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2022年4月 の投稿

ばらまき

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 中国新聞・決別金権政治・取材班 、 出版 集英社
河井克行・元法務大臣と河井案里議員夫妻の大規模買収事件を取材、報道した地元・中国新聞の記者たちの奮戦記です。読んで本当に腹が立ってきます。それにしても、1億5千万円の出所が今なお明らかにされていないというのは、もどかしい限りです。
検察庁が河井夫妻を摘発して、辞職にまで追いやった点では高く評価できますが、肝心の安倍首相(当時)の関与と責任があいまいにされたのは、絶対に納得できません。
そして、この本の時点では、被買収の首長・議員40人のうち、わずか8人しか責任とって辞職していなかったのです。起訴されなかったのだから、辞職せんでもいいだろうと開き直ったのでした。でも、買収事案では、買収したほうも、買収に応じたほうも、どちらも処罰されるのが当然です。
その後、検察審査会の起訴相当議決をふまえて、検察庁は不起訴処分を撤回したようですが、遅きに失しています。
この本を読むと、岸田現首相も安倍元首相の意向にさからえず、案里候補の応援演説をしています。心ならずも、させられたのでしょう。みっともない光景です。
河井克行という人物は、「性格が悪い」、「上から目線」、「パワハラ気質」、「人の気持ちが分からないタイプ」、「地元事務所に人が根づかず、地代家老がいない」と、さんざんです。なので、あとは、札束に頼るしかなかったようです。
1億5千万円のうち1億2千万円は政党交付金、つまり私たちの税金が買収資金として「活用」されたのです。いや、買収資金は、内閣官房機密費だろうという指摘もあります。なにしろ月1億円(私たちの税金です)を首相や官房長官は領収書なしで使えるのです。買収資金にまわって何の不思議もありません。
こんな大規模買収事件をひき起こしていながら、自民党本部は誰も責任をとりません。とろうという気配もありませんでした。それもこれも、自民党が低投票率の上で、あぐらをかいているからです。有権者が投票所に足を運んで、こんな金権政治はダメだと意思表示しない限り、検察の捜査が腰くだけに終わってしまうのも当然なのです。
(2022年3月刊。税込1760円)

