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2021年8月 の投稿

「逆転無罪」

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 無罪を勝ち取る会 、 出版 関西共同印刷所
これは「特養あずみの里、刑事裁判の6年7カ月」というサブタイトルのついた144頁の冊子です。「夏やすみの宿題」と思って読みはじめたところ、実に見事な編集とデザインで、とても読みやすく、この裁判の意義と問題点をたちまち理解することができました。
発行主体は、特養あずみの里業務上過失致死事件裁判で無罪を勝ち取る会です。
無罪判決の3つの要因
まず、木嶋日出夫弁護団長が画期的な無罪判決の意義と要因を3点あげています。第一は、当事者本人のがんばり。途中で心が折れて罰金20万円なら支払って終わらせたいと本人がしなかったこと。この裁判は自分だけの問題