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2023年10月 の投稿

新・弁護士読本

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 才口 千晴 、 出版 商事法務
 著者は「倒産弁護士」として有名でした。なので、倒産法改正にも深く関わっています。法制審議会の倒産法部会のメンバーとして1996年10月から2004年11月までの8年間に、破産法の改正、民事再生法の制定等に大きな役割を果たしたのです。私も民事再生法の個人版の制定にあたっては、日弁連の委員会のメンバーとして、意見を口頭そして書面で積極的に開陳し、資料を提供し続けました。なにしろ、年間20万人以上もの自己破産申立があっていたころのことです。民事再生個人版の申立はもう少し多いかと予測していましたが、案に相違して、それほど多くはありませんでした。それでも最近、久しぶりに1件だけ申立したところ、なんとか認可されました。
 「倒産弁護士」のあと、著者は最高裁判事となり4年8ヶ月間つとめました。いくつも少数意見を書いたようです。泉徳治判事(現弁護士)と同じ第一小法廷に所属していました。
 キャリア裁判官は、結論を定めて理由付をする。これは、なるほど、そうだろうなというのが私の実感でもあります。結論が決まっていれば、その理由はいくらでも書けるものなのです。
 それにしても、最近の最高裁判決はひどいです。ひどすぎます。再審を認めなかった鹿児島の大崎事件なんて、鴨志田弁護士が結論を聞いて卒倒したそうですが、その悔しさはよく分かります。沖縄の辺野古埋立をめぐる一連の裁判にしても司法権の独立なんて、どこに行ったのか…と、泣くしかありません。これも、大先輩の田中耕太郎という元長官が砂川事件の最高裁判決を出すにあたって実質当事者であるアメリカ大使に評議内容を洩らし、その指示をあおいでいたことが明るみになっても、田中耕太郎の処分すらしない卑屈さをひきずっているからでしょう。情けない限りです。
 さて、著者は、この本によって、後進の弁護士に弁護士とは何者か、どうあるべきかを説いています。含蓄ある内容です。しかも、弁護士は10年で一人前になるということを前提として、それぞれの経験年数の弁護士からの質問に著者の経験をふまえて答えるというパターンですので、とても読みやすくなっています。
 後輩弁護士を指導するときのポイントは三つ。
 その一、後輩の疑問や意見によく耳を傾け、積極的に理解するよう努める。ただし、安易に迎合はしない。
 その二、自分の考えを後輩に押しつけない。
 その三、指導は簡潔・明確とする。
 チーム・リーダーを養成しようとするには、意欲と実行がポイント。弁護士にとって愛嬌のあることは大切なこと。依頼者に親しみの心をもって事件に真剣に取り組み、紛争を解決して心を安らかにしてあげることは弁護士の職務であり、使命。心の温かさ、真剣かつ人間的な姿を一言で表すと愛嬌になる。
 著者はストレスを抱えながら仕事をしてはいけないと断言します。いつもフレッシュな身体でいなければならない。そのためには、重たい仕事、苦しい仕事をまず処理すること。そして、仕事の悪循環を避けること。なーるほどですよね。でも、言うは易くなんです…。
 「危ない事件」からはできる限り速くひく。度胸を決め、必要な筋を通し、将来に禍根を残さない。預かった資料やお金をすぐに返却して、決然と辞任する。
 うむむ、これが難物なんですよね。でも、本当にそうなのです。悪いしがらみからさっと脱け出し、新天地で心機も一転バリバリとやるのかストレスをためないコツです。
 私よりひとまわり年長の著者は、85歳になっても以前と変わらず意気軒高そのもの。私も見習って、うしろからついていきます。
 今後ともお元気にご活躍されることを心より祈念します。
(2023年9月刊。2200円+税)

