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2023年5月 の投稿

ヴォロディミル・ゼレンスキー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ギャラガー・フェンウィック 、 出版 作品社
 ご存知、ウクライナの大統領についての「本格評伝」です。サブタイトルは「喜劇役者から司令官になった男」。
 ウクライナは面積60万平方キロメートル、人口4400万人。人口は韓国より少ないのですね。でも、現在どれくらいの人が本国に残っているのでしょうか。若い男性は出国禁止になっているようですよね。それこそ総動員体制なのでしょう。
 ロシアは面積1700万平方キロメートルですから、文字どおりケタ違いに大きいです。人口は1億4500万人。日本の人口は1億2千万人ほどですよね。インドや中国と違ってロシアの人口は10億人とか、そんなに多くはないのですね…。
 ゼレンスキーの父親はサイバネティックスが専門。情報工学の教授で、母親はエンジニア。ユダヤ人の両親は、労働者階級のなかで地位を築いた知識人。
 ゼレンスキーは、大学の法学部に入学して卒業した。しかし、学生のころから仲間とともに劇団活動に励んでいて、座長となり、コントの台本執筆と演出、そして自らも出演した。
 友人はゼレンスキーについて、「彼のずば抜けた点は、人の心の動きを直観的に読みとる鋭さにある。人の心を正確に理解し、その行動の背後にあるロジックをやすやすと把握する」と語る。
 ゼレンスキーはオリガルヒ(ソ連崩壊後に生まれた新興の大富豪)の一人であるコロモイスキーと深い関係にある。コロモイスキーもユダヤ人。オリガルヒ同士は、みな顔見知り。ゼレンスキーは、コロモイスキーから4000万ドルの送金を受領したのではないかという疑惑があった。さらに、ゼレンスキーは、イタリアにも別荘を隠しもっていると報道された。ゼレンスキーは自らがユダヤ人であることを隠していないが、とりたてて強調してもいない。
 ところが、プーチンがウクライナ侵攻にあたって、ナチズムから国民を守るためと宣言したことから、ユダヤ人のゼレンスキーをナチスであるかのように決めつけることの当否が議論になった。
 ソ連時代のユダヤ人は無神論者を自称し、ユダヤ教徒であることを必死で隠した。
 現在のゼレンスキーは、ユダヤ人の血を引きながら、なおかつ抵抗するウクライナの顔であり、戦う愛国者の化身だ。
 ウクライナの議会で極右政党は450議席のうち1議席のみでしかない。
 ゼレンスキーが大統領になる前、テレビ局の連続ドラマでゼレンスキーは主役となって腐敗した政治に鋭く切り込んでいく主役を演じた。視聴者は2015年12月、史上最高の2000万人を記録した。ゼレンスキーは、2018年12月まで、政界進出の野心は一切ないと否定し続けた。ところが、12月末に突如として大統領選への出馬を表明した。
ゼレンスキーは、政治集会を開催せず、記者会見も開かず、ジャーナリストのインタビューに応じることもなく、他の候補者との討論会にも参加せず、巡業を続けた。ゼレンスキーへの支持はうなぎのぼりに上昇し、2019年1月、ついにトップを占めた。2019年4月、ゼレンスキーは73%の得票率で大統領に当選した。
 ドラマのおかげで、国民はゼレンスキーを自分たちに寄り添ってくれる人物だとみなした。エリート階層に属しているのは明らかなのに、国民はゼレンスキーを「ブルーカラー出身の富豪」とみなした。30歳未満の有権者の80%がゼレンスキーに投票した、40歳未満だと、70%前後だった。ゼレンスキーは言った。
 「私たちは腐敗に打ち勝つとウクライナ社会に約束した。だが、今のところ、取り組みは着手すらされていない」
 すでに衰弱していたウクライナ経済は、コロナウイルスの蔓延で深刻な危機に頻していた。
 もはやゼレンスキーは、自分に尽くしてくれた億万長者コロモイスキーと疎遠になるほかなかった。ロシア侵攻後の今、ゼレンスキーの支持率は80%から90%、ウクライナ軍は全国民の信頼を取り戻した。
 といっても報道によると、ウクライナ軍の汚職・腐敗はなくなってはいないようですね。国防大臣も更送されましたし…。ゼレンスキー大統領とは何者かを知ることのできる本です。
(2022年12月刊。1800円+税)

