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2022年6月 の投稿

動物行動学者、モモンガに怒られる

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 小林 朋道 、 出版 山と渓谷社
鳥取環境大学につとめ、先生シリーズ(築地書館)で有名な動物行動学者による、読んでためになる、面白い本です。
たとえば、ヒキガエルは脱皮する。その皮には重要な栄養分が含まれているので、ヒキガエルは自分の脱皮した皮を食べて栄養分を吸収する。また、脱皮には時間がかかるので、襲われたときに備えて、背中のイボから毒物質を分泌している。
ヤマカガシ(ヘビ)にちょっと咬まれたぐらいでは人間の体内に毒が侵入することはない。ヘビの奥のほうで深く咬まれたときに初めて毒が牙から体内に入ってくる。そして、この毒はヤマカガシが生産したものではなく、ヒキガエルが生産した毒をヤマカガシが利用している。
ヒキガエルは、ゴムでヤマカガシに似せてつくった「ヘビ」を見せても態度に変化はない。ところが、横棒と、その上に、傘の取っ手のような構造(逆丁字モデル)を示すと、「四つん這い」威嚇のポーズをする。この逆丁字モデルは、ヘビが獲物を捕食しようとするとき、鎌首をもたげたときの視覚的特徴と合致している。
タヌキの好物はアンパン。鶏肉よりアンパンが好き。その次に好きなものはミミズ。
タヌキは学習能力の高い哺乳類。人間の反応を理解して自分たちの行動を決め、うまく人里に溶け込んでいる。
たしかに、私の家は山里に近く、隣の空地の奥には雑木林があるので、そこから、ある朝、一匹のタヌキが悠然と出てきて、団地内を巡回したことがあり、本当にびっくりしました。
タヌキは、オスとメスが一生涯変えることのないつがいをつくる。メスが出産すると、オスは乳こそ出ないが、子どもの身体を舐めてやったり、腹の下に子どもを抱えこむように座って温めたり、こまごまと世話をする。
ヒトの女性は、物の配置を記憶する能力や言語を操作する能力が男性より優れている。
男性は女性に比べて早く動く物体を目で追ったり、遠くの細かいものを見分けることが得意である。女性は男性に比べて色の違いを見分ける能力が優れている。つまり、ヒトは男性と女性を含む集団として、植物を採集することと同時に動物を捕獲して食べることに適応している。
うむむ、やっぱり男女で役割分担はあるのですよね…。
(2022年5月刊。税込1925円)

ブランデンブルグ隊員の手記

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ヒンリヒボーイ・クリスティアンゼン 、 出版 並木書房
ブランデンブルグ部隊とは、第二次大戦中にドイツに存在した特殊部隊のこと。
少数精鋭の将兵により、敵の急所に痛打を与え、作戦的・戦略的な効果を上げることを目的とする特殊部隊。1939年9月、対ポーランド戦を見すえてドイツ国防軍最高司令部の外国・防護局によって創設された。
私服あるいは敵の軍服を着用し、主力部隊に先んじて敵地深くに潜行し、橋梁やトンネルなどの作戦・戦術上の要点を押さえていく部隊。はじめの大隊規模から連隊へ、さらには師団規模の兵力を擁した。決死隊の性格を帯びていたため、ブランデンブルグ隊員の死傷率は通常部隊をはるかに超えていた。
1949年2月、ソ連軍との戦闘において、著者たちの部隊は、偽装作戦、つまりソ連軍を制服を着用して作戦に従事した。指揮をとるのは、ロシア語を流暢に話す上等兵だった。
戦場に住む村人たちは、永年にわたって培われた生き残り術によって、はしっこくなっていた。戦場の住民は、単純ながら天才的なアイデアを思いついた。兵隊は、どこの国も常に空腹で喉も渇いている。そこで、村の両端にパン、肉、自家製のウォッカとたっぷり置いておき、しかも接近してきた両軍部隊に、それぞれ敵はいないと見せかけ、大いにもてなした。両軍の兵士は、腹を満たして満足し、安いウォッカを飲んだあと、さらなる任務を中止して、「敵影なし」との報告をかかえて戻っていった。
なーるほど、戦場となった村人たちの生き残るための必死の作戦ですね。
あと、どれだけ生きられるか分からないという極限の状況の中に置かれた人間は、乾いたワラの上で身を丸めて眠れるときに満たされる動物的幸福感というものは、自らそれを体験したものでなければ理解不能だろう。
著者はドイツ敗戦のあと、ソ連に抑留され、10年ものあいだ、「戦犯」としてソ連の刑務所や労働収容所に入れられ、幸いにして生きてドイツに戻ることができたのでした。
こんな特殊部隊がドイツ軍に存在していたことを初めて知りました。ドイツ軍にはユダヤ人絶滅を主任務の一つとした特別部隊がありましたが、それとは別のようです。
(2022年4月刊。税込2640円)

