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2023年10月 の投稿

スターリンの図書室

カテゴリー:ロシア

(霧山昴)
著者 ジェフリー・ロバーツ 、 出版 白水社
 ヒトラーに並ぶ大虐殺の張本人・スターリンが実は大変な読書家だったという事実に、まずは驚かされます。本好きな人に悪人はいない。私としては、ぜひ、こう言いたいところですが、それを打ち破る人間がいたというわけです。
 スターリンが死んだとき、本や雑誌、小冊子は2万5千点もあった。スターリンは自ら暗殺させた政敵のトロツキーの膨大な著作も読んでいた。ただし、スターリンはロシア語と故郷のグルジア語しか知らなかったので、海外の文献はすべて翻訳もの。
 この本では、スターリンについて、「言葉の力を真に信じた」とか、「権力だけでなく真理を追究した優れた知識人だった」としていますが、さすがに、この評価には異論があります。「真理を追究した優れた知識人」が、大虐殺を推進した張本人だなんて、背理でしかない、私はそう思います。
 また、この本では、スターリンについて、「生涯の最期まで強靭(きょうじん)な知性を持ち続けた」としていますが、それについても肯定できません。
 スターリンは多くの小説も読んでいるが、小説には書き込みをしていない。蔵書印も押さず、署名もしていない。しかし、スターリンは多くの学術書等には大いに書き込みをしている。
スターリンは、血まみれの暴君、黒幕の政治家、偏執狂、無慈悲な官僚、狂信的なイデオロギー信奉者という性格をすべて典型的に備えていた。ところが、同時に文章こそスターリンの世界だった。
スターリンは革命の敵とみなす存在に対しては慈悲を感じなかったし、同情もしなかった。
 スターリンは若いころから読書欲が旺盛だった。
 独ソ戦に勝利したソ連は、ドイツから250万冊もの書籍を「戦利品」としてソ連に持ち帰った。3576万冊を貸車13台に載せてモスクワに運び込み、モスクワ大学とレーニン図書館に収蔵した。今も、そのまま残っているのでしょうか…。
 スターリンは、日記も回想録も残していない。自身の個人史には、関心を示さなかった。
 スターリンは、原則として、自分を主人公とする評伝や偉人伝には否定的だった。
 スターリンは、自分を労働者の息子ではなく、父は職人であり、従弟を抱えた搾取者だったとした。
 スターリンは、小さいころは「ソソ」と呼ばれていて、左腕が不自由だった。11歳のとき暴れ馬の引荷車に両足をひかれたせいで、生涯にわたって歩行は緩慢だった。「ソソ」が「コバ」になり、ついに「スターリン(鉄の男)」となったのは1913年のこと。
 スターリンは神学校で学んだが、神学校を去ったあとは、すべての宗教に背を向けた。
 スターリンは、自信にみちて、もの怖(お)じしない若者だった。スターリンは、演説の名手というよりは、文章に長(た)けた論峉だった。
 スターリンが信頼していた親友のマリノフスキーは、オフラーナ(ロシア帝国の秘密警察)の手引、つまりスパイだった。
 スターリンは、1953年3月、別荘において77歳で亡くなった。3月1日に脳梗塞で倒れ、4日後に死亡した。
 スターリンは、文章を読みつつ、興味を惹かれた段落や言い回しに下線を引いた。とくに重要と思われるところには二重に下線を引いたり、線で囲んだりした。また、余白に小見出しやタイトルを書き入れることもあった。
 「ハハ」「でたらめ」「無意味」「くず」「ばか」「下劣」「ろくでなし」「むかつく」
「そうだ、そうだ」「同感」「良し」「的中」「そのとおり」
「本当か?」「間違いないか?」
スターリンは、青、緑、赤の色エンピツでしるしを付けた。
スターリンの読書は、主として新しい知識を得るためのもの。
スターリンは、スピーチライターを使わなかった。自ら草稿を書き、他人の演説も編集した。同じ文章を繰り返し使う習慣があった。
スターリンは、レーニンの言葉を引用する名人だった。スターリンは、トロツキーの『テロリズムと共産主義』に共感の言葉を多く書きしるした。
スターリンは、反ソヴィエトの陰謀が存在すると固く思い込んでいたのだろう。この点は、たしかにそうなんでしょう。間違った思いこみではありますが…。
その結果、1937年から38年にかけて150万人が政治犯として逮捕され、数十万人が処刑されたのです。
スターリンはスパイを毛嫌いしていた。スターリンはスパイより情報将校を大切にした。日本でスパイとして活躍したゾルゲをスターリンは高く評価していなかったのです。
スターリンの周囲にはユダヤ人の官僚やユダヤ人の妻をもつ側近がいた。スターリンはユダヤ人が大嫌いというわけではなかったが、ユダヤ民族主義を政治家として憎悪していた。
スターリンの思考様式には、複雑、深淵、微妙という特性はない。単純明快に物事をとらえ、ひろく普及させる才能が抜きんでいた。
スターリンという悪の化身の思考回路を理解する重要な手がかりを与えてくれる本だと思いました。
(2023年9月刊。4500円+税)