近代日本における勧解・調停

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 林 真貴子 、 出版 大阪大学出版会
 明治時代、日本人は今では信じられないほど臆せず裁判を利用していました。なので、日本人は昔から裁判が嫌いだったなんていう俗説はまったくの間違いなのです。法社会学者として高名な川島武宣は私が大学に入ってからすぐに知り、とても尊敬する学者ですが、同じような過ちをおかしています。
 日本の裁判制度は明治に入ってフランスやドイツの法伸を直輸入していて、江戸時代までの裁判手続とは縁もゆかりもないというのも不正確のようです。
 この本では、明治期の法制度について、江戸時代的要素の強い連続面もあり、西洋由来の法制度という断絶面とは、ウラとオモテとして、同時に存在していたとされています。私も同感です。
 勧解は、明治期に導入されたもので、区裁判所(治安裁判所)において裁判官が紛争解決を勧める制度。非常によく利用された。勧解は本人出頭が原則で訴状や証拠書類を必要とせず、口頭で申立できた。費用は実費で(安いということ)、敗訴者負担もない。法律にこだわらす、実情に応じた解決が目ざされた。
 勧解は1875(明治8)年8月から、東京で、次に12月から全国で行われた。
 勧解を担当したのは原則として判事補。そして、本人訴訟が原則だったが、実は、代言人などが代理人をつとめていた。勧解での代理を業とする人々までいた。
 私は本書を読むまで、勧解ができたので裁判が多かったと思い込んでいましたが、実は、裁判が急激に増加したことから、その対処策として勧解が導入されたのでした。原因と結果が真逆というわけです。この勧解は、フランスの勧解制度を制度に継受したもの。
 勧解は、商事にかかり急速を要する案件と諸官庁に対する事件は除外された。なーるほど、ですね。
勧解制度は、1875(明治8)年に成立し、1891の民事訴訟法の施行とともに消滅した。
労働紛争において勧解の利用率は高かった。使用者側からは、職場から逃げ出した労働者を連れ戻そうとした。労働者側からは、不払い賃金を請求した。
 使用者側から雇人を取り戻す裁判が次々に提起されたが、その多く、約半数は請求が棄却された。また、債務者側に有利な借金整理案が示されていたようです。ちっとも知りませんでした。
 債務者からの申立は審理期間が短く、調停の成功率は8割近いほど高かった。
 勧解は非常によく利用された制度であり、この制度は急激に増加した裁判件数の軽減を狙ったもの。
とても実証的な記述のオンパレードでした。明治初~中期の日本の裁判制度の運用状況を知ることができ、大変面白く読み通しました。
(2022年10月刊。6400円+税)

犬だけの世界

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 ジェシカ・ピアス、マーク・ベコフ 、 出版 青土社
 人類が消えてしまったとき、犬だけで生きのびることができるのか…。私は、出来ると思いますが、全部の犬種ではないでしょうね。野良犬として生きのびている犬種、雑種はなんとかして生きていくでしょうけれど、チワワみたいな座敷犬、人間に頼り切りの犬は生存していけないだろうと思います。
 犬は自力で生きていくのが得意ではない。人間がほとんどの犬から狩猟本能を奪ってしまったから。なので、犬の大半は、人間が消えたら、生き残れない。ただ、最初の調整期間が過ぎたら、犬も十分生き残れるだろう。
 イヌが自然の本能にしたがって生き残って変化していっても、狼(オオカミ)に戻るとは考えにくい。
 全世界に犬は10億匹近く存在する。アメリカには、8300万匹の犬がいる。
 イヌ科の動物の行動は多彩かつ日和見主義的で、コミュニケーション能力が高く、分散して行動する傾向にある。
 犬はメスの発情周期が年に1回ではなく、年に2回ある唯一のイヌ科動物。
 犬が家畜化したのは、4万年前から1万5千年前のあいだ。だから、犬と人間の関係は古いのです。比較的新しい猫とは比べようがありません。
 オオカミは全世界に30万匹しかいない。
 自由に歩きまわれる犬で、野犬との境界線は非常にあいまいで、犬はこの流動的なカテゴリーを行ったり来たりすることができる。
 世界中の犬の30%、3億匹が「純血種」。犬種は固定されたもの、発明品ではなく、常に変化を続けている。
 犬種特有の性格というのは実はなく、犬それぞれの性格があるだけ。うひゃあ、これには驚きました。犬種と性格は絶えず一緒だと思っていました。
イヌ科の動物は、走行性の動物。生まれながらのランナーで、耐久アスリート。
犬の尾は、気分や意見を示す重要なツール。敵意や服従、性的受容、怒り、ふざける気持ち、不安といったシグナルを送っている。犬に尾がないと、犬にとって社会的コミュニケーションの重要なツールがないので、大きな負の影響が出る。
 オス犬は、父親として子育てに関わることがある。そして、両親以外の成犬も子の養育に参加する。メス犬の妊娠期間は63日間。
 犬の死因の最大は人間によるもの。犬の衣食住にとってもっとも重要な時期は生後3週から8週ころ。したがって、子犬をもらう(買う)のなら、生後3ヶ月ほどたってからが一番ということです。適切な衣食住を受けた犬は、従順で落ち着きがあり、辛抱強く、心理的にも感情的にもバランスのとれた犬に成長する。
群れには階級制度(ヒエラルギー)がある。エサにありつく順番、繁殖が許されない、という不利がある一方、機能的な集団内で暮らしていけるというメリットもある。 犬は団結力のある集団を協力してつくり、共通のゴールを達成する。
 犬は非常に頭が良く、洞察力が鋭い。人間の考えや感情を人間より先に察することができる。犬は遊ぶ。一人遊びもするが、それは「楽しい」から。
 日本人が犬を飼うのは、この30年間に、国民1千人あたり犬が20匹だったのが、90匹に激増した。なるほど、犬をよく見かけるようになりました。
 犬にまつわる話が満載で、面白く読み通しました。
(2022年11月刊。2400円+税)

