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2022年2月 の投稿

夫婦別姓

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 栗田 路子ほか 、 出版 ちくま新書
夫婦同姓が法律で強制されているのは、世界中で日本だけ。あきれたことに自民党のなかに強硬に反対する議員がまだいます。今では自民党のなかでも少数になっているのに声高に叫びたて続けて、選択的夫婦別姓制度の実現を妨害しているのです。
彼(彼女)らは、夫婦同姓の日本古来の伝統のように言うことがありますが、日本も江戸時代までは夫婦別姓でした。明治になって、旧民法が夫婦同姓を義務づけて出来あがった「伝統」にすぎません。これって、日本に女性天皇がいなかったかのように言っているのと同じで、まったくの間違い、俗説にすぎません。
この本は、韓国・中国といった昔から今も夫婦別姓の国だけでなく、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーについても夫婦別姓のさまざまなパターンを紹介しています。要するに、夫婦とか家庭といったものは、ペーパー(形式)ではなく、生身の人間の結合だということ、そして、それはさまざまなパターンで(違い)があるということだと思います。
イギリスは、姓も名前も自由に変えることができる。そして、改名の理由を明らかにする必要はないし、変えたことを公式に登録する義務はなく、あくまで任意。
イギリスでは、結婚して10年内に4割近くが離婚する。そして全国2000万のファミリーのうち、結婚しているのは67%で、年々減り続けている。4割近くが事実婚。
フランスでは、出生したときに出生証明書に登録された姓名が一生を通じてその人の法律上の本姓名。ただ、夫の姓を通称としている既婚女性が圧倒的に多い。子どもの姓は父親の姓とするのが多数派。
ドイツも、しばらく前まで夫婦同姓が法律で定められていたが、現在は、同姓、別姓、片方だけが連結姓という三つの選択肢がある。男性の9割が結婚しても姓を変えておらず、女性の8割は姓を変えている。子どもの姓は生まれた時点で、どちらの姓にするか決める。ドイツでは親と子で姓が違うのは珍しくないので、学校などで奇異な目で見られることがない。
ドイツでは、離婚するには少なくとも1年間の別居が必要であり、どちらかが裁判所に離婚を請求したら必ず離婚になる。また、離婚するのに、理由は問われない。なお、浮気があったとき、その人やその相手に慰謝料を請求するのも認められない。これは、大人なのだから、結婚生活破綻の原因はどちらにもあるという考え方から。
ベルギーでは、婚姻は個人の姓名に何の影響も与えない。
いやはや、家族というものは実質も形式も、どんどん変化していることがよく分かる本でもありました。日本でも夫婦別姓にしたいと思う人がいたら、好きにしていいですよという制度を早く実現したいものです。それで被害を受ける人なんて、誰もいないのですからね。自民党の一部議員の皆さんは、世界に目を見開いて真剣に反省してほしいです。
(2021年11月刊。税込1034円)

柳河藩の政治と社会

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 白石 直樹 、 出版 柳川市
柳河藩がどういう藩なのか、初めてその全体像を知ることができました。大変詳細なのですが、読みやすい文章になっていて、すいすいと読みすすめることができました。この本には、知らなかったことがたくさんあると同時にいくつも驚かされました。
その第一が、藩主すりかえ作戦に成功したということです。鑑広が8歳(幕府には12歳と届けた)で藩主となったものの、わずか3年後、11歳で病死してしまった。大名当主が17歳未満の場合には養子が認められなかったので、幕府に藩主の死亡を届けたら、お家断絶になってしまう。そこで、藩主の鑑広は生きていることにして身替りを立てることになった。誰を身替りに立てるかでいくつか案を検討したが、結局、鑑広の弟・保次郎(5歳)を鑑広に仕立てあげることになった。中継ぎで藩士の誰かを立てたとき、もしもその藩士に子どもが出来たら、その母親が藩主だと主張する危険もあり、ともかく弟の保次郎を身替りでいくことにした。ただ、保次郎まで17歳になる前に死んだらどうするのかという心配があった。幸いにも保次郎は若死しなかった。
いやあ、そんなことまでしたのですね…。藩主の顔が広く知られていなかったというのが作戦成功の前提だったのでしょう。
柳河藩の財政状態はずっと苦しかったようです。七代藩主鑑通のとき、藩主の主導で藩財政を改革し、立て直すことを宣言した。これは、逆に家老・奉行たちから意見書が出されたことへの対抗策でもあった。鑑通は、財政難は家老や奉行、役人たちの「不埒(ふらち)」に起因していると考えていた。たとえば、さまざまな名目で年貢が納められていない土地があるのをやめさせようとした。そして、これは、鑑通が藩財政再建で頼りにした大坂の大名貸・加島屋(かじまや)の要求によるものだった。加島屋は蔵元就任の条件として、藩財政の改善を要求し、鑑通はこれを承諾したのだった。
大名貸の茨木屋が柳河藩へ貸し付けた金員の返済を求めて、柳河藩の大庄屋8人を相手どって大坂町奉行所に訴え出たというケースも面白いです。
茨木屋が貸し付けた相手はあくまで柳河藩。しかし、借用証文に大庄屋8人が名を連ねていたので、大庄屋を被告として訴え出た。ところが、大坂町奉行は、大庄屋たちを大坂まで呼びつけておきながらも、審理を開かないまま、茨木屋の訴を却下した。それは、武士身分者の金公事(かねくじ。金銭貸借訴訟)についての裁判権はないという理由だった。柳河藩は訴訟を回避すべく大庄屋は藩士であるとして、帯刀を認めていた。
ところが、茨木屋はあきらめず、今度は、江戸の幕府寺社奉行に提訴した。茨木屋は、柳河藩が茨木屋に返済すべき米(または銀)を大庄屋たちが横領していると新しく主張した。評定所で審理されたが、この評定には、町奉行大岡忠相も出席している。評定所では、茨木屋からの借銀の主体は大庄屋なのか柳河藩なのか、大庄屋とは農民の代表ではないのかという2点が主たる争点となった。
評定所は即日結審し、大庄屋による横領の事実は認められないとして、茨木屋の訴えはまたもや却下された。ただし、滞っている返済金は多額なので、柳河藩は茨木屋が納得する返済方法を協議するよう勧告された。そこで、柳河藩は茨木屋に対して年賦返済をすることになったようで、享保10年冬から返済しはじめた。
このように大名貸は、藩側が返済しないときには控訴も辞さないという事実が、その後の大名貸との関係で教訓となった。
柳河藩では、久留米藩で起きたような大規模な一揆は起きていない。ただ、上内村(大牟田市上内。かみうち)の農民600人が熊本藩領南関へ逃散するという事件が起きた。享保13(1728)年11月のこと。村役人が高い年貢をかけたことへの反発を理由としたもののようだが、幕府の老中や勘定奉行の介入もあり、結局、逃散した農民たちは全員、帰村した。その処分として、村役人のほうは家財を没収したうえ領外へ追放、頭取の百姓12人は死罪、頭取同然の者13人は没収・追放という厳しいものだった。
享保17(1732)年に始まる飢饉によって餓死者が1000人ほども出た。病死者も同数ほどいたので、藩としての対策がとられた。藩は領内の「極難者」が4千人以上いるとみていた。こんなときには、村内の富裕者が米などを拠出して困窮者に対して施行していた。
400頁以上もある大作ですが、休日にじっくり読み、大変勉強になりました。
(2021年3月刊。税込1500円)
日曜日に孫たちに手伝ってもらってジャガイモを植えつけました。メークイン、男爵、キタアカリそしてアンデスの乙女です。6月に収穫できるはずです。
 コロナ第6波の急速な感染の広がりに、恐れおののいています。学校や保育園で閉鎖も増えているようです。PCR検査が十分でないとか、検査キットが払底してしまったなど、政府の無策ぶりに怒りを覚えます。「中国の脅威」に備えて軍事予算を増大させていますが、国民の健康を守るのが先決です。

