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2023年9月 の投稿

評伝・弁護士・近内金光

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 田中 徹歩 、 出版 日本評論社
 栃木県に生まれ、京都帝大を卒業後、農民組合の顧問弁護士として活発に活動していたところ、「3.15事件」で逮捕され、懲役6年の実刑となり、刑務所に収監された。獄中で発病し、弁護士資格を剝奪され、1938(昭和13)年に病死。享年43歳。
 近内(こんない)弁護士の歩みを、同じく栃木県出身の著者が丹念にたどった本です。
「これほど純粋無垢な男は見たことがない」
「典型的な革命的弁護士」
「栃木弁まる出しの弁論は、熱と力に充ち、いささかの虚飾なく、冗説なく、一言一句、相手方の肺腑(はいふ)をえぐる鋭さがあり、裁判長や相手方弁護士を狼狽(ろうばい)させた。農民にとっては、実に小気味よく、思わず嘆声をあげ、随喜の涙さえ流した」
「弁護士というより、闘士として尊敬されていた」
「包容力があり、芯に強いものをもっていた」
近内は二高に合格したあと、さらに翌年(1918年)、第一希望の一高に合格して入学した。1918年というと、前年(1917年)にロシア革命が起こり、7月には富山などで米騒動が起きていた。そして、翌1919年3月、朝鮮では三・一独立運動、5月に中国で五・四運動が発生した。まさに世界が激動するなかで一高生活を送ったわけです。
また、1918年12月には、東大新人会が結成された。1918年9月には原敬内閣が誕生してもいる。
近内と同じく一高に進学した学友の顔ぶれを紹介しよう。いずれも有名人ばかりだ…。吉野源三郎(「君たちはどう生きるか」)、松田二郎、村山知義、前沢忠成、戸坂潤、など…。そして、近内たちの前後には、尾崎秀実、宮沢俊義、清宮四郎、小岩井浄などがいる。いやあ、驚くほど、そうそうたる顔ぶれです。
近内は一高では柔道部に入った。柔道二段の腕前だった。
近内は、1921(大正10)年3月、一高を卒業し、4月、京都帝大の法学部仏法科に入学した。
京都帝大の学生のころ、近内は目覚め、社会主義への関心を持つようになった。
近内は一高そして京都帝大に在籍した6年間、フランス語も勉強した。モンテスキューの「法の精神」やシェイエスの「第三身分とは何か」を一生懸命に翻訳した。
近内は1925(大正14)年12月、司法試験に合格した。
このころ、弁護士が急増していた。1915(大正4)年の弁護士数は2500人もいなかったのに、10年後には5700人になり、1930年には6600人になった。弁護士人口が急速に増加していった。このころも「弁護士窮乏」論が出ています。
そして、1921(大正10)年に自由法曹団が誕生した。同じく、翌年(1922年)7月、共産党が結成された。
このころ、大阪は、人口211万5千人で、200万人の東京を上回る、日本一の大工業都市だった。
近内が弁護士として活動したのは27歳から30歳までのわずか2年4ヶ月のみ。近内は、信念にもとづき、妥協を排し、まっすぐに主張を貫く姿勢で弁護活動を展開した。野性横溢(おういつ)、叛骨(はんこつ)稜々(りょうりょう)という言葉は那須(栃木県)の地に生まれ、農民魂を忘れることがなかった近内の真髄を表している。
1926(大正15)年1月の「京都学連」事件は完全な当局によるデッチあげ事件(冤罪事件)で、近内は、その学生たちの弁護人となった。この事件の被告人には、鈴木安蔵(憲法学者)や、岩田義道などがいる。
近内は、日本農民組合の顧問弁護士として全国各地で多発していた小作争議の現場に出かけていって、農民支援の活動を展開していった。
まだ30歳の若者が、「父の如く慕われている」「トナリのオヤジ」として親しまれた。
裁判所は昔も今も、大地主や資本家の味方で、小作人の味方は決してしない。
近内は、争点を拡げたりして一見無駄に見える時間の使い方をしていた。それによって、小作人は少しでも長く耕作できるからだ。
今日の公職業法には重大な制約が二つあります。小選挙区制と戸別訪問の禁止です。「二大政党」なんて、まったくの幻です。
この本で、著者は、高額(2000円)の供託金制度も問題にしています。まったくもって同感です。もう一つは小選挙区制です。
労働農民党の40人の立候補のうちの30人は自由法曹団員だった。そして、うち11人は日本共産党の党員だった。
近内も労農党から立候補したが、見事に落選した。この選挙では、無産政党の3人が当選できた。山本宣治のほか水谷長三郎(京都一区)がいた。
近内弁護士について、初めて詳しく知ることができました。ちょっと高額な本なので、全国の図書館に備えてもらって、借り出して読んでみてください。
(2023年8月刊。6300円+税)

