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2024年1月 の投稿

賃金の日本史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高島 正憲 、 出版 吉川弘文館
 かつては、近世の百姓は厳しい年貢の取立てや飢饉(ききん)にさいなまれ、貧困にあえぐばかりだったという貧農史観が支配的だった。私も、すっかり信じ込んでいました。ところが、この20年から30年のあいだに、そのイメージは大きく修正されている。百姓たちは旺盛な消費意欲をもって、主体的により良い生活を求めて行動していたのだ。
 百姓一揆もその典型です。たとえば理不尽な領地替えは許さないという考えから、大規模な一揆を発動しました。ぜひ藤沢周平の『義民が駆ける』(中公文庫)を読んでみてください。
 天保の改革で有名な老中水野忠邦(ただくに)による三方国替(くにが)えに対して、羽州荘内の領民は「百姓たりといえども二君に仕えず」という幟(のぼり)を掲げて大挙して江戸に上って幕閣に強訴を敢行しました。そして、ついに将軍裁可を覆し、国替えをやめさせて藩主を守り抜いたのです。しかも、目的達成した百姓たちの処罰では、打ち首とか処刑(死刑)はありませんでした。それほど百姓たちは藩当局を圧倒していたのです。
 正倉院文書には、写経生が写経所に提出した借金証文「月借(げっしゃく)銭解(せんげ)」が100通ほど残っているそうです。このころ、借金の利子は月13%でした。
都市の活性化は、さまざまな職業を生み出した。そのなかには、今となっては想像しにくい、珍しいものも多数あった。その一つが、猫の蚤(のみ)取り。文字どおり猫に寄生する蚤を取り除く仕事。その方法は、狼などの獣の皮を猫にかぶせ、そこに蚤を移らせ、振るって捨てるというもの。近世も後半になって見かけなくなったとのこと。いやはや、想像できませんよね。
 耳垢(みみあか)取りもあった。これは、今でも銀座に店を構えています。入ったことはありませんが、いったい、いくらするのでしょう・・・。江戸時代には、耳かきの種類によって上中下の区別があり、上は金の耳かき、中は象牙の耳かき、下は釘の頭だった。ただし、これは落語家の志ん朝の話の「枕」に出てくるもの。
 安政の大地震のあった安政2年(1855年)には、それまでの大工賃金が上手間料4匁が45匁と10倍にもはね上がった。
いろいろ勉強になることの多い本でした。
(2023年9月刊。2200円)

アイヒマンと日本人

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版 祥伝社新書
 ナチス・ドイツにおいて、ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を効率良くすすめていった張本人であるアイヒマンについて、本当に良くまとまっている新書です。
 1942年1月20日、ベルリン郊外の大邸宅で開かれた会議はユダヤ人絶滅を国家として遂行するためのものだった。
 私も、最近、このヴァンゼー会議をテーマとした映画をみました。参加者は15人で、アイヒマンは事務方として参加し、議事録を作成して参加者に配布したのです。
 「最終的解決」とはユダヤ人の絶滅、「東方への疎開」とは絶滅収容所への移送を指すコトバだった。
 会議を主宰したのはハイドリヒ国家保安本部長官・親衛隊大将。1942年5月27日にチェコの首都プラハで襲撃され、8日後に死亡した。このあとの犯人グループ(イギリスから送り込まれたチェコ軍の兵士3人)はドイツ軍に発見・追いつめられていきますが、その状況も映画化されています。ドキュメントタッチで、迫力がありました。
 アイヒマンは戦後、ドイツ国内を偽名をつかって転々としていたが、身の危険を感じて、イタリアから船でアルゼンチンに渡った。アルゼンチンは親ドイツ色が強く、元ナチス親衛隊員が多迷逃亡先として住居を構えていた。
 この新書ではアルゼンチンに潜伏していたアイヒマンをモサド(イスラエルの名高い情報機関)が現地で、どうやって発見し確認したのか、また、イスラエルに飛行機で連行するとき、どんな工夫、仕掛けをしたのかが、月日とともに詳しく展開されています。
 アイヒマン本人だという決め手は、結婚記念日に花を買って帰ったことだというのも印象深いものです。
 そして、イスラエルでの裁判です。これについては、有名なアンナ・ハーレントというユダヤ人学者(女性)のレポートがあり、ユダヤ人社会で物議をかもしました。つまり、ユダヤ人から成る組織がユダヤ人の大量虐殺に手を貸していた事実をどうみるか、ということです。大変難しい問題だと思います。少しでも生きのびるための工夫でもあったでしょうから…。
 アンナ・ハーレントは、アイヒマンが決して「怪物」ではないこと、倒錯しておらず、サディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだということを強調し、世界の人々は衝撃を受けました。
 アイヒマンの裁判を法廷で傍聴したなかに日本人が数人いて、その一人は犬養道子(5.15事件で暗殺された犬養元首相の娘)で、『週刊朝日』の特派員だった。もう一人は、『サンデー毎日』の特派員だった村松剛。
 結局、アイヒマンは自分のしたことに最後まで罪業を認めなかった。静かに死を待つ姿勢だったようだ。
 日本人がアイヒマンに興味を惹かれるのは悪らつきわまる犯罪を「管理職」として、職務を「まじめに」「忠実」こなしていったこと、「組織内の力学に従順な態度」に自分も共感できるからではないか…。そして、自分は「上司の命令」に従っただけなので、行動(結果)の責任は自分にはないという主張が許される(べき)ものなのか、考えさせてくれるからではないか…。
 大変に重要な指摘だと思いました。
 アイヒマンについての、よくよくまとまった新書ですので、一読を強くおすすめします。
(2023年8月刊。950円+税)

