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2024年7月 の投稿

東大寺大仏になった銅、長登銅山跡

カテゴリー:日本史(奈良)

(霧山昴)
著者 池田義文 、 出版 新泉社
 1988年2月、奈良の東大寺の発掘調査の結果、大仏をつくった銅に、山口県美祢市にある長登(ながのぼり)銅山産の銅がわれていることが判明し、大きなニュースとなった。
 東大寺大仏をつくるのに使われた銅は500トン近い(496トン)。その銅は長登銅山の産だけではないだろう。
 しかし、大仏の近くの奈良時代の地層から発掘された銅のカタマリは、長登銅山、跡から出土したカラミ(製錬時に出るカス、鉱滓、金クソ)と比較し、砒素(ひそ)の含有率が高く、銀を多く含み、鉛同位対比の値が近いことから、同じ産地だと特定された。
この長登銅山には、古くから「奈良の大仏の銅を産出した」という伝説があった。しかし、他に確証はなく、単なる伝説とされてきた。長登銅山の古代の採鉱跡には露天堀跡がある。
 鍾乳洞の空間を利用した坑道では、照明のため、煙の少ないヒノキ材を束にして松明(たいまつ)としていた。
 銅鉱石は炉に入れて木炭とともに燃焼させて溶かし、金属としての銅を取り出した。
 製錬の過程で、大量の木炭を消費する。一般には「白炭」と「黒炭」があった。白炭は焼成途中で、木炭をかき出し、砂などをかけて消した硬い生焼けの炭。炭素の残存量がなく、持続力に優れている。黒炭のほうは、古代には「和炭」(ニコズミ)と呼ばれ、軟質で着火力に優れていた。
 長登銅山跡から831点の木簡が出土している。この出土した木簡から88人もの逃亡者がいたことが判明した。
 銅製練の現場には匠丁(しょうてい。工人、技術者)を中心として、役夫や仕丁、雑徭(ぞうよう)などの力仕事に動員された人々がグループで作業していた。銅を都まで運んだのは、駄馬10頭で、103キロの銅。
 山口県にある銅山の話です。やはり、こうやって、判明したことを活字にすると、みんながもう一歩深く認識できます。
(2024年2月刊。1700円+税)

イーグル・クロー作戦

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ジャスティン・ウィリアムソン 、 出版 鳥影社
 1979年11月、イスラム革命の真っ只中にいたイラン国民は、その怒りの矛先をテヘランのアメリカ大使館に向けた。
 アメリカは、それまで何十年もイランとは友好的な関係にあった。しかし、イスラム革命によって、パーレビ国王を追放したイラン革命は、ホメイニー師が帰国してクライマックスを迎えた。イランを脱出したパーレビ国王は、病気治療名目でアメリカに入国することができた。そのことでイラン国民のアメリカへの怒りは頂点に達した。
 1979年11月4日、アメリカ大使館がイラン人に古拠され、66人のアメリカ人が人質となった。アメリカは直ちに人質救出作戦を立案した。そして、アメリカの砂漠で救出訓練を開始した。1980年4月24日、アメリカ軍の救出部隊がイーグル・クロー作戦を開始した。
 しかし、ヘリコプターの1機が機械的不具合で不時着し、作戦から離脱。ハブーブ(砂嵐)のため、ヘリコプターの操縦士たちは空間識失調となった。そして、アメリカのヘリコプター同士が接触して炎上した。アメリカ軍将兵が現場から離脱するに際して、ヘリコプターを破壊する余裕はなかったので、すべての情報が置き去りにされた。ジミー・カーター大統領は4月25日の朝、国民に対して救出作戦の失敗を報告した。
 その結果、カーター大統領の支持率は60%から30%未満へと急落した。
 この救出作戦には沖縄を拠点とする第1特殊作戦飛行隊も参加していた。そのことを知って沖縄と日本でアメリカ軍基地への反対運動が強まった。
 アメリカ人の人質は1979年11月17日にまず13人が、そして1981年1月20日に残る52人が解放された。444日間も拘束されていた。
 失敗した救出作戦のとき、8人のアメリカ兵が死亡した。
 この作戦が失敗した要因の一つは、情報の漏洩を警戒しすぎたこと、敵を欺騙することを優先させたことから、ヘリコプターの安全確認が十分できず、友好国の特殊部隊からの支援を受けられず、結果として、全部隊をまとまりのある組織につくり上げることができなかったことにある。
 アメリカは、ベトナム戦争のときにもハノイにある捕虜収容所からの救出作戦にも失敗しています。それほど、救出作戦って、難しいのですね…。
(2024年2月刊。2200円)