幻のユキヒョウ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 木下 こづえ・さとみ 、 出版 扶桑社
 ユキヒョウはネコ科のヒョウ属。ロシアや中央・南アジアの高地に生息する。推定8000頭未満、絶滅の危機に瀕している。
 ユキヒョウは雪山に適応して毛が長く、足裏までぎっしり生えている。子育て期間は22ヶ月ほどで、長い。大牟田の動物園にもいる。
 長い尻尾でバランスをとりながら、急な崖も軽快に移動する。ユキヒョウは声帯が小さく、骨の構造が異なるため、大型ネコ科動物のなかで唯一、咆哮(ほうこう)ができない。
 ユキヒョウは頭からお尻までの体長が1メートル、尾の長さも体長と同じ1メートル。どんな体勢であっても、しっぽが地面に擦れてしまうなんてことはなく、その先端はいつもカッコ良くヒュッと上がっている。
 寒さの厳しい山々に生息するユキヒョウは、行動範囲が広く、また警戒心がとても強いため、人間の足で直接観察によって探すことはほとんど不可能。そこで、ユキヒョウがいそうな場所に赤外線カメラを仕掛ける。雪のうえなら足跡が見つかる可能性がある。そして、ひたすら下を向いてユキヒョウの糞を探す。糞は、きわめて貴重な手がかりで、研究者にとっては宝石みたいに価値がある。ユキヒョウは排泄前に後肢で地面を掻き、掻き集まった土の上に排尿し、見せつけるようにその上の糞を出す。
 モンゴルのゲルに泊まると、なかは広々としたワンルーム。トイレも風呂も着換えする個室もない。トイレは青空。夜はゲルから外に出ると、見渡すかぎりすべてが星。トイレの場所は決まっておらず、草原のどこでもOK。なので、窪みや岩の影を探し求める。
 遊牧生活の燃料は家畜の糞。糞を乾燥して使う。モンゴルの草原では、木材は貴重品。
 ユキヒョウは好奇心旺盛な動物でもある。
 次は、インドの3256メートルもある高地に行ってユキヒョウを探します。いきなり富士山の山頂付近に降り立ったようなもの。高山病対策として、寝たらダメ。寝たら呼吸が浅くなって危ない。ひたすら紅茶でも飲んでしゃべっていること。眠ると呼吸が浅くなって酸欠になりやすく、高山病が悪化する。うひゃあ、なんとなんと、眠ったらダメなんですか…。
 ユキヒョウは、大型ネコ科のなかでは気が弱いせいか、人間を襲って殺したという事例は過去に報告されていない。
双子に生まれた姉妹によるユキヒョウ探検記が写真とともに紹介されています。双子のひとりは研究者で、もうひとりはコピーライターです。二人がうまく息をあわせて面白い本になっています。
(2023年4月刊。1760円+税)

