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2023年5月 の投稿

FDRの将軍たち(下)

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ジョナサン・W・ジョーダン 、 出版 国書刊行会
 第二次大戦における連合軍側の合意形成過程にとりわけ興味をもちました。決して一枚岩ではなく、アメリカとイギリスの思惑の対立、アメリカ軍内部のさまざまな利害・思惑の対立がずっとずっとあったのでした。
 そして、ソ連(スターリン)をどうやって連合軍の陣営にひっぱり込むかでも、米英それぞれが大変苦労していたようです。たとえば、カチンの森虐殺事件では、大量のポーランド軍将校を虐殺したのはソ連(スターリン)だと分かっていながら、ソ連の参戦を優先させ、米英首脳部(FDRとチャーチル)は沈然したのでした。
 また、アウシュヴィッツ絶滅収容所でユダヤ人の大量虐殺が進行中であることを知りながら、収容所爆撃は後まわしにされました。戦争の早期終結のためには重化学コンビナート爆撃を優先させるべきだという「政策」的判断によります。
 指導者の人間性についてのコメントも面白いものがありました。中国の蔣介石について、チャーチルは中国国内を統一するだけの能力はなく、日本軍を倒すことより、内戦に備えての再軍備そして私腹を肥やすことにしか関心がないとして、とても低い評価しかしなかった。
 戦後日本で神様のようにあがめられたマッカーサーについては、アメリカの大統領を目ざす野心が強烈で、マーシャル将軍のような公平無私の姿勢がないとしています。
 FDR(ルーズヴェルト)は、戦後の中国を西側陣営にしっかり組み込むことを望み、そのため蔣介石たちをカイロ(エジプト)に招待もしていた。
 イギリスは蔣介石は、いざというときには頼りがいのない男だとみていた。
 ナチス・ドイツに攻め込まれていたソ連は、一刻も早くヨーロッパで第2戦線が開設されることを強く望んだ。そして第二戦線がヨーロッパに開かれたら、ソ連(スターリン)もドイツ降伏の日からまもなく(3ヶ月内に)対日戦に参加することを表明した。
 欧米では高い社会的地位につく者が、入隊した自分の息子を危険な戦場から遠ざけることはできない。これが暗黙の了解だった。立派ですね。なので、万一、自衛隊幹部の子弟が戦場で毎週のように死亡するという事態が現実化したら、日本社会はどのように反応するのでしょうか…。日本では、そんな事態になるよりも、裏に手をまわして危険な前線に送られないように、きっとなることでしょう…。
FDR(ルーズヴェルト)が死亡したとき、後継者となったハリー・トルーマンは、前の大統領(FDR)とは異なるタイプの人物だった。トルーマンは、短く、早口で、ざっくばらんな話し方を好み、世間話はせず、返答を避けることもしなかった。
 FDRはトルーマンに対して、スターリンやチャーチルとの秘密のやりとりを一つも明らかにしなかった。トルーマンは連合国の戦略も原爆の製造・販売について何もFDRから知らされていなかった。
 アメリカの原爆投下候補の町として京都が上げられていた。このとき司令官のスティムソンは京都をリストから外すよう命じた。しかし、部下のグーヴズは京都も対象にすべきだとして、直接に大統領に働きかけた。しかし、それは却下され、無事に京都は残りました。
6月6日のDデイ(「史上最大の作戦」の開始日)において、誰が最高司令官になるのかについても、アメリカとイギリスは激しく対立した。結局、アイゼンハウアーが最高司令官に就いた。
 とても興味深く、連休中に、喫茶店から動かず、必死で読みふけりました。
(2022年11月刊。3800円+税)

巨大おけを絶やすな!

