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カテゴリー: アメリカ

ランド、世界を支配した研究所

カテゴリー:アメリカ

著者:アレックス・アベラ、 発行:文藝春秋
「研究と開発」Research and Development から来ているランド研究所は、カリフォルニア州の海岸沿いの都市サンタモニカにある。
どのように戦争を展開し、どのように勝つかについて、政府、なかでもアメリカ空軍に助言すること。これがランドの設立目標だ。
ランドは、その時代とともに、その本来の使命を巧妙に隠していった。
ランド出身は多い。ノーベル賞経済学賞受賞者のポール・サミュエルソンもその一人。
私は、大学1年生の時、このポール・サミュエルソンの大都市経済学の本を手にとって、途方に暮れました。さっぱり分からないのです。まるで理解できませんでした。なにやら数値と数式がたくさん書いてありますが、それらが何を意味するものか、全然理解できません。よほどの名著だと言われていたわけですが、なにしろ全く理解できないのですから、悲しくなってしまいます。マルクスの『資本論』は、同じく難解でしたが、こちらのほうは何回か読み直すと、少しは理解できました。ですから、ポール・サミュエルソンという名前を聞くと、私は大学時代の悲しいショックがまざまざとよみがえってきます。
この本ではランドで中心的に活躍してきたウォルステッターが焦点にすえられています。ウォルステッターは1930年代にトロツキー派の革命労働者党同盟の一員だった。1920年代のアメリカには、大学生の中に、ボルシェヴィキ派とトロツキー派とが競合していた。まるで1960年代の日本の大学のような雰囲気があったようです。そして、そのトロツキー派だった学生たちが、ネオコン(新保守主義)の理論家になっている。うひゃあ、これまた日本と似てますね。西部すすむとか青木なんとか、いろいろいますよね。
ウォルステッターは、古いトロツキー主義にとらわれ、ソ連は、完全に思想統制されており、世界征服を目指しているという国家信念にこり固まっていた。そうではないという事実があっても、思いこみは終生変わらなかった。
ウォルステッターは、1950年代以降ランドの教祖的な存在だった。
1979年、電話交換手のミスによって、アメリカが核攻撃を受けているとの誤情報が流れ、三つのアメリカ空軍基地から戦闘機10機が緊急発進した。翌1980年にも、コンピュータの誤作動で、ソ連がアメリカを攻撃中という情報が流れ、危うくB52爆撃機100機が出動、ICBMが反撃準備に入ろうとした。うへーっ、これってケネディのキューバ危機より怖いですよね。
ユダヤ人のハーマン・カーンは、話好きだった。カーンは次のように力説した。
核シェルターは、物理的に民間人を守るだけでなく、ソ連に対する抑止力にもなる。たとえば、アメリカ人2億人のうち、核戦争によって3000万人が死んでも、まだ、1億7000万人が生きている。核シェルターによって死者を1000万人減らせば、国を再建するのに十分な数のアメリカ人を確保できる。核攻撃を受けてもアメリカ人が生き残って反撃に出るとわかっていたら、ソ連は先制攻撃を仕掛けては来ない。
うひょう。こ、これって、中国の毛沢東の「ハリコの虎」理論とウリ二つではありませんか。毛沢東は中国人の1億人か2億人が死んでも、まだ3億人も4億人も残っていると言い放ちました。どちらも人命軽視です。とんでもない連中ですよね。
アメリカの核戦争の発射ボタンは大統領が一つ持っているはずだった。ところが、アイゼンハワーは、核攻撃開始の権限を作戦現場の司令官に委譲していた。そして司令官は、直属の部下へ委譲していた。だから、ちょっとした間違いや職権乱用によって核攻撃が始まる危険は高かった。
ペンタゴン・ペーパーをマスコミに流したダニエル・エルスバーグは、ランド研究所のホープだった。アメリカがベトナム戦争で負けたら東南アジア全体が共産主義化し、最悪の専制政治と国民抑圧体制を招くと信じ込んでいた。ところが、ベトナムへ実情視察に行ってみると、ベトナム戦争が間違いであることをたちまち気づかされた。無意味な領土拡大、 汚職、殺人。そして、ベトコンとは熱烈な愛国者たちであることを深く実感した。
1969年10月10日、エルスバーグはペンタゴン・ペーパーをランド研究所から持ち出した。たとえ売国奴として有罪判決を受け、残りの人生を監獄で暮らすことになってもいいと決意していた。
ダニエル・エルズバーグの行動がなかったら、ニクソン大統領のウォーターゲート事件は起きなかった。そして、民主党の支配する国会はベトナム戦争拡大への歳出をストップした。その後、2年たたないうちにサイゴンは陥落し、ホーチ・ミンは勝利した。
レーガン大統領はランドの進言に沿って個人所得税率を70%から28%へ、法人所得税率を40%から31%へと一気に引き下げた。最大の減税効果を受けたのは高所得者層だった。自由主義の成長と合理的選択の普及を促すレーガンの改革路線は、ランドの改革路線であり、これは現在も続いている。
そうなんです。今世界に金融危機をもたらしている新自由主義経済。なんでも自由にして、強い資本を思うままに野放しにする政策です。今まさに、それが世界市場を滅茶苦茶にし、私たち市民の生活を破壊している元凶となっています。
ベトナム戦争の時、当時の北ベトナムに激しい爆弾の雨を降らせたカーチス・ルメイ将軍もランド研究所に深く関わっていました。ベトナムを石器時代に戻すとうそぶいた男です。そして、このカーチス・ルメイこそ、日本に焼夷爆弾攻撃を仕掛けた張本人です。軍隊や兵器工場だけでなく、一般民間人を無差別に殺しても構わないと指令したのです。戦後、日本政府はそんなカーチス・ルメイに対して、なんと勲章を授与しています。とんでもないことではないでしょうか
ランド出身者のリストを見ると、いやはや、すごいものです。ウォルフォウィッツもコンドリーザ・ライスも出身者ですし、古くは、マクナマラやキッシンジャーもそうです。
日本がアメリカのようになってはいけないと強く思わせる本でもあります。
朝、雨戸を開けると、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできます。目が洗われる思いのするほど、輝くばかりの紅色です。かすみの木とも言われますが、スモークツリーの木が紅葉しているのです。そばにある小さなモミジの木も顔負けです。道ぎわにあるロウバイも見事に黄変しています。冬至は過ぎ、春が待ち遠しくなりました。
(2008年10月刊。2095円+税)

