法律相談センター検索 弁護士検索
2023年2月 の投稿

青年家康

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 柴 裕之 、 出版 角川選書
 NHKの大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当している著者による本です。
 家康はその少年時代、今川氏の人質としてみじめな日々を余儀なくされていたという通説を真向から否定しています。
 家康(竹千代)は6歳のとき、織田信秀へ人質として差し出された。そして、今川軍が織田勢を攻めたて、城将の織田信広を捕まえ、竹千代と交換することになり、家康は今川氏の本拠地である駿府で過ごすこととなった。
 竹千代が岡崎松平家の当主であったことから、今川義元は、駿府で竹千代を庇護することによって、松平家の上に君臨する上位権力者としての正統性を得た。
 今川義元は岡崎の松平家を解体して、岡崎を直轄領地とはせず、今川氏の政治的後見と軍事的な安全保障のもとに、松平家重臣による政治運営のもとで岡崎領の支配をまかせていた。
 駿府での家康(竹千代)の生活は、今川義元の師でもあった太原崇孚により学問の師事を得たというように、義元の庇護のもとで大事に養育されて過ごしていた。それは決して苦難の人質時代、忍耐と惨めなイメージで語られるような日々ではなかった。
 すなわち、家康は単なる人質ではなかった。それは、すでに西三河の有力な従属国衆である岡崎松平家の当主であったことによる。
 竹千代が14歳になって元服したとき「元信」と名乗ったのは、今川義元の「元」の1字をもらったものであり、これによって元服した家康(元信)が今川家の政治的、軍事的な保護を得た従属国衆・岡崎松平家の当主であることを世間に確認させた。
 今川義元は桶狭間で敗死したとき、42歳だった。そのあと、家康は織田信長とも手を結んだのでした。それは義元亡きあとの今川家とはキッパリ縁を切って、むしろ敵対し、抗争することを選んだとうことです。今川家が力をなくしたことによる選択でした。
 さあ、家康どうする、とても考えさせられるタイトルですよね。
(2022年9月刊。税込1870円)
 1月に受けたフランス語検定試験(準1級)の合格証書が送られてきました。待ちに待った証書です。合格基準店23点のところ、28点でした。実際には、思うように話せず、冷や汗をかいたのですが…。
 なぜ、諸外国ではデモもストライキもやっているのに、日本はストライキをやらないのかと尋ねられました。みなさんだったら、何と答えますか?そして、それをフランス語で、どう表現しますか。とつとつと答えてしまいました。それでも、頭のほうは少し若返りました(と思っています)。

満州難民、祖国はありや

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 坂本 龍彦 、 出版 岩波書店
 いま、中国脅威論がしきりに叫び立てられています。それに備えて、石垣島などの諸島に自衛隊が大増強され、莫大な軍事費が投下されつつあります。
 しかし、少し頭を冷やして考えてみてください。石垣島そして沖縄に住んでいる人々は、中国軍と自衛隊が戦闘状態になったとき、どうしたらよいのでしょうか。全員が逃げられるはずは、それこそ絶対にありえません。民間人を乗せた飛行機は飛ぶはずがなく、船だって海上をいくら速く走っていてもミサイル攻撃されたら撃沈してしまいます。いえいえ、飛行機にも船にも、ほとんどの住民は乗れるはずがないのです。ミサイル避難訓練のとき、机の下に潜っている光景がありました。戦前の消火バケツリレーと同じで、気休めにもなりません。戦場になったら、ほとんど全員が座して死を待つしかないのです。ミサイルは一本だけ飛んで来るなんてことはありません。戦争になるのです。
 政治は、私たちが支払う税金は、そうならないために使われるべきです。戦争が始まってからでは遅いのです。シェルターを買おう、売りつけようという人たちがいます。どこに地下室をつくるのですか…。水や食料はどうするのですか…。日本の自給率はとっくに半分以下です。海上封鎖されたら、日本人は食べるものがなくなり、飢餓が待っているだけです。タワーマンションの人々はどうなりますか…。電気も水もあるのがあたりまえ。でも、日本のどこかで戦争が始まったとき、すぐに電気も水も止まってしまうでしょう。タワーマンションで生活しながら自民・公明政権を支持し、維新を支持して軍備拡張策に賛成するということは、明日の生活と生命の保障を喪うことを意味しているということに一刻も早く気がついてほしいと私は切に願います。
 その典型的な見本が、戦前の満州に開拓団として移住した日本人のたどった運命です。満州の開拓団に渡った日本人は三度も日本(国)に捨てられた。一度目は、ソ連軍が8月9日に進攻してきたとき、関東軍は張り子の虎になっていて守ってくれないどころか、真っ先に逃げ出していた。二度目は、引き揚げのとき、対策は不十分だったし、中断したりして捨てられた。多くの日本人が帰国できずに残留孤児となった。三度目は、なんとか日本に帰国しても、生活の保障がなく総合的な対策も援護措置もなく見捨てらえた。
 開拓団の応募者が減って確保できなくなると、世間知らずの純真な青少年をおだてあげて満蒙開拓青少年義勇軍という勇ましい名前をつけてソ連との国境地帯に送り込みました。あまりに過酷な生活環境のなかで、軍隊式の上命下服そして指導者の無能と腐敗のもとで、虫ケラ同然に扱われ、それに反発した青少年の反抗、抗争そして暴走が頻発したのでした。見るに耐えない惨状です。あげくに一部は徴兵され、また、残りはソ連軍の進攻下での辛い逃亡生活を余儀なくされたのです。悲惨すぎます。
 軍隊は「国」を守るものであって、国民を守るものではない。しかし、ほとんどの国民は最後の最後までそのことに無知のまま幻想を抱いている。終戦時に起きた満州難民は決して昔の話ではなく、下手すると、今、これから起きることなのです。クワバラ、クワバラ…です。
(1995年74月刊。税込1000円)

