法律相談センター検索 弁護士検索
2023年6月 の投稿

ムラブリ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 伊藤 悠馬 、 出版 集英社
 ムラブリとは、タイやラオスの山岳地帯に住む少数民族のこと。山間の傾斜地で、焼畑農耕をしている、裸足(はだし)で森と共に生きる狩猟採集民。畑仕事はしないし、定住もしない。
 ムラは人、ブリは森。だから、ムラブリとは、森の人。
 ムラブリは、今や500人ほど。ムラブリ語は文字がなく、いずれ今世紀中には消滅するだろう。著者は世界で唯一のムラブリ語研究者。
 ムラブリは文字をもたず、暦もない。スケジュールとか時間割にしばられず、日々を森の中で過ごす。明日のことは明日の自分が決める。言い争いもしない。お互いに意見を言い合うこともない。
 ムラブリ語研究者の著者は、リュックにおさまるだけの日用品しか持たない。爪切りと歯ブラシと手拭いがあれば生活できる。
ムラブリの調査をするにはタイの公用語であるタイ語が話せることが必須、森へ猟に出かけ、サル、リス、モグラ、ネズミそして竹の中にいる竹虫をとって炒めて食べる。芋やタケノコも食べるが、キノコにはあまり興味がない。
ムラブリ語には、「おはよう」「こんにちは」などの挨拶コトバがない。その代わりに、「ごはん食べた?」「どこ行くの?」などの質問が挨拶の代わりになる。挨拶に意味を求めてはいけない。意味のないことが挨拶にとっては何より大切なこと。
 言語の消滅は、ひとつの宇宙が消えるのに等しい。
 「心が下がる」は、うれしいとか楽しいとの意味。「心が上がる」は、悲しいとか怒りを表す。ムラブリは、自分の感情をあらわすことがほとんどない。ムラブリ語には、感情も興奮もない。
 ムラブリは他の民族との接触をできるだけ避け、森の中に息をひそめて生きてきた。
 ムラブリは歴がないし、曜日もない。月はあるが、1ヶ月が何日かは人によって異なる。つまり、気にしていない。年もあるけど、自分が何歳か知らない。
 ムラブリ語には数字が1から10までしかない。「4」はたくさん。なので、大人は、みんな「4歳」。
 ムラブリの男性は時計を身につけるのが好きだが、まともに動いている時計は少ない。
 ムラブリは暴力を嫌う。人間関係でトラブルがあったら、争うよりも距離を置くことを好む。
ムラブリは年歳(とし)をとって夫や妻を亡くすと一人で暮らすようになる。息子や孫が高齢の身内の老人を介護することもしない。まずは自分で生きていくのが前提の社会だ。
 狩猟採集民は獲物をシェアすることで、富が集中することを避け、権力が発生しないような仕組みをもっているからこそ、森の中で生き残り、今日に至ったのだろう。
 ムラブリには、いかなる専門家もいない。分業はしない。
 ムラブリは製鉄技術をもっている。地面に穴を掘り、竹によってふいごを用意し、玉鋼(たまはがね)をつくる。
 著者は、ムラブリについて、農耕民の生活になじめなかった人々の集まりだと考えています。農耕の定住生活が嫌で、森に住むことを選んだ人々だろう。
 ムラブリは結婚するのに儀式もなければ、婚姻届けもない(だって文字がないのだから…)。別れたいと思えば別れる。ただそれだけ。
 ムラブリは遊動民であり、森の中を10~20人単位で移動しながら暮らしている。
 ムラブリは、10代になればほとんど寝床を自分の手でつくれるし、資源がある限りは、食料や薪を森から調達する術を身につけている。ムラブリは体調が悪くても、病院には行きたがらない。
ムラブリの物質文化は乏しい。民族衣装もなく、ふんどし一丁。
ムラブリは自由が好き。強制されることが嫌いだ。いやあ、なんとなんと、こんな人たちがいるのですね…。そして、日本の若者がそこに飛び込んで、ついにムラブリ語を自由に話せるようになったなんて、すごいことですよね。あまりに面白くて、車中で一気読みしてしまいました。ご一読をおすすめします。
(2023年4月刊。1800円+税)