硫黄島上陸

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 酒井 聡平 、 出版 講談社
 クリント・イーストウッド監督の映画2部作でも描かれた日米最大の激戦地である硫黄島に遺族の一人であり、新聞記者でもある著者が3度も上陸した体験記を中心とする本です。  
硫黄島(「じま」と読むと思っていると、この本では「とう」と呼んでいます)での日本軍の激闘は1945年2月19日に始まり、3月26日に終了した。その組織的戦闘は36日間で終わったが、なお残存兵は散発的にアメリカ軍と戦った。結局、守備隊2万3000人のうち、戦死者は2万2000人。致死率95%。生存者は1000人しかいない。そして、戦没者2万2000人のうち、今なお1万人の遺骨は見つかっていない。
 日本政府が遺骨収集にまったく取り組まない時期が長く続いたうえ、今も細々としか遺骨収集作業は進められていない。
 この本を読んで、日本政府が熱心に取り組まなかった大きな理由の一つが分かりました。それは硫黄島が戦後、アメリカ軍の核兵器貯蔵庫として利用されていたことです。そんな島にアメリカ遺骨収集団を上陸させようとするわけがありません。
 そして、アメリカ軍の訓練基地として使われてきました。艦載機の離発着訓練(タッチ・アンド・ゴー)がなされたのです。厚木基地のような周辺に民家があるところと違って、ここは民間人がまったくいないので、誰からも文句は出ません。
まあ、それにしても、硫黄島に上陸するのが、こんなに大変なことだとは…、思わず溜め息が出ました。
いま、硫黄島は緑豊かなジャングルの島になっている。ただし、硫黄島は、当時も今も川がなく、雨も少ない、渇水の島。遺骨を探しに地下壕に入ると、内部はとんでもない熱さで、1回の作業は10分が限界。一酸化炭素の濃度も高いので、危険がある。そして、人間にかみつく、大きなムカデがいる。
硫黄島では自由な取材が原則として禁止。カメラの持ち込みも禁じられている(この本には許可を得て撮った写真はあります)。
人骨の年齢を推定する鑑定人がいる。たとえば、恥骨の結合部。若いころは波打っていて、そのうち加齢とともに平らになり、でこぼこ穴が空いてくる。また、頸椎のしわは、年齢とともに減っていくので、その減り具合から、年齢が推測できる。
硫黄島で日本軍守備隊は総延長18キロメートルの地下壕を駆使して持久戦を繰り広げた。地熱によって地下壕内部は70度にも達する。
アメリカ軍が占領したあと、硫黄島はB29の緊急着陸地となった。終戦までにのべ2000機に達し、硫黄島はB29の天国とまで言われた。
硫黄島の日本軍兵士たちは、いつか必ず連合軍が現れ、アメリカ軍を撃退し、自分たちを救出してくれると信じていたようです。でも、実際には、東京の大本営は早々に硫黄島を切って捨てていました。短期で陥落するのは必至とみていて、応援してもムダだと考えていたのです。
硫黄島には、朝鮮人軍属が1500人ほどいた。これも忘れてはいけない歴史的事実だ。
フィリピンで日本軍将兵は52万人が戦死した。そのうち37万人の遺骨が収集されていない。
靖国神社に参拝するより、海外に放置されている日本軍将兵の遺骨を発掘して日本に連れ帰ることのほうがよほど先決だと、この本を読みながら、つくづく思いました。
 