中世ヨーロッパ全史(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ダン・ジョーンズ 、 出版  河出書房新社
 上巻は5世紀のローマ帝国から、13世紀の十字軍までを扱っています。
 ローマ帝国は、3世紀初めの最盛期には45万人の常備兵がいて、海軍が別に5万人いた。ローマ兵は、入隊して10年はつとめる。
 ローマ帝国はいくつもの戦いで敗北したが、重要な戦いで負けたことはほとんどない。
 ローマ帝国では、ラテン語が公式言語。ラテン語の学習はエリート教育で基礎科目だったラテン語の実践的な知識なしに、政治家や官僚としてのキャリアを積むことなど考えられなかった。
 ラテン語はローマ法とつながっていた。ゴート族の族長で軍司令官であるアラリックはローマ帝国と戦った。410年前、アラリックのゴート族はローマ軍を破り、ローマ町を略奪した。
 次にフン族に追われてヴァンダル族がローマにやって来た。そして、ついにフン族がアッティラに率いられてローマに侵攻してきた(452年)。アッティラが453年に死去すると、フン族の帝国はたちまち自滅。
 6世紀、腺ペストが大流行し、死者は数百万人いや数千万人という。541年から543年のこと。
 イスラム教の創始者ムハンマドは632年に死亡した。7世紀から8世紀にかけてアラブ人による帝国が設立した。ムハンマドはメッカの中心的部族であるクライシュ族の出身。ムハンマドが本格的に説教を始めたのは613年。権力と富がクライシュ族に不当に集中していたことに対する不満は大きかった。
 中世を通して、スペインにはイスラム教徒が暮らしていた。イスラム教徒の総督がモロッコに追放されたのは、15世紀の末のこと。今のフランスに君臨するメロヴィング朝の政権が最盛期を迎えたのは、5世紀から6世紀にかけて。
 フランク王国のカールが亡くなったあと、ヴァイキングが到来するようになった。当時のパリの人口は、せいぜい数千人規模。ヴァイキングの襲来は、6世紀の半ばにかけて巨大火山の噴火が起きて、世界的に気温が低下し、凶作となったことにもよる。885年、パリはヴァイキングに襲われたが、11ヶ月も持ちこたえた。カロリング朝にとって、半世紀近くも続いたヴァイキング襲撃は致命傷になった。
ヴァイキング司令官のロロはとりわけ残酷で、フランス王からノルマンディーをもぎとった。10世紀、修道院には金と資産が流れ込み、宗教共同体はうまみのあるビジネスの場となっていた。
 裕福な人は、お金で他人に苦行をやらせ、罪の赦しを乞わせて罪滅ぼしができた。サンディアゴ・デ・コンポステーラ。この巡礼道の修道院は、うるおった。巡礼は、最高のビジネスチャンスをもたらした。
 十字軍戦士の第一波は、ポピュリスト的な扇動家に駆り立てられた狂信者ばかりで、大した訓練も受けておらず、ほぼ制御不能だった。1096年夏にヨーロッパを東へと向かった。そして奇跡的に勝利し、小規模な植民地をつくり上げた。
 ヨーロッパの商人にとって、十字軍世界は魅力的なビジネスチャンスの場だった。やがて十字軍都市は破滅に追いやられていった。
 370頁もある通史です。勉強になりましたが、読み通すのには苦労しました。
(2023年5月刊。4290円)

