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2024年11月 の投稿

栄光の松竹歌劇団史

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 小針 侑起 、 出版 日本評論社
 浅草を舞台に激動の昭和を駆け抜けたスターたちの50年史です。
私が知っているのは、SKD(松竹歌劇団)のなかでは、水の江瀧子、淡路恵子、草笛光子そして倍賞千恵子です。
 倍賞千恵子はトップの成績で卒業したのですね。でも、映画「男はつらいよ」は、まさに当たり役(はまり役)だったと思います。
私がこの本を読んだのは、戦前のターキーの活躍ぶりを調べたかったからです。ターキーが舞台で活躍しはじめたころ、私の父も20歳前で、ちょうどそのころ東京にいたのでした。
1931(昭和6)年11月、新宿の新歌舞伎座での公演のとき、水の江はカウボーイの親分役を演じ、「俺は、ミズノーエ・ターキーだ」と大見得(みえ)を切ったのが大受けして、それから「ターキー」の愛称で親しまれるようになった。このとき、ターキーは、まだ16歳でした。怖いもの知らずの年齢ですよね。
 ターキーは、それまでのオカッパ頭をショートカットにして、シルクハットの燕尾(えんび)服という颯爽(さっそう)とした舞台姿で舞台に登場した。
 派手な衣裳に身を包んだ17歳のターキーの男装ぶりは瑞々(みずみず)しく美しく、観客を完全に魅了した。
ターキーには熱烈なファンが大勢いて、強力なファンクラブもつくられていました。月刊誌「タアキイ」まで発行されていたのです。会員はなんと2万人もいました。
そして、18歳のターキーは争議団の委員長にかつぎあげられるのです。
 ときは、1933(昭和8)年6月のこと。ともかく出演料が安かったのです。ターキーらスター級でも80~100円、群舞のメンバーだと10~20円といいますから、あまりに安すぎます。そこから通勤費も化粧代も自己負担。
少女歌劇の生徒227人のうち258人が争議に参加したのでした。そして賃上げなどを要求しました。たとえば、研究生は15円、本科生になったら40円とせよ、組合加入の自由を認めよとか、40項目近くを要求しました。ところが、松竹側はほとんど拒否。そこで、争議団は本部を構えて本格的なストライキに突入。このとき、若い女性たちの保護者会として、父兄も同調して応援しています。
 会社が争議団の切り崩しを図り、争議を脱落した女性もいましたが、舞台に立つと「お詫びガール」として観客から冷たい視線を浴びたとのこと。
 そして、ついに7月15日、それなりに要求を満たして、円満解決。争議費用として、会社は争議団に6000円もの大金を見舞金名目で支払いました。
 このとき、争議団は会社側の切り崩しを避けるため、湯河原温泉に120人も籠城したのでした。これらの動きをメディアは大きく取り上げ報道しました。これが世間を騒然とさせた「桃色争議」です。ターキーたちは、特高警察に検挙され留置場にも入れられています。
 そして、ターキーの復帰第一作が松竹歌劇史上最高傑作といわれる「タンゴ・ローザ」。1933年10月29日から東京劇場、11月6日から浅草松竹座で公演。ターキーは闘牛大服に身を包んで登場したのでした。この「タンゴ・ローザ」の公演は浅草草松竹座だけでも74回、大阪・京都をふくめると160回も公演が開かれた。
 いやはや、ターキーへの熱狂ぶりはすさまじいものだったようです。美空ひばりの母親もターキーの熱烈なファンの一人だったそうです。
戦前、労働争議がいかに盛んだったか、それを父兄も観客の女性も応援していたことも分かります。今ではちょっと考えられませんよね…、いささか残念というほかありません。いや、日本だって、アメリカと同じようにストライキが頻発する日がきっと来るはずです。
(2024年10月刊。2500円+税)

