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2022年5月 の投稿

生き直す免田栄という軌跡

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 高峰 武 、 出版 弦書房
この本の表紙裏に簡潔に免田事件が要約されています。免田(めんだ)事件とは、日本で初めて死刑囚として確定した人が、再審で無罪になった冤罪(えんざい)事件。
事件は、1948年12月末に熊本県人吉市で起きた一家4人の殺傷事件。翌年1月に免田栄さんが強盗殺人事件容疑者として逮捕された。免田さんは一度容疑を認めて自白調書がつくられた。その後、容疑を否認し続けたが、1952年1月に死刑が確定した。その後、6回もの再審請求がなされたあと、1983年7月に免田さんのアリバイが認められて無罪判決となり、即日釈放された。免田さんは釈放後は福岡県大牟田市に居住し、2020年12月に95歳で亡くなった。
免田さんは1925(大正14)年、11月熊本県球磨(くま)郡免田町(現・あさぎり町)に生まれた。免田さんが強盗殺人などの罪で逮捕されたのは23歳のとき。それから34年間も獄中生活にあり、「自由社会」に出てきたときには57歳になっていた。
免田さんは筆まめで、獄中から家族に充てて400通もの手紙を書いて送った。この本によると、その手紙の原本は残っていないものの、コピーが残っているとのことで、その一部が本書で紹介されています。
死刑判決を受けてヤケになっていた免田さんに、再審請求という手だてがあることを教えたのは、同じ死刑囚のUだった。免田さんの再審請求には何人もの弁護士が手伝っていますが、日弁連も後押ししています。
免田さんは死刑囚として、拘置所で長く過ごしていますが、花壇をつくり、カナリアを飼っていた。拘置所で死刑囚がカナリアを飼っていた、飼えるというのを始めて知りました。
熊本について、「ねずみ講」が始まったところ、オウム真理教の教祖・麻原彰晃の生まれたところだと紹介されています。騙される人は多いけれど、騙す側の人も熊本は生み出しているということです。
「よう生きてきたなあ」という免田さんの述懐が紹介されていますが、本当にそのとおりです。
一度は死刑判決を受けて最高裁で確定しながら、再審裁判で無罪となり、その後は、「自由社会」で結婚し、全国に出かけて冤罪を生み出す裁判の問題点を鋭く告発していました。
95歳まで長生きできた免田さんの生涯、とりわけ無実の人がなぜ自白してしまうのか、その心理は究明されるべき現象です。ご一読を強くおすすめします。
(2022年1月刊。税込2200円)
 土曜日の夜、近くの小川にホタルが飛びかうのを見に行きました。
 フワリフワリと飛んでいるのを、ひょいと両手でつかまえ、手のひらに乗せて明滅するホタルを間近に見ます。心がなごむ瞬間です。
 竹やぶにとまっているホタルたちが5匹か6匹ほど、同時に明滅していました。初めてです。
田舎に住む良さは、歩いて5分でホタルを眺めることができることです。
 日曜日の夕方。庭のジャガイモを掘り上げました。大きなバケツ2箱ほど収穫できました。メークイン、男爵、キタアカリです。当分、ジャガイモ料理が食卓をにぎわしてくれます。初日は、小粒のものをオーブンで焼いて、塩こしょうをふりかけ、また、マーガリンを塗って食べました。