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 竹内 早希子 、 出版 岩波ジュニア新書
 しょうゆやみそは、大きなホーロー製のタンクでつくられているとばかり思っていましたが、なかには昔ながらの木桶(きおけ)でつくっている業者もいるのですね。ところが、木桶って100年もつというのですよ。それじゃあ、木桶をつくる業者が営業として成り立つはずはありません。そこをどうやって乗りこえるのかも本書のテーマのひとつです。
 瀬戸内海の島、小豆島(しょうどしま)。映画『二十四の瞳』の舞台となり、オリーブでも有名ですよね。私も一度だけ行ったことがあります。そこで大きな木桶がつくられているのです。木桶は直径2.3メートル、高さ42.3メートル、30石(5400リットル)入りです。
 木桶の中で2年かけてむろみをつくります。木桶や蔵にすみついている酵母や乳酸菌などたくさんの菌の働きによって、蒸した大豆と砕いた小麦でつくった醤油こうじを塩水と一緒に仕込んでもろみをつくるのです。
 2年かけてつくりあげたもろみを、醤油さんが買っていき、その店独特の醤油を完成させるのです。
冬に仕込んだもろみは、はじめは原料の大豆や小麦そのままのベージュ色。春先に気温が上がってくると微生物が活発に働いて発酵しはじめる。このころのもろみは、リンゴやバナナのような香りを放つ。そして、醤油を使って仕込んだもろみは、チョコレートのような香りを放つ。
 醤油を分析すると、300種以上の香り成分が入っている。
 今、日本でつくられている醤油のうち木桶でつくられているのは、わずか1%のみ。99%は、ステンレス、FRP、コンクリート、キーローなどのタンクでつくられている。
 木桶の板は多孔質で、目に見えない小さな穴がたくさんあいていて、その小さな穴に「蔵つき」と言われる蔵独自の微生物がたくさんすみついている。
 木桶以外の容器で醤油をつくるところでは、容器に微生物がすみつけないため、発酵にかかわる微生物を買って、加える。醤油には塩分があり、塩の効果で木桶は腐りにくく、塩分が固まって隙間を埋めるので、漏れにくいため、木桶は100年も使うことができる。
 木桶で使う杉は、樹齢100年以上のもの。
 桶を締める「たが」は、孟宗竹ではなく、フシ(節)が少なく割りやすい真竹を使う。15メートル以上の長さが必要。この真竹の秋から冬にかけて休眠する時期、吸い上げる水分の少ないときに、伐(き)る。
一つの「たが」を編むには、削った竹が4本必要。1本の桶に7本の「たが」が必要なので、30本、削った竹を準備する。
杉が世界で日本にしかない固有種だというのを初めて知りました。うひゃあ・・・、です。伐り倒された杉は、葉をつけたまま、頭を山の上に向けて半年ほど寝かされる。「葉枯らし」といって、葉を通して水分やアクが抜けていく。
写真とともに桶づくりが紹介されます。とても大変な作業だということが分かりましたし、欠かせない仕事だと実感もしました。
(2023年1月刊。860円+税)

アウシュヴィッツを破壊せよ(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ジャック・フェアウェザー 、 出版 河出書房新社
 アウシュヴィッツ絶滅収容所に志願して収容者の一人となったヴィトルトは、大変な苦労をさせられ、生きながらえたのが不思議な状況に長く置かれました。
 それでも、収容所内に抵抗組織をつくりあげ、外部の地下抵抗組織と連携して決起しようと試みたのです。しかし、外部のほうはいつまでたっても決起にGOサインを出しません。収容所内の抵抗メンバーは次々に消されていきます。どうせ殺されるのなら、その前に決起しようと考えるメンバーが出てくるのも当然です。でも、下手に決起したら、あとの反動が恐ろしすぎるのです。
収容所内でチフスが流行した。SS(ナチス)は、1日に100人もの病人をフェノール注射で殺害した。
 SSへの対抗のため、地下抵抗組織は、SSの制服にチフスに感染したシラミを散布した。ドイツ人からも発疹チフス患者が出た。嫌われ者のカポも標的となり、結局、死んだ。
 ヴィトルト自身もチフスに感染したが、仲間の看病によって、10日後ようやく立ち直り、生きのびた。
ヴィトルトたちのアウシュヴィッツの実情を伝える報告はイギリスそしてアメリカに届いたが、そのまま信じてもらうことが出来ず、すぐに救済行動を組織することはできなかった。
 アウシュヴィッツのことを真剣に考えてくれる人はほとんどいなかった。いやあ、これは、本当に不思議な、信じられない反応です。こんなひどいことが起きていることを知って、それでも何もしないというのは、一体どういうことなのでしょうか…、私の理解をまったく超えてしまいます。
収容所内の地下組織は分裂の危機に陥った。それはそうでしょうね。外の抵抗組織から見放されたも同然になったのですから…。
 ヴィトルトは、1943年4月、ついにアウシュヴィッツ収容所から脱出します。まずはパン工房に職人としてもぐり込むことに成功したのです。本当に運が良かったとしか思えません。8月、ヴィトルトはワルシャワに戻った。ヴィトルトがアウシュヴィッツ収容所の状況を組織や友人に話しても、信じようとしない人も多く、行動に結びつけることはできなかった。人々はヴィトルトの証言に共感できなかった。
 1944年7月、連合国軍は収容所の爆撃は困難で、コストがかかりすぎるとして、却下してしまった。
 ナチス・ドイツ軍が敗退したと考えたポーランドの人々は1944年8月、ワルシャワ蜂起を始めた。しかし、ナチス・ドイツ軍は盛り返した。そして、スターリンのソ連赤軍はワルシャワ蜂起を目の前で見殺しにした。スターリンは、ドイツ軍がポーランド人を叩きつぶすのを待って、そのあとソ連軍を投入するつもりだった。このワルシャワ市内の一連の戦いで、13万人以上が亡くなり、その大半が民間人だった。市内に隠れていた2万8000人のユダヤ人のうち、生きのびることが出来たのは5000人ほどでしかなかった。
 1945年5月、ナチス・ドイツが降伏した。そして、ポーランドを支配したのはスターリンのソ連だった。ポーランドはスターリン支配下の一党独裁体制となった。
 ヴィトルトは、ポーランドの秘密警察の長官の暗殺を企てたとして反逆罪で逮捕され、裁判にかけられた。1948年5月、ヴィトルトへの死刑が執行された。そして、ヴィトルトはポーランドの歴史から抹殺されてしまった。ヴィトルトの名誉が回復されたのは1989年にポーランドが民主主義国家になってからのこと。
世の中には、このように勇気ある人がいたことを知ると、人間もまだまだ捨てたものじゃないな、そう思います。それにしても、ナチスの残虐さとあわせて、スターリンのひどさを知ると、身が震える思いがします。
 アウシュヴィッツ絶滅収容所が忘れられてはいけないと思うとき、こんな勇気ある人がいたことも記憶してよいと、つくづく思いました。
(2023年1月刊。3190円+税)

