弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年1月 8日

山岡鉄舟・高橋泥舟

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 岩下 哲典 、 出版 ミネルヴァ書房

私は、恥ずかしながら、「幕末三舟」というコトバ自体を知りませんでした。勝海舟はもちろん知っていますが、江戸城の無血開城を決めたのは西郷隆盛と勝海舟の二人ということになっていますが、実はその前に駿府会談というものがあり、西郷隆盛と対峙して重要なことを決めたのは山岡鉄舟だったというのです。著者は、世の中の人に、ぜひこのことを知ってほしいと声を大にして叫んでいます。
 「幕末三舟」は、3人とも旗本(幕臣)。鉄舟と泥舟は義理の兄弟。鉄舟の妻英子(ふさこ)は、泥舟の実妹。海舟は、鉄舟・泥舟とは婚姻関係はないが、お互いよく知っていていわば「戦友」。
 明治に入って、海舟は海軍卿や枢密院顧問をつとめた。泥舟は明治に入ってから、どこにも仕官しなかった。しかし、幕末のころは尊攘派幕臣として、泥舟はもっとも有名だった。
 徳川慶喜は、「大政奉還」しても、相変わらず自らが政権を担当するつもりだった。諸侯と朝廷の間を取りもつ役割を果たすつもりだった。諸侯会議を主宰するべく、側近に西洋の政治制度を学ばせて準備もしていた。ところが、鳥羽伏見の戦いに敗れてしまって、その目論見が外れた。
 泥舟は大阪から逃げて江戸城に帰ってきた慶喜に対して、江戸城を出て上野の寛永寺に退去することを献策し、その道中を護衛した。
 慶喜は泥舟をもっとも信頼していた。中奥に泥舟がいて、大奥には天璋院と和宮、表には勝海舟がいた。泥舟は慶喜の周囲にいた実行部隊の最高指揮官だった。泥舟は慶喜に駿府行きは鉄舟に命じるよう進言した。鉄舟は海舟宅にいた薩摩藩土の益満休之助とともに駿府城に出かけ、そこで西郷隆盛と会談した。
 西郷隆盛に対して、鉄舟は江戸を武力制圧することの愚かさを説いた。
 隆盛は、それを受けて5条件を示した。そのなかの一つ、慶喜の身柄を岡山池田藩お預けにするということは断乎として拒否、そのほかは応じたので、江戸城無血開城が決まった。
 江戸城での勝海舟と西郷隆盛との対談は、駿府会談の延長線上にあるもの。江戸城会談で初めて話し合いがなされたのではない。
 あとで、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊が官軍と戦闘した上野戦争について、慶喜たちは、せっかくの講和・無血開城がフイになると心配したようです。
 この上野戦争については、佐賀藩のアームストロング砲という最新式の大砲が大活躍しましたが、西郷隆盛の周到な準備があったから官軍は早期に完勝したと著者は強調しています。
 鉄舟は明治天皇の側近となったが、53歳のとき病死した。
 海舟だけでなく、鉄舟そして泥舟という「幕末三舟」の活躍を知ることができました。
(2023年8月刊。2800円+税)

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