731部隊全史

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 常石 敬一 、 出版 高文研
南京大虐殺なんてなかったという嘘を信じたい人は、戦前の日本軍が虐殺なんかするはずがないと思い込んでもいます。でも、七三一部隊が満州(中国の東北部)で大勢の罪なき人々を人体実験の材料としつつ、殺害していったのは歴史的事実です。そして、この本を読むと、この七三一部隊の所業が戦後日本の現在に至るまで受け継がれていることがよく分かります。
その一つが、結核ワクチンである乾燥BCG。陸軍の石井機関が乾燥BCGを研究・開発したことを隠し、BCGを結核予防法の中心にすえ、日本は結核対策に取り組んだ。しかし、それは失敗だった。
現在、日本は結核の中まん延国になっている。2019年、日本の結核患者数は10万人あたり11.5人。これはフランスが8.7人、イギリスが8.0人に比べて、明らかに高い。にもかかわらず日本の結核対策は成功したという誤解・幻想が今なおはびこっている。うむむ、これは知りませんでした。
その二は、医学界です。東大そして京大教授が石井機関の嘱託となって、石井の求めに応じて弟子たちを七三一部隊に送りこんだ。そして、そのことを戦後は口をつぐみ、反省していない。嘱託をつとめた研究者は自分の手を汚すことなく、七三一部隊での研究は弟子たちの責任だとした。そして、戦後に発足した予防衛生研究所の初代、次いで二代目所長に就任した。この二人、慶大教授の小林六造と東大教授の小島三郎の名前を冠した医学賞が今に続いている。
七三一部隊がやったことの主要な問題点は、人体実験を実施したこと、そして細菌戦の試行。日本の敗戦直前の8月9日にソ連が攻め込んできたとき、日本陸軍は七三一部隊の即時全面撤退を決め、本部にいた4千人の部隊員のほぼ全員が8月末までに家族ともども日本に帰り着いた。そして、帰国する前、4日間かけて建物を爆破し、収容していた数百人を殺害した。
石井機関の予算は、7年間で1262万円。1931年の5.2万円、1935年の108.8万円。そして1937年の911万円と、ずば抜けて高額だった。
軍医にとって、七三一部隊は名誉、それに死なずにすむというメリットがあった。軍医にとって、戦場に出る危険性が少ない部隊で研究ができ、論文が書け、学位を得るのは大変好都合なことだった。
七三一部隊では人体実験の対象となった人々を「マルタ」と呼んだ。人と見ていない、まさに使い捨ての材料としか考えていなかった。被験者を生きた状態で解剖し、臓器を取り出していた(もちろん、その人は死に至る)。人体実験をふまえた論文のなかでは、被験者を「サル」としているが、それが虚偽であることは、サルが「頭痛を訴えた」とも書いていることから明らかだ。たしかに、「サルが頭痛を訴える」なんて、考えられません。
石井部隊が細菌戦を中国現地で敢行したとき(1942年の淅贛(ズイガン)作戦)、日本軍は七三一部隊の細菌爆弾によって、1万人がコレラにかかり、1700人もの死者を出した。このことは、七三一部隊による細菌戦は決してうまくいかないことを実地で疑う余地なく証明した。
戦前の七三一部隊の亡霊が現代日本でものさぼっていることを知ると、背中に冷や水が流れます。
(2022年4月刊。税込3850円)
 日曜日の午後、フジバカマ4株を植えつけました。前に1株すでに植えていますので、これで5株です。秋に花が咲いてアサギマダラがやってくることを願っています。
 いま、庭にはまだチューリップが咲いています。3月半ばからですから1ヶ月間はチューリップに癒されました。最後は純白の花でしめてくれます。オレンジ色の小さな花を咲かせるヒオウギ、紫色の矢車菊、うす紫色のシラー、そしてアイリスです。ジャーマンアイリスも、つぼみがふくらんできました。5月に入る前に花が咲きそうです。
 春は三寒四温といいますが、春の気配から、ときに初夏を思わせることもあります。
 ロシアの無法な戦争が2ヶ月近くも続いています。長期化しそうな気配もあり、本当に心配です。一日も早くロシアによる戦争をやめさせなければいけません。核兵器なんて、とんでもないことです。

がんは裏切る細胞である

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 アシーナ・アクティピス 、 出版 みすず書房
がんについての本です。私たちはがんと共生するしかないようです。
私たちが生きている以上に、がんというプロセスを止めることはできない。
がんとは進化そのもの。進化が形を得た存在、それががん。
この惑星(地球)に多細胞生物(人間もその一つ)が存続する限り、がんが消えてなくなることはない。
私たちががんにかかるのは、体内で生きのびて短時間で増殖する細胞のほうが子孫細胞を多く残せるから。
がん細胞は、悪質なルームメイト集団以外の何物でもない。
私たちは知らず知らずのうちに、がんと賃貸借契約を結んでいる。
がんについて、湿潤性と転移性こそががんを決定づける特徴だ。
本来なら多細胞生物の性質であるはずの細胞間の協力が裏切られる。
細胞は、隣接する細胞のふるまいを監視している。近くのどれかの細胞から「気にくわない」とされたら、自死のプロセスを開始できる。周辺監視システムがあるおかげで、がん細胞予備軍から全身を守っている。
細胞は何かを入れて何かを出すだけの単純な機械ではない。実際は、複雑な情報処理装置だ。
個々の細胞は、近所の細胞や免疫系とも連携し、絶えず情報を共有しながら、がん予備軍の細胞をうまく抑え込んでいる。
細胞は1ミリ秒とも休むことなく、情報を処理し、かつ情報に反応している。
私たち(ヒト)は、がんと共に生まれ、がんと共に生き、がんと共に死ぬ。胎内から墓場まで、がんは私たちの生命の一部だ。
「正常そうな」細胞全体の4分の1あまりに、がんにつながりかねない遺伝子変異が発生している。がんを抑制しようとすると、早期老化のようなコストが生まれる。
私たちががんにかかりやすいのは、成長、組織の維持、傷の治癒、感染症の予防といった機能にがんが結びついているから…。そのほか、生殖能力にもかかわっている。
がんを生じさせるのは、遺伝子の変異だけではない。細胞のふるまいを制御する遺伝子産物のアンバランスにもよる。
私たちは、前がん性の腫瘍と一緒に何十年と暮らし、普通は何の支障もない。つまり、私たちは、がんと共に人生を終えているのだ。
がん細胞は、個別に動くより、クラスターになったほうが、はるかに容易に転移できる。
がんは、私たちの一部であり、予測不能で適応力の高い相手だ。
がんと長期にわたって、戦略的につきあっていく覚悟を決めれば、得るものは大きい。
がんを一掃できるという望みを持つのは、間違っている。要するに、がんは病気というより、「多細胞生物に特有の性質」であるということ。生命は多細胞の形態に移行したときからずっと、つきあってきた。
がんを完全に封じ込めてしまうと、生物は不利益をこうむりかねない。
がんという病気は、ずっと、だましだましであれ、つきあっていくしかないようです。撲滅なんかできないとのご詫宣には大変おどろきました。がんとは共生するしかないとのことです。
(2021年12月刊。税込3520円)