徳川家康と武田勝頼

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 幻冬舎新書
『どうする家康』の時代考証も担当している気鋭の歴史学者による新書なので、論旨は明解、切れ味の良さに心地よいばかりです。
徳川家康の生涯において、最も苦難を強いられた敵は、武田氏。武田信玄と勝頼父子だ。信玄との抗争は、わずか半年あまりで信玄の死によって終了したが、その子・勝頼の度重なる襲来によって、家康の危機はさらに深まっていった。
家康にとって、勝頼との抗争のほうが費やした時間も長く、危機の連続だった。家康の本拠地である三河・岡崎の譜代らが勝頼と内通したり、息子・信康や妻(正室)築山殿まで武田氏の調略にあうなど、徳川家中の分裂を引き起こすほどの重大事態に陥った。家康にとって勝頼は、信玄以上の脅威であり、徳川氏単独では、手も足も出なかった。  
徳川家康と武田信玄は元亀1(1570)年までは甲三同盟を結ぶ同盟国だった。元亀3年、武田信玄は突如として、徳川家康の領地に侵攻した。わずか1ヶ月半で、家康は三河と遠江の領国の3分の2を失うという大打撃を受けた。そして、信玄軍の本隊は徳川氏の浜松城に迫った。
武田信玄は元亀4(1573)年4月に53歳の若さで死亡した。
徳川氏は、織田の支援なくして、武田勝頼と戦うことはできなくなっていた。徳川氏の有力は部将である岡崎衆のメンバーは武田氏の調略により、着々と切り崩されていった。家康の子・信康、そして家康の正室の築山殿も武田氏と結んで、家康打倒を謀った。それほど武田氏のほうが家康より強いと思っていたということだ。
長篠合戦のころは徳川家康対武田勝頼の合戦だった。
家康は勝頼をその死ぬまで「大敵」とみなしていた。勝頼は信玄の「バカ息子」ではなかったのです。勝頼は武田家中での権威の確立に腐心しており、信長と家康が顔をそろえた合戦で勝利したら、武田家の御屋形としての地位は不動のものとなると考えたようだ。
 長篠合戦については、織田・徳川連合軍が施いた三重の馬防柵の前に、武田軍の猛将が馬に乗って近づいたところを三段式構えた3千挺の鉄砲によって、武田軍の主要な勇将たちは次々に倒れ、残りは逃げ去ったということになっている(と思います)。ところが、この本によると、徳川軍前面の馬防柵を武田軍は次々に突破していったというのです。まあ、それでも、ついてくる兵力が不足したことから、徳川軍の将兵に取り囲まれて討ちとられていった。そんなドラマがあったのですね…。
 武田氏は、信玄も勝頼(かつより)も、ともに鉄炮(砲)の装備を重視し、その動員強化に躍起になっていた。ただし、このころ、武田氏にとっては、鉄炮そのものというより、玉薬(銃弾と火薬)を手に入れるのがきわめて困難だった。武田軍は、鉛不足に苦しみ、銅銭を鋳(い)つぶしてまで、武田軍は鉄炮玉を確保しようとしていた。
 長篠合戦とは、物量(兵力)と鉄炮が明暗を分けた戦いであった。とはいえ、それは新戦法(織田・家康)と旧戦法ではなかった。そうではなく、物量豊富な西(織田・徳川)と、内陸部にいて、物資の入手が困難な東(武田方)への激突とみるべきもの。
長篠合戦のあと、勝頼の武田家には、主だった武将が亡くなっていて、統計上もごく少ない。長篠合戦後の勝頼の重臣層は、かなり様変わりした。それでも勝頼は、武田軍の再編成につとめ、総兵力1万3千余の軍勢を何とかまとめ上げた。
 ただ、勝頼の新しい軍勢は、実戦経験に乏しく、年齢も12、3歳の若年層が目立つなど、質的低下は明らかだった。 
結局のところ、勝よりは織田信長軍に圧倒されてしまうわけですが、家康が、最後まで勝頼を知恵も勇気もある武将だと高く評価していたことは忘れてはいけないと思います。そして、勝頼亡きあと、武田氏の遺臣の多くは家康の家臣となって、生きのびていったのでした。
 いつものことながら、大変勉強になりました。
(2023年5月刊。980円+税)

