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2024年6月 の投稿

のむら美術館・収蔵品集

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 のむら美術館 、 出版 左同
 のむら美術館があるのは、山口市。県庁の北側には、香山公園、そして有名な瑠璃光寺五重塔、さらに臨済宗洞春寺がありますが、この洞春寺の境内に美術館があります。
この洞春寺は、毛利家の菩提寺(ぼだいじ)でもある。
 山口市内で酒造業を営んでいた野村益治が私財を投じて古美術品を収集していた書・画・茶道具などが展示されている。幕末から維新にかけて活躍していた桂小五郎(のちの木戸孝允)、三条実美(さねとみ)、伊藤博文、山縣有朋、などの書・書簡文、また雪舟、伊藤若沖、円山応瑞、などの絵、さらには足利時代の芦屋釜、抹茶・煎茶の茶道具なども展示されている。
 この収蔵品集をめくっていくと、これらの傑作に紙上で対面できます。すごいものです。雪舟の鍾馗(しょうき)さんはさすがの迫力です。
 そして、伊藤若沖の鶏国は、今にも動き出さんばかりの躍動感があふれています。
 頼(らい)山陽の「墨作」も見事なものです。
 伊藤博文も山縣有朋もしっかりした書跡の「書」があります。こんなときに本名は書きませんから、分かる人ぞ分かるという書になっています。
そして、香炉もすごいのです。鍋島青磁などは何回みてもほれぼれさせられます。ともかく、色あいがいいのです。
 芦屋釜なども、色も形も実にさまざまです。
現在の代表理事は横浜で活動している野村和造弁護士。常時開館ではないので、予約が必要。ぜひ行ってみたいと思います。
 代表理事の野村弁護士は大学も弁護修習も私と同期でした。大学時代には学生セツルメント活動をしていたことも共通しています。
 貴重な文芸品等を維持するのは大変なことだと推察します。
(2018年4月刊。非売品)

密航のち洗濯

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 宋恵媛・望月優太 、 出版 柏書房
 戦後(1946年)、尹紫遠は朝鮮から日本へ密航し、東京(中目黒当たり)で洗濯屋「徳永ランドリー」を営んだ。日本人の妻と結婚して子ども3人をもうけた。そして自伝的要素の色濃い作品を書き続けた。文筆では食べられないので、洗濯屋をした。
 1964年9月、53歳で無名のまま亡くなった。ところが、2022年になって、生前に書き続けていた日記が出版され、にわかに脚光を浴びた。
 植民地期に日本にやってきた在日朝鮮人一世が日本語で書いた日記はきわめて珍しく貴重なものとして注目された。
 この本は、2人の子どもの協力も得て、日記に登場してくる場所をたどったりして、当時の社会状況を明らかにしています。
 1946年の来日は、韓国の蔚山(うるさん)からの密航。沿岸警備隊に発見されないよう深夜に出港。小さな船に30数人の朝鮮人が乗っていた。このとき、洋上を飛びまわって監視している飛行機はアメリカではなく、イギリス連邦占領軍。つまり、イギリスやオーストラリア、ニュージーランドなど。
このころ、日本人が海外から大量に帰国していた。そのなかで、コレラが発生した。検疫のため、14日間上陸地にとどめおかれ、何事もなければ日本人は上陸を許され、朝鮮人は強制送還される。
 尹紫達は東京で生まれ育ったが、徴用を恐れて朝鮮に渡ったのだった。
 佐世保におけるコレラ患者の死亡率は日本人26.8%、朝鮮人32.6%。
 佐世保での死亡者27人のうち半数の死因はコレラで、残りの半数も栄養失調や急性大腸炎。幼い子どもたちの栄養失調死が目立つ。
 尹紫遠は、東京に戻ってから1年あまり、夕刊紙「国際タイムス」の準社員として働き、月給をもらった。
 日本人の妻・登志子と結婚したあと洗濯屋を開業した。妻の登志子は満州に渡っていたが、戦後、なんとか日本に帰国できた。裕福な家庭の令嬢として育ってきたが、朝鮮人と結婚するということで、実家とは断絶の関係となった。そして、尹紫遠と結婚したことから、登志子もまた朝鮮人とみなされた。
子どもは、両親の夫婦げんかが聞くに耐えなかったという。父親は「日本人の女が・・・」と言い、母親は「朝鮮人は・・・」と言って、ののしりあうのが嫌でたまらなかった。
「やっぱりブルジョアジー崩れの女はダメだ。おれの敵だ」と日記に書いたのでした。
息子は、日本の会社には入れないと分かっていたので、外資系の企業に入った。
このあと、逆転劇がありました。尹紫遠は「金さん」と結婚していて、そのままになっていたので、登志子の結婚は「重婚」ということになり、認められない。すると、登志子は初めから今までずっと「日本人」戸籍のままだったということになる。そこで、登志子たちは日本人であることが改めて確認されたのでした。
「日記」に書かれていることの大半は、お金の心配と妻登志子の悪口。拍子抜けしてしまうとのこと。
戦後日本における在日朝鮮人の生活状況を知ることができました。
(2023年3月刊。1800円+税)