となりのハト

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 柴田 佳秀 、 出版 山と渓谷社
まさに身近でよく見かけるのがハトです。カラスも見かけますが、人間への警戒心が強く、いつも少し離れています。ハトは、いつも足元近くにまで迫っても逃げようとしませんので、「どいて、どいて」と声をかけるほどです。
世界に350種もいるハトの体型はほとんど同じで、例外がない。小さい頭に、ぽっちゃりした丸い体。嘴は小さくて、足が弱い。
ハトには目立った武器はなく、丸腰でも、天敵のタカに食べ尽くされないのは、逃げる天才だから。
鳩胸。胸が大きく張り出して発達しているのは、大きな筋肉があるから。その割合は体重の31~44%にもなる。このハトの胸は強力なエンジン。巡航速度で60キロ、風に乗ると100キロ超。この大きなエンジン(胸)があるおかげで、ハトは高速で飛び、タカの猛追を振り切って逃げのびることができる。
ハトの羽毛は、とても抜けやすい。タカに追いつかれて、尾羽がタカにつかまれると、ごそっと羽毛が抜け、逃げ出せる。
また、ハトの羽毛には、粉になる羽毛がある。タカがつかもうとすると、粉が邪魔になり、つかまえられない…。
ハトは地上を首を振って歩いているように見えているが、それは誤解。よく見ると、ハトは、頭を静止させている。そして、首振り(実は静止)しているから地上のエサを見つけて食べる。
ハトは、基本的にベジタリアン。ハトは、水をごくごく飲むことができる。ハトの舌は注射器のピストンのような働きをし、口の中の圧力が下がるため、水を吸い上げられる。鳥は、一般に水をあまり飲まない。ところが、ハトは水をとてもよく飲む。
ハトがヒナを育てるときの「ピジョン・ミルク」は、食道の「そのう」の壁がはがれ落ちて出来ている。オスの「そのう」も、ヒナが出来ると肥厚し、ピジョン・ミルクが出来るようになる。つまり、ヒナを育てるには、オスとメスがともにミルクを与える。
ハトは、ヒナにピジョン・ミルクという完全栄養食をまさしく我が身を削って与えている。
ハトは、種子さえたくさんあれば、ピジョン・ミルクができるので、昆虫の発生時期に左右されることなく、1年中、繁殖が可能。ハトの繁殖期間は1年中。だから、求愛の様子は1年中、見ることができる。
日本で記録されたハトは12種。一般人が出会うのは、ドバトとキジバトの2種。しかし、実は、ドバトというハトはいなくて、カワラバトのこと。カワラバトを家禽(かきん)化したのをドバトと日本では呼んでいる。
イスラム教では、ハトは神聖な鳥なので、食べない。砂漠では、ドバトの糞(ふん)は、燃料として貴重だった。
ハトは、平安時代末期から、戦いの神様の使い。ハトは、勝利をもたらす瑞鳥だ。
ドバトが少ないのは、公園でエサやりが減ったから。
ミノバトは乱獲されて、少なくなったうえ、砂肝にある「石」が磨くときれいになるので、宝石としての需要まである。
ナポレオンの戦争のとき、ワーテルローでイギリス軍が勝った情報を、ロスチャイルドは伝書鳩を利用していち早く知り、株価が上昇する前に大量の株を買い付け、大もうけした。
レース鳩は、最高時400万羽もいた。鳩レースは、短くて100キロ、長いと1000キロをこえる。北海道の最北から関東まで、ハトは15時間で飛んで来る。ただし、100キロ級のレースだと、無事に帰ってくるのは1割しかいない。
ハトにまつわる面白い話のオンパレードでした。
(2022年4月刊。税込1485円)

阿蘭陀通詞

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版 講談社学術文庫
オランダ語を通訳する人々を紹介した本(文庫)です。南蛮人と紅毛人を使い分けていたなんて、本当でしょうか。ポルトガル人は南蛮人で、オランダ人は紅毛人です。いったいどんな違いがあるのでしょうか。
来日した南蛮人は日本語の習得に努め、布教と貿易に従事した。そして日本で南蛮文化は開花した。ところが江戸幕府は、一転して禁教と密貿易を厳禁したため、来日したオランダ商人には日本語の習得を許さなかった。それで日本人の通訳(通詞)が活躍するようになった。
江戸時代、通詞と通事は書き(使い)分けていた。通詞はオランダ語の通訳官で、通事は唐通事で、中国語の通訳官をいう。通詞も通事も、身分は長崎の町人で、通訳官と貿易官を兼ねて務めていた町役人。そして、長崎通詞も長崎通事という役職名は存在しなかった。長崎に外国船が姿を見せると、通詞の船が接近し、どこの国から来た船なのかを「聞き分ける」力が要求された。オランダから来た貿易船だと判明すると、たちまち「宝船」だとして歓迎された。
通詞の職階は、大通詞、小通詞、稽古通詞、大通詞助役、小通詞助役、小通詞並、小通詞末席…。そのほか、内通詞。売買業務を手伝って口銭を得ていた数十人の集団。
商館長ブロムホフは、結婚まもない妻チチアと、1歳5ヶ月の長男ヨハンネスを連れ、乳母や召使いも一緒に1817年8月に来日したが、婦女子の入国が許されなかったので、泣く泣く家族は送り返した。独身となったブロムホフは、丸山から傾城(遊女)を招いていた。その請求書が残っている。なんと1ヶ月のうち27日だ。つまり商館長たちの出島での生活は、ずっと、そのそばに遊女たちがいたということ。出島で同棲するのも許されていた。湯殿、台所つきの遊女部屋が出島にあったことが絵図面で確認できる。
商館長カピタンの江戸参府は、166回にのぼる。カピタンの江戸の定宿は長崎屋で、宿泊逗留は21日を基本としていた。通詞は、日本語に翻訳して太陽中心説を紹介し、ケプラーやニュートンの天文学、ニュートン物理学を吸収して解読した。すごい人たちがいたのですね…。
(2021年7月刊。税込1518円)

ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ベン・マッキンタイアー 、 出版 中央公論新社
第二次大戦後、イギリスの田園地帯に住む平凡な「主婦」が、実はソ連赤軍の大佐であり、受勲歴もあるスパイだった。この女性はソ連のスパイ養成学校で厳しい訓練を受けたあと、中国、ポーランド、スイスでスパイとして活動し、東西冷戦下では、原爆情報をソ連に提供するスパイ網のリーダーだった。彼女の名前はウルズラ・クチンスキー。ドイツ系ユダヤ人。彼女の子ども3人は、全員、父親が違っている。彼女は無線技師であり、秘密文書の運び屋であり、爆弾製造者でもあった。彼女の暗号名は、ソーニャ。彼女の父親はベルリンに住む裕福なユダヤ人であり、もっとも著名な人口統計学者だった。母親は、同じくユダヤ人不動産開発業者の娘。
ウルズラは中国に行き、上海で活動するようになった。そして、そこで憧れのアグネス・スメドレーに出会った。ウルズラは『女一人大地を行く』を読んでいた。スメドレーは共産党に入らない共産主義者であり、ソ連のスパイだった。そして、上海で、ウルズラはリヒャルト・ゾルゲに出会った。ゾルゲは日本に来る前は中国・上海でスパイとして活動していたのですね…。
ゾルゲは第一次大戦時の戦闘で負傷していて足を引きずって歩き、左手は指が3本、欠けていた。ゾルゲは、上海にいるなかでは、もっとも高位のソ連側スパイであり、赤軍情報部の将校だった。同時に、経験豊富なプレイボーイでもあった。ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母とのあいだに、ソ連のアゼルバイジャンのバクーで1895年に生まれた。
女性の暗号名のソーニャは、動物のヤマネ、「眠たがり屋」、そして、上海では「ロシア人売春婦」を意味していた。上海で、ウルズラはゾルゲの愛人となり、ゾルゲのスパイグループの活動に場所を提供し、見張りをし、また、文書を届け、武器をかくした。ウルズラは、安全と安定のある生活には物足りなく、スパイ活動に心が惹かれた。スパイ活動は依存性が高い。秘密の力という薬物は、一度でも味わったら断つのが難しい。
ウルズラにとって、スパイ活動は経済的報酬を得ることではなかったようです。そして、共産主義の実現を目ざすというのでもなかったようです。それは、家族との関係もあり、彼女自身の欲求にこたえたものだったということです。つまり、彼女の心の中に潜んでいた野心とロマンと冒険心が入り混じった並々ならぬ気持に突き動かされたものというのです。
ウルズラは中国に戻り、満州の奉天に住むようになった。日本軍が支配し、隣にはドイツ人の武器商人、ナチ党員が住んだ。そして、ウルズラは、赤軍将校として、現地の中国共産党の軍事破壊活動に爆弾を提供するなどして援助した。そして、中国、奉天から次はポーランドに活動の舞台を移した。どこも危険と隣りあわせの生活だった。
このころ、スターリンの大粛清が進行していて、ウルズラの上司や同僚たちが、次々に消されていった。なにしろ、スターリンはNKVDの「第4局全体がドイツ側の手に落ちている」と言っていた(1937年5月)のですから、どうしようもありません。ゾルゲも召還対象になったが、日本から戻るのを拒否したので、助かった。その上司たちは、次々に粛清されていった。
ウルズラが助かったのは、ウルズラに、「相手を誠実にさせるという稀有な能力があった」からだと著者はみています。スターリンの犠牲になった誰一人としてウルズラの名をあげなかったというのです。まことにまれにみる幸運の持ち主です。
ウルズラは、イギリスにいて、女性であり、母親であり、妊娠していて、表向きは単調な家庭生活を送っていることが、全体として完璧なカムフラージュになっていた。
ウルズラがイギリスにおける最大のスパイ網を運用しているのを見破ったのは、イギリスのMI5の女性、ミリセント・バゴットだった。
ウルズラは、2000年7月に93裁で死亡した。プーチン大統領は、亡くなったウルズラを「軍情報部のスーパー工作員」だと宣言し、友好勲章授与した。
よくぞここまで調べあげ、読みものにしたものだと驚嘆しながら、休日の一日、読みすすめました。
(2022年2月刊。税込3190円)