われとともに老いよ、楽しみは先にあり

カテゴリー:アメリカ

著者:リング・ラードナー・ジュニア、 発行:清流出版
 タイトルの文句はロバート・ブラウニングの言葉である。著者は、80歳になっても、自分を年寄りだとは考えていない。その理由の一つは、生涯を通して、どのようなグループ属していても、いつも最少年者だったという感覚が残っているから。また、自分が余計ものであるとか、他人の邪魔になっているとか、そういう感覚がないからだ。なーるほど、ですね。
 この本は、ハリウッド・テンの一人として、アメリカの強烈なアカ狩り時代の犠牲者となったシナリオ・ライターが、自分の一生を振り返ったものですが、その楽天的ともいえる処世観には感嘆するほかありません。すごいです。その才能も偉大なものです。というのも、著者とその友人たちがシナリオをつくったという映画は、いずれも私たちもよく知る、今も見たい映画として必ず登場するようなものばかりなのです。そんな才能のある人々を、アカ狩りの対象としてハリウッドから追放しようとしたなんて、狂気の時代のアメリカとしか言いようがありません。著者の映画として有名なのは、1942年の「女性No,1」と1970年の「M☆A☆S☆H」です。残念なことに、私はどちらも見ていません。
 著者はアメリカの国会に喚問され、当時6万4000ドルと言われた質問を次のように投げかけられた。
「あなたは、今、共産党員ですか。あるいは、これまでに共産党員であったことはありますか?」
その答えは、「質問に答えようと思えば、答えられるでしょう。でも、答えてしまえば、あとで自分が嫌いになる」というものだった。トーマス委員長は、著者に退廷を命じた。
著者はアメリカ共産党員だった。しかし、ソ連のスパイでは決してなかった。そして、アメリカをソ連の路線にそって再建させようとは考えてもいなかった。アメリカにおいては、合理的な経済システムへの転換は、選挙によって平和のうちに成し遂げられるものと信じていた。むしろ、ソ連のスパイにとって愚行中の愚行は、アメリカ共産党に入ってFBIの対象となることだった。
 ところで、著者に退廷を命じたトーマス議員は、3年後、連邦刑務所で著者と同じ受刑者仲間として顔を合わせた。著者はトーマス委員長の質問に答えなかった罪で1年の服役を命じられていた。そして、トーマス議員は部下の職員をでっちあげて給与を着服したとして、横領罪で刑務所に入って来た。なんということでしょう。皮肉ですね。
 それまで、ハリウッドでは、共産党員の脚本家ほど、高い生活水準を維持し、社会と融合で来ていた者はいなかった。共産党員であることに伴う不文律のひとつに、党員であることを喧伝しないという暗黙の了解があった。
 著者は、プリンストン大学に入ると、社会主義研究会に入り、活動を始めた。著者が共産党に好意を寄せたのは、ファシズムに対して、真っ向から反対の姿勢を守り通していたからである。
著者は、ハリウッドで共産党に入党した。その当時、25人ほどの党員が、5年後には200人をこえていた。25人の半数は脚本家で、ほかは俳優、監督、スクリプト・リーダー、事務職員だった。党活動には、やたらと時間を奪われた。出席しなければならない夜の会合や行事などが週に4回も5回もあった。
 ただし、誰もソ連と同じ政治体制をアメリカに持ち込もうとは考えていなかった。独裁判はごめんだったし、批判者に対する圧政も、ごまかし選挙も、芸術のプロパガンダ化も、みなお断りだった。アメリカを社会主義に変えられると確信していたが、それは現在もっているアメリカの自由を損なわず達成できるものであり、ロシアにはそもそもそんな自由がなかった。