足利成氏の生涯

カテゴリー:日本史(室町)

(霧山昴)
著者 市村 高男 、 出版 吉川弘文館
 足利尊氏(たかうじ)の四男・基氏(もとうじ)を始祖とする関東の足利氏の流れに、足利成氏(しげうじ)はある。
 基氏は、鎌倉公方(くぼう)家の祖。成氏は父が四代鎌倉公方の足利持氏で、成氏が9歳のとき、父の持氏が山内上杉勢に攻められ、永享11年(1439)年2月、謹慎中の永安寺で自害し、兄義久も自殺して鎌倉公方家は滅亡の渕に追い込まれた。
 そして、成氏(万寿王丸)も捕らえられたが、幸運にも処刑が中止されて助かり、信濃の禅寺に身を潜めた。
室町将軍・義教(よしのり)が赤松満祐(みつすけ)に殺害されたことから、鎌倉公方に成氏を推す勢力が盛り上がり、ついに成氏16歳の文安4(1447)年8月に鎌倉に帰還した。成氏が20歳のとき、江ノ島合戦が起きた。この実際の戦闘で成氏は上杉方に勝利して、実力と存在感を示すことができた。
 成氏は鎌倉に戻り、寺社の所領を回復し、徳政令も発した。成氏は、関東管領(かんれい)の上杉憲忠と張りあっていたが、享徳3(1454)年12月に上杉憲忠を御所に呼びよせて殺害した。これには公方近臣たちの意向が強く反映していたとみられる。憲忠を殺害された上杉方は、享徳4(1455)年正月、早々、成氏への報復合戦を始めた。享徳の乱の始まりである。
 足利幕府は、将軍義政や管領細川勝元らの方針で、成氏討伐を主張し、決定した。成氏は鎌倉を離れ、享徳4(1455)年12月、下総(しもうさ)古河(こが)に着陣した。
 京都で、応仁・文明の乱が始まったのは応仁元(1467)年5月のこと。
 文明14年(1482)年11月、成氏は、足利義政と都鄙(とひ)和睦(わぼく)を成立させた。鎌倉公方の成氏は、下総古河に移って古河(こが)公方と呼ばれるようになった。これは成氏が鎌倉を追い出されて古河に逃げたのではない。
 やがて、古河は鎌倉から移転した「鎌倉殿」の本拠であり、「関東の首都」としての位置を占めることになった。
 成氏は生まれたあとまもなく、鎌倉の大地震や富士山噴火などの災害被害の洗礼を受けた。また、永享9年に陸奥・関東で大飢饉が発生している。
乱世を駆け抜けてきた成氏は、50代半ばすぎに中風を患ったが、すぐには家督(かとく)を子に譲ろうとはしなかった。成氏は67歳で亡くなった。
 成氏の政治的交渉には柔軟性があり、自分の信念なしに時流に流されることのない良い意味で頑固さがあった。
 京都の幕府は、年中行事や儀式・典礼などの面で、公家世界の影響を強く受け、武家社会の伝統や儀礼を変質させた。かえって鎌倉府のほうが、儀式・典礼や年中行事などで武家政権の伝統や文化が良く保存されることになった。
 古河公方の実態を明らかにした本格的な書物として、最後まで興味深く読みすすめました。
(2022年10月刊。2700円+税)