FDRの将軍たち(上)

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ジョナサン・W・ジョーダン 、 出版 国書刊行会
 第二次世界大戦のとき、アメリカは豊富な資源にモノを言わせてとてつもない物量大作戦でのぞんだことになっています。
 ところが、FDR(ルーズベルト大統領)は、年間5万機の軍用機を製造するように求めたとき、周囲は「見果てぬ夢」と受けとめたというのです。だって、このとき、通常の生産ではせいぜい2000機ほどでしかなかったのです。1年に1万機なんてムリでした。そして、5万人のパイロットはいないし、5万人ものパイロットを養成する訓練所もないし、5万機の軍用機を飛行可能な状態にしておく整備工場もありませんでした。
 なので、年に5万機の軍用機だなんて、あまりに「とっぴな」生産日授設定だと思われたのです。ところが、FDRは、アメリカ国民は、自分たちの行為の意味を理解すれば、求められることは何でもやりとげる能力があると固く信じていたというのです。すごいですね、偉いことです。
 民主党内のニューディール派とリベラルな不戦主義者たちは、イギリスに対する軍事援助に反対していた。なるほど、その論理は今の私にも理解はできます。でも、実際問題として、そのままアメリカが何もしなかったとしたら、世界はどうなっていたでしょうか…。考えるだけでも恐ろしい気がします。
 そして、アメリカの軍隊には異人差別が厳然としてありました。50万人のアメリカ軍に、黒人兵士は1%の5千人にもみたない。そして、黒人将校はわずか2人だけ。黒人は、「ボーイ」のような扱いを受けていた。当時の陸軍省は、一つの連隊の中で黒人と白人の下士官兵を混在させることはしない、という方針でした。
 アメリカの将軍は、日本よりドイツのほうが手ごわい敵だと考えた。ドイツの第三帝国は経済的に自立していたが、日本はそうではなかったから。日本が敗北してもドイツの運命にはほとんど影響がないが、ドイツの敗北は不可避的に日本の負けにつながると考えた。
 FDRは、ヨーロッパの戦争に直接関与しないという公約で大統領三選を果たしたばかりだった。武器貸与法を成立させ、イギリスへ物資援助することでアメリカを戦争から遠ざける最善の方法だと考えていた。このころ、アメリカ国民の半数は、ドイツのUボートを攻撃することに反対した。1941年5月、8割近いアメリカ国民が参戦に反対しつつ、52%がイギリスへ軍需物質の輸送に賛成した。
 対日政策に関して、FDR政権内は二つに割れた。石油の禁輸は戦争を誘発してしまうと考えるアメリカ国民が半分はいた。
アメリカ本土の日系人は収容所に強制的に収容された。しかし、ハワイ諸島にいた14万人の日系人は、すべてを強制退去するのは不可能だったので、収容所に入れられることなく、島内、それも軍事施設の近くに住み続けることができた。
 1940年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を専襲攻撃したのを知らされ、FDRから聞いたキプキンズは「何かの間違いに違いない」と答えた。そして、FDRは、「まったく予期していなかった」と言った。このとき、FDRの目は生気を失い、その日は冗談も出なかった。
 アメリカの大統領が日本軍の真珠湾攻撃を知っていながら、わざと知らないふりをしてやらせたという陰謀説は今も根強いものがありますが、FDRの周辺の様子はとてもそんな余裕は感じられなかったというものです。私も賛同します。陰謀説は無理がありすぎます。
(2022年11月刊。3800円+税)