スペイン市民戦争の激化とナチスの強大化にあわせて、ハリウッドの共産党は党員を増やし、勢力を拡大した。党員は、いわゆるリベラリスト・確信主義者と良好な関係にあった。ところが、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、翌月、第二次世界大戦が勃発すると、左翼リベラル連合はまっぷたつに引き裂かれた。
 この困難な時期に共産党を離れる者は増え、新しく入党する者は少なかった。その入党者の一人に、著者の友人のドルトン・トランボがいた。
 トランボは、『ジョニーは戦争へ行った』の作者である。私も、この映画を見ましたが、強烈な印象を受けました。
 戦争中、アメリカ国民に同盟国ロシアの美点を理解させるための映画がつくられた。ローズベルト政権の肝入りで、ワーナーとMGMが映画を作った。
 うひゃあ、そうだったんですか……。
戦後、アカ狩りが始まったとき、共産党員であるか否かの質問にどう答えるのかが問題だった。トランボと著者は、唯一悔いを残さない答え方は、質問に答えないことだと主張した。
 ところが、カリフォルニア州の前検事総長だったロバート・ケニー弁護士は、証言拒否に反対した。それぞれの方法で、質問に答えるべく努力したと主張できるようにすべきだというのである。ケニー弁護士の策戦に従った結果、同情的だった第三者には、ハリウッド・テンの狡猾でがさつな姿を印象付けただけだった。そのため、応援していたリベラリストたちに深い落胆を与えてしまった。このとき、一切の質問に答えないという単刀直入の姿勢のほうが、もっと威厳を得たし、著者たちの主張をはっきりさせるうえで、もっと効果的だった。
うむむ、なるほど、なるほど、そうでしょうね。でも、当時のアドバイスとしては難しい判断だったろうとしか、言いようがありません。
著者を含めたハリウッド・テンは刑務所に入り、やがて1951年に出所した。戻っていった先のハリウッドは、まだパニックの渦中にあった。著者もゴースト・ライターとして生きるしかなかった。ゴースト・ライターとしてハリウッド・テンの人々が脚本を書いた映画の題名がすごいんです。『戦場にかける橋』『スパルタカス』『アラビアのロレンス』『野生のエルザ』『M☆A☆S☆H』などなど。
ハリウッド内のアメリカ共産党の影響力の大きさとその活動の実情がてらいなく紹介されている本として特筆されます。それにしても、彼らの才能のすごさには脱帽します。
東京・四谷にある小さなフランス料理店で食事してきました。筑後市出身のシェフががんばっていて、本で紹介されていましたので、一度ぜひ行ってみたかったのです(北島亭)。ついた時は先着の客は1組のみでしたが、やがて6つほどあるテーブルが全部埋まりました。オードブルは生ガキでした。ほっくり身の厚いカキを久しぶりにいただきました。口中に入れてとろけると、うむ、今夜の食事はいけそうだと幸せな予感で一杯になります。ワインはこの夏にはるばる行ったシャトー・ヌヌ・デュ・パープです。05年のハイ・ベルナールを注文します。見事に大きなワイングラスにワインの赤い色がよく映えます。おいしいワインは料理とともに舌になじみ、食欲をそそります。お任せコースで次々に魚料理、そして肉料理が出てきます。しっかりした味付けでした。ああ、おいしい……。
(2008年5月刊。2500円+税)