魚と人の知恵比べ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 マーク・カーランスキー 、 出版 築地書館
 魚釣り、とりわけフライフィッシングの世界を奥底までのぞき込んでいる本です。
 フライフィッシングといえば、すぐにアメリカ映画『リバー・ランズ・スルーイット』を思い出します。見事な竿さばきが展開するシーン(情景)は今も鮮明な記憶として脳裏に残っています。
 フライフィッシングには、破ってはならないルールが2つだけある。その一つは、水中で転んではいけない。その二は、フライをできるだけ長く水中に保たなければならないこと。
 川に棲むマスは、水温が20度をこえると、エサをとることも繁殖することもなく、死んでしまう。温度の高い水には含まれる酸素が足りないからだ。
 フライフィッシングは、もともとサケ科の魚を釣るために考え出された。サケ科は頭が良くて狡猾で、強く、運動能力が高く、頑固な生き物だ。人間は簡単には釣れない。
海水魚は昆虫を食べない。マス用と海用のフライには、小魚やエビに似せられていることが多い。
竿は弓なりにたわみ、生まれて初めて、至上の喜びともいえる魚の「引き」を感じる。釣り人の素質がある者なら、引きの喜びを一度味わったら、決して忘れられない。それは、筋肉に刻み込まれ、繰り返し繰り返し、感じたくなる。
 釣り人の目的は、魚が疲れきるまで遊ばせること。そうして初めて魚を取り込むことができる。そのような状態にある魚は、血中の乳酸濃度が高まる。濃度が高まりすぎると、魚は死ぬ。
 魚釣りの楽しさを、私は父から教わりました。父の運転するオートバイのうしろに乗って父にしがみついて、弁当をもって菊池川の上流に足をのばしました。それほど釣れたという記憶はありませんが、清流に向かっていい気分でした。私自身は大川あたりの筑後平野のクリークでの鮒(フナ)づりです。浮きがすーっと沈んでいくのに当たると心が踊りましたね…。
 フライフィッシングは残念なことにしたことがありません。それにしても、フライフィッシングだけで290頁もの紹介本です。これもすごい世の中ですよね。
(2023年5月刊。2700円+税)

読み聞かせのすごい力

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 佐藤 亮子 、 出版 致知出版社
 私自身は親から本の読み聞かせをしてもらったという記憶はありません。私が小学1年生のときから、親は小売酒屋を始めて、年中無休で働いていましたし、なにより5人姉兄の末っ子でしたから、私に本を読んで聞かせるヒマはとれなかったと思います。それでも、私は幼いころから「活字大好き人間」で、小学校も中学校も図書館からよく本を借りて読んでいました。小学生のころは偉人伝を読みふけり、中学生のときは山岡荘八の『徳川家康』に感嘆したことを今でもはっきり記憶しています。高校生になってからは図書室で古典文学体系を読んでいましたので、試験科目としての古文はバッチリでした。やはり、原典にあたっておくと、断片ではなく、全体像がつかめますので、視野が格段に広がり、思いが深まるのです。
 そして、子どもたちには絵本をたくさん読んで聞かせました。この本に全然登場してこなくて残念だったのはかこさとしの絵本です。「カラスのパン屋さん」とか「ドロボー学校」などは、子どもたちに大うけでした。そして、科学的な解説絵本も勉強になりました。
 また、滝平次郎の「八郎」や「花咲き山」も、スケールの大きな絵本で、読んでいる私のほうが毎回、じーんと来ていました。
 AI時代で、弁護士も不要になるのでは…、なんて憶測も流れていますが、そんなことは絶対に考えられません。フェイス・トゥ・フェイス。相手の顔、その目つきや表情を見て心を通わせながら解決策をもっていく。それが弁護士の仕事です。それをAIができるはずがありません。コミュニケーションというのは、習得するのに難しい技術で、一朝一夕(いっちょういっせき)で身につけることはできません。
 若手の弁護士に対して、相談に来た人に対してきちんと挨拶し、帰りには笑顔で帰ってもらうようにする秘訣をなんとかして伝授しようと思ってがんばっているところです。
思考力のもとは、言葉の塊(かたまり)。子どもは、その言葉を操(あやつ)りながら思考力を高めていく。世の中は激変したように思われているが、人間そのものは何も変わらないので、育て方は今までとほとんど変わらない。なので、子どもの身体の中に、たくさんの言葉を入れて育てることから始める。それには難しい言葉からではなく、子どもが楽しいと思う言葉から始めるべき。
 いやあ、私は、この提言にまったく同感です。さすが子育てのプロと称するだけのことはあります。
良い絵本とは、お話が優しくて、終わり方がなんとなくほんわかしている。
 大切なことは、親が自分の声で絵本を読むこと。親の声だから、絵本の内容が子どもの耳の底に染み込む。
 子どもがオモチャで遊び、本棚から絵本を取り出したあと、著者は子どもに「片付けなくていい」と言っていた。いやあ、これには驚きました。片付けるのは親の仕事だと割り切ってしまうというのです。発想の転換ですね。子どもたちが伸びのびと遊ぶこと、本を好きに読むことを最優先とするというのです。それを下手に親は邪魔しないほうがよいというのです。この発想には、まいりました。子どもはオモチャ箱をひっくり返して遊ぶのが楽しい。その楽しみを親は防げないようにすべきだというのです。なーるほど、ですね…。
 小中高の12年間の大変なデスクワークの時間のなかで、しっかりした基礎学力となる読み書き計算をしっかり身につけるためには、その能力の育成に役に立つのは、絵本の読み聞かせだ。
子どもたちには、大好きなものを徹底的に追求するという気持ちを味わわせるのが、人生で大切だ。子どもが楽しいことに過集中することが、あとで、集中力、やる気、モチベーションそして自己肯定感につながっていく。それは、親が望んでいるものである必要はなく、子どもの興味にまかせる。子どもの興味は果てしなく、次々の興味の対象が広がっていくので、少し離れて、温かく見守る余裕をもてばよい。子どもにとって、一つのことに集中した体験は、必ず成長の糧(かて)になるだろう。
 子どもに1万冊の絵本を読んで聞かせたという著者ですが、かといって毎日、いちどに長時間かけていたというのでもありません。一度に読み聞かせするのは30分が上限。子どもは、飽きっぽいからです。この30分のあいだに、5冊か6冊を立て続けに読むのです。本の内容を変えて、スピード感をもたせて次々に読んでいくのです。そして、子どもに感想は訊きません。
 子育ては出たとこ勝負でいく。下手なルールはつくらない。ルールを破るのが子ども。
3人の男の子と末っ子の娘さんの4人全員が、超々難関の東大理Ⅲ(医学部)に現役合格したことで有名な佐藤ママの最新作です。早くも、4人全員が社会人となり、医師として働きはじめたとのこと。自宅に置いてあった絵本がダンボール箱20箱あったのを厳選して4箱にしたそうです。残りはお世話になった幼稚園に寄贈したとのこと。やはり、子育てのプロの言葉には味わい深いものがありますね…。著者の配偶者より今回もいただきました。ありがとうございます。
(2023年7月刊。1600円+税)