原爆「黒い雨」訴訟

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 田村 和之 ・ 竹森 雅泰 、 出版 本の泉社 
 2022年4月から2023年3月までの1年間、3800人が広島県・市から「被爆者」と認められて被爆者健康手帳を受けとった。戦後78年たって初めて「被爆者」として認定されたというのは、いったいなぜなのか…。
 その答えは2015年11月に裁判(「黒い雨」訴訟)が起こされ、一審の広島地裁(2020年7月29日に判決)、二審の広島高裁(2021年7月14日に判決)で、ともに原告が勝訴し、確定したことによる。
 放射線に被爆したとき、健康被害は直ちに発生せず、数十年もたってから発生することがある。これって恐ろしいことですよね。福島原発の汚染水による健康被害だって、急性症状がないからといって、安心はできません。「風評被害」があるだけで実害はない、なんて皮相な受けとめでしかありません。
 「黒い雨」とは、1945年8月6日に広島市に原爆が投下されたあとに発生した雨(色が黒くなかったものを含めて「黒い雨」と呼ぶ)のこと。「黒い雨」は原爆由来の放射性物質を含む雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種。
この本で圧巻なのは、「黒い雨」の降った地域を学者が現地に出向いて聞き取り調査をして確認し、図示していったことです。あるときは小学校の講堂に200人をこえる住民が参集して、丁寧に聞き取りして、地図に落とし込んでいったのでした。
 この聞き取り調査のなかで、「黒い雨」が2回降っていたこと、キノコ雲からの雨と、火災積乱雲からの雨の2種類あることも明らかにされました。また、土壌の残留放射能と、染色体異常についての調査だけで、「放射線の影響はなかった」と断定することの誤りも明らかにされています。
 さらに、内部被爆を隠蔽・排除する被爆者援護法の問題点が指摘されています。
 「黒い雨」の「黒」は、火球で生成された放射性微粒子群と火災による「すす」である。
 内部被爆においては、遮蔽や回避が容易ではなく、外部線量計測システムを使用して、実効被爆線量を形式的に行ってしまうと、桁違いに線量(率)を過小評価してしまう。一般に、内部被爆は低線量被爆と思われているが、放射性微粒子の摂取がからんでいるときには、局所的に超高線量被爆の状態が存在し、慢性的な細胞の発生リスクの上昇が生じている可能性がある。
 この裁判では原告84人全員が勝訴した。とはいうものの、うち15人は手帳をもらう前に亡くなった。そして、前述のとおり3800人が手帳をもらったものの、認定申請を却下された人もいて、そのうち23人を原告とする第2次「黒い雨」訴訟が提起された。(2023年4月28日)。
 したがって、「黒い雨」訴訟の目的達成はまだ道半ばというしかない。
 「黒い雨」訴訟の経過と判決の意義、そして今後の課題がよくまとめられている本です。大変勉強になりました。
(2023年6月刊。3000円+税)
 いま、庭にはフジバカマの花が咲いています。アサギマダラ(蝶)を呼び込もうと考えて、昨年から植えているのです。アサギマダラは2000キロも移動するという驚異的な蝶なので、私の庭にも立ち寄ってくれないかと期待しているのですが、残念なことに、まだその姿を実見していません。もっとも、平日昼間は私も仕事していますので、この間に来訪しているのかもしれませんが…。
 チューリップを植えていると、なぜか手元にアリが群がっていて、アリにかまれてしまいました。チクッとしたのですが、風呂に入ると、はれ出しました。それで、ドクダミ酒を綿棒につけてはれたところに塗って対処しています。

維新政治の内幕

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 小西 禎一 、 出版 花伝社
 なんで「ホラ吹き」連中の政党がこんなに受けているのか、不思議でなりません。コロナ禍「対策」と称して高言した「イソジン・吉村」そして「雨合羽・松井」が真面目に謝罪したとは聞いていません。大阪府と市を一体化させるという「都構想」だって、「二重行政の解消」と称して、現実にはコロナ禍のなかでの保健所の縮小・廃止でした。しかも2回も住民投票で否決されたというのに、まだあきらめていないなんて、往生際が悪すぎます。
 諸悪の根源は橋下徹にあります。最近、「憲法の壁」とか言って憲法を敵視する発言をして、顰蹙を買いましたが、橋下の眼というか、頭の中には基本的人権の擁護とか弱者保護という政治家がもつべき理念はカケラもないようです。こんな人物をマスコミが関西方面にかぎらずいつまでももてはやすなんて、日本のマスコミも堕落してしまったと嘆くばかりです。
 この本の著者は長く大阪府の副知事をつとめた人です。6代もの府知事の下で働き、ついには維新候補と対決して府知事選挙にも出馬したのでした。惜しくも当選には至りませんでしたが…。
 いま、維新は大阪では自民党と対抗して張りあっていますが、維新のルーツは自民党そのもの。なので、維新の馬場代表が「第2自民党」と自称したのはホンネを言ってしまっただけのこと。
 維新が大阪で選挙に強いのは、政党幼成金などの資金を大阪に集中させ、「どぶ板」やビッグデータを駆使した選挙戦術、府知事・市長として圧倒的なメディア露出量、そして芸能界との強いつながりによる。
 維新のポピュリズムは、行政改革の名の下に、市場原理にそって公的事業の民営化や規制緩和を進める新自由主義的なポピュリズムだ。
 維新の「都構想」挫折後のビッグ目玉は、大阪万博と夢州のIR(カジノ)です。ところが、今ではこの二つとも赤信号が灯っています。大阪万博では大阪府民の負担はない(少ない)はずでしたが、今やそれどころではありません。国にすがって国の税金を大量に投入して失敗の現実化を回避しようと必死です。でも、結局は失敗し、大々的な借金を残すこと必至です。もうひとつのカジノだって、もしオープンしても中国の金持ちが呼び込めるのか大いに疑問ですし、結局、日本の零細な年寄りがスロットマシーンにすがる程度のものでしょう。
 橋下徹は、テレビ界出身のタレントとして、拍手喝采(かっさい)がいつまでも続かないことを身に沁みて感じている人間。
 橋下徹は民間企業と地方自治体を単純に比べる発想に終始するけれど、そもそも行政は民間の営利企業と違って利益を上げることを目的とはしていない。
 橋下徹の政治手法の本質は、次々に「大騒動」をつくり出し、世間の注目を集め、自己の賞味期限を維持していくことにある。
 橋下徹は、「特別顧問」「特別参与」という制度をフル活用した。特別顧問12人、特別参与は12人。この特別顧問たちが、あたかも職員の上司であるかのように職員に命令したり「知事に言うぞ」と恐喝まがいのことをやった。そして、これらの特別顧問参与に支払われた給与は何回も引き上げられてきた。維新は身内には甘い。
 維新の言う「成長」は、万博そしてIR(カジノ)であり、カンフル注射的に大阪を元気にするだけのことで、市民生活の向上を意味するものではなかった。
 最後まで、大変興味深い本でした。
(2023年6月刊。1800円+税)