プラネット・グーグル

カテゴリー:アメリカ

著者:ランダル・ストロス、 発行:NHK出版
 グーグルの収入は2002年に4億ドル、2003年に14億ドル、2005年に61億ドル、
2007年に165億ドル。純利益のほうも、2002年の1億ドルから、2007年には42億ドルになった。収入の99%は、例のシンプルなテキスト広告によるもの。
 といっても、グーグルの規模はマイクロソフトには遠く及ばない。2007年にマイクロソフトは510億ドルの売り上げ額があったのに、グーグルは165億ドルでしかない。
 グーグルが業務につかっているコンピューターは100万台にも及んでいる。これが世界最大規模のスーパーコンピューターを形成している。
 グーグルの求めている人材は、単に高い教育を受けた人ではなく、きわめて高い教育を受けた人。採用した100人のうち40人は、博士号取得者だ。
 グーグルは16億500万ドルでユーチューブを買収した。
 グーグルは地球の全人口の3分の1をカバーする地域では、住宅や自動車までも認識できる写真を提供する。グーグルアースそしてストリート・ビューの出現だ。
 ユーチューブは、2007年末の時点で月に30万本の動画を提供している。そしてグーグルは、その運営によって、それなりの収入得たとは言っていない。
グーグルを使って個人情報を調べてみると、アメリカでは個人の純資産・政治献金・趣味などが簡単に見つかった。
 グーグルって、怖い存在なんですね……。
(2008年9月刊。2000円+税)