ワクチン開発と戦争犯罪

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 ・ 松村 高夫 、 出版 岩波書店
 1944年8月、インドネシアのジャワ島にあったクレンデル収容所で破傷風によって多くの「ロームシャ」が死亡した。これは、日本軍が開発していた破傷風ワクチンの治験の対象とされたインドネシア人労働者たちが生命を落としたということ。
 ところが、日本軍は「対日陰謀事件」として、インドネシア人医師たちを逮捕し、軍律会議にかけて死刑判決を下し、1人を斬首し、もう2人は獄死した。
 「ロームシャ」とは、日本語がインドネシア語となったもので、強制的に挑発し労働させられた人々のことで、このころ20万人もいた。
 この事件が世に知られるようになったのは、1976年になってからのこと。
 破傷風は人から人への伝染性がないため、大量発生することはない。しかし、荒野で殺傷しあう戦時には兵士に非常に多くみられ、軍隊内では恐れられていた。
 1944年8月、クレンデル収容所で119人が破傷風にかかり、98人が死亡した。
 破傷風患者は死亡率が高いが、早期に血清を射てば、助かることもある。
 エイクマン研究所の所長であり、ジャカルタ医科大学教授を兼任していたアクマッド・モホタル(50歳)は、インドネシア医学界の最高峰に位置する医師だった。
 その「自白」によると、「ロームシャ(労務者)の取り扱いは過酷で非衛生的なので、その改善のために日本人を覚醒させようと思い、細菌を使う謀略を考えた」という。
 日本軍憲兵隊のつくりあげた最終的な筋書きは、「非合法手段によって独立を獲得しようと決意し、その手段として、原住民の反日・反軍思想を醸成し、日本軍が独立を許容せざるをえないような窮地に陥れようとした」というもの。この結果、474人の患者が発生し、うち364人が死亡した。
 モホタル教授らがかけられた軍律会議は、敵国の俘虜や占領地の住民等による戦時重罪などに対して行う軍事裁判であり、日本の軍人を対象とする軍法会議とは異なる。弁護人はつかない。まさしく暗黒裁判ですよね。
 モホタル教授は、死刑判決を受け、1945年7月3日に斬首された。戦後、1972年にスハルト政権はモホタルについて冤罪だったとして、勲三等を授与し、名誉を回復した。今では、モホタルの銅像があります。
 日本軍内で破傷風ワクチンの開発をすすめていたのは、七三一部隊(関東軍防疫給水部)の流れをくむ南方軍防疫給水部の医師たちだった。ここでも七三一部隊です。
 第二次大戦中、アメリカ軍は兵士に破傷風ワクチンの予防接種を実施したので、破傷風患者は10万人につき0.5人以下だった。ところが、日本軍は、破傷風になったら血清をうつのを原則としていたため、破傷風患者は10万人につき5000人も出た。いやあ、これはひどいですね。日本軍の人命軽視はこんなところにも如実にあらわれています。ひどすぎますよね。
 インドネシアにおける七三一部隊の蛮行を明らかにした画期的な労作だと思いました。
(2023年3月刊。2300円+税)

ナマコは元気!

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 一橋 和義 、 出版 さくら舎
 タイトルは、「目・耳・脳がなくてもね!」と続きます。ええっ、そ、そうなの…、驚きます。
 もうひとつ、心臓もないけれど、海底で、ひっそり、立派に生きている。
ナマコは漢字で、海鼠(海のねずみ)と書く。中国語では「海参」(ハイシエン)つまり、「海の人参」。というのも、朝鮮人参の薬効成分であるサポニン類をナマコは持っているから。英語では「海のキュウリ」。
 ナマコの内臓は再生する。ストレスを感じたら、お尻から内臓を全部出してしまう。ところが、2週間もすると内臓が出来はじめ、2ヶ月もしたら新しい内臓が完成する。新しい内臓ができるまでは、身体を少しずつ溶かして、それを栄養にする。こうやって、小さくなっても生きのびる。いやはや、とんだ生き物ですね…。
 ナマコは、1日に体重の4分の1から3分の1の海底の砂や泥を食べる。砂や泥には小さな藻(も)などの有機物が少し含まれているから、それを栄養化している。海底に砂や泥は一面にあるので、動いて遠出する必要はなく、ひたすら触手を動かして食べている。
 ナマコは、目はなくても、皮膚で光を感じる。光の変化を感じると、皮膚が尖ったり、硬さを変える。
 ナマコの起源は5億4千万年前のカンブリア紀。ナマコの最古の化石は4億5千万年前のオルドビス紀のもの。
 ナマコの多くは、サポニンという起泡性(泡立つ)。物質が含まれている。このサポニンは、魚にとっては猛毒。
ナマコを切断すると、2分後には傷口の周辺の皮膚が動いて傷口を閉じはじめ、体が収縮して移動する。そして24分後には、傷口はほぼ閉じられる。
 ナマコは、海底をはうものだけでなく、泳げるものもいる。世界中にナマコは1500種いて、日本には250種いる。水温が24度をこえると夏眠(かみん)する。冬眠の逆ですね。
 ナマコとお掃除ロボットルンバはとてもよく似たシステムで動いている。ナマコに脳がないというのは、中枢制御では動いていないということ。体の末梢にある個々の感覚が反射的に運動に結びつく単純なシステムが集合し、それをローカルで協調させるシステムを組み合わせることで、合体としての歩行運動を可能にしている。
たくさんのナマコの写真とともに面白い生態を知ることができました。世の中の幅の広さを実感できる本として、一読をおすすめします。
(2023年8月刊。1650円)