地方弁護士の役割と在り方(第1巻)

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 千田 實 、 出版 エムジェエム出版部
 田舎弁護士(いなべん)を自称する岩手県一関市で活動している若者が80歳になって刊行した記念本の4冊目。
 若者は60歳から70歳までの10年間に10回をこえる手術を繰り返し、週3回の人工透析、妻から腎臓の移植を受けて健常者に近い状態に戻れたとのこと。それだけでもすごいことですね。
 ちょっとマネできないのが月に1回の事務所便り(「的外」まとはずれ)です。送付先は1000人をこえ、この32年間、一度も休んでいないそうなのです。10年間の闘病生活中も発行していたというのですから、まさしく超人的です。
 手持ち事件は常時300件、ピーク時には500件。1日10件をこえる裁判を予定していて、訟廷日誌には用紙を張り足していた。そして、裁判所も盛岡、花巻、気仙沼、仙台など…。1日に4ヶ所の裁判所を駆け回ることも珍しくなかった。私も若いときがんばってましたが、これほどではありません。
こんな働き過ぎで著者は身体をこわし、糖尿病、高血圧症、そして慢性腎不全症となり人工透析を受けるようになった。
 事務員はいつも10人ほどいた(今は7人)。
 30年ほど前(1990年)、一関市内の弁護士は4人、今は9人。岩手県弁護士会は44人が102人となった。ところが、人口は気仙沼市は30年前に10万人だったのが、今では6万人を下回っている。裁判件数も当然のことながら減少した。
そこで、田舎弁護士(いなべん)は提唱する。
 地方弁護士は裁判事件だけにとどまっていてはダメ。新たな仕事を開拓しなければいけない。たとえば、地方弁護士は家庭医的存在とならなければならない。
地方弁護士は本当に人好きにならなければならない。人好きになれば、自然に優しい顔になる。
地方弁護士は、住民があっさりと相談できるようなムードをつくらなければならない。住民が気軽に相談できるように自分を磨いておかなければならない、物事の道理をわきまえ、正しく判断し、適切に処理する能力をもつ知恵者を地方住民は求めている。これなんかは、大都市に住む住民だって同じでしょう…。
一緒に悩み、一緒に考えてくれる弁護士を住民は求めている。これも、田舎弁護士に限りませんよね。
 地方弁護士は、人間が幸せに生きていくうえで必要なことの全面にわたって知恵を提供することを仕事とすべきだ。まったくそのとおりだと私も思いますが、これまた、「いなべん」だけでなく、あらゆる弁護士にとって求められているものと思います。
 私は「政治改革」も「郵政改革」もまったくの間違いだったと今も考えています。小選挙区制導入なんて、ひどい政治をもたらしただけです。大阪の「維新政治」は、そのひどい政治のミニ版を再現しています。許せません。そして「郵政改革」。郵便配達がひどく遅れていて、法律事務所の業務遂行に支障をもたらしています。あと、国鉄の解体・民営化もひどい間違いでした。
 自民・公明の政権って、本当に悪政のかぎりを尽くしていますが、それも投票率が4割程度しかない現状が支えています。有権者のみんなが投票所に足を運べば(期日前でもかまいませんが…)、自民・公明そして維新のごまかし、冷たい政治にストップをかけることができます。あきらめたら、世の中は悪くなるばかりなんです。
 「司法改革」については異論もありますが、貴重な提言がたくさんある小冊子です。
(2023年4月刊。1650円)

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