アメリカ連邦最高裁判所

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 リンダ・グリーンハウス 、 出版 勁草書房
 日本の最高裁の裁判官の国民審査で、10%以上の人々が不信任を突きつけたのは異例でした。めったにありませんが、たまに良い判決を下すこともあるものの、たいていは三下り半の、無内容のうえ、しょっちゅうひどい判決を出している裁判官に対する国民の不信感のあらわれだと私は思いました。今の日本の最高裁判事の名前を知ってる国民は、ごくごくわずかでしょう。私も長官の名前くらいをうっすらと知っているだけです。
 その点、アメリカの連邦最高裁判事は国会で激しい審判を受けて選任されますので、かなり周知されていますよね。
アメリカの連邦最高裁は、20世紀半ば近くまで、専用の土地を持っていかなかった。それくらいの位置にあったということ。いやあ、これには驚きましたね…。
 最高裁判事は終身制なのに、40台、50台で任命されることが珍しくない。なので、20年も30年も判事を続けることが少なくない。日本だと、64歳くらいで任命されるので、せいぜい6年ほどの任期です。
 アメリカの連邦最高裁は上訴された事件のうちの1%だけに判決を下している。
 歴代の判事は全員が法律家であるが、実は正式な資格要件は定められていない。当初は、全員が白人男性で、プロテスタントだった。その後、カトリック系も出て、ユダヤ教徒もいるようになった。女性も9人のうち4人を占めるまでになっている。出身地の地理的要素は問題になっていない。なお、その前職は、大半が連邦控訴審判事がほとんど。
 黒人女性判事が任命されたのは2022年のこと。
連邦最高裁判事になったあと保守側からリベラルに変わった判事は何人もいるけれど、在任中に保守化した判事は、ほんの数人にすぎない。
連邦裁判所の組織には、1200人の終審裁判官、それ以外の850人の裁判官、3万人の職員がいて、80億ドルの予算をもっている。
 日本の司法予算は3000億円で、ほとんど増えないどころか、むしろ人件費を含めて減っています。
毎年数千件もある上訴申立事件のなかから連邦最高裁は数十件しか受理しない。それを選別しているのは、若くて精力的なロー・クラークたち。
 連邦最高裁は、判決言い渡し期日は事前に発表しない。しかし、判決文は、言渡後の数分以内に最高裁のウェブサイトにアップされる。
 連邦最高裁の法廷内はテレビにもカメラにも撮影は許されていない。
 裁判官が世論を意識するのは避けられないというだけでなく、実は望ましく必要なことだと述べられていますが、私もまったく同感です。神のみぞ知る、なんてこと言って唯我独尊に陥るより、世論の動向を踏まえた常識的な判決のほうが、害は少ないと私は考えています。
 上訴申立書には、9千字という字数制限があるそうです。上訴が受理されたあとの本案趣意書も1万3千字内という制限がある。私は、これはこれで理解できます。格別な案件については、例外措置を設けておけば目的は達成できるのです。
 アメリカの連邦最高裁と日本の最高裁の違いを考えさせられました。
(2024年7月刊。3200円+税)

商店街の復権

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 広井 良典 、 出版 ちくま新書
 近ごろ都に流行(はや)るもの。コンビニ、ドラッグストアー、コインランドリー、そしてシャッター街の商店街。全国どこに行っても、まともな商店街に出会うことが残念ながらほとんどありません。
先日、大阪で長い長い商店街を歩いてきました。そこは、車の入らない路地のような通りで、両側に小売店が延々と並んでいて、通行人と買物客で一杯でした。
 自動車と商店街が共存するのは至難の業(わざ)です。車があれば、ショッピングモールに少し遠くてもみんな出かけていきます。
 では、商店街の再生(復権)は不可能なのか・・・。本書(新書)は、その可能性を探っています。豊田高田市の「昭和の町」は商店街を観光資源としている。東大阪市では商店街に泊まるホテルを設けた。ここでは、まち全体をホテルと見立て、空き家も活用している。
 京都府長岡京市にあるセブン商店会は、かつては30店舗を下まわっていた会員数が2倍をこえているとのこと。ここには、保育園や法律事務所もあるというので驚かされます。
 東京は荒川区の西尾久では、商店街に5つの店を新しく同時にオープンさせた。ここは最寄り駅がなく、駅前商店街でもない。ここでは銭湯で落語やヨガなどのイベントも実施した。
東京の下北沢、新潟の沼垂のように、ほぼゼロから商店街が生まれ変わり、にぎわっている。
 日本全国に空き家が850万戸も存在している。全国の住宅の実に14%近い。日本の空き家率は、諸外国と比較しても、かなり高い。
 ドイツなどのヨーロッパの商店街には、日本の商店街にあるようなアーケードはほとんど見られない。日本でも、シャッター街になっていた商店街を再活性化しようとしているところがあるのを知って、すこしうれしくなりました。いい新書です。
(2024年2月刊。1200円+税)

