法律相談センター検索 弁護士検索
2024年5月 の投稿

「チャップリンが日本を走った」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 千葉 伸夫 、 出版 青蛙房
 チャップリンは1932年5月に日本にやってきました。
5.15事件で首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害した青年将校たちは、首相官邸でのチャップリン歓迎会を襲撃する計画だったのですが、予定が変更となり、チャップリンは無事だったのです。本書も踏まえて少し詳しく紹介します。
 5月14日 アメリカから有名な俳優チャップリンが来日した。
 チャップリンの秘書は高野虎市(チャップリンからは「コーノ」と呼ばれていた)という日本人で、チャップリンはとても気に入っていて、チャップリンの邸宅の世話も日本人チームにまかせるほどだった。チャップリンは神戸から東京に向かった。昼12時25分に神戸発の特急列車「燕」に乗って東京入りする。夜9時20分に東京駅に着いたとき、チャップリンを一目でも見ようと4万人もの大群衆が東京駅の内外を取り囲んだ。入場券だけでも8000枚が発行されていて、警官300人が警備にあたった。
 これほどのチャップリンの大歓迎については、「暗い世相を吹き飛ばしたくて鬱屈(うっくつ)した民衆が起こした大嵐」だと評されている。
 このチャップリンを暗殺しようと考えた集団がいた。五・一五事件を起こした青年将校たちだ。日曜日(15日)夕方から首相官邸でチャップリン歓迎会が開催されると新聞で報じられた。そこを襲撃しようというのだ。その狙いは、第一に日本の支配階級が多数集まるだろうから、攻撃対象として最適だということ、第二にアメリカの有名俳優を攻撃することによって日米関係を困難なものにして人心の動揺を起こし、それによって革命の進展を促進することができる。青年将校たちは、そう考えた。ところが、来日する直前の報道でチャップリンは熱病にかかって入院し、来日が遅れるという。首相官邸を襲うのは警備の手薄な日曜日でなければいけない。それで、チャップリン歓迎会が15日に開かれないのなら、それはあきらめ、ともかく15日に首相官邸を襲撃することは変えないこととした。
チャップリンの予定はさらに変更になり、当初の予定どおり15日夕方から歓迎会を首相官邸で開くことになった。ところが、チャップリンの気が変わり、歓迎会は17日に先のばしにして、15日は国技館へ大相撲を見物に行くことになった。
 チャップリンは15日の午後から国技館へ大相撲を見に行った。そして、夜は銀座のカフェ-「サロン春」に行って楽しんだ。
 夕方5時半すぎ、首相官邸に青年将校たちが強引に押し入った。海軍の青年将校と陸軍士官学校の生徒から成る一団だ。陸軍の青年将校たちは、意見の相違から加わっていない。
 首相官邸にいた犬養首相の家族は異変に気がつくと、直ちに避難するように勧めた。この時点では、その可能性はあった。しかし、犬養首相は、「私は逃げない。そいつたちに会おう。会って話せば分かる」と言って、12畳の客間に入り、椅子に腰かけて軍人たちを待った。
 そこへ将校たち9人が入ってきて犬養首相を取り囲んだ。犬養首相が何か話そうとすると、将校の1人が「問答無用、撃て!」と叫んだ。立って卓に両手をついている犬養首相に向かって拳銃が発射された。しかも9発も…。犬養首相(78歳)はその場で死亡した(五・一五事件)。このとき、青年将校たちは同時に警視庁と政友会本部にも乱入している。
「話せば分かる」と言って将校たちと対話しようとした丸腰の首相に対して、軍人たちが「問答無用」と叫んで拳銃を乱射して殺害するというのは、あまりにむごい話です。
それにしても、五・一五事件のとき、チャップリンが狙われていたとは驚きです。
(1992年11月刊。2300円)

救援会小史(前編)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 日本国民救援会 、 出版 左同
 戦前の暗黒裁判の実情が明らかにされています。
 1932(昭和7)年の朝鮮共産党事件について、東京で活躍していた谷村直雄弁護士(故人)が紹介しています。
公判は、一人ずつの文字どおりの分離・暗黒(非公開)裁判。法廷は広い東京地裁の陪審法廷。地下監房から、法廷の床に設置された蓋板を押し上げて一人ずつ出てくる。被告人が分離・暗黒裁判に抗議すると、神垣秀介裁判長は即座に発言禁止を申し渡す。それでも被告人が発言を続けると、直ちに「退廷」を命じ、看守数人が有無を言わさず、地下監房へ連れ戻す。一人が1分もかからないほど、次々に「発言禁止」、「退廷」の連続。
 弁護人として、たまりかねて神垣裁判長に対して、「もっと裁判らしく進行されたい」と抗議すると、神垣裁判長は、怒気を含んでこう言った。
 「弁護人は、当裁判所が無慈悲で不親切だ、とでも言うのですか」
 そして、谷村弁護人が何か言うと、被告人に対してと同じく、「発言中止」とし、さらに「退廷」を命じた。
 この神垣判事は、意識的重刑主義というのであろうか、検事の求刑より重い判決を平気で言い渡すので有名だった。
 私は体験したことがありませんが、求刑より重い判決を言い渡す裁判官は今でもいます。しかし、神垣判事は治安維持法違反被告事件について、意識的に求刑以上の刑を言い渡していたのだと思います。「アカ」を撲滅するのが裁判所の使命だと心底から勘違いしていたのでしょう。
 古い冊子(新書版)を本棚の隅からひっぱり出してみました。貴重な記録になっています。
(1970年7月刊。250円)