梅は匂ひよ 桜は花よ 人は心よ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 野村 幻雪 、 出版 藤原書店
私は司法修習生のころ、狂言そして能を一度だけ本格的な能舞台で鑑賞しました。さっぱりコトバが聴きとれず、眠たくて仕方がありませんでした。正直言って、一度でコリゴリしてしまいました。
ところが、この本を読むと、私のこの反応は自然なものではあるが、あまりにも視野が狭かったと思わされ、無知な私を反省するしかありません。
著者は狂言の家に生まれ、能楽に転じたのですが、能の役者として人間国宝に指定されるまでになり、また、かの東京芸大で教授として教えていたこともあります。なので、さすがに本書にある著者のコトバには含蓄深いものがあります。
「能はむずかしい」…たしかに言葉は古典で、動きは何かとゆったりしてるので、想像力が求められる。言葉を聞きとって理解しようとするよりも、お囃子(はやし)のテンポの変化で場面転換を予想したり、役者の身振りや装束から、その役がどんな境遇に置かれているのかを想像したり、耳目に入るまま感じとるのが、能を楽しむ第一歩。
役者は何もない舞台に、演技の力だけで森羅万象を描き出す。
著者は、「いい香りのする役者になること」を目ざしているとのこと。薄暗い橋掛りにあらわれたとき、ふっとお香の匂いを感じさせる役者になりたい…。
年齢(とし)とともに体力は衰えても、経験や知力、好奇心がそれを補ってくれる。いくつになろうとも、常に自問自答し、初心と新しい発想をもって演技にのぞむつもりだ。
公演は一日限り。演者にとって、その役は生涯で今日が最後かもしれないとの思いがある。能の公演って、連日はないようです。
能を演じるときには、神にも女性にもなる。それが能。これに対して、狂言では、実際の出来事を架空の物語に仕立ててみる。このように表現方法が対照的な能と狂言だけど、どちらにも人間の本質を主題とする点では共通している。
能役者の服装は赤系の装束は若い女性、中年以上の女性は赤系の色を使わず、「紅無(いろなし)」とする。
内弟子の大切な仕事の一つに舞台拭きがある。まず舞台のチリを払う。そして、板目にそって固くしぼった雑巾で拭く。新しい舞台には豆乳を使い、表面に油をしみ込ませる。このとき、柱の下部の色にムラができないよう、舞台と柱とが同化して自然に見えるように、柱に接する板を拭いたら、そのまま柱にはわせて、垂直にずり上げる。このとき、いりぬかの袋で研いてつやを出す。
この舞台拭きによって、舞台空間を身につける。三間四方の空間で、どう構えるのか、どの位置に居るのか、常に存在が問われる。これを、舞台を一所懸命に磨くなかで身に着ける。
能舞台で、物言わずまっすぐ立っている四本柱に囲まれると、四人の師匠に厳しいまなざしでにらまれている気分になり、体に緊張感が走る。
能役者は、日常を明るくすることで、舞台では逆に哀しみをただえる表現ができる。チャップリンとは真逆で、なるべく日々を明るく生きることによって、その裏が表現でき、深く演じることができる。
これについては、私も長い弁護士経験をふまえて、ぴったり実感にあいます。
著者は、若いころは芸の「重み」を重視していた。しかし、今では「軽み」を芸の目標としている。
「伝統」には、過去・現在・未来という時系列がある。そこに未来が入っていないときには、重厚ではないけれど、感動的な軽み、何かそこに魅力がある。
重苦しくなく、みている方に負担がなく、感動がある。こんなものが日本式「軽み」。
能についての偏見を改めようと思いました。
(2022年2月刊。税込3520円)