葛藤する法廷

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 水野 浩二 、 出版 有斐閣
 「ハイカラ民事訴訟と近代日本」というサブタイトルのついた本です。「ハイカラさんが通る」って、なんか聞いたことがありますよね。いったいいつの話なのかな…。
 なんと、この本は明治24年(1891)年に施行された民事訴訟法の運用と、その改正法が成立・施行された1929(昭和4)年までの動きを追っているのです。
 なんで、私がそんな古い民事訴訟法に興味をもったかというと、江戸時代の民事裁判と明治時代のドイツ直輸入とされている民事訴訟法の異同また関連性の有無を知りたかったからなのです。
 私の畏友の園尾隆って元裁判官(現弁護士)は江戸時代の民事訴訟手続は明治時代にも生きていて、受け継がれているところがあると指摘しています。私も漠然と、この指摘に賛同しているのです。
 ところが、この本の著者には、その視点が残念ながら欠如しているようです(あるのかもしれませんが、私には読みとれませんでした)。それはともかくとして、この本で話題になっているところは、現代の裁判にも共通するところが多いのに驚かされました。
 たとえば釈明権の行使です。昔(明治から昭和初め)の裁判所は釈明権の行使に消極的であったらしく、弁護士の側は、それへの不満を多く述べています。
 裁判官の多くは不干渉主義をとっていたようです。当事者にまかせっきりで、裁判官がきちんと交通整理(争点の整理)をしないのです。今も少なからず存在しますが、こんな裁判官は無責任としか言いようがありません。裁判官による「過剰な介入」という批判は多くなかったとのこと。これまた、今も同じです。
このころ弁護士は、判検事とは別の弁護士試験というものがあって、それに合格すると、すぐに弁護士業務ができていました。すると、実務修習がないわけですので、初めての弁護士は勝手が分からず、困ったでしょうし、周囲も困惑させられたことでしょう。
 また、裁判にあたって、弁護士を代理人として選任しないことも少なくなかった。それは裁判官を困らせた。そこで、弁護士強制の制度の導入を唱える人たちも一定いましたが、法改正にまで結びつけることができませんでした。
 本人訴訟は、明治の当時も令和の今も一定数まちがいなく存在します。私は、これからもあまり減ることなく存続するとみています。日本人のなかには昔も今も裁判が好きでたまらないという人が一定数いるのです。これは私の実感です。
明治民訴法の下では、法廷での証人尋問は、すべて裁判官を通じて発問することになっていたようです。驚きました。
 法廷に立って証言する証人は、そのほとんどすべてが前もって訴訟当事者のいずれかからよくよく言いふくめられていた。証人は法廷では嘘をつくものだと多くの裁判官に考えられていた。
 口頭弁論というのは、昔も今も、書面を提出するだけで、実際には口頭での「やり取り」はありません。
 清瀬一郎弁護士(戦後、国会議員にもなった、有名な人ですよね…)は、東京のほうは法律解釈に重きを置き、大阪のほうは事実の真相を得ようとする点に重きを置くので、東西でかなり力点が違うとみていた。
 弁護士からすると、現実の裁判官(これも当時の…)は、しばしば近代法の常識を「権威主義的に」ふりまわす「非常識」な存在だった。逆に言うと、弁護士は、「常識や人格を備えた名判官」への憧憬があった。これは現代でも同じですね。実際には、そんな裁判官は残念ながらきわめて少数なのですが…。
ほとんどの裁判官は自分で思っているほど常識はなく、なにより「強い者」に歯向かう勇気がありません。まあ、これは、ないものねだりなのかもしれませんが…。
 明治の裁判では、法廷での証言よりも、書証に圧倒的な重点が置かれていました。法廷では偽証が多いと思われていたのです。
 それにしても、法廷で弁護士そして当事者が証人に直接尋問できなかったというのは驚きです。ただし、今もヨーロッパでは裁判官しか尋問できないという国があると聞いた気がします。フランスだったかと思いますが、これは間違っているでしょうか…。そうだとすると、日本の弁護士にとって不可欠な反対尋問ができないというわけですから、完全な欲求不満に陥ってしまいますよね。
 ということで、面白く370頁もの学術書を読み通しました。
(2022年3月刊。7700円+税)

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