オバマ、勝つ話術、勝てる駆け引き

カテゴリー:アメリカ

著者:西川 秀和・池本 克之、 発行:講談社
 オバマ大統領が誕生することになりました。その大統領就任式には300万人がワシントンに集まるだろうと言われているそうです。アメリカが軍事優先の国家から少しでも平和志向の国へ変化することを願うばかりです。
 この本は、はじめヒラリー・クリントンより劣勢だったオバマがなぜ逆転勝利へ駆け上がることができたのか、その秘密を明らかにしています。読むと、なるほど、と思います。インターネットを使って膨大な資金カンパを集め、惜しみなくテレビCMなどに注ぎこんだという物量作戦もバックにあって支えたのでしょうが、やはりオバマ自身の演説のうまさは決定的だったようです。
 リーダーとなる者は、人の心を動かす言葉を持っていなければならない。とくに政治家は、自らの理想を、自らの信念を、人々に明確に伝えなければならない。まさに、言葉は人なのである。記憶に残る一言と明確なコンセプトがもっとも求められる。
 漢字が読めず、空気も読めない麻生さんは、首相として失格と言うだけでなく、そもそも政治家になったのが間違いなんですよね。
 オバマの演説には、信じること、希望など、人々に勇気と自信を与える言葉が随所に散りばめられている。不信に凝り固まった人々の心をほぐすためには、大ゲサでしつこいほど、そうしたポジティブな言葉を繰り返す必要がある。
 オバマは、ネガティブ・キャンペーンに対して反撃はできるだけせず、希望と連帯を前面に打ち出すことで勝利した。ネガティブ・キャンペーンに対していちいち反撃すれば、相手のペースに巻き込まれるし、きりがない。相手を落としめ自分を上げようとすると、心ある有権者は言葉に耳を傾けてくれなくなる。ネガティブ・キャンペーンが行き過ぎれば、いずれ自滅する。
 オバマは、過去の政治からの脱却と未来の新しい政治の導入を約束して多くの人々の支持を集めた。過去対未来という2項対立は、連帯を呼びかけるのに好都合なのだ。
 オバマが有権者に黒人の代表だと判断されたら、幅広い得票ができない。オバマは白人と黒人の連帯を訴えかけ、圧倒的な黒人票に加え、一定数の白人票も集めることに成功した。
 オバマとヒラリーの両者には政策の面で根本的な争点があまりないため、イメージ戦略の勝負だった。「経験のヒラリー」対「変化のオバマ」というイメージがすっかり定着した。
 変化、きっと私たちは出来る、そして過去対未来という人々の脳裏に強烈に刻まれるイメージ戦略で、オバマは支持層の急拡大に成功した。
 重要なことは何度でも繰り返す。どんなことでも一度聞いたくらいでは、記憶には残らない。訴え掛けるテーマがいけると思えば、くどいと言われようが中身がないと批判されようが、とにかく繰り返す。そうすれば、多くの人々に浸透する。
 ヒラリーは理性に訴えかけ、オバマは情勢に訴えかけた。
 多くの人々が今のままではダメだという漠然とした不安を抱いていたが、何をどうすればよいのか分からないでいた。そんなときには、まずは希望を与えることが大事だ。不安で心がいっぱいのときに理性に訴えかけても効果がない。オバマは情勢に訴えかける言葉で人々の不安を行動に変えさせた。人々の持つ不安を汲み取り、それを打ち消す力強い言葉の力を発揮することこそ、オバマの真骨頂だった。自分の思いを語るだけではダメ。人々が待ち望む言葉、そして人々が待ち望む物語を語らなくてはならない。
 そうなんですよね。不況のとき、ヒットラーのようなデモゴギーではなく、素直に現実を直視しつつも明日への希望を持たせる呼びかけのできる政治家が日本にもいてほしいですね。
 オバマのカリスマの秘密は、人々の心を代弁することに、そして人々に夢と希望を与える救世主というイメージをつくることに成功したことにある。
 オバマが人々の心をぐっと掴む演説のうまさに、日本人とりわけ弁護士は大いに見習うところがあると思いました。
 先週の日曜日、庭の一隅を半畳分ほど掘り上げ、水仙などの球根類を植えかえてやりました。掘り上げたところには近ポストに入れていた枯草などを埋め込みます。球根を植えているうちに陽が落ちてしまいました。夕方5時です。急に冷え込み、背中に冷気さえ感じるようになり、しばらく辛抱して夕方5時半まで頑張りました。庭仕事を終えて空を見上げると、天高く半月が煌々と輝いていました。
 今日は私の誕生日です。ついに還暦を迎えてしまいました。20代のころ、自分が60代になるなんて考えたこともありませんでした。先日、依頼者の方から、「まだ40代に見えますよ」と言われましたが、私の頭のなかはまだ20代のままなのです。といっても、身体の方は確実に老いを実感させてくれます。そこがつらいところです。
(2008年10月刊。1400円+税)