シベリア抑留秘史

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ロシア最高軍事検察庁 、 出版 終戦史料館出版部
 元日本兵60万人がシベリアに抑留され、その1割が死亡するという悲惨なシベリア抑留は、スターリンが北海道の北半分を占領することを求めたのに対して、アメリカのトルーマン大統領が拒絶したので、その代わりとしてバタバタと決まって実行されたという説があることを最近、初めて知りました。でも、私は懐疑的です。
 8月16日、日本軍(関東軍)総司令官山田乙三大将と停戦交渉にあたっていたソ連軍のワシレフスキー元帥に対して「日本軍の捕虜のソ連領への移送は行わない」などとする指示がモスクワから来ていた。モスクワというのはスターリンの指示です。
 同日、スターリンはトルーマン大統領に対して北海道の北部(釧路と留萌を結ぶ線より北側)をソ連軍が占領することを認めるよう求めた。しかし、トルーマンは8月18日、千島列島についてはソ連領とすることは認めつつ、北海道北半分の占領は拒否した。
 8月20日、モスクワはワシレフスキー元帥に対して北海道への上陸・占領作戦を準備するよう指示した。この指示には、同時に、「本部の特別司令によってのみ開始すること」という条件がついていて、その特別司令は結局、発されることはなかった。
 8月23日、スターリンは、強い口調で不満を表明したが、結局、北海道上陸は断念した。
 この本は、以上の経緯を明らかにして、「北海道占領の断念が転じて捕虜の(シベリア)強制抑留に連なった」としています。
 しかし、私は、この説には賛同できません。なぜなら、すでにスターリンはドイツ軍捕虜300万人をソ連領内の都市の復興に「活用」していた実績があるからです。シベリアを含む極東の都市等の再生に日本兵捕虜を「活用」することは、スターリンが北海道北半分を占領してかかえこむことになる「苦労」よりはるかに上回るメリットがあることは明らかです。「シベリア抑留」と「北海道北半分の占領」とをスターリンが天秤に考えていたなんて、私からすると、あまりに非現実的です。
 この本には瀬島龍三という戦後日本で大きな役割を果たした人物、ソ連のスパイになったのではないかと疑われている人物について、好意的に紹介しています。
 また、近衛文麿首相の長男である近衛文隆の死亡に至る経緯も明らかにしています。
 1992年9月に発行された本を古書として求めました。
(1992年9月刊。税込3000円)

ある行旅死亡人の物語

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 武田 惇志 ・ 伊藤 亜衣 、 出版 毎日新聞出版
 古ぼけた、風呂もないアパートで病死しているのが発見された74歳の一人暮らしの女性。部屋の金庫の中には、なんと現金3400万円が入っていた。しかし、本人の身元を確認できるようなものは何もない。尼崎市は、とりあえず行旅死亡人として扱うことにした。
 行旅(こうりょ)死亡人とは、病気などで亡くなった人が、住所、氏名などの身元が判明しないため、引き取り人不明の死者をあらわす法律用語。死亡場所を管轄する自治体が火葬し、官報に死者の身体的特徴や発見時の状況、所持品などを掲載(公告)して、引き取り手が現われるのを待つ。
 市町村別行旅死亡人数のランキングでは、あいりん地区をかかえる大阪市が一位で、市町村人口比でみると、自殺の名所・富士の樹海をかかえる山梨県鳴沢村が一位になっている。
 この話の端緒(たんちょ)は遊軍記者が何か記事のネタになりそうなものはないかと、喫茶店で新聞を読んでいて見つけたもの。3400万円という大金がありながら75歳くらいの身元不明の女性とはいったいどういうことだろう…。記者の勘に訴えるものがあり、尼崎市へ電話してみると、相続財産管理人の弁護士に連絡してもらうことになった。やがて弁護士から「折り電」があった。この太田吉彦弁護士は前に久留米市で活動していました。
 「この事件は、かなり面白いですよ」
 年金手帳があり、労災事故にあっていることが判明していて、そしてアパートに40年も住んでいるというのに住民票は職権消除されていて、本籍地も不明なので、死亡届が出せないという。なので、相続財産管理人の弁護士は私立探偵にも依頼して調べてもらったが、結局、警察のほうでも捜査はしたようだが、これまた判明しなかった。
 星形のマークのついたロケットペンダントが遺品の中にあり、韓国1000ウォン札があったことから北朝鮮とのつながりも想定された。
 記者が沖宗のハンコを手がかりとして検索すると、沖宗の家系図をつくっている人がいることが判明したので、直ちにアタック。そして、広島へ現地取材。さすが記者ですね。この行動力がすごいです。
 沖宗家の先祖は福岡藩士の武士ということです。
 女性の部屋には大型の犬のぬいぐるみがありました。「たんくん」と名づけられていました。
 サン・アロー社がつくった「サンディ」というものだと判明。ぬいぐるみは、可愛がっていないと、すぐに朽ちてしまう。でも、大切に可愛がると、30年でも40年でも保(も)つ。なーるほど、そういうものなんですね…。
 そして、広島の沖宗氏より、記者へ母の妹だと連絡があったのです。すごいですね。まさしく大当たりでした。
 そして、その結果、生年月日が判明すると、なんと74歳と思われていた女性は、本当は86歳だったのです。なんということでしょうか…。いくらなんでも、本人は12歳もサバを読んでいて、それがまかり通っていたとは…、信じられません。
 新聞記者たちは、広島県呉市で「コミ」を始めた。「コミ」を始めた。「コミ」とは、「聞き込み」と略語。関東では警察と同じく「地取り」と呼ぶ。そして、死亡人の生家や同級生にもたどり着いたのでした。
 結局、北朝鮮とも犯罪とも無縁だろうということになり、何らかの事情で、人づきあいを絶ち、現金を貯めながらも一人暮らしをしているうちに86歳で病死したということのようです。
 いろんな人生があるのだと実感させられるルポタージュでした。電車のなかで一気に読み上げました。だって、いったい、このあとの展開はどうなるのか、知りたかったものですから…。
(2023年1月刊。税込1760円)