ある日、森の中でクマさんのウンコに出会ったら

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 小池 伸介 、 出版 辰巳出版
 ツキノワグマは九州では絶滅したとされていますが、四国にはまだいるようです。もちろん関東周辺にはクマがたくさんいます。
 いま日本の山には野生の鹿が大繁殖して、森林の草を食べ尽くしています。そのあおりを食ってクマが食料を求めて人里(ひとざと)に出現しているのです。困ったことです。
 ツキノワグマの研究者である著者は、これまでの25年間に3000個以上のクマのウンコを集めて研究室に持ち帰り、さばいて分析し研究してきた。そのおかげで、博士号をとり、定職(教授)にありつけている。
 クマのウンコは臭くない。むしろ、芳香がある。食べたもののにおいがする。桜の花や実を食べたクマのウンコは桜餅のようなにおいがするし、植物の葉を食べたらお茶の葉のようなにおい。サルナシを食べると、キウイフルーツのにおいがする。岩手県のリンゴ園のリンゴを食べたクマのウンコは、見た目も香りもリンゴジャムそのもの。なめてみると、見かけ倒しで、ほとんど味はしなかった。うへーっ、クマのウンコをなめるんですか・・・。
 クマの体毛を調べたら、何を食べたかが判明する。毛を質量分析計にかけると、毛に含まれる窒素や炭素の割合がわかる。たとえば、植物を中心に食べていると窒素の値が低くなり、肉食気味になっていくと窒素の割合が上がっていく。
 クマは、冬眠する。この冬眠に備えて、9月から11月までの3ヶ月間に1年の8割分のカロリー摂取量を食い溜めしている。この時期は好物のハチミツには見向きもせず、せっせとドングリを食べる。
 クマは大きな岩をゴロゴロところがし、その下にあるアリの巣をべろべろなめて大量のアリを食べる。
 クマは果実の旬(しゅん)を知っていて、鳥によって果実が食べられる直前のタイミングで木に登り、果実をむさぼり食べる。
 クマの食事の9割は植物であり、一つの巨大なウンコに何百、何千という植物のタネが入っている。
 著者は、山中で見つけたクマのウンコをビニール袋に入れて、その全部を持ち帰り、研究室で水洗いして内容物を分類・分析するのです。植物のタネを同定するのに苦労しました。
 冬眠中のクマの生態を研究することによって、長時間を要する宇宙旅行で乗組員(人間)の代謝を抑えられないかという研究も進んでいるとのこと。クマを知ることは、こんなメリットもあるのですね。とても興味深い本でした。
(2023年7月刊。1650円)
田の稲刈りも間近になりました。畔に赤い彼岸花が咲き誇っています。
 わが家の庭にはリコリスのクリームの花が一斉に咲いて、それは見事なものです。
 リコリスは彼岸花の仲間です。いつ植えたのか、もう記憶がありませんが、どんどん勝手に増えていきました。ある時期に一斉に花を咲かせるという自然の摂理には毎度のことながら驚かされます。
 そばにはピンクの芙蓉の花が咲き、地面にはサツマイモが生い茂っています。まだ収穫するのは先のことです。ついに秋本番が到来しました。

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