貧困と怒りのアメリカ南部

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著者:アン・ムーディ、 発行:彩流社
 アメリカ南部の黒人(今では、アフリカン・アメリカンと言われていますし、それが正しいと思いますが、ここでは黒人とします)が、公民権を獲得するまでの苦難のたたかいの最前線で活躍していた黒人女性の自伝です。アン・ムーディは1940年9月に生まれました。
 公民権運動の指導者はキング牧師だというのは正しくないという訳者あとがきが、この本を読むと素直にうなずけます。
 白人の女を見つめただけで、黒人の男は絞首刑にされた。エメット・ティルが殺された事件は、ミシシッピ州ではニグロの男が白人の女に口笛を吹くだけで罪となり、死によって罰せられることを示した。
 人というものを私が憎み始めたのは、15歳のころだった。エメット・ティルを殺した白人の男たちを憎んだ。しかし、私は、ニグロたちこそ憎いと思った。立ち上がって、殺人に対し何かしようともしないニグロを憎んだ。ニグロを殺す白人よりも、白人にニグロを殺されてなにもしないニグロに対する憎悪の方が強かった。人生のこの時期に、私はニグロの男たちを臆病者だとみなすようになった。
若い白人夫婦の家庭では、ニグロの少女を家において主婦が出かけることは少なかった。夫がニグロの少女に誘惑されることを心配したからだ。その反対のことは考えられなかった。 
白人男性が黒人奴隷(女性)を犯していたのが、いつも黒人女性が白人男性を誘惑したからだと白人女性も信じていたなんて、とんでもない笑い草ですよね。
 著者は大学生になって、黒人の公民権獲得運動に生命がけで挺身しました。KKKがダイナマイトと鉄砲で運動を圧殺しようとしていた時期のことですから、まさに生命をかけた闘いでした。
 ミシシッピのニグロの将来は年配の人々によって決まるのではないことが明確になっていった。彼らはあまりにもおそれ、疑い深くなっていた。長いあいだ閉ざされてきた心に新しい考えを吹き込もうとするのは絶望的に近かった。
 著者の顔写真もKKKのブラックリストに載った。著者はフリーダム投票に取り組んだ。黒人の投票は8万票だった。これは州の正式な選挙登録者数より6万票も多かった。しかし、ミシシッピ州には21歳以上の黒人有権者が40万人いたから、8万票というのはその2割でしかなかった。
 ミシシッピ州では、経済的に余裕のある白人家庭の子弟は、人種統合に対抗して用意されていた私立高校に通った。子どもたちを通学させる裕福な白人たちが公立学校の教育に全く興味を示さないので、公立学校の基本的資金源として必要な税金が減少した。公立学校は白人貧困層と黒人のための機関だからという理由で見捨てられた。
 アメリカ南部で黒人による公民権獲得運動が進行する過程と軌を一つにして成長していった黒人インテリ女性の自伝ですので、スリルもあり、大変興味深い内容です。白人の黒人に対する強烈な差別意識に今さらながら驚かされます。要するに、白人はインディアンを人間を思っていなかったのと同じく、黒人についても自分とおなじ人間だとは思っていなかったということなのでしょうね。
 アメリカ南部における公民権運動において、キング牧師は指導者の一人でしかなかった。キング牧師を中心として運動がすすんでいたわけでは決してない。
著者は、このことを再三再四強調しています。
 また、公民権運動は「非暴力」ですすめられたというイメージをともなっているが、現実には運動に従事していた人の多くは散弾銃などで武装していた。つまり、公民権運動は自衛のための武装をともなっていた。 
 公民権運動のすさまじい実態を改めて知ることができました。白人には黒人を殺す自由があったのですね……。アメリカのおぞましい真実の一端がここにあります。
(2008年6月刊。3500円+税)

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