青春の砦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 大谷 直人 、 出版 新潮社
 太平洋戦争末期、静岡県の清水高等商船学校の生徒たちの日々。兵学校化しようとする動きに抵抗し、叛逆するものの、あえなく挫折、そして戦死。
昭和18年から20年の日本敗戦までの3年間、新設された清水高等商船学校の生徒たちの一連の実際の行動が小説となっています。
 作者は、その第1期生であり、生き残って戦後まもなく(昭和26年)1月から5月にかけて書き上げた。そして、さらに26年後に清書をして、400字原稿1360枚を900枚までに削った。18歳のときの話を26歳のときに書き、52歳になって刊行した本。
 本文2段組みで300頁もありますが、その息も詰まる切迫感のなか、私は飛行機のなかで暑さも忘れて必死に読みすすめました。
 吉野教官は結婚を約束する女性がいた。しかし、戦場に駆り出される前、吉野は別れ話を切り出した。それに対する返事の手紙をこっそり盗み読んだ。
 「あなたは、道連れにすることを拒否するとおっしゃられました。あなたが、この戦争で犠牲になるのを免れない覚悟は、前々から知っていました。結婚したら、私を否応なしに不幸の中に放りこんでしまうことになるから、結婚を解消してくれとの申し出は、よく分かりました。私にとって、大事なことは、20年の生涯に、あなたとめぐりあい、そして愛し愛されたということに尽きます。私にとって、愛されること以上に、愛すること、愛する人がこの地上に生きていることが喜びであり、生き甲斐でした。結婚を解消しても、この喜びも生き甲斐もなくなりはしません。あなたが、万一、戦死されることがありましても、愛した人を失った悲しさと、好きな人を愛しもせずに見送った後悔とは、どちらが深く大きいでしょうか。悲しみには耐えようとも、後悔だけはしたくありません」
 いやあ、20歳前後で、お互いに今は元気なのに今生の別れをしなくてはいけないという戦争の恐ろしさ、重圧をひしひしと実感させる文章ですね…。
 商船学校が兵学校化しようとするとき、心ある教官が生徒に次のように訓示した。
 「諸君の若い肩に、世界はあまりにも重い。それでも屈服してはいけない。諸君が倒れたら、次の者がその荷を背負うことになるのだから、諸君はわれわれ老人を越えて行け。諸君が老人を越えるときにのみ、そのために若者が生き抜くときにのみ明日がある。希望がある。若者よ、老人を越えて行け」
 そうなんですよね。後期高齢者入りを目前にした私は、いつまでも気持ちだけは若いのですが、若者が心を奮い立たせて、私たち「老人」を雄々しく乗り越えていく状況を心から待ち望んでいます。ストライキだってデモだって、多少の迷惑かけるのは気にせずに堂々とやったらいいのです。すると、私たち「年寄り」は、恐らく「まゆ」をひそめることでしょう。でも、そんなこと、たいしたことではありません。自分の思うところに突きすすめていったらいいのです。
大変な状況に置かれていた戦前の若者の息吹きに触れた思いのする本でした。
 青年劇場で劇になったようです(残念ながら、見ていません)。古い本ですが、気になったので、本箱の奥から本ををひっぱり出して読んでみました。良かったです。
(1985年12月刊。1200円)

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