ここにいます

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 伊藤 隆 、 出版 鳥影社
 小鳥たちの見事な写真集です。信州・諏訪地域、霧ヶ峰高原、八ヶ岳山麗そして諏訪湖周辺で野鳥を撮っています。すごい執念です。霧ヶ峰高原は、著者宅から車で20分ほど。野鳥撮影のため、年に40~50回は足を運ぶとのこと。まさしく、ホームグラウンドですね。
 それでも野鳥撮影を始めて、まだ15年とのこと。本職は公認心理士で、スクールカウンセラーや心理カウンセラーの仕事に従事しています。
 脚立のついた超大型のカメラを抱えた著者の写真もあります。早朝や休日を利用しての野鳥撮影です。それこそ好きでなければ絶対にやれないことですよね。
 カメラは一眼レフからミラーレスへと大きな転換点を迎えているとのこと。私もフィルムカメラのときはペンタックスを海外旅行先にまで持参し、フィルムを30個以上もスーツケースに入れていました。帰路は現象していないフィルムがX線検査で露出させられないか心配して、特別の袋に入れて日本へ持ち帰っていました。
 派手な冠羽と大きなくちばしが印象的なヤマセミは実に生き生きしています。
白一色の冬景色の中に浮かび上がるピンク色のオオマシコは派手というより躍動感にあふれています。
 もっと原色の赤に近い身体の色をしているのが、文字どおりアカショウビン。3時間も待ってとらえた貴重な写真が紹介されています。
 鮮やかなブルーの尾羽が特徴的なカワセミは、私の自宅近くの小川に見かけることもあります。
 わが家の庭に来てくれるのはメジロ、そしてジョウビタキです。秋から冬にかけて、私が庭仕事をしていると、ジョウビタキがほんの1メートル先の小枝に止まって、私を見つめ、「何してんの?」と声をかけてくれます。独特の鳴き声で存在を知らせてくれるのです。人間のやってることにすごく関心があるようなんです。その愛らしい仕草に心が惹かれます。
 こんな立派な野鳥の写真集(130頁)なのに、1800円という安さです。思わず頭が下がりました。
(2023年3月刊。1800円+税)

四郎乱物語

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  不詳 、 出版  天草キリシタン館
 原本は天草キリシタン館が個人から委託された分7冊から成る資料(冊子)。今では虫喰いや摩耗、欠損が著しく、保存状態はとても悪い。でも幸いなことに写真と活字版で全文が読める。といっても、昔の文体だし、漢文調でもあり、容易に理解はできない。
「四郎乱」というタイトルは、島原天草一揆を退治する藩政の例からみた本であることを意味する。天草の福連木材で庄屋をつとめた尾上家に伝わった冊子。作者も作成年も明らかではない。江戸時代の中期には成立していたと考えられている。
 「四郎乱」は、基本的に一揆を「悪」とした体制側の正当性を強調する軍記物語。歴史記録というより文学作品として読まれるべきもの。
 熊本藩が藩校「時習館」に収蔵していた、すなわち公的に保管していた。
 このころ(寛永14年、1637年)は、島原・天草とも大干ばつで住民は飢饉に直面した。何かにすがって救いを求めようという心情からキリシタンは増え、ついには島原の大乱にならって、天草でも百姓たちが一揆を始めた。
 唐津や熊本からの援軍が到着するまで、キリシタン軍1万人に対して藩軍は500騎。唐津からの援軍6千人が到着し、それまで城内にたて籠もっていた藩軍はなんとか生きのびることができた。
 島原の原城に籠城した絵師の山田右衛門は城外の藩軍と連絡をとりあっていて、藩軍に救出されて大住生することができた。
原文は独特の流麗な崩し字なので、さっぱり分かりません。それでも、とても詳細に一揆の流れをたどっていますので、原文とあわせながら読んでいるうちに、少しずつ分かってきます。貴重な復刻版です。
(2016年3月刊。2000円+税)