検証・学徒出陣

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 西山 伸 、 出版 吉川弘文館
 『きけわだつみのこえ』が初めて発刊されたのは1949年10月のこと。戦後まもなくです。初めは東大協同組合出版部からで、今は岩波書店から「新版」が刊行されています。もちろん私も読みました。心を打たれる遺稿集です。みていませんが、映画にもなったようですね。
 学徒兵は、「真実を見る目をふさがれ、虐げられ、酷使され、そして殺されていった」のです。昨年(2023年)は、学徒の一斉入隊から80年ということで学徒出陣が少し話題となったとのこと。
戦争意欲が煽られるなか、戦場に勇んで赴いた学徒兵もいたことでしょう。しかし、戦場の現実は悲惨なものでした。餓死者のほうが銃弾にあたって死傷した兵士よりはるかに多かったのです。
学徒出身の予備士官が自らの足場を確保するため、軍隊の非合理性に過剰に適応し、かえって暴力的になった例も少なくないようです。学徒兵は、軍隊における非合理性の一方的な被害者ではなかったのです。学徒出身兵が戦場で捕虜を虐待したとして、戦後、戦犯となって処刑された例もあります。
 人間にとって、生まれ育った時代がどういうものであったかというのは、かなり人間(人格)形成に大きな意味をもっています。学徒兵として一斉入隊した学生たちは1920年から1922年のあいだに生まれました。小学生のころに満州事変が起こり、中学生時代には日中全面戦争が始まり、高校や大学専門学校生のとき、米英との戦争に突入したのです。いやあ、戦意高揚の時代そのものですよね。それを免れた人がいたのが不思議なくらいです。
政府と軍にとって、兵の指揮にあたる仕官の大量確保が必要だったので、学徒兵の確保が急がれた。うむむ、そういうことだったのですね。
今日の世態はまことに奇態なり。戦争を学んだ軍人は銃後にあって政治・経済に従事しているのに、政治・経済を勉強した学生が前線に出て交戦に従事している。これが本当に総力戦の姿なのか…。
 これは近藤文麿首相の側近だった細川護貞が1944年4月15日の日記に書いた内容です。ホント、おかしな日本でしたね。こんなおかしなことに日本が再びならないように、私たちは目を大きく見開いておく必要があります。「中台紛争」の危機とやらに、煽り立てられ、日本も軍備を増強すべきだなんて、そんな嘘というかデマに流されないようにしましょう。
(2024年8月刊。1700円+税)
 川崎セツルメントのOS会(オールドセツラーの会)が川崎市内であり、参加してきました。50年ぶりに再会する人もいて、この人、誰だっけ…と戸惑う人もいましたが、やがて思い出し、旧交を温めることができました。
 「それなりの大学」(東大)を出て大会社に入社したけれど、さっぱり出世しなかったという人がいました。私の尊敬していた先輩です。企業の論理からはじき出されてしまったようです。本人にとっても会社にとっても残念なことだと思いました。
 私は高校の先輩に誘われ大学1年生の4月にセツルメントに入り、3年間もどっぷりセツルメントに浸っていました。本当に温かい仲間たちで、居心地が良かったのです。そして、そのなかで、人生のターニングポイント、生まれ変わった気がしています。