「部落」は今どうなっているのか

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 丹波 真理 、 出版 部落問題研究所
弁護士になって25年目くらいだったと思います。なので、今から40年以上も前のことです。 中年の女性がやってきて、息子の結婚相手の女性が「部落」の人だと分かったので、結婚をやめさせたいが…という相談を受けました。内心、今どき、こんなバカなことを言う人がいるんだ…と驚き、かつ、呆れ、また怒りがこみあげてきました。なので、やんわり諭して、帰ってもらいました。しかし、私が「部落差別」に関わる相談を受けたのは、これだけです。あそこは「部落」だと聞かされたことは何回かありましたが、当時も今も、どこも混住していて、他地区と変わるところはまったく感じられません。私の兄も建売住宅を買って「部落」だと言われるところに移住しましたが、誰も気にしませんでした。
この本は、愛知県のある「部落」に移り住んだ団塊世代の女性が、「部落」に住み、また転出していった人々に聴き取りをしたレポート集のような内容です。同じ団塊世代の私にも実感としてよく分かりました。
60年前、600世帯も住む大型部落には、真ん中に共同風呂があり、そこを取り囲むように店があり、住居が密集していた。お好み焼屋、うどん屋、八百屋、肉屋、床屋、貸本屋、散髪屋、花屋、たばこ屋、パーマ屋、クリーニング取次店があった。ビリヤード場、古着屋もあり、公会堂では芝居が演じられた。地域の中だけでこと足りる生活があった。
今、当時の面影はまったくない。道路が広げられ、銭湯もほとんどの店もなくなり、今は、たまに開く肉屋が1軒あるだけ。居住しているのも、地区出身が多いけれど、地区から転入してきた人も半数近くいる。
この地域は常に水とのたたかいだった。何回も床上浸水した。同時に貧困とのたたかいもあった。地域には、少数の富裕層と多数の貧困層が多数の貧困層が入りまじって生活していた。地域の人々には、全国各地を行商してまわる人も多かった。暗く、いじけた人々ではなく、いたって人間好きで、たくましく、明るい人々が住んでいた。
地域内の富裕層の多くは、一族もろとも地域外へ転出していった。
この地域で育った30代前半の男性は、「歴史上の話でしか知らないこと。ぼくらの世代には実感なかったし、関係ないと思っていた。まわりに、そんなことを言う人もいなかった」と語った。
地域内で建て売り住宅が売りに出されたとき、この地域だから安いということもなく、また値段が適正なら、すぐに買い手がついた。
著者は、部落差別は全体として大きく解消の過程にあるとしています。まったく同感です。ヘイトスピーチは、今でも存在していますというか、自分と異なる人の存在を許さないという風潮は依然として根強く、ときに牙(きば)をむくこともあります。在日、ゲイ、LGBTそして、アカ…。いろんな「少数」者を差別し、自分の優位性を誇示しようとする嫌な人が存在するというのが哀しい現実です。
「部落」の昔と今が曇りなき目で丹念に掘り起こされている貴重な労作だと思いました。
(2021年10月刊。税込1000円)

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