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2024年7月 の投稿

関白秀吉の九州一統

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館
 織田信長が本能寺の変で倒れたあと、天下人となった秀吉はその実力(軍事力)だけで全国を統一したのではなかったことがよく分かる本でした。
 九州における戦闘を止めるように秀吉が促すとき、それは「叡慮(えいりょ)」、つまり天皇の意向だからとするのです。
秀吉は、くどいほど天皇の存在に言及する。関白となった羽柴秀吉は、天皇の権威に依拠しつつ、国内静謐(せいひつ)を実現しようとした。
 秀吉は、九州において頑強に抵抗する薩摩の島津勢に対して自らが総大将となって九州にやってきて、ついに島津義久の降伏によって、「九州平定」を達した。ところが、これで「九州仕置き」が完了したのではなかった。肥後や日向そして肥前などで反乱や内紛が起きて、それを片付けるのにも苦労した。
そのうえ、秀吉は、その前から「唐(から)入り」を宣言していて、対馬藩を通じて朝鮮国王に服従を迫っていた。国内では、「伴天連追放令」を発し、また、「刀狩り」も発している。
この本では、「九州統一」ではなく「九州一統」となっています。「統一」というと、どこかの国に一つにまとめられたというイメージですが、強固な島津勢がいる一方で、それに反対する大友などの勢力もいるわけなので、「統一」というのはふさわしくないのでしょうね…。
 秀吉による「九州平定」作戦が遂行されていくときに見落とせないのが、イエズス会の軍事力と、九州各地のキリシタン大名の動きです。イエズス会は、長崎港と茂木港を大村純忠(バルトロメオ)から寄進を受けました。そして、この二つの港を軍事要塞化していったのです。
 この本によると、秀吉は石川数正の調略(引き込み)に成功したあと、家康討伐を決意したとのこと。たしかに、徳川家康にとって、長年の忠臣が突然、秀吉のほうに寝返りするなんて、とても信じられない思いだったと思います。自らの手の内が全部、「敵」に筒抜けになるという恐怖はきわめて大きかったことでしょう。
 ところが、秀吉が家康討伐を決意した直後の天正14年11月29日夜、大地震が発生して、それどころではなくなって、信長と家康の激突は避けられたのです。
 秀吉は文書を発行するとき、「判物」と「朱印状」とを使い分けている。判物は、大友義統や龍造寺政家そして、上杉景勝や徳川家康など…。そうでない人々は、朱印状ではなく、花押をすえた判物を発給している。私には、この使い分けの意味が理解できませんでした。
 秀吉が島津勢を討伐するために九州に大軍を率いて実際にやってきたのを「九州御動座」と呼ぶのですね…。
 秀吉は島津勢の領域としては、川内(せんだい)の泰平寺までで、それ以上は南下しませんでした。
 秀吉の「伴天連」追放令は、伴天連による仏法・排撃を禁じたもので、無条件に退去せよというものではなかった。
 秀吉から肥後をまかされた佐々成政は結局、切腹させられた。
 島津勢といっても、決して一枚岩ではなく、秀吉に屈服しないとして抵抗を続けた勢力もいたのです。島津にとっても領国運営は大変だったのです。大変勉強になる本でした。
(2024年3月刊。2500円+税)