ナチスと大富豪

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 ダ―フィット・デ・ヨング 、 出版 河出書房新社
 大金持ちって、ホント、あくまでもえげつないことをする人たちだと改めて実感させられました。ヒトラー・ナチスにうまくとり入り、ナチスへの入党もためらいません。
 まず、ユダヤ人経営者を追い出し、ユダヤ系企業を安価で乗っ取ります。そして自分のものにした工場で戦車や武器・弾丸をどんどんつくって儲けます。工場に人手が足りなくなったら強制(絶滅)収容所の「囚人」を死ぬまで酷使します。
 ヒトラーが自殺し、ナチスが敗北した戦後は、ナチスに協力させられたのは強制なので、真意ではなかったと強弁し、自分の責任は決して認めません。酷使した元「囚人」に対する賠償も拒否し続け、いつのまにかナチス時代のように繁栄し、再び大富豪に返り咲きます。そこでは、あくまでお金がすべての世界です。
 そして「賢い人」は、マスコミ取材を一切拒否して、自分の姿が世間から見えないようにします。この本は、そんな彼らの実相をトコトン明らかにしています。
この本でもう一つ詳明に明らかにされているのは、ゲッペルスの妻マグダの行状です。マグダは大富豪の妻だったのです。ところが、大富豪と離婚すると、ナチスに憧れ、ついにゲッペルスと結婚し、6人の子をもうけたのです。ヒトラーの自殺のあと、ゲッペルス夫妻はベルリンの首相官邸の地下室で6人の子どもを青酸カリで死なせたあと、自分たちも自殺しました。
ところが、マグダには、もう一人、別れた大富豪との間に男の子がいたのです。この子はナチス軍に入り、戦後まで生きのびました。
 マグダは恋多き女性だったようです。夫以外の男性と次々に関係を結び、夫とは離婚しようとしますが、ヒトラーが許さなかったのでした。ナチスの理想的なカップルとして売り出していたので、それが壊れては困るとヒトラーは考えたようです。妻の浮気に対抗して、ゲッペルスも女優を愛人としました。
 ヒトラーが政権を握る前、ナチスには選挙資金が枯渇していました。それを救ったのがドイツの経営者たちでした。
 民主主義を葬り去るための資金提供に、大物実業家たちは何の抵抗も感じていなかった。1933年2月のことです。ゲッペルス(当時35歳)は、日記に「300万ライヒスマルク(今の2000万ドル)もの選挙資金が集まった。やったぞ!これで資金はととのった」と書いた。このなかにはIGファルベン社(40万ライヒスマルク)も含まれている。
ドイツ人実業家たちは計算高く、無節操な日和見主義者にすぎず、自分の事業を拡大するためなら手段を選ばなかった。ゲッペルスは、作家、劇作家、ジャーナリストの道に進もうとしたがうまくいかず、発足まもないナチ党に1924年に入党した。弁が立ち、派手な演説に長(た)け、ヒトラーに対して絶対的な忠誠を示したので、一気に出世を遂げた。
 ゲッペルスは情報の力についてよく把握していた。ゲッペルスは、いつも他人(ひと)より優位に立つことを求めていた。
 ゲッペルスの取り柄は、機転がきくところと、ヒトラーへの忠誠心だけだった。
 マクダをめぐるゲッペルスのライバルは、ほかでもないゲッペルスが崇拝するヒトラーだった。マクダとゲッペルスが結婚した(1931年)とき、ヒトラーは花婿付添人をつとめた。
 ユダヤ人実業家たちは、とんでもない低額で企業をナチスに加担した起業家に譲り渡さなければならなかった。それはロスチャイルド家でも同じだった。2100万ライヒスマルクもの保釈金を支払って、ようやくアメリカに移住できた。いまのお金で3億8500万ドルに相当する保釈金です。
 ベルリン郊外のヴァンゼーで開かれた会議(ユダヤ人問題の最終的解決をテーマとする)について、ゲッペルスは日記に次のように書いた。
 「実に残酷な措置が施されることになる。そうなれば、ユダヤ人という人種が生き残る道はほぼ絶たれるだろう」
 いま、イスラエルはガザ地区でかつての自分たちがされたことをアラブ人住民にしています。どちらも許せません。
 ドイツ人の男性は兵士にとられてしまったため、労働力が著しく不足していた。それを埋めるのが「東方労働者」(ソ連やポーランドの人々)であり、強制収容所の「囚人」たちだった。
 奴隷労働に関して、ドイツ企業はSSの運営する強制収容所と連携していた。囚人たちは「奴隷以下」の扱いを受けた。
 戦後、1970年の西ドイツの資産トップの大富豪4人は、いずれも元ナチ党員だった。
 そして、そのなかに、ドイツの右派、極右の政治団体に大口献金していた。ナチス時代の自分の行為をまったく反省していないというわけです。
 ドイツ敗戦後の連合軍によるニュルンベルク裁判にかけられた実業家は一人だけで、それも有罪にはなったけれど、刑期が短縮されて、すぐに出所してきて、やがて西ドイツ一の大富豪になった。
 BMW、ポルシェ、エトカー(プリン)など、日本でも有名な大企業の裏の歴史が暴かれている本でもあります。知らなかったことがたくさんありました。ぜひ、ご一読ください。
(2024年5月刊。3960円)

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