「負けへんで!」

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 山岸 忍 、 出版 文芸春秋
 東証一部上場企業(プレサンス)の社長が横領罪で逮捕され、長い苦難のたたかいの末に無罪判決を勝ち取った。検察は控訴することなく、一審で無罪が確定した事件を当の本人が逮捕されてから保釈されるまでの心の葛藤をリアルに明らかにしています。それは「負けへんで!」というタイトルに反して、もう負けそう、どないかして、という悲鳴の叫び声に充ち満ちています。なるほど、8ヶ月も勾留生活が続いたら、誰だって心が折れそうになるよね、そう思わせる手記になっています。
著者は大企業の社長でしたから、弁護団を次々に拡充していくことができ、まさしく最強の弁護団チームを確保できました。国選弁護人では、とても無理なことです。国選弁護人は原則として1人ですし、特別チームをつくることが認められても、オウム事件のときでも5人も6人もついていたとは思えません…。
 否認事件なので、弁護人は黙秘をすすめる。しかし、著者は「何にも悪いことしていない」「そんな卑怯なことはしたくない」「潔白だから、黙秘なんて卑怯なことをする必要はない」と、断乎として主張し、弁護人と衝突した。ここは、やはり弁護人の言うとおりに黙秘すべきなのです。黙秘は卑怯どころか、勇気あるたたかいなのです。
ちゃんと説明したら、検察官も本当のことを分かってもらえる。これは、まったくの幻想、つまり誤解なのです。
検察官は一体となって被疑者・被告人を有罪としようとがんばります。検察の威信をかけるのです。
著者は警察の留置場ではなく、拘置所に入れられ、そこの取調室で検事の取り調べを受けた。
 突然、世間から隔離され、毎日ひとりの人間だけに問い詰められる。恐怖と絶望にさいなまれる状況で、狭い空間のなか膨大な時間をともにする検察官は「神」のような存在に肥大化していくのです。
著者は山口智子検事だけが頼りに思えた。山口検事と話をしている間だけ、ホッとできた。心にしみ入る孤独から救ってくれたのは山口検事だけだった。いやはや、なんという間違いでしょう。
否認事件で保釈が認められるのは難しい。ゴーン事件では保釈中に逃亡してしまったことから、裁判所も容易には保釈を認めない。そこで、弁護団は6度目の請求のとき保釈の許可条件を工夫した。ケータイの使用期限、自宅に監視カメラ、弁護人の事務所への出頭、そして銀行預金の支払い停止。
 最後の条件は、大金を持って外国へ逃亡することのないようにするためのもの。さすが大企業の社長となると、違うものです。結果として、ついに7億円の保証金で保釈が認められました。
 この事件では検察官による取調状況が録音・録画されています。そして、ついに法廷の一部で、その録画部分が再現されたのでした。録画の画面では、取調官の顔は見れない。私は、まだ体験したことがありません。
 閉じ込められた状態で長時間の取調べが続くので、そのなかで検事の言うことに「違います」と反論し続けるには、すさまじい気力と根気がいる。
 刑事弁護人として名高い秋田真仁弁護士は、反対尋問というのは「寸止めして逃げる」が鉄則だと強調している。まったく、そのとおりです。攻めすぎると、相手に言い訳させてしまう。弁解の言葉を引き出させることになってしまう。
でも、刑事弁護では、攻めるものではない。論破することが目的ではない。お客さまを論破しようとするのは、間違い。刑事裁判は、あくまで減点主義。相手をやっつけてやろうなどと考えないこと。
大阪地検特捜部が無理な見込み捜査をして起訴したというのが、この本を読んだ感想です。村木事件もそうでしたよね。映画『ウィニー』もそうでした。この事件で少しは改められたのでしょうか…。実際のところ、検察が反省したとは、とても期待できません。
(2023年5月刊。1700円+税)

「日本人捕虜」(上)