(2023年11月刊。1500円+税)

剣術修行の廻国旅日記

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 永井 義男 、 出版 朝日文庫
 幕末のころ、佐賀藩鍋島家の家臣である牟田文之助高惇(たかあつ)は2年間かけて東北を含めて全国を武者修行の旅をした。文之助は訪れた藩のほとんどの藩校道場でこころよく受け入れられ、思う存分に他流試合をした。しかも、夕方からは、道場で立ち合った藩士たちと酒盛りしながら歓談し、さらには地元の名所旧跡や温泉に案内されることもしばしばだった。また、同じく藩士と知りあい、仲良くなって一緒に旅することもあった。
 他流試合といっても、「道場破り」ではなく、練習稽古の合同稽古みたいなものだった。
 文之助は、2年間に、全国31都府県を踏破している。北海道(松前藩)にも渡ろうとしたが果たせなかった。その代わり、松前藩から出てきた武者修行の藩士とは仲良くなっている。
 文之助の旅は、1853年(嘉永6年)から1855年(安政2年)までのこと。ペリーの率いる黒船が江戸湾に押しかけてきたころ。文之助の父親も佐賀藩の剣術師範のひとりで、鉄人流を教授していた。鉄人流は二刀流であり、異色だった。鉄人流は自分たちは宮本武蔵の流れにあると誇っていた。文之助が23歳のとき、鉄人流の免許皆伝を授けられた。そして翌年、藩から諸国武者修行の旅を許可された。
 このころ、多くの藩が藩士の教育に力を傾注していて、藩校で文武の教育をすすめていた。「文」では、各地の漢学塾や籣学塾に留学させていたし、「武」は諸国武者修行をさせた。修行人は他藩では修行人宿に泊まったが、そこは無料だった。その藩が負担する。なので、藩財政がピンチに陥った藩は修行人宿を閉鎖した。
 藩相互に修行人を優遇しあう慣例があった。修行人宿にとっても、修行人は年間を通じての大事な顧客だった。修行人が武者修行をしないときには、普通の旅人として扱われ、たとえば250文の宿賃を支払った。
 他流試合の実情は、他流との「合同稽古」だった。一対一の打ち込み稽古だ。勝負をして優劣が決まるというのではなく、自己評価・自己申告だった。
 他流との他稽古だったからこそ、遺恨が生まれることなく、終了後はともに汗を流した爽快感と相手に対する親愛感が生まれた。
 江戸時代の道場は、一般にはかなり狭かった。広さは10坪から30坪ほどが多い。しかも、床は板張りでないところが少なくなかった。屋外の青天井で、土間に筵(むしろ)を敷いている道場もあった。
 強い相手のいる道場は敬遠して、小さな町道場ばかりを選び、修行人同士の交際も避けて旅をする修行人を米食修行人と呼んだ。米の飯を食うのが目的の修行人という意味だ。
 同じように、道場側も何やかんや口実をかまえて修行人からの他流試合の申し込みに応じないところも少なくなかった。
 剣術修行という大義名分があれば、藩の垣根はほとんどなかった。
 全国を旅すると、各地の方言で意思疎通が困難になるはずだが、武家言葉は全国共通だったので、その限りで意思疎通に問題はなかった。
江戸時代は人件費は安く、物の値段は高かった。
文之助は手持ち金が不足すると、故郷に手紙を送って送金してもらった。すでに郵便網そして送金が確立していたのです。すごいことですよね、これって…。
江戸の藩邸では夜の門限は厳しかった。午後6時(暮六つ)には表門が閉じられた。
文之助と歓談した藩士たちは気前よく酒や料理を振るまった。なにかの見返りを期待しているわけではない。修行人との交流を楽しみ、江戸の話に聞き入ったようだ。
江戸時代、幕末のころ、武士の若者たちがぞろぞろと諸国を武者修行してまわり、酒食をともにして歓談していたというのです。江戸時代って、こんな大らかな時代だったのですよね。見直します。
10年前の本を文庫版にしたもので、内容も刷新されているようです。一読をおすすめします。
(2023年9月刊。1100円)