四日目の裁判官

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 加藤 新太郎 、 出版 岩波書店
 この不思議なタイトルは、この本を読んで氷解しました。
裁判官になって良かったかと訊かれると、著者は、こう答える。
 「裁判官はよい仕事で、3日やったら辞められない。でも、4日目には辞めたくなったりして…」
私は弁護士になったことを後悔したことは一度もありません。それどころか、天職と考えています。おかげで日本全国47都道府県、行ってないところがありません。そして、歴史に登場してくる遺跡もかなりのところに足を運ぶことが出来ました。本当にありがたいことです。
 著者は裁判官40年、弁護士10年というキャリアです。「自由な精神空間を持つ仕事、それが裁判官」だとします。でも、私にはいささか違和感があります。その「自由」には、「権力からの自由」が含まれていると本当に言えるのでしょうか…。
 沖縄の国と県の訴訟は、いつもいつも「国の勝ち」です。それこそ、まともな理由もなく、行政のやることに間違いはないという一刀両断。同じことは、安保法制違憲訴訟についても言えます。まともに証人調べをしない。せっかく学者証人を調べても、その証言を生かすことはない。残念ながら、そんな裁判官ばかりです。たまに良心を守っている(と思える)裁判官にあたると、ほっとしますが…。
 青法協会員の裁判官を追放(「ブルーパージ」と呼ばれます)してから、気骨のある裁判官には滅多に出会えません。本当に悲しくなる現実です。
判決次第で、その後の経歴が左右されると裁判官が信じたら、委縮効果が及ぶ可能性がある。
 著者は、これをまったくの誤解だと言いたいようです。でも、弁護士生活50年の私に言わせたら、決して誤解なんかではありません。厳然たる事実です。著者のような「主流」を歩いてきた裁判官には「見えない」のか、「自覚がない」だけのことだと私は思います。
 私も、30億円というムダづかいをした地方自治体(市長)の責任を追及した住民訴訟で勝訴間違いなしとマスコミともども確信していたのに、敗訴判決をもらったことがあります。住民勝訴の判決を書いたときの反響の大きさに恐れをなして担当裁判官たちは住民を敗訴させたとしか思えませんでした。まあ、それが、至ってフツーの裁判官なんだと思います。
 著者は、和解について、こう書いていますが、この点はまったく同感です。
 裁判官が自ら案件を解決するという気迫を示せば、代理人・当事者もそれなりに意気を感じてくれる。そうなんです。裁判官が自分の心証を示して、これで解決したらどうかと言えば、かなりの確率で和解は成立するものです。ところが、自分の考えをはっきり言わないまま、「足して二で割る方式」の和解案を示す裁判官が、今も昔も少なくありません。
 著者は司法研修所の教官そして事務局長をつとめていますが、その経歴を詳しくみると、高裁長官から最高裁判事という超エリートコースに乗っていたのではないようですね。この点は、裁判官の思考法を知る点でも、勉強になりました。すっかり誤解していました。
 裁判官の思考法を知る点でも、勉強になりました。
(2024年4月刊。2300円+税)

女性法律家

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 三淵 嘉子 、 出版 有斐閣
 1983(昭和58)年5月に刊行された本の復刻版です。もちろん、「虎に翼」(NHK朝ドラ)が好評なので、復刊されたのです。主人公のモデルとなった嘉子さんは紹介を割愛します。   
時代を感じさせたのは1965(昭和40)年12月に東京は神田に発足した「婦人総合法律事務所」です。もちろん、今でも「婦人」という言葉は生きていますが、今や男女共同参画の時代ですから、「婦人」というより「女性」のほうが親しみもあって、使われやすいと私は思います。現に、福岡には「女性協同」事務所があります。
 「婦人総合」は、女性弁護士6人で結成されました。女性だけの共同法律事務所は全国で初めてだったので新聞、ラジオ、テレビで紹介され、開所初日には数十人の相談者が押しかけてきたそうです。以来、17年間、6人の女性弁護士から成る事務所は存続したそうですが、その後は、どうなったのでしょうか…。
 ここの相談料は開所当初は1時間2000円で、17年たった時点では7000円。土曜・日曜は休みの完全週休2日制。私も弁護士生活50年のうち、少なくとも初めの20年間は、土曜日も平日と同じように相談を受けて働いていました。20年以上前から、土曜日は完全に休みで、朝からフランス語の会話練習にあてています。そして午後は、映画をみたり本を読んだりして自由気ままに過ごします。大切にしている私の自由時間です。
 女性弁護士は、どうしても家事事件を多く受任し、担当することになります。そして、この家事事件の当事者にはなかなか厄介な人物が少なくないのです。弁護士の側によほどの覚悟とストレス解消の技(わざ)を身につけておく必要があります。
 私はいわゆる企業法務を扱ったことはありません。大会社であっても社長や法務担当者に個性の強い人(いわゆるアクの強い人)が少なくないと思うのですが、そんな人たちと少し距離を置いてつきあわないと、こちら(弁護側)の心身がもたないことになってしまうと思います。なにはともあれ、女性法曹が増えたのはいいことです。
 この4月から日弁連の会長は女性ですが、ついに検事総長も女性がなるというニュースを先ほど聞きました。いったい、最高裁長官に女性がなるのは、いつのことでしょうか…。
 なんだか、当分、実現しそうもありませんよね、残念ながら…。
(2024年6月刊。2300円+税)