五・一五事件

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 小山 俊樹 、 出版 中公新書
久しぶりに五・一五事件について書かれたものを読んで、いくつも新鮮な驚きがありました。五・一五事件が起きたのは1932(昭和7)年。「イクサになるか、五・一五」として年号を暗記しました。二・二六事件は1936(昭和11)年。「ひどく寒い日の二・二六」です。
五・一五事件には海軍将校グループと陸軍士官候補生だけで、陸軍の青年将校は一人も参加していないのですね。
五・一五事件のとき、チャーリー・チャップリンが来日中であり、首相官邸にチャップリンが訪問する予定だったのに、チャップリンが急に気が変わって遭難を免れたというのは知っていました。この本によると、首相官邸を襲撃するのを5月15日に設定したのは、チャップリンがこの日、首相官邸での歓迎会に出席するとの新聞記事を読んだからとのこと。15日は日曜日なので、休日に海軍将校が外出しても怪しまれないからだったのです。
なぜ犬養(いぬかい)毅首相が狙われたのか。それは、犬養首相個人の言動から来る個人的な怨恨ではなく、あくまで権力の象徴として打倒された。この計画は犬養首相が誕生する前からあったことから明らか。
首相官邸にいた犬養首相は銃を向ける海軍将校たちに向かって、「そう騒がんでも、静かに話せばわかるじゃないか」と言った。そして「話せばわかる。話せばわかる」と繰り返した。そして座って「まあ、話を聞こう」と言った。これに対して、「問答無益、撃て」と叫んで、黒岩と三上の二人が犬養首相の頭を狙って銃弾を撃ち込んだ。犬養首相は即死したのではなく、夜、容態が急変して死亡した。
五・一五事件の犯人たちの裁判は日本中から注目され、減軽嘆願書が殺到した。
被告人となった海軍将校たちは、海軍服を新調してもらって法廷にのぞんだ。逆に襲撃を受けた被害者であるはずの犬養家が、かえって世間から糾弾された。
被告人たちは「英雄」となり、事件は「義挙」となり、人々は被告人の供述に「涙」した。
報道はそのようにエスカレートしていった。犯人の海軍中尉たちは死刑を求刑されたのに、判決では禁固15年。そして、実際には、6年で仮出所している。
軍法会議における被告たちの主張は、「私心なき青年の純真」というイメージとして流された。「政党による軍部の圧迫」、「政党・財閥ら支配層の腐敗」、「農村の窮乏」。いわば軍を圧迫する腐敗した支配層、政党・財閥などの既得権益層に向けた「欠席裁判」として、軍法会議が利用されたのでした。
今の自衛隊の上層部と同じで、昔の陸海軍の上層部は、まさしく腐敗した支配層・既得権益層を構成していたのですが、そこには、もちろんメスが入りませんでした。
他にも、なぜ五・一五事件のあと政党政治がほろびたのか、など大切な視点があり、とても勉強になりました。
(2020年4月刊。税込990円)

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