エチオピアの季節

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 ヴァンサン・ドゥフェ 、 カリム・ルブール 、 出版 花伝社
 マンガ(レオ・トリニダード絵)によってエチオピアの現実、その光と影がよく分かります。
 国境なき記者団による報道の自由度において、エチオピアは180ヶ国のうち最下位の143位。日本もNHKの現状など、ひどいものだと思いますが…。
 中国はアフリカに大変な勢いで進出していて、エチオピアも例外ではない。中国はアフリカから原材料を運び出し、逆に中国製品を大量にアフリカに運び込んでいる。中国人はエチオピアの首都アジスアベバの街中に高速道路をつくった。
エチオピアは、ものすごいスピードで変わっている。
 エチオピアのメリットは、トラブルの多い地域のなかで、唯一安定していること。隣国のエリトリアはエチオピアと潜在的戦争状態にあり、アフリカ版「北朝鮮」とされている。
 エチオピア政権は、批判の封じ込めを経済発展にかけている。
 エチオピアの出稼ぎ労働者の大半は、中東かアフリカの他の国へ行く。そして若者はヨーロッパを目ざす。エチオピアのたくさんの人々が出国したがっているが、他方、アフリカの角から多くの難民を受け入れている。
 エチオピアは海に面していないので、たいていの輸入品は、ジブチから800キロ、トラックで運ばれてくる。
 2019年のノーベル平和賞はエチオピアのアビィ・アハメドが受賞した。エリトリアとの和平を実現したことによる。ところが、まもなくアビィ・アハメドは変身し、強硬策に転じた。2020年11月のこと。
 中国はエチオピアの借金の半分を握っている。中国はエチオピアを「伝存関係」に引きずり込んだとみられている。 「債務のわな」だ。それでも、中国経済の低迷もあって、中国のアフリカ全体への融資額は2016年にピークの285億ドルで、2022年には3割ほどの9億9千万ドルに激減した。
 2016年にエチオピアには13万人の中国人がいた。日本人はわずか200人。
 2000年から2010年までの10年間で100万人の中国人がアフリカに移住した。
 エチオピアの様子を初めて少し詳しく知りました。
(2024年3月刊。1800円+税)
 今年、わが家の庭はブルーベリーが大豊作です。梅の実はさっぱり採れませんでしたが、ブルーベリーは次から次に実が黒く色づきます。かの岩泉ヨーグルトにたっぷり入れて、美味しく味わっています。
 人間ドッグに入ったら、医師から「やせなさい」と3回も言われてしまいました。糖質制限しろというのです。野菜中心の食生活をしているつもりなのですが、もっと野菜を食べなくてはいけないようです。

三井大坂両替店

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 萬代 悠 、 出版 中公新書
 私の住む街は明治時代から三井の「城下町」として歩んできました。まさしく三井が君臨していたのです。反対派は三井が飼い慣らしていた暴力団に脅されることもありました。
 三井系企業が集まる会合によって市政の方向が決まり、市議会にも三井を代表する人物が送り込まれていました。
 この本は三井銀行の前身、三井大坂(江戸時代は大阪とは言いません)両替店(「りょうがえだな」と読みます)の内情を当時の資料をもとに詳しく明らかにしています。
 この三井大坂両替店の当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。
 大坂町奉行所が受理した訴訟(民事訴訟)は、18世紀前半に1万件だったが、18世紀末に2万件に達した。刑事事件で奉行所から入牢を命じられた者は18世紀末には年間400~500人いた。
三井は呉服業と両替業を主力事業とし、1730年代前半には、京都・江戸・大坂における呉服店の奉公人は合計473人、両替店には51人いた。
 鴻池屋と加島屋は大名相手に金貸し業をしていて、民間を相手にしなかった。これに対して、三井大坂両替店は家法で大名への直接融資が原則として禁止されていたこともあり、民間を相手とし、小口取引もおこなっていた。商人の運転賃金需要に対応するもので、業態としては商業金融。
三井は預かった幕府公金を融資に回して莫大な利益を得た。これは送金業務の完遂を条件として黙認されたもので、幕府公金を期日までに江戸に送金することが最優先だった。
 大坂から江戸へは為替(かわせ)手形で送金した。現金を輸送することはなかった。18世紀中頃にこの方法が広く普及した。現金輸送は盗難の危険をともなったからである。
 為替手形の売買には、為替本替を間にはさんだ。ここが大坂商人の信用調査をした。
 万一、不渡りとなったとき、大坂町奉行所は一般的な給付訴訟よりも20日も早く、発行者(売却者)に返済命令を下した。今日と同じように手形訴訟の特例があったというわけです。
 集団生活に不適格な奉公人には退職を促し、長く勤務した適格者には高給で報いる昇給制度を三井はとっていた。つまり、奉公人を定着させたいが、不適格な奉公人は淘汰し、重役になるような勤勉な奉公人は残したいというのが、三井の人材育成方針だった。
三井大坂両替店には顧客の信用度を調査する「聴合(ききあわせ)」業務があった。
 これを原則として20代の若手の手代だった。その結果の信用調査書を「聴合(ききあわせ)帳」という。若手の手代が役づき手代に顧客の信用情報を報告する形態がとられていた。
 耐火性の高い土蔵は大きな価値があるとみられており、土蔵の有無と、その状態に気を配っている。顧客の人柄については、「実体(じってい)」が重視された。真面目で正直なこと、つまり誠実な人柄であることがもっとも望ましい。素行が悪いと判定されたりして借入を断られた顧客は、他の金利の高い金貸し業者に借入を希望し、そこでもダメなときには、場末の高利貸ししか借りるところはなかった。
 ただし、そもそも信用調査の対象外とされた人々もいた。三井の関連の人々や豪商や豪農たちだ。
 しかし、経営を拡大するためには、「見ず知らず」の顧客とも契約する必要があり、そのときには信用調査は欠かせない。
三井銀行が日本最初の私立銀行として開業したのは明治9(1876)年のこと。
 すごいことですよね、町人の信用調査の結果を書いた書面が残っているというのは…。
(2024年3月刊。1100円)
 先日受験したフランス語検定試験(1級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格でしたが、問題は点数です。64点でした。150点満点ですから、4割になります。
 「目指せ4割」と言っていましたので、それは突破しましたが、実は自己採点は74点だったのです。なんという「自己甘」でしょうか、トホホ…です。これは作文とか日本文で答えるところの主観と客観の違いです。
 まあ、それでもボケ防止のつもりで、引き続きがんばります。

