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2022年10月 の投稿

最上氏三代

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版 ミネルヴァ書房
 出羽(山形)の雄将として名高い最上(もがみ)氏三代の栄衰史です。あまり期待もせずに読みはじめたのですが、いやいや、どうしてどうして、とても面白い盛衰記でした。
 初代の最上義光は家康の意を受けて、関ヶ原の戦いのとき、上杉景勝と一歩も引かずに激闘したおかげで、関ヶ原に上杉勢は行くことができなかった。その功績を家康は高く評価し、戦後、天皇に面会するとき義光を同行させたほどです。しかも、領地を一度に増やしてやりました。
 このときの家康の会津(上杉勢)攻めは、豊臣秀頼の許可を得て、秀頼から金2万枚、米2万石をもらっていた。つまり、これは家康の私戦ではなく、豊臣秀頼の承認のもとに行われた、豊臣軍による征討だった。
 ところが、石田三成が秀頼に働きかけて、家康を弾劾するようになったので、上杉景勝を征伐する大義を失った。それで、伊達政宗も二股外交に走り、上杉方と停戦するに至った。それでも最上義光は上杉勢との戦闘を続けた。しかし、上杉が120万石に対して、最上は13万石でしかない。単独で戦えば、勝敗は明らかだった。しかし、関ヶ原の戦いで西軍の石田方が敗北したことで、大きく局面は変わった。
 上杉勢に石田方敗北の報は9月30日に入った。結局、最上義光は13万石から57万石の大名となった。
 ただ、最上勢のなかに1万石をこえる大名クラスが15人もいて、山形藩の統治は難しかった。
 山形城には天守閣がない。城下整備などの土木事業は、百姓の疲弊をもたらす。最上義光は「民のくたびれにまかりなり候」と考えていた。
 最上義光は、父の義守と親子対立し、死闘を繰り広げた。そして、自分自身も子の義康と対立し、横死させてしまった。何の因果か…。
 これには、義康が豊臣秀頼の近習であったことから、家康が秀忠の近習だった家親を最上家の跡継ぎとするよう、そのため義康を排除するように義光に指示したのだろうとされています。
 なるほど、最上家にも豊臣秀頼と徳川秀忠のどちらにつくか、二つの流れがあったわけです。
 そして、その家親。家親は、秀忠の近習として、大変信頼されていたようです。ところが、家親はずっと秀忠のそばにいたため、山形藩のなかに直臣を形成することができなかったうえ、なんと36歳という若さで急死してしまったのです。
 すると、その次、三代目は、まだ12歳。いかにも頼りがない。重臣たちが、勝手気ままに分裂して、まとまりのない藩になった。そこで、「家中騒動」(重臣の不知)を理由として、改易を申し渡され、1万石に転落した。さらには、大名ではなく、5千石の旗本にまで降格された。
 最上家には、もう一つの悲劇が襲った。義光の娘が豊臣秀次に嫁入りしていたところ、秀吉に子(のちの秀頼)が出来たことから秀次は切腹させられ、同時に、秀次の妻妾たちも一挙に惨殺された。そのなかの一人に義光の娘が入っていた。しかも、娘の死を追うようにして義光の妻まで死んでしまった(恐らく自死)。
 戦国時代の武将が、なかなか厳しい人生を送っていたことを実感させられる本でもありました。
(2021年12月刊。税込3850円)