関東軍

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 及川 琢英 、 出版 中公新書
 終戦1年前の夏、徴兵検査で丙種合格だった叔父が招集され、中国へ引っぱられていって関東軍の兵士(工兵)となって、満州の山地で地下陣地構築にあたらされました。戦闘らしい戦闘もしないまま、8月9日にソ連軍が大挙侵攻してきて、たちまち武装解除されました。
 関東軍の精鋭部隊は南方へ転出していって、残った兵士は「根こそぎ召集」で人数だけ合わせた、戦えない軍隊でしたので、激戦の独ソ戦を経て最新兵器をもつソ連軍の前に、ひとたまりもなかったのでした。
 そんな叔父の手記をもとに『八路軍(パーロ)とともに』(花伝社)を先日出版したところ、読んだ人からは好評でしたが、残念なことにベストセラーにはほど遠い状況です。
 そんなわけで、関東軍については、同じタイトルの本(島田俊彦と中山隆志。いずれも講談社)があり、本書は格別に目新しいことが書かれているわけではありません。
 関東軍につきものだった謀略は、そもそも陸軍の常套(じょうとう)手段だった。
 謀略は、その隠蔽的な性質上、統制を困難にする要素を含んでいる。しかも、張作霖への兵器供給にみられるように、軍事顧問や特務機関、関東軍ら出先だけではなく、陸軍中央も政府方針に反する謀略に関わっていた。その結果、陸軍中央が出先の謀略を抑えようとしても説得力を持たず、出先が独走していく結果を招いた。
 満州事変での関東軍が特異なのは、独断で緊急的な事態を謀略により自らつくり出して出兵し、攻撃を続けたことである。
 陸軍中央は臨参委命という奉勅命令に準じるもので関東軍を抑え込んだが、スティムソン事件という「幸運」によって臨参委命の権威は崩れ、関東軍は、満州国樹立というそれまでにない大規模の謀略を成功させた。
 この「臨参委命(りんさんいめい)」というのは初耳ですが、参謀総長が天皇から統帥権を一部委任されて軍司令官を指揮命令するというもの。
 そして、スティムソン事件とは、アメリカのスティムソン国務長官が日本との協議を手違いで公表してしまったことから、政府が軍機をもらしたとして大問題になったというものです。
日本が戦前の中国、そして満州で何をしたのかは、もっと明らかにされてよいことだと確信しています。
(2023年6月刊。920円+税)

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