ハルビン

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 キム・フン 、 出版 新潮クレストブックス
 伊藤博文をハルビン駅のホームに待ち構えていて射殺した朝鮮人の安重根を描いた歴史小説です。韓国で33万部も読まれたベストセラーでもあります。安重根は朝鮮では知らぬ人はいないほどの英雄です。
 小説とはいえ、ほとんど史実に則しています。それで、ハルビン駅の警戒の緩さが日本側に原因があったことを知りました。
 当時、ハルビンはロシアの統制下にあり、ロシア警察庁は日本総領事に事前入場券の発行を提案した。しかし、日本側は、すべての日本が自由に入場できるようにしてほしいとして断った。たしかに、ハルビン在住の日本人は大勢がハルビン駅に歓迎のために参集したようです。そして、日本人も朝鮮人も外見からは識別できませんので、日本人の間に朝鮮人が紛れ込むのは容易でした。さらに、駅に入る人の所持品検査はしなかったのです。
ハルビン駅に伊藤博文が来ることは新聞が事前に報道していた。しかし、到着時刻までは書いていない。そこで、安重根の仲間がロシア人の駅員にロシア語で話しかけて聞き出した。
あとは安重根がハルビン駅にたどり着けるか、拳銃に弾(たま)は何発あるかです。
安重根は拳銃の弾を伊藤博文に3発命中させたようです。そして、伊藤博文のそばにいた日本人3人をうち、弾が1発だけ残りました。
ハルビン駅はロシアの管轄区域だけど、犯人の安重根が韓国市民であるため、この事件の裁判権はロシアに属さないとロシア司法裁判所は決定した。
そして、ロシア憲兵隊は安重根をハルビン駐在の日本総領事館に引き渡した。安重根は領事館の地下の拘置所に入れられた。
安重根は死刑宣告を受けたあと、上訴権放棄をして死刑を早々に確定させました。それからの安重根は大忙しだったようです。自分の一代記まで書いています。たいしたものです。
安重根は1910年3月26日、処刑された。31歳だった。
安重根の遺体は現在まで所在不明のままで、発見されていない。
韓国カトリック教会は、1993年8月に安重根の行為は「正当防衛」であり、国権回復のための戦争遂行行為として妥当だったとしました。
(2024年4月刊。2150円+税)

戦後憲法史と並走して

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 樋口 陽一 、 出版 岩波書店
 憲法学をかじった人ならだれでも知っている著者が自らの来し方を語った本です。なので、とても読みやすくなっていて、堅苦しさがありません。
 東北大学を卒業し、東北大学で憲法学の教授をしていて、1980年に東京大学法学部に移りました。
 東大での樋口ゼミは人気があったので、ゼミ生20人を選ぶのに「優」をとっていることのほか、「仏独2ヶ国語」をとっているのが条件だったとのこと。これにはまいりました。私は「優」もありませんでしたが、「仏独2ヶ国語」だなんて、とんでもない高いハードルです。それでもきっと、毎年、そのレベルの人がいたのでしょうね。さすが東大、恐るべしです。
 ゼミは時間厳守。その心は、全員が学者になるわけじゃない。社会に出ていって必要なことは、自分の言いたい大事なことを、他人(ひと)の話を聞きながら頭に入れて、そして短い時間で人に伝えるということ。なので、時間が厳守すべきだ、ということです。なるほど、大事なことですね・・・。
 私は本郷で民法を星野英一と平井宜雄の2人から教わりました。といっても25番か31番か、大教室で必死でノートを取ったというだけです。著者は民法の星野英一が、安倍・自民党の改憲策動に危機意識をもって、動こうとしていたというのです。驚きました。これは、同じく民法学の我妻栄が憲法問題研究会に加わり声を上げていたことにならったものと評しています。てっきり、官側の「御用学者」みたいに思っていた星野英一ですが、すっかり見直しました。
 ちなみに、我妻栄は亡父が法政大学で講義を聴いていたと話していましたが、私自身もその「ダットサン」を6回読んで、民法をマスターしたつもりになりました。我妻栄は穂積重達とともに戦前の帝大セツルメントを最後まで支えた一人でもありました(私も戦後のセツラーの一人です)。
 樋口憲法学の学問的特質は、主権と人権の間を橋渡ししたということで、これは革新的だったとのこと。主権を権力の実体とみるか、それとも正当性の所在とみるかの対立があった。国民主権の貫徹というかたちで主張されてきたところの実践的要求は、権力に対抗する人権という観念によっておこなうべきではないかというもの。
 主権をもっぱら正当性の根拠に一元化した樋口説は、「国民主権の貫徹」という形で当時熱っぽく主張されていた実践的要求を引きとるべき受け皿として、ほかならぬ「人権」を選んだということ・・・。
 なんやら、深遠な議論のようで、ちょっと私には正直なところついていけません。
 井上ひさしと同級生だったというのも奇遇ですが、まだまだ元気でご活躍されることを心から祈念しています。
(2024年2月刊。2300円+税)