「穂積重遠」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 大村 敦志 、 出版 ミネルヴァ書房
 NHKの朝ドラ「寅に翼」が話題を呼んでいますね。穂積重遠のモデルも登場していますが、穂積重遠は帝大セツルに深く関わっていました。
 東京帝大セツルは、1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のときに活躍した学生救護団を母体として、1928(昭和37)年に発足した。
 高名な東大教授である末弘厳太郎と穂積重遠教授が発足以来、関わっている。二人とも東京帝大法学部長を重任するほどの大物。
 セツルメントは、下層庶民社会の矛盾を法的紛争を通じてつかみうる貴重な観察と究明の場として設立が呼びかけられた。法学部生による法律相談部だけではなく、労働学校(講座)や幼児を対象とする活動なども展開した。
 法律相談部で扱うのは、借地借家事件をはじめとする民事相談が大部分を占める。
 セツルメントハウスのあるあたりは大雨が降ると道路と溝の区別がつかなくなるほど一面、水に覆われてしまうので危ない。雨が降ったときは両教授ともゴム長靴をはいてセツルメントハウスに通ったが、あまりの大雨のため途中で教授が引き返したということもある。
 法律相談の日は週に2回、夜にある。穂積教授が火曜日、我妻教授が金曜日と分担していた。
 法律相談に関わった学者には、川島武宜、舟橋諄一、杉之原舜一などの助教授たちもいる。また、学生セツラーのなかには、馬場義続(戦後、検事総長)など、官側で出世した人も少なくない。さらに、原嘉道弁護士や小野清一郎教授なども帝大セツルの顧問だった。
 宮内府や東京府・市そして三井報恩会からも帝大セツルは経済的に支援されていたが、これには穂積重遠男爵の関与が大きい。
 この柳島地区は、まさしく貧民衛であり、世帯の平均年収は、月に46円から42円、そして37円と、年々低下していった欠食児童や栄養不良児童も多い。お金に余裕がないため、毎日の飯米も1升買いする家庭が多い。男たちのほうは、3日に1度しか仕事にありつけないということもしばしばだった。
 セツルメント法律相談部は、①知識の分与と困難の救済、②生きた法の姿の認識、③事態の分析・整理・法律適用の実地演習を目標として掲げた。
 セツルメントの学生のなかには共産主義思想に共鳴する者も少なくなく、1931年7月、セツルメントハウスに「帝国主義戦争反対」と書いた大きな垂れ幕が掲げられた。
 そんなこともあって、セツルはアカではないか、アカの巣窟(そうくつ)になっているのではないかという、疑いの目で見る当局の目は厳しくなるばかりだった。
 1932年、鳩山一郎・法務大臣が自ら柳島のセツルメントハウスを非公式に訪問した。このときは穂積教授がつきっきりで案内した。また、1934年2月には我妻教授が妻とともにセツルメントを参観した。いずれも、セツルメントの「安全性」をアピールするためのものだった。
 ついに1938年5月、帝大セツルメントの責任者に警視庁特高部が出頭を命じ、安倍源基特高部長が直々に取り調べた。そして、同年4月、帝大セツルメントは閉鎖された。
 穂積教授は帝大セツルメントが解散したとき、セツラーとして活動してきた学生に向かって、「自分が上に立っていながら、潰してしまうとは、何とも申し訳ない」と頭を下げた。そして、「セツルメントは永久に生きている」と付け足した。
 閉鎖にあたって、法律相談部に保管されていた貴重な相談記録は、我妻教授の所有するダットサン(車)に積み込まれ、穂積邸に届けられた。今も、製本された記録が東大法学部の教授室に保管されている。
 私も戦後に再建された学生セツルメントのセツラーでした(川崎市幸区古市場)。
(2013年4月刊。3500円)