奈良絵本・絵巻

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 石川 透 、 出版 平凡社選書
 この本の冒頭に書かれていて、あっと驚いたのは、『ガリバー旅行記』に日本の絵本の影響が認められるということです。
 『ガリバー旅行記』は、イギリスの作家スウィフトが1726年に刊行したものです。私は原文を全文読んだ覚えはなく、ダイジェスト版の絵本を読んだと思います。でも、そこに、こびとの島や巨人の島、さらには馬人の島、天空の島が登場してくるのは覚えがあります。
 ところが、御伽草子(おとぎぞうし)の一つである『御曹司島渡(おんぞうし、しまわたり)』という、源義経が兵法書を求めて、さまざまな島を訪れるというストーリー展開の絵本があり、そこにこびとの島、背高島、馬人の島が登場するというのです。日本の絵本のほうが『ガリバー旅行記』より100年古い。いったい、これは、どういうこと…?
 スウィフトは、イギリスで駐オランダ英国大使の秘書をしていて、大使の遺品整理をしている。もちろん、オランダは江戸時代の日本と長崎・出島を通じて交流があった。そのなかに日本の絵本が含まれていた可能性は大いにある。そして、文章は読めなくても、絵を見るだけでストーリー展開は理解できる。空中の島も絵本の中にあり、スウィフトは最後に「日本」を登場させていることから、恐らく間違いないだろう。
 驚きましたね。日本の浮世絵がヨーロッパの絵画に大きな衝撃を与えていたことは知っていましたが、それよりもっと早い時期にも、日本の絵本がイギリスに伝わっていたとは…。
 奈良絵本とか絵巻というから、奈良時代か奈良地方でつくられたものかというと、いずれも間違い。奈良絵本・絵巻とは、17世紀を中心として、主として京都で製作された絵本・絵巻のこと。印刷ではなく、すべて手作り。豪華に彩色されていることが多い。その作者として、浅井了意がいるが、居初綱(いそめ)つなという女流絵本作家もいる。
 このあと、私たちがよく知っている昔話が、実は、昔はストーリーの結末が大きく異なっていることが、いくつも紹介されています。
 「浦島太郎」では、子どもが亀をいじめる場面はなく、浦島太郎は乙姫と結婚している。そして、太郎は船で蓬莱の島へ向かう。息のできない海中を進むような非科学的なシーンはない。なーるほど、そうだったんですね…。
 『鶴の草子』は「鶴の恩返し」のもとになった御伽草子だけど、室町時代から江戸時代にかけては、機織(はたお)りをするのは鶴ではなく、蛤(はまぐり)だった。
 『桃太郎』のもとになった『瓜子(うりこ)姫』では、日本の古い時代において円形状ないし卵状のものから誕生するのは、圧倒的に女子が多い。瓜から生まれた瓜子姫は、その代表的な存在。
 かぐや姫は、竹から誕生するのではなく、その多くは鶯(ウグイス)の卵から誕生する。そして、かぐや姫は月に帰るのではなく、富士山へ帰っていくのが多い。
 いやあ、知らないことばかりでした。物語って、こんなに内容が変遷していくのですね…。
(2022年7月刊。税込3960円)

すごい言い訳!

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 中川 越 、 出版 新潮文庫
 人生最大のピンチを、文豪たちは筆一本で乗り切った。オビのこんなキャッチフレーズにひかれて読んでみました。
 この本によると、樋口一葉は22歳のころ、名うての詐欺師(相場師)に取り入って、お金をせびろうとしたそうです。そのときの一葉の文章は…。
 「貧者、余裕なくして閑雅(かんが)の天地に自然の趣(おもむ)きをさぐるによしなく…」
 一葉は、名うての詐欺師も舌を巻くほどの、非常にしたたかな一面も持ち合わせていたようだ。本当でしょうか…。そうだとすると、ずいぶんイメージが変わってきますよね。
 石川啄木(たくぼく)について、北原白秋は「啄木くらい嘘をつく人もいなかった」と評したそうです。ええっ、そ、そうなんですか…。
 借金してまで遊興を重ねたくせに、あるときは、「はたらけど、はたらけど、なお、わが生活(くらし)楽にならざり。ぢっと手を見る」と、啄木はうたった。
 啄木はウソの言い訳を連発した。人は、こんなに見えすいたウソを続けて並べるはずがないという相手の深層心理につけいった。いやはや、なんということでしょうか…。
 「前略」も「草々」も言い訳。「前略」は、全文を省く失礼をお詫びします、という意味。「草々」は、まとまらずに、ふつつかな手紙となり、すみませんという意味。
 夏目漱石は、明治40年、40歳のとき、それまでの安定した東京大学の教師の地位を捨て、朝日新聞社の社員へ、果敢に鞍替えした。不惑で転職する人は、勇敢だ。
 私の父は46歳のとき、小さなスーパー(生協の店舗)の専務を辞めて、小売酒屋の親父(おやじ)になりました。5人の子どもたちに立派な教育を受けさせるためです。サラリーマンでは無理なことだと正しく判断したのです。
 漱石は、朝日新聞社では主筆よりも高い棒給をもらいました。月給200円(今の200万円以上)、賞与は年2回で、1回200円。朝日新聞は、日露戦争が終結すると、購読数が伸び悩んでいたので、漱石を社員として囲い込んだのでした。
 漱石は40歳で死亡しました。
若死にですよね。これに対して画家は長生きしています。北斎は88歳、大観は89歳、ピカソは91歳まで生きた。絵を描くのは精神衛生によいからだろう。
言い訳にも、その人となりがよくあらわれるものですね…。
(2022年5月刊。税込693円)