ナチ親衛隊(SS)

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 バスティアン・ハイン 、 出版 中公新書
 最近、たて続けにナチスに関わる映画を2つみました。「関心領域」は、この本にも登場するアウシュヴィッツ収容所のヘス所長の一家を淡々と描いています。この新書によると、ヘスは、回想録のなかで、自分のことを「意思のない、常に礼儀正しい、命令に従うだけの者」としているが、実際には、強制収容所の司令官として無制限の権力を振るい、収容者の生死を左右し、親衛隊であげた「業績」(いかに効率よくユダヤ人を大量殺害したか)を誇りにしていた。
 映画では、壁の向こうで大量虐殺が進行しているのに、ヘス一家はプールもある豪勢な家で安穏と過ごしていたのです。ユダヤ人犠牲者から奪った宝石や衣服など身を飾りながら…、です。いかにもおぞましい生活なのですが、壁の向こうで進行中の人道に反する大量虐殺の事実は、見ようとしなければ、まったく見えてこないわけです。
 もう一つの映画は「ワン・ライフ」です。こちらは、ナチス・ドイツの侵攻直前のチェコから子どもたちをイギリスに連れ出して救出したという実話を映画にしたものです。一人の証券マンが、事実を知ってやむにやまれぬ思いで現場に行って、600人以上の子どもたちの救出に成功したのです。現在進行形のガザの現実を重ねあわせて、涙の止まらない思いでした。
 ヒムラーが最終的に第三帝国のナンバー2になった(なれた)のは、競争相手から繰り返し過小評価されていたこと、外見がぱっとせず、人目を引くことがなかったこと、そして、常にヒトラーに対してへりくだった態度をとっていたから。なーるほど、そういうこともあるのですね。
 ヒトラーは、「アーリア人」の厳密な定義づけをむしろ避けた。「アーリア人」とは、「ユダヤ人」とは正反対の存在だと定義するだけだった。人間は、そんなに簡単に定義づけられるものではないということです。
 親衛隊の隊員は優秀な人種から選抜されるということだったが、ナチスの医師の多くは「人種検査」を行う能力も動機も欠いていた。「人種検査」は客観的と称していたが、実際は恣意的なものだった。
親衛隊は「エリート集団」のはずだったが、実際にはそうではなかった。隊員の出身の多様性は特徴的だった。
 ヒトラーの無二の友人だったエーミール・モリスは、曾祖父がユダヤ人だったが、「名誉アーリア人」として親衛隊に迎え入れられた。
親衛隊員は、自分たちの残忍性を隠すべきこととは思っていなかった。
国防軍の将校になるために必要だったアビトゥーア(大学進学資格試験)は親衛隊の将校には不要だった。
武装親衛隊の「英雄行為」は、軍事上で見込みのない戦争を長引かせた、だけだった。
 ユダヤ人大量殺害に手を染めた親衛隊は、心を病んでいった。彼らの目は、海底に横たわって死んでいるタイの目に生き写しだ。彼らの人生は終わった。これで育成される部下は、神経病者か荒くれ者だ。
 戦争を生きのびた親衛隊は武装隊員で60万人、一般隊員でも15万人もいた。
 1963年から1965年まで続いたアウシュヴィッツ裁判では、刑は軽かったが、アウシュヴィッツ収容所の実態を広く世界に知らせたという点で大きな意義があった。そうなんですね、広く知られてはいなかったわけです。まあ、想像を絶する残酷な世界だったわけですから…。
 ナチ親衛隊(SS)の実像を手軽に読んで知ることのできる新書です。戦争が起きると、こんなひどいことがまかり通るのですね…。日本も、自民・公明政権がどんどん戦争準備をすすめていて、かえって戦争を招こうとしているのですが、本当に心配です。軍備増強より教育・福祉を充実させましょう。
(2024年4月刊。1100円)