中村哲さん殺害事件、実行犯の遺言

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 乗京 真知 、 出版 朝日新聞出版
 2019年12月4日午前8時すぎ、アフガニスタンにおいて中村哲さんは出勤途上で銃撃され、護衛の警察官ともども殺害されました。この本は、この殺害状況を詳しく明らかにすると同時に、殺害犯人たちの素性を突きとめようとしています。
 この本を読んで浮かんだ私の疑問は2つ。その一つは、「犯人」は中村哲さんを殺す気はなかった、誘拐するつもりだったといいますが、銃撃状況は最初から全員を殺害するつもりだったとしか考えられません。護衛の警官はみな反撃するまもなく殺害されていますが、それは四方から一度に銃撃されたため、どの方向に反撃していいか分からなかっただろうとされているのです。誘拐なら、威嚇射撃をして、抵抗を抑圧して交渉に入るはずですが、そんなことはなく、「犯人」たちは四方から一斉に銃撃しています。
 また、その二は「犯人」の黒幕はパキスタン政府だという説が紹介されていますが、これまた本当なのでしょうか。クナール川の水をアフガニスタン側に導水したことをパキスタン政府は苦々しく思っていたというのです。それが中村哲さんを殺害する動機になるのか、私にはいささか疑問です。
 中村哲さんの出勤路はいつも決まっていたようです。近くの太い通りは、朝は一方通行になっていて通れず、別のルートは遠まわりになってしまうのです。
犯行グループは、通りに先回りしている待ち伏せ班と、待ち伏せ班の目の前に中村医師の車列が止まるよう進路をふさぐ白いカローラに乗った班と2手に分かれていた。彼らは、単なる強盗(犯罪)集団ではなく、計画的に中村哲さんを狙った。
 護衛たちは、反撃するまもなく、全員が撃たれた。四方から銃弾が飛んできたので、どこに撃ち返したらよいか分からないまま次々に殺害されてしまった。
そして、中村哲さんが、銃撃のあと、ふっと頭を上げ、左右を見渡した。それを見た「犯人」の1人の若い男が「日本人が生きている」と声を上げたので、それを聞いた自動小銃の男が四駆のフロントガラス越しに3発、中村哲さんに向けて弾を撃ち込んだ。
 そのあと、自動小銃の男は「全員死んだ。行くぞ」といって、中村さんの護衛人たちの銃を奪ったあと2台の車に分乗して現場から立ち去った。
 若い男は中村哲さんのことを「ジャパニ(日本人)」と呼んだから、標的が「日本人」であることを知っていたと思われる。
 この殺害現場の近く、50メートル先には、防犯カメラがあり、殺害前後の状況が残っている。防犯(監視)カメラは、アフガニスタンの田舎にもあるのですね・・・。
 中村哲さんを殺害したのは9人前後で、パシュトゥー語を話していた。
犯人の一人として疑われている人物がハズラット・アリ(57歳)という政治家です。クナール川流域における水や土地にからむ紛争にからんでいるそうです。
 主犯の一人と見なされたアミールは2021年1月に銃撃戦で死亡している。
 中村医師と同時に殺されたのは、運転手1人と護衛役の4人、計5人。護衛役の4人は、中村医師を守るために遠くから派遣されてきた警察官。
それにしても、中村哲さんを殺害するなんて、とんでもない馬鹿な男たちがいたものです。残念でなりません。私は中村哲さんが日本に帰ってきたとき、自宅のある大牟田で、JRの駅のホームに見かけたことがあります。日本は、中村哲さんのような平和的方法でこそ国際貢献をすべきだと思います。
(2024年2月刊。1600円+税)

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