明智光秀

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 早島 大祐 、 出版 NHK出版新書
 明智光秀は医者だったようです。光秀は牢人時代に医者をして食べていたようだ。つまり、越前で牢人医師をしていた。光秀は、京都代官のとき、医者である施薬院全宗のところによく泊まっていた。
 足利義昭が没落したあと、光秀は織田信長の家臣となった。そして、京都の市政を担当する代官となった。村井貞勝と2人で代官の職務をとった。
 光秀の妹、御妻木殿(おつまきどの)が信長に側室として仕えていた。
 これは、知りませんでした。そして、この妹は光秀と信長とを結ぶ重要な役割を果たしていたというのですが、天正9(1581)年8月に死んでしまったのでした。妹は機転がきいていて、信長の意向全般に通じていたそうです。そんな重要な位置にいた妹を失ったことが本能寺の変を光秀が決断する遠因となっている、とのこと。これはまったく初めての知見です。
 信長は、訴訟の基本方針だけを示し、あとは信長の意向を忖度(そんたく)して、光秀らが裁許した。信長の指示は、「当知行安堵(あんど)」、すなわち現在、管理、運営している者を優遇せよ、というものだった。
 本能寺の変の前、信長は一族優先等に切り替え、着々と実行していた。つまり、織田一族に連なる、重代の家臣、直属の家臣たちの権威を高めていた。一族を中心に織田家中が序列化されていっていて、その意味で信長の周囲には、組織の自由な雰囲気は失われ、硬直化しつつあった。「外様」の光秀は、これによってはじき出されつつあったようです。
土地調査の方法として、秀吉は現地に出向いて調査して土地台帳をつくるようにした。これを検地という。これに対して光秀は、自らは現地に行かず、現地からの報告にもとづいて土地台帳を決定した。これを指出という。
いろいろ知らないことが書かれていて、勉強になりました。
(2020年1月刊。税込968円)

満州崩壊

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 楳本 捨三、 出版 光人社NF文庫
 1945年8月9日未明、ソ連軍は日ソ不可侵(中立)条約を無視して、満州に侵攻してきた。対する日本軍(関東軍)は「無敵」として自称していたが、精鋭部隊を南方の戦線に転出していたので、「根こそぎ動員」によって人員こそ75万人の兵隊がいたものの、軍備が伴っていなかった。充分な兵器なしで兵士が戦えるわけがない。
この本には、なので、ソ連軍は「わずかな抵抗を受けたにすぎなかった」としています。それでも、朝鮮との国境地帯では地下要塞にたてこもって18日間も耐え抜いたとか、西側のモンゴルとの国境近くのハイラルでも関東軍は必死で抵抗したようです。なので、「わずかな抵抗」というのは全体としてみたら、ということなのでしょう。
 ソ連軍は侵入に際して、関東軍の猛抵抗を予測して、シベリアの凶悪な無期徒刑囚からなる囚人部隊を2ヶ国、最前線部隊として編成したという風説が紹介されていますが、歴史的事実としては間違いだとされています。たしかに囚人部隊はいましたが、それは経済犯の囚人が主体だったとのことです。
 ソ連軍による満州支配は略奪・強姦が頻発して悲惨な状況にあった。それでも、個人としてのソ連兵は、素朴で親しみのもてる者が少なくなく、例外なく子どもが好きだった。
 ところが、公人としてのソ連軍将兵の言うことは嘘が多く、約束は多く守られなかった。
 満州に中国共産党(中共)軍が進入してきたとき、満州(戦後は東北地域)の人々は、中共軍を恐怖的存在とみた。しかし、次第にそれは薄れていった。
 戦後中国では、さまざまなグループは張りあっていて、お互い諜報活動が活発だったようです。満州国がソ連軍の侵攻によって崩壊していく過程がリアルに解説されていて、よく分かりました。
(2022年9月刊。税込924円)

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