「源氏物語入門」

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 高木 和子 、 出版 岩波ジュニア新書
 これまで「源氏物語」には何度も挑戦しました。もちろん、原文ではありません。本棚には、瀬戸内寂聴の本など、6冊が並んでいます。でも、もうひとつしっくりきませんでした。この新書はジュニア新書だけあって、私にもとても分かりやすく、「源氏物語」が千年も読みつがれている秘密を十分知ることができました。ジュニア新書って、大人の私にも大いに目を開かせてくれることが多いので、私は愛読しています。
 光源氏は、仕える人々の心を、きちんと管理し掌握できている。それは、まるで、社員教育の行き届いた会社のようだ。社長が部下に信頼され、統率がとれている優良企業を思わせる。
 光源氏の好色は、一対一の男女関係の誠実さという意味では不誠実にしか見えない。
 しかし、その多情さ、鷹揚(おうよう)さによって救われる女性たちが少なからずいた。それによって多くの高貴な女性たちが名声を汚(けが)さず没落せずに生き続けられるなら、一種の社会保障にも近い。うーん、そういう見方もできるのですか…。
 権力者が窮屈な一夫多妻に生きたら救われない多くの女性が路頭に迷うかもしれないという脈略は、なかなか現代人には了解しがたいところだが、それが当時の現実だった…。
 「源氏物語」は、笑われる人、笑いを回避される人それらを相互に観察させながら対照的に、その位置づけや心理をたどっている。
 当時の貴族社会の女房たちは、しばしば複数の主君を渡り歩いており、必要な生活上の物の貸し借りをしたり、人と人との関係を結んだり、噂を伝えたりしていた。いわば情報の運び役、伝達者だった。
 この当時、格式高い女性は、男性を通わせるものだった。すぐに同居するのは、目下の女である証(あかし)になる。なーるほど、そういうものなんですね。
 正妻とは、対照的に身分の高い女性をいう。当時の結婚においては、男女の個人の魅力より、出身の家の家格や政治力が重要だった。
 晩年の光源氏は、女三宮(さんのみや)を恋敵の柏木に寝取られ、不義の子である薫を我が子として育てるなかで、最愛の紫の上に先立たれるという、苦悩に満ちた日々を過ごす。自分は人一倍の栄華を極めたけれど、一方で苦しみが深いことも比類なかった。まるで、仏に与えられた苦行であるかのような生涯だったと、光源氏は自らの生涯を振り返った。
 そして、光源氏の死んだあとを語る「宇治十帖」の世界は、光源氏の光り輝く世界の負の側面を照らし出す薫(不義の子)と八宮(光源氏の弟)によって始まる。
 光源氏の息子とされつつ実の子ではない薫と、光源氏の孫にあたる匂京は恋のライバルとなり、互いを観察し模倣する。そういう構造の本だったのですね。
 男たちの欲望に翻弄(ほんろう)され続けた女性たちは、やがて自分の意思で自立していく。美しい男皇子(みこ)、光源氏の物語として始まった「源氏物語」は、次第に女の物語に変容し深まっていく。
 なるほど、そういうことだったのですか…。単にプレイボーイが浮気を繰り返し、女性遍歴をするなんていうストーリーではなかったというのです。ここに1000年もの生命を保ち続ける秘密があるのですね…。
 220頁ほどの新書ですが、大変勉強になりました。さすがは「源氏物語」の研究者です。
(2023年11月刊。960円+税)

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