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2024年12月 の投稿

ことばの番人

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 髙橋 秀実 、 出版 集英社
 いま、ちょうど私の最新刊(昭和のはじめ東京にいた父の話です)の最終校正をしている最中に届いた本です。何度見直しても校正洩れを発見しています。まさしく、「校正、恐るべし」です。目が慣れてしまうと、誤字を見逃しがちになります。なので、2日間ほど空けて、まっさらな目で一行一行、目を皿のようにして眺めていきます。それでも見落としがあるので、油断なりません。
 古事記を撰録した太安万呂は校正者だった。日本では、「はじめに校正があった」。
 ところが、今はネットの普及により、書いた人が読み返さないので、目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫だ。
 たとえば、「にも関わらず」と書いている人が、有名な大学者にまでいます。正しくは「不拘」、「関」ではなく「拘」なのです。
法律まで誤字だらけだというのには驚かされました。いったい、どうして、そうなった(ている)のでしょうか…。
 校正する人は、心の中に音声を残し、それと照合する。
面白い原稿は内容を読んでしまうので、要注意。誤りを拾い損ねてしまう。校正者は読むのを楽しんではいけない。
文章を読みやすくするには3つの改善策がある。句読点をひとつ入れる。言葉の順番を変える。修飾語と修飾される語を近くにする。
 今は。ジャパンナレッジという便利な有料サイトがある。これは70以上の辞書・辞典などが入っていて、横断検索できる。
校正者は根拠がないと指摘できない。
 校正者が内容を理解しようとすると、かえって誤植を見落としてしまう。
 心を空っぽにしないと、必ず見誤る。
 読者は内容を読むが、校正者は活字を見る。
校正者は、すべてを疑うべし。相手を疑う前に、自分を疑う。疑いを晴らすために辞書を引く。
日本語は正書法のない、極めて珍しい言葉。なので、英語やフランス語そして中国語であるディクテーション(ディクテ)がない。日本語だと正解はひとつではないから。なーるほど、そう言えば、そうですね…。
 私たちは生きているから間違える。間違えることは生きている証拠。だから、校正するとキリがない。うむむ、なんだか校正者の開き直りのような…。
 AIに校正を全部まかせるわけにはいかない。本当にそうなんですよね。AIは適当な嘘を平気でつくのです。面白い本でした。
(2024年11月刊。1980円)

神聖ローマ帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 山本 文彦 、 出版 中公新書
 神聖ローマ帝国と言われても、すぐにはピンときません。かのローマ帝国とは違うもののようだけど、どう違うのか、いったい、いつの時代に存在したのか…。
神聖ローマ帝国は962年から1806年まで、850年間にわたって存在した。日本史でいうと、平安時代(村上天皇)から江戸時代(11代の徳川家斉)までになる。
 ドイツを中心として、スイスやオランダも含むヨーロッパの中央の広大な帝国だった。
 神聖ローマ帝国が滅亡したころ、ドイツの文豪ゲーテが生きていて、目撃したようです。
この本を読んで、有名な「カノッサの屈辱」の真相を初めて知りました。
 1077年1月25日、雪が降りしきるなか、イタリア北部のカノッサ城の城門の前で、悔悟と恭順の意を示すため、王のあらゆる権標を取り去り、贖罪(しょくざい)服に裸足(はだし)の姿で門前にたたずみ、頭を垂れて大きな声で教皇のゴレゴリウス7世の慈悲と赦(ゆる)しを乞うた。降り続く雪に膝まで埋まりながら、贖罪は3時間に及んだ。
 そのため、教皇はハインリヒ4世の破門を解いた。このあと、ハインリヒ4世は対立国王ルードルフと戦い、敗れはしたものの、ルードルフが右手を失って死んだことから、ハインリヒが優勢となり、ローマで皇帝となった。そして、あのグリゴリウス7世を追いやった。
 だから、「カノッサの屈辱」をもって、単純に教皇が皇帝に勝利した事件とは評価できないというわけです。むしろ、逆に皇帝権の確立に至る一事件だとみることもできるでしょう。
 著者は、本書で、実は、これは単なる「和解のための儀式」だったというのです。演出された儀式にすぎなかった。この「演出」は仲裁者が求めたもので、暫定的な妥協が成立しただけなのだというわけです。
 そして、このハインリヒ4世の皇帝在位期間はなんと50年間。神聖ローマ帝国のなかでは2番目の長さです。
ハインリヒ4世の次のハインリヒ5世のとき、皇帝と教皇の争いは決着をみた。皇帝は教会の支配者としての地位を失い、皇帝は教会の外の世俗的支配者として生きていくことになった。
 この本を読んで、もう一つの驚きは、中世前期のドイツ王が、その一生を旅をして過ごしていたということです。
 それは、通信手段が赤発達だったので、広い地域を支配するのには、王自らが移動するのか、もっとも効率的だったからとされています。宮廷がそっくり移動していくなんて、とても信じられません。大変な苦労があったと思います。
 道路は舗装されていないので、馬車で移動するにしても、激しく揺れたことでしょう。道中に安楽な場はなかったことでしょう。なので、厳しい移動に耐えられる肉体と精神力が王には求められた。いやあ、これは大変なことですね…。
 ドイツ国内で郵便事業が始まったのは1490年のこと。郵便配達夫と馬は宿駅で交替するリレー方式で、24時間体制で配送した。そのため、宿駅は、一定数の馬を常に用意し、郵便配達夫に食事と寝床を提供した。
 いったい郵便料金はいくらだったのでしょうね…。高額だったとは思いますが、路線を維持するのは大変だったことでしょう。そして、17世紀後半からは、郵便馬車が走りはじめています。運賃さえ払えば誰でもこの郵便馬車に乗ることができたとのこと。
 18世紀になると、旅行革命の世紀と言われ、人々が徒歩ではなく馬車で旅行するようになり、ヨーロッパが近くなったようです。大変興味深い内容が満載の新書でした。
(2024年5月刊。1100円)