いま、幸せかい?

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 滝口 悠生 、 出版 文春新書
私はテレビ版の「男はつらいよ」こそみていませんが、映画のほうは第一作からずっと映画館でみています。一番最初は大学祭のとき、法学部の大教室でみた記憶です。東京にいたときは有楽町の映画館でも、下町(大井町)の映画館でもみました。有楽町では、周囲がなんとなくお高くとまっていて心の底から笑えませんでした。下町では、周囲の人々と心おきなく爆笑の連続でした。
福岡に戻ってからは、正月は子どもたちも連れて家族みんなで楽しんでいました。なので、渥美清が亡くなったと聞いて、一家中ショックでした。
この本の著者は映画の全巻を何回もみているうえ、台本全部も読んだそうです。なかでも心に沁みるエッセンスを紹介してくれていますから、寅さんをたっぷり楽しむことができました。
それにつけても、山田洋次監督のすごさを改めて思い知りました。
2018年夏のシリーズ第50作「男はつらいよ、お帰り、寅さん」は死せる寅さんをまざまざとよみがえらせてくれた映画でした。まったく、そこに寅さんがいて、「よおっ、おいちゃん、おばちゃん、元気してたかい?」と声をかけてきそうな雰囲気の映画になっていて、感激しました。
私の自慢の一つは、この「おばちゃん」とNHKテレビで弁護士として「共演」したことがあるということです。まだ、私が30代のころのこと。インチキ先物取引に騙されないように呼びかける番組でしたが、「おばちゃん」は、そこでショート・コントを演じたのです。
寅さんは愛すべき善良さがあるが、同時に、救いようなに駄目さと常に表裏一体のものだった。笑いのなかに悲しみがあり、哀しみのなかに笑いがある。いつも二つの背反する感情がある。
 恋愛は「男はつらいよ」の重要なテーマだ。寅さんが旅先で女性に恋をして、そして失恋するというストーリーが、シンプルかつ普遍的であり、何度でも反復可能なものだった。誰かが誰かに恋をする、そのエネルギーが寅さんの映画の原動力である。
私の知人の女性が寅さん映画は、あまりにじれったくなるから好きじゃないと言い切ったことがあります。うむむ、そうも言えるんだね、そう私は思いました。でも…、ときに複雑で、ときに驚くほど単純明快な恋愛哲学は、恋愛は結局のところ思いどおりにはならないもの、という哀しい真理を示している。ふむふむ、なるほど、そうなんですよね…。
たくさんのマドンナのなかで、浅丘ルリ子が演じるリリーは、特別篇をふくめると計5作に登場していて、特別な存在になっている。これには私もまったく異論がありません。リリーさんほど、出てきただけでパッと華やかさを感じる女優は、そうそういませんよね…。
失恋のマンネリズムと言われることもあるが、実のところ寅さんの女性への心情は複雑多様だ。
「寅さん、もしかしたら独身じゃない?」
「首すじのあたりがね、どこか涼しげなの。生活の垢がついていないって、言うのかしら…」
映像でみたときには、さりげなく聞こえていた言葉が、台本の文章を読むと、心に留まって印象深く残る。そういうものなんですよね…。
「寅さんは、あの…、人生にはもっと楽しいことがあるんじゃないかなって、思わせてくれる人なんですよ」
そうなんです。だから私も寅さん映画を楽しみにし、映画館へ足を運んでいました。
「人間は何のために生きていくのかな?」
「ほら、ああ、生まれてきて良かったなって思うことが何べんかあるじゃない、ね。そのために人間、生きてんじゃねえのか」
いやあ、また映画をみたくなりました。それも小さな下町の映画館で…。
(2019年12月刊。税込880円)