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 秦 郁彦 、 出版 中公文庫
 日本人が捕虜となった事件を紹介する本です。
 白村江(はくすきのえ)の戦(663年)で、日本・百済(くだら)連合軍は唐・新羅(しらぎ)連合軍に大敗しましたが、このとき唐軍にとらわれ、27年後に日本へ帰還して「有30端、稲1千束、水田4町」を恩賞にもらった筑紫国の住人の大伴部(おおともべの)懐麻(はかま)がいた。このほか、三宅連(むらじ)得呼(とくこ)も捕虜となって先に帰国していた(『日本書紀』)。捕虜となったあと帰国して、ごほうびをもらった日本人がいたんですよね。
 秀吉の朝鮮出兵のとき(壬辰倭乱)、日本軍捕虜は「降倭」と呼ばれた。捕虜というより指揮官クラスをふくむ投降者が多く、しかも第一次出兵の初期から始まっていて、多くは朝鮮軍に寝返って日本軍と戦い、戦後も朝鮮にとどまり帰代定住した。
秀吉の朝鮮出兵は兵力30万人のうち5万人を失う惨烈な戦だった。参戦した武将達には概して不人気で、名分がなかったせいか、日本軍に戦意が乏しく、朝鮮や肥前名古屋からの逃亡者は多かった。
その総数は不明だが、有名なのは「沙也可(さやか)」こと金忠善。1642年に72歳の天寿をまっとうした。現在も14代目の子孫が健在。加藤清正の配下の岡本越後守と推定する人もいるが、確証はない。
このとき、日本軍は、2万人ないし5万人もの朝鮮の人々を日本に連行してきた(捕虜という定義にあてはまるのか疑問)。徳川家康が朝鮮との国交を回復したあと、数千人を送還した。鍋島の有田焼や島津の薩摩焼のような陶芸技術を伝えた人たちもいた。
日清戦争のとき、中国軍に捕まった日本兵は多くは中国軍に殺されたようで、捕虜となった日本兵が帰国したのは1人のみ。
日本軍の捕虜となった清国(中国)軍兵士は1790人いて、1113人が日本内地の収容所に入れられた。そして、下関条約で講和が成立したあと、中国に送還された。
 日露戦争のときは、捕虜がケタ違いに多かった。ロシア軍が8万、日本軍が2千だった。
 2千人の日本人捕虜は、うち223人は中国(満州)から帰国し、残りはヨーロッパ・ロシアの収容所から帰国した。収容所での待遇は、決して悪くはなかった。ただし、日本へ帰ってからは、周囲の冷たい視線に耐えられず、出奔する例が多かった。
 欧米では、「捕虜はひとつの特権にして、保護は当然」と考えられていた。ところが、日本兵は恥と考える思考が強かった。田舎になるほど捕虜に対する偏見が強く、居づらくなって大都市や海外移民へ逃避した者も少なくなかった。
 日露戦争のときは、ロシア兵が「マツヤマ」と連呼しながら投降してくるぐらい、日本の敵国捕虜に対する好遇ぶりは有名だった。
 この本に書かれていることではありませんが、中国共産党軍が日本敗戦後の国共内戦をすすめるにあたって、国民党軍の捕虜を好遇したことは特筆されるべきでしょう。国民党軍の兵士が負傷して捕虜になったら、自軍の兵士と同じレベルで治療し、回復したときに自軍への参加を呼びかけ、応じないときには、いくらかの旅費を手渡して帰郷させたというのです。これは絶大な効果があったようです。それほどの温情ある軍隊なら、自分も参加しようという気になるでしょう。
 ところで、共産党軍が日本軍を敵としていたときには、いったん捕虜になったら日本軍に戻っても好遇されないことを知って、日本軍への送還は止めたというのです。
 日本軍の悪しき伝統である兵士の生命・身体をまったく軽視してしまう考えは改められる必要があります。自衛隊では、その点、どうなっているのでしょうか…。まさか捕虜になったら死ねなんて教えてはいないでしょうね。大変勉強になりました。
(2014年7月刊。1200円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.