ドイツ人のすごい働き方

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 西村 栄基 、 出版 すばる社
 日本人の働き方は異常だと、私も思います。ともかく働きすぎです。でも、賃金も年金もあまりに安いので、仕方がないのです。そして、パート、アルバイトはもっと異常です。
 「103万円の壁」といいますが、大学生がアルバイトをしなければやっていけないなんて、明らかに間違っています。学費が高すぎますし、生活費の補助がまったくありません。軍事予算というムダな出費をほんの少し削れば、大学の学費なんて無料(タダ)にできるのです。
 ドイツは労働時間が日本より年に266時間も短いのに、平均賃金は日本より4割も多いのです。それでいて、労働生産性は日本の1.5倍も高く、GDPは日本を抜いて世界3位です。なぜ、どうして…。その秘密に迫っている本です。
 ドイツ人は、基本的に残業は一切しない。
 午前中は集中して各自の仕事をこなす時間だから、社内で会議はしない。
会議は短くて目的が明確で、余計な時間をさかない。発言する人だけが参加する。発言しない人は、会議に必要ないとみなされる。会議は準備がすべて。終了と同時に議事録がつくられる。
各自の机の上には、必要最低限のものしか置かれていない。帰宅するときは、すべて所定の場所に戻され、机上には何もない。
 ドイツでは片付けが重要視されている。整理整頓は生活の基本。探しものをするムダな時間を削減する。
 有休休暇は労働者の当然の権利であり、とらなければならないもの。長期休暇によって「空っぽ」になる。この間は、仕事に関する連絡を断つ。
 ドイツ人のビジネスパーソンは、帰宅直前と出社直後にメモをとる。これで、朝にスタートダッシュをかけ、生産性が上がる。「明日やること」「今日やること」を明らかにしておく。
 ドイツ人は日本人のように完璧さを求めることはしない。8割の完成度でよいところには、あまり時間をかけない。
 病欠は有給休暇に含まれず、3日までの休暇は、医師の診断書の必要がない。
 バックアップシステムが完備している。
 日本人はドイツ流の仕事の仕方・すすめ方を大いに学び、取り入れたほうがよいと思いました。
(2024年11月刊。1650円)