回想録

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 山本 康幸 、 出版 弘文堂
 内閣法制局長官から最高裁判事になった著者が自分の人生を振り返っています。
 著者は団塊世代の生まれで、私より1学年だけ下になります。東大入試が中止になったので、京都大学に入ったという経歴です。息子は無事に東大法学部を卒業して、東京で大企業を扱うビジネスローヤーとして活躍中のようです。
 著者の父親は銀行員だったので、転勤族とのこと。新しい学校に行くと、「おまえのしゃべるのはラジオの言葉だ、生意気だ」と、猛烈ないじめにあったそうです。神戸から敦賀に小学2年生のときに転校したときです。いじめのため待ち伏せされたりしたそうです。それで、通学路を毎日変えたり、相手の裏をかいて校舎にかけ込んだり…。あらゆる手練手管で必死に対抗。おかげで、不条理なものへの反発心、状況を読む力、作戦の構想力、忍耐力と交渉力を人並み以上に身につけた。
 なーるほど、災いを転じて福としたのですね、立派です。
 そして、こんな田舎での生活ではなくて、東京へ出て、もっと大きな世界で羽ばたこうと決意したのでした。
 私も、いじめは受けていませんが、ぜひ東京に出てやろうと考えていました。東京に行ったら、大きく世界が広がるはずだと考えたのです。そして、それは、たしかにそうでした。
 著者は幼年期に小児結核にかかったこともあって、外での運動ではなく、家にいて本を読む習慣が身についたとのこと。
 私も小学生以来、ともかく本を読んできました。図書館には、よく行きました。
 中学生のとき、印象深いのは、山岡壮八の『徳川家康』です。これは、本当に読みふけりました。高校生のときは、図書館で、古典文学体系、つまり古文の原書に体あたりしました。もちろん、注釈に頼っての読書です。それでも、原典にあたっていると、試験問題で断片が切り取られての設問でも、断然有利でした。中学3年生のとき、著者は名古屋市内で1クラス55人で、17クラスあったそうです。私は1クラス50人以上で13クラスあったと思います。1年生のときは増設されたプレハブ教室でした。
 著者は名古屋の名門高校(県立旭丘高校)に入学して、中学生のときの丸暗記勉強法が通用しないことを自覚したとのこと。私は丸暗記勉強法というのは、やったことがありません。
 高校では、数学、物理、化学が不得意だったそうです。私は、物理も化学も好きでしたが、数学が出来ませんでした。いちおう数Ⅲまでは勉強して分かったのですが、座標軸をつかったり、図形問題になると、思考できなくなるのです。「大学への数学」という雑誌も少しかじってみたのですが、私には数学的才能はないと自覚して、高校2年生の終わる春休みに理系志望を文系志望に変えました。そして長兄にならって東大文Ⅰ一本槍です。塾も予備校も行かず、Z会の通信添削だけでがんばりました。
 著者は官僚の世界に入って、たちまち頭角をあらわします。私も官僚志向でしたが、官僚にならなくて本当に良かったと今では思っています。
 この本には、著者の先輩の官僚が週に3時間しかとれなかったという話が紹介されています。私には絶対無理ですし、そんなことはしたくありません。私の同期の弁護士(五大事務所のパートナー弁護士になりました)も、同じような状況を経験したそうですが、これまた私は、ご免こうむります。
 ただ、著者は、おかげで文章を書くのが早くなったし、仕事を片付けるコツを身につけたそうです。それは私と同じです。
 いろいろ参考になることも多い本でした(子育てはマネできませんでしたが…)。
(2024年2月刊。3400円+税)
 このコーナーで紹介した岩泉ヨーグルトを天神の「みちのくプラザ」で見つけて買ってきました。普通のヨーグルトと違って、まったく水っぽくありません。プリンほどではありませんが、ヨーグルトの固まりになっていて、食べると、コクがあって舌ざわりも滑らかです。
 庭になっているブルーベリーと一緒に美味しくいただきました。腸内細菌を活性化させ、腸の調子が良くなった気がしました。

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