「経済戦士」の父との対話

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 大川 真郎 、 出版 浪速社
1942(昭和17)年5月、広島の宇品港を出航して3日後、大洋丸は鹿児島の男女群島沖でアメリカの潜水艦の魚雷により撃沈された。犠牲者は著者の父をふくむ800人余。亡父の遺体は遠く韓国の済州島に打ち上げられた。亡父は、今の武田薬品の社員15人の1人として、インドネシアへマラリヤの予防薬キニーネの原料であるキナ皮の確保に行こうとしていた。
大洋丸には、陸軍が選んだ百社のエリート社員・技術者千人が乗船していた。彼らは戦場でたたかう戦士と区別して、経済戦士、企業戦士あるいは産業戦士と呼ばれていた。
大洋丸は敵潜水艦に対する十分な備えのない、まるはだかの状態で進んでいた。
陸軍本部は想定外の被害に仰天し、国民の戦意喪失をおそれて事件を隠蔽した。真相が広く明らかになったのは戦後のこと。
亡父死亡のとき、著者は1歳2ヶ月。当然のことながら、亡父の記憶は何もない。母は当時27歳で、その死は86歳のとき。亡父は、1年間の志願兵をつとめたあと武田製薬に入社した。亡父は武田製薬に会社員として勤めながら、俳人として活動するようになった。いわば二つの顔をもっていた。
亡父が俳句をはじめたのは18歳のとき、新宮中学校に在学中のころ。
亡父は大阪薬専に入ると、松瀬青々の主宰する俳句誌『倦島』に出稿しはじめた。
松瀬青々は、俳句にリアリズムを求め、俳句を「自然界の妙に触れるとともに、人間生活の浄化をはかるにある」という「自然讃仰」の立場をとっていて、亡父はこれに共鳴した。青々の門下である西村白雲郷が句誌『鳥雲』を創刊すると、22歳の亡父は、その同人となった。
亡父は軍務として、1941(昭和16)年5月、中国大陸の上海や南京に行っています。南京大虐殺のことは知らされていなかったようですが、紫金山麓の野中に日本と中国の戦没者の墓標が並んでいるのを見て一句を読んでいます。
墓標二つ 怨讐とほく 風薫る 
怨讐とは、恨んで仇とすることです。
亡父の会社員のときの写真が紹介されています。著者に似ているというより、はるかに精悍な印象です。会社員として、かなり出来る人だったのではないでしょうか…。
亡父の日記を紹介し、著者は次のように亡父を評価しています。
「父は、自分を客観的にみつめ、きちんと自己評価しようと心がけた人だったようだ。自己を過大評価したり、自信過剰に陥ることを恐れていたようにも思われる」
さらに、亡父について、著者はこう評しています。
「父が為政者、マスコミにいささかも疑問をもたなかったのは残念であり、その意味で父は普通の人だったと思う」
反戦、反権力の弁護士として活躍し、大阪で生きてきた著者は、亡父の俳句や日記を整理するなかで、自分とよく似た性格、感性、心情などを見出し、喜び、親子の絆を強く感じたとのこと。同時に、この作業は、父の思想に疑問を投げかける無言の「対話」でもあったという。
そして、最後に、著者は亡父をしのびつつ、感性豊かで詩情にあふれ、文才のある人が、早々に生を終えざるをえなかったことを無念に思い、あらためて許しがたい戦争であり、為政者だったと結んでいる。
著者から贈呈していただきました。貴重な労作です。ありがとうございました。
(2022年4月刊。税込1650円)

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