回想録

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 山本 庸幸 、 出版 弘文堂
 元内閣法制局長官で、最高裁判事もつとめた著者が、後任の長官に小松一郎元駐仏大使がなると聞かされたときの衝撃を赤裸々に描いています。
 著者は私より1学年だけ年下なのですが、1浪してしまったため、東大入試が中止となって、京大にまわったのでした。私も東大闘争(当事者の一人ですので、紛争とは呼びません)に関わったものとして、申し訳なく思いますが、決して私たちのせいではないと考えています。当時の政府の政治的判断なのです(実施しようと思えば実施できたと思います)。
 官房副長官から、「君には辞めてもらうことになっている」と申し渡されたのです。そこで、後任を尋ねると、「フランス大使の小松くんだ」と言われ、思わず「全身に鳥肌が立つような気がした」といいます。
 「官邸は、集団的自衛権を実現するために、この人事を考えたに違いない。かねてから最悪の事態として想定していた通り、いよいよ、来るものが来たということか・・・。ここが、まさに正念場だ」
 「私の交代劇は、大きな歴史の転換点となった」
 まさしく、そのとおりだったと私も考えています。
 「内閣法制局は、特に政界の左翼の人たちからは、とんでもない保守反動の右翼の権化のような組織と思われたもの」
 この点も、認識は一致しています。
 ところが、「内閣法制局は首尾一貫して同じ説明をしているにもかかわらず、いつの間にか、その立ち位置が、以前の右翼側から、気が付いてみると、真反対の左翼側へと動いてしまっていたのである。何という皮肉かと思った」
 これまた、認識は共通しています。
 「集団的自衛権は・・・要するに、他国から直接攻撃を受けなくとも、わが国の友好国を攻撃する国に対して、わが国が一方的に武力の行使をする、つまり戦争行為を行うことができることを意味する。これほどのことが、現行憲法九条の下で認められるとは、とても考えられないのである。どう理屈をこねても、憲法を改正しない限り、それはできないと言わざるをえない」
 いま、全国の裁判所で、安保法制が憲法違反であることを裁判所で認めてもらおうという裁判をすすめています。ところが、著者のこのような明確な認識は明らかに正しいにもかかわらず、裁判所はあれこれ言い逃れするばかりで真正面から憲法判断しません。本当にだらしない裁判官ばかりです。どこかに骨のある裁判官が一人くらいはいないものかと探し、待っているのですが、かなり絶望的です。
そんななかで、最高裁の裁判官就任の記者会見でも、著者は集団的自衛権は憲法に違反すると堂々と表明したというのです。偉いものです。こんな人がもう少し裁判所にいてほしいものです。
内閣法制局長官を経て最高裁判所の裁判官になってからも、それなりの筋を通したことがよく分かる回想録となっています。
(2024年2月刊。3400円+税)

「裁判官の良心」とはなにか

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 竹内 浩史 、 出版 LABO
 弁護士を16年間したあと、2003年4月から今も裁判官をつとめている著者が裁判所の内情をつぶさに明らかにしている本です。
 16年間の弁護士生活のなかでは市民オンブズマン活動にいそしみ、情報公開請求も取り組みました。そして青法協(青年法律家協会)の会員であり、愛知県支部の事務局長を5年間つとめました。
 裁判官になってからは、実名を出して「弁護士任官どどいつ」というブログを20年間続けています。裁判官が実名でSNS発信しているのは先日、不当にも罷免された岡口基一元判事と2人だけでした。もう1人だけ匿名で発信している若い裁判官がいるそうです。「駆け出し裁判官nonの裁判取説」です。
 著者が大分地裁につとめていたとき、村上正敏所長に呼びつけられ、ブログをしていることについて「査問」されたとのことです。この村上所長は、著者が異論を述べると、あとで「君は僕に口答えをしたね」と非難したというのです。まさしく官僚そのものの発想ですね。この所長は、その後、順当に出世していったとのこと。
 著者は民事裁判官としての「良心」は、第1に正直、第2に誠実、第3に勤勉だとしています。だから、裁判はとにかく早ければいいというものではないとしています。まったく同感です。なので、AIには裁判官の代わりはできないし、させるべきではありません。
 著者が弁護士任官で裁判所に入って驚いたことの一つは、裁判官同士の親類縁者が実に多いことを知ったことだといいます。そのうち、裁判官を目ざすのは親が裁判官だからという「家業」になってしまうんじゃないかと皮肉っています。それほど、裁判官の世界が窮屈になっているということです。
裁判で最も重要なのは、判決が正当なものであり、当事者の納得を得ているかどうかのはず。だから、裁判所で統計をとるとしたら、上訴率と判決の変更率のはず。ところが、これらは統計の対象とはされていない。ただし、私は地裁所長の裁判官評価において、この点は重視しているのではないかとみています。つまり、一審の裁判官がひどいと、控訴率は高くなるし、高裁で原判決の破棄が増えてくるからです。
現状の最高裁のひどさは私も実感しています。これは、保守的で狭量とさえいえる政治的な任命人事の結果もあって、最高裁は昭和時代へ先祖返りをしている。そして、弁護士出身の最高裁判事が今や第一東京弁護士会の超大企業顧問弁護士ばかりがほとんど独占していて、いつだって自公政権言いなりの判断しかしていない、このひどさも目に余ります。
 現職裁判官の熱血あふれる内部告発の本です。大いに共鳴しながら、最後まで一気に読み通しました。あなたもぜひご一読ください。
(2024年5月刊。2300円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.