日ソ戦争

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 麻田 雅文 、 出版 中公新書
 ソ連が日本敗戦の直前に突如として満州に侵攻してきたことを卑怯だという日本人が今なお少なくありません。でも、それはアメリカが願っていたことであり、アメリカはソ連の日本侵攻のために莫大な物資(トラックや兵器、ガソリンなど)を無償で提供していたのです。ソ連のスターリンは何度もアメリカの軍需援助を求め、アメリカはそれに応じていました。なぜか…。アメリカ兵の死傷者を少しでも減らしたかったからです。アメリカ軍は日本本土に侵攻したら、100万人のアメリカ兵が死傷すると予測していました。実際には、「捨て石」にされた沖縄の犠牲の下、本土決戦はなかったので、「100万人」どころか本土では死者が「ゼロ」だったわけです。(「ゼロ」というのは、本土決戦によるものとしては、というだけです)。
 この本を読んで驚いたのは、スターリンは、日本が無条件降伏しても、すぐにドイツのように軍事強国として日本はよみがえるだろうと予測していたというところです。一般のソ連国民にとって、ナチス・ドイツからは大勢の近親者を殺されたことから発奮したが、4年も中立を守った日本が相手では切迫感がなく、日ソ戦争はソ連国民が奮り立つ戦争ではなかった。ソ連国民は厭戦(えんせん)気分にあった。そこで、スターリンはソ連国民の士気を鼓舞するため日露戦争で敗れた復讐に見せるよう演出した。
スターリンは日本の復讐を恐れて4つの手を打った。第1は、日本の民主化の推進、第2は対日同盟網の構築、第3に南樺太(カラフト)と千島列島の併合、第4に元日本兵のシベリア抑留。
スターリンは北海道を占領しようとしたのをアメリカに阻止されたことからシベリア抑留を始めたという説がありますが、それはないと私は考えています。ソ連は独ソ戦で2700万人もの国民を失って、労働力が不足していたのです。荒れ果てた国土の復興にドイツ兵捕虜を使いはじめ、それに味をしめて日本兵も使いはじめたというのが、もっともありうるところだと私は思います。
 ただ、そのとき、ポーランドの将校3万人をスターリンのソ連軍が虐殺した「カチンの森事件」のように、元日本兵の将校たちも抹殺される危険があったのです。スターリンがその気にならなかったのは幸いでした。まあ、それほど、復興のニーズが差し迫っていたのでしょう。
 スターリンは満州にあった工場の機械やあらゆる機材をソ連領に運び去りました。そして、この本では、武器は中国共産党に渡したとされていますが、実はスターリンは中国共産党を信用しておらず、むしろ蔣介石の国民党を信頼して、武器もこちらに渡そうとしていたのです。ところが、腐敗した国民党軍がやる気もなくモタモタしているうちに、ハツラツとした中国共産党軍(「八路」、パーロ)が先に「満州」を占領してしまったことから、日本軍の武器の大半は八路軍(パーロ)に渡ったということです。
 大変興味深い内容で一杯の新書でした。
(2024年5月刊。980円+税)

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