと近代化

カテゴリー:アラブ

著者  新井 政美 、 出版  講談社選書メチエ
共和国トルコの苦闘、というサブタイトルのついた本です。現代トルコの悩み多き歩みが語られています。
 紀元前5世紀に起きたペルシア戦争において、ペルシア軍のなかには多くのギリシア人傭兵が存在していた。そして、11世紀のマラーズギルトの戦いは、ギリシア(キリスト教)対トルコ(イスラム)の決戦のように言われるが、東ローマ軍の重要な部分を占めていたのはトルコ系の傭兵たちだった。
 スルタンの血筋にはギリシア人の血がたくさん混じり、ビザンツ皇帝の親類には、セルジュク王家と婚姻関係を結んで、イスラムに改宗するものもいた。
 トルコのノーベル賞作家であるオルハン・パムクの書いた『わたしの名は紅(あか)』は、16世紀のトプカプ宮殿のあった時代を描いている。
 スルタン直属の精鋭軍イェニチェリは、オスマンの軍事的発展を支えていたが、17世紀から、その性格が大きく変わっていた。イェニチェリが世襲されるという、本来ありえない事態が日常化していた。市中で副業を営み、在地化し、無頼化していった。そして、あらゆる改革の動きに抵抗する存在になった。
 音楽はイスラムに反するものとされ、また反しないものとされた。これは「判例の積み重ね」としてのイスラム法の特色をよく示している。
18世紀末のセリム3世はイェニチェリに代えようと新たな西洋式歩兵軍団を創設した。しかし、イェニチェリの反乱に直面して、退位を余儀なくされた。
 次のマフムート2世は、砲兵隊を強化し、改革派の官僚を要職につけ、15年かけて中央集権化を実現した。そして、イェニチェリを蜂起させて、一挙にせん滅して、新しい軍隊を創設した。
ムスタファ・ケマル(のちのアタチュルク)は、北ギリシア・マケドニアのテッサロニキに生まれた。このテッサロニキは、オスマン領内でも、屈指のコスモポリタン的な環境の町だった。19世紀末、4万9000人のユダヤ教徒、2万5500人のイスラム教徒、1万1000人のギリシア正教人口をかかえていた。そのうえ、英仏伊露西の国籍をもつ外国人が7000人ほど暮らしていた。
 ケマルは、文明の基盤が家庭生活にあると公言していたが、その家庭生活がイスラムにもとづいて営まれるのは、時代に逆行するものと考えた。1929年にミスコンテストが始まり、1930年には地方選挙で婦人参政権が認められ、34年には国政選挙に拡大した。28年にはアラビア文字が禁止され、ローマ字が採用された。そして、ケマルは、すべての原語がトルコ語から派生していったという「太陽原語説」を採用して、大々的に喧伝した。
 ケマルは、西洋文明を受け入れて近代化=世俗化を目ざしたが、同時に西洋文明はトルコ民族の影響下でつくり出されたものだと強調することによって、西洋化とナショナリズムを「調和」させた。
 1938年11月に、マタチュルク大統領が亡くなると、前年に失脚していたイノニュが第二代大統領に就任した。
 その後、トルコは、さまざまな苦難の道をたどります。
軍部は、共和国の歴史を通じて、まずアタチュルクの熱烈な信奉者であり、その改革の支持者である。したがって、軍事的天才でもあったアタチュルクが創設し、その副官でもあったイノニュが党首となっていた共和人民党の強力な支持基盤でもあった。
 そこで、軍部が世俗主義の守護者を自認し、世俗主義=共和国の根幹を守るために、軍が何度となく政治に介入する動機ともなった。
 そして、イスラム的価値を重視する「イスラム派」が、たとえ、近代的科学技術の摂取を重視していても、共和国の世俗主義にしたがっていないために「反動」と位置づけられ、軍部は、クーデターを起こしても世俗派であるゆえ進歩的だと自らを位置づけ、それが欧米を中心とする世界に受け入れられるという構図を生んだ。
 いま、建国80年をすぎて、トルコは「イスラム政党」が議会で安定多数を維持している。公正発展党は、自ら「保守的民主主義者」を名乗っているから、これを「イスラム政党」と規定するのは問題があるかもしれない。しかし、大統領も首相も、その妻はスカーフで頭部を被っている。建国の父アタチュルクがこの後継をみたら卒倒するだろう。ところが、アタチュルクが憤激しても、現代トルコが発展していることは事実であり、その発展振ぶりは、アタチュルクの方針に忠実であることを自認する世俗派が政権を握っていたころよりも明らかに目ざましい。軍部と司法当局とは互いに牽制しあいながらも、イスラム派を追い落とそうとする意思を決して捨ててはいない。現政権が、その扱いを誤れば、権力はいつまた世俗派に戻らないとも限らない。
 現代トルコにおける「イスラム派」なるものの実体、そして、世俗派との葛藤の複雑怪奇さの一端が少しだけ分かったような気のする本でした。
(2013年1月刊。1600円+税)

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