失敗から学ぶ登山術

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 大武 仁 、 出版 ヤマケイ新書
私はいわゆる登山とは無縁ですが、年に何回か近くの小山(388メートル)に登ります。自宅を出て1時間半ほどで、見晴らしのいい頂上に着いて、そこでお弁当開きをし、しばしまどろんだりします。上空に鳥が飛び、小鳥がさえずり、蝶が花畑をゆらゆらと飛びまわり、遠くに見える下界で人がせわしなく行きかうのを眺めます。至福のひとときです。
それなりに急峻な斜面を登るのですが、以前のように一気に登ることはできなくなり、何回も小休止します。まあ、それでも、自分の足で登れるだけ、まだ良しとしています。まさしく年齢(とし)を実感させてくれるのが、山登りです。
若いころに日本アルプスの険しいロングコースを難なく縦走したことがあったとしても、それは何十年も前のこと。自分の現在の体力度・技術度をきちんと認識し、そのレベルにあった山選びを計画を立てることが安全につながる。
自分が備える技術力や体力を上回るグレードの登山コースを歩くと、滑落や転倒などのアクシデントにつながりやすい。
登山用具の使い方は、山行前にマスターし、用具に慣れておきたい。
私は、以前、久しぶりに山登りをしたとき、はいている登山靴の底が経年劣化ではがれてしまったことがあります。それからは、もったいないなどと思わずに、何年かおきに買い換えるようにしています。水泳のゴーグルも同じです。用具の経年劣化は人間の身体と同じように確実にやってくるのです。
今はスマホのGPSを利用するのは常識のようですが、スマホのバッテリーが切れてしまったらアウト、そんなことにならないように予備のバッテリーを準備しておく必要もあります。
登山中にエネルギー不足にならないよう、山行前日の食事では、エネルギー源となる糖質を多くふくんだご飯やパン、麺類などの主食をしっかり食べておくように注意されています。私も、ふだんはダイエットのため、糖質制限していますが、山の頂上では、昔ながらの酸っぱい梅干し入りのおにぎりを軽く2個食べます。
登りに1時間半、帰りに同じだけかけて午後3時すぎ、疲労困憊して自宅にたどり着き、さっとシャワーを浴びて、さっぱりします。
大自然の恵みをたっぷり堪能できるのが田舎の良さです。
道に迷ったら、沢にそって下ってはいけない。道を見失ったら、見通しのよい高みや屋根に上がるのが原則。沢へは下らない。高みに登り返す。これが登山道を見失ったときの原則。これを知っただけでも、990円の本書を読んだ甲斐があるというものです。
(2021年11月刊。税込990円)

英語の階級

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 新井 潤美 、 出版 講談社選書メチエ
イギリスで生活するって、大変なことなんじゃないかなと、つい思ってしまいました。なにしろ、最初に話した一言を聞いて、相手は、「あ、この人は、このくらいの階級だ」と無意識のうちに考えてしまうというのです。
なので、1922年にBBCがラジオ放送をはじめたとき、アナウンサーがどんな英語を話すべきかが問題になった。誰からも反感をもたれない英語は何かということです。だから、「アッパー・クラス」(上流階級)英語ではいけないのでした。もちろん「コックニー」英語でもいけません。「コックニー」とは、ロンドンの人間というより、ロンドン人のなかでもワーキング・クラスのロンドンっ子が話す独特の発音と表現のこと。
RP(標準英語)を普及させるのは大変だったようです。
著者が寄宿舎仕込みのRPを話すと、相手は、「だいじょうぶ、お嬢ちゃん?」と話していたのが、「どうぞ、奥様」と、がらりと態度を変えるのだそうです。すごいですね、これって…。
イギリスには、「アッパー・クラス」、「アッパー・ミドル・クラス」、「ロウワー・ミドル・クラス」、「ロウワー・クラス」、「ワーキング・クラス」が現存している。
「礼儀正しい」英語を話す人は、必ずしも「アッパー・クラス」ではない。
小説や演劇では語り手が使う単語や、表現・文法などによって、語り手の階級や社会的地位がはっきり示される。
自分の社会的地位に対する自信のなさから「上品さ」を目ざすのが「ロウアー・ミドル・クラス」だ。
イギリスでは、言葉のなまりは、話者の出身地という地理的な要素だけでなく、話者の出身階級をも表す。
「アッパー・クラス」と「アッパー・ミドル・クラス」の人は、どの土地に住んでいようと、どこの出身であろうと、地方のなまりのない、「標準英語」を話す。
イギリスでは、ある階級以上の人間は、どの地域にいても、同じ種類の英語を話す。それは、子どもたちが学んだ私立の寄宿学校・パブリックスクールで身につけることによる。
イギリスの一断面を知ることができる、面白い本でした。
(2022年5月刊。税込1705円)

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