たゆたえども沈まず

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 原田 マハ 、 出版 幻冬舎文庫
 ゴッホが日本の浮世絵を大変気に入っていて、その絵にも浮世絵が背景画として描かれていることは私も知っていました。パリで画商をしていてゴッホを経済的に支えていた弟が、日本人画商とつきあいがあり、その線でゴッホも日本人画商たちと濃密な交際があった。なるほど、そうだったのか…。そう思って読み終えて、巻末の解説を読むと、ゴッホと弟テオが日本人画商と接触があったという証拠は何もないとのこと。ただ、同じころにパリにいたことは間違いないが、ゴッホとテオの手紙にも日本人画商はまったく登場しない。うむむ…、そうなのか。
 そして、最後に、本書は史実をもとにしたフィクションであって、特定のモデルはいないと注記されているのです。なあんだ、騙されたのか…、そう思いました。
 それでも、あまりに情景そして心情描写が見事なものですから、ついついモデルのいる小説だと思って読んでしまったわけです。作者のストーリー力には脱帽せざるをえません。
 この本の主人公は日本からパリに行って日本の芸術をヨーロッパに売り込もうと活躍している日本人画正(林忠正)です。その弟子は、まったく架空の人物だというのに驚かされました。著者の想像力のすごさには、まいります。
 ゴッホとテオは離れて住んでいたので、2人がかわしたたくさんの手紙が残っています。私もいくつかは日本語で、そしてフランス語の勉強として読みました。
 本のタイトルの、たゆたえども沈まずとは、パリについてのラテン語による格言です。パリは何回も洪水被害にあっていますが、そのたびごとに見事に復興して、今日があるわけです。
 パリの中心地にあるノートルダム大聖堂も火災の修復を終えて、一般見学が出来るようになったようですね。同じように沖縄の首里城も一刻も早く修理を終えてほしいものです。
ゴッホは、印象派の画家として活躍しましたが、その生前は、今日のように崇拝の対象ではなく、作品(絵)はほとんど売れませんでした。宮澤賢治の小説も、その生前はまったく知られていませんでしたよね。世の中には、ときどき、そういうことが起きますね。
 それにしても、ヨーロッパの人々は浮世絵を見たときには驚いたでしょうね。極端なまでに顔の特徴を誇張する絵画手法に、恐らく呆気(あっけ)にとられ、のけぞったに違いありません。
(2024年2月刊。750円+税)

朝鮮植民地戦争

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 愼 蒼宇 、 出版 有志舎
 近代日本の曲がり角には必ず朝鮮がある。そうなんでしょうね。
 帝国日本は朝鮮半島を植民地として支配していた。これに抗して朝鮮の人々が戦闘を挑んだ。1875年の江華島事件、1882年の壬午軍乱後における公使館守備隊名目の日本軍駐屯、1894~95年の甲午農民戦争、1904~05年の日露戦争、1906~15年の義兵戦争、1919年の三・一独立運動、1918~25年のシベリア戦争と間島虐殺、1931~39年の満州抗日戦争。これらを朝鮮植民地戦争と総称する。
 火賊とは、朝鮮の盗賊団のこと。火賊は、一般人扱いされなかった。
日本の東北地方を歩いたイギリス人女性イザベラ・バードは、1895年1月に東学農民軍の梟首(きょうしゅ)を見ている。
 甲午改革は単なる内政改革ではなく、日本の朝鮮膨張と深く関連したため、その改革の正統性が根本的な秩序・法意識への求心力を強化することにつながった。
朝鮮王朝末期に起きた最大の民衆反乱が1894年の甲午農民戦争。東学農民戦争ともいう。日清戦争が起きた年です。農民軍は行動網領を定め、厳格な規律を維持した。参加したのは半プロ・貧農下層民などが中心。
 11月20日、日本軍と朝鮮政府軍の連合軍と4万人の農民軍とのあいだで、最大の激戦となった(公州の戦い)。当初は数に優る農民軍が優勢だったが、その後は近代的兵器をもつ日本軍による大虐殺となった。
 日露戦争(1904年)のころ、朝鮮半島に日本は鉄道を敷設していった。この苛酷な労働に対して朝鮮の民衆は激しく抵抗した。サボタージュ、逃亡、そして運行の妨害。
 1895年、日本軍の三浦梧楼は閔妃を虐殺した。
 1907年7月、ハーグ密使事件をきっかけに朝鮮王朝高宗が退位に追い込まれ、韓国軍が突如として解散させられた。当時の韓国軍は中央・地方あわせて8480人。そのうち、745人だけが残された。92%の軍人が失業した。これらの失業軍人が各地で義兵となった。
 1919年3月、三・一独立運動が始まった。朝鮮全土で200万人以上が「独立万歳」を唱えて参加した。この三・一独立運動における朝鮮人の被害はわずか2ヶ月間に934人の死者を出した(7500人が殺害されたという学者もいる)。
 日本は、「五家作統」という連座制によって、共同体をコントロールしようとした。
 また、村落を植民地戦争の最前線にし、抗日運動の根拠地のせん滅を図ろうとした。
 ただ、苛烈なせん滅作戦は、他方で逆効果でもあった。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(壬申倭乱)のときも、朝鮮半島の各地で義兵が抵抗しましたが、日本の植民地支配に対しても何波となく義兵が決起しています。近代的兵器を装備した日本軍に圧殺されてしまうわけですが、朝鮮の人々の反抗ぶりもすさまじいものがあったようです。日本側の資料に残っています。
 関東大震災直後の朝鮮人虐殺に日本軍部が手を下したことは事実ですが、その軍人たちは、朝鮮の農民戦争を戦った経験があったという指摘がなされています。なるほど、そうだったのか…と思いました。
 いま多くの日本人に読まれるべき大変貴重な労作だと思いました。
(2024年7月刊。3500円+税)

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