寒い国のラーゲリで父は死んだ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山本 顕一 、 出版 バジリコ
 映画『ラーゲリより愛を込めて』には本当に心うたれました。映画の主人公・山本幡男の息子たちが戦後の日本を母親とともにどう生きてきたのかを知りたくて読みました。
 山本幡男の遺書を同じラーゲリにいた仲間6人が完全に丸暗記して日本に帰り、家族に伝えるシーンは思い出すだけでも涙が出てきます。そして、その遺言の内容が、これまた泣かせます。
 「子どもたちへ、君たちに会えずに死ぬことが一番悲しい。成長した姿を写真ではなく、実際に一目みたかった。………きみたちは、どんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏頗で驕傲な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道にもとづく自由、博愛、幸福、正義の道を進んでくれ」
 「4人の子どもたちよ、お互いに団結し、協力せよ。とくに顕一は、一番才能に恵まれているから、長男ではあるし、3人の弟妹をよく指導してくれよ」
 この本の著者は、その長男です。山本幡男がシベリア送りになったとき10歳。戦後、島根県の松江高校に入り、島根県一番の成績で東大に入り、フランス文学を学びます。渡辺一夫という高名なフランス文学者に師事し、立教大学で教授として学生を教えます。ですから、客観的には父の遺書にあった「人類の文化創造に参加し」ているのですが、著者本人は、父の遺言を果たせなかったかのような思いです。
 二男は東京芸大の建築科に入り、今も新建築家集団の代表として活躍しているとのこと。
 三男は2浪して東大の経済学部に入り、大学院まで行ったものの、精神的な病いをかかえ、大学講師で人生を終えた。
 著者と同じときの東大仏文科には、私も名前を知る人が何人もいます。まず何より、大江健三郎です。そして、高畑勲の名前があって驚きます。小中陽太郎や蓮実重彦も同じころのメンバーです。
 父の山本幡男は、少年の著者にとって「まったく恐ろしい存在」、「父が家にいるだけで、絶えず緊張でビクビクしていた」。
 1940年当時、32歳の若さで父は満鉄社員として、妻子をかかえるほか、母親と妹2人も同居して生活の面倒をみていた。
 東京外国語大学の学生のとき、3.15で共産主義者として逮捕されて大学を中退して満州に渡り、満鉄調査部で働いていた父は、酒が入って酔いが悪く回ると、大声で軍部の悪口を言って、家族を心配させた。
 家の中に神棚はないし、日の丸を掲揚することもなかったので、子どもたちを困惑させた。
 そして、ついには包丁の刃を小学生である著者の首に押し当てた。いやあ、たしかに、これは怖いですね…。
 山本幡男がソ連に抑留されて生きていることが初めて日本の家族に知らされたのは1947年の暮れのこと。翌1948年11月にもシベリアから帰ってきた人が生存を知らせてくれた。
 そして、1952年11月に4ヶ月かかって手紙(往復葉書)が届いた。1953年5月からは1ヶ月に1回、往復葉書が届くようになった。ついに1955年4月、帰国の知らせがあったかと思うと、実は、1954年8月に死亡していたという電報が届いた。
 著者の母モジミは1992年10月に83歳で死亡。
 立派な父をもち、すばらしい遺書を前にして、子どもとして生きることの重圧がひしひしと伝わってくる本でもありました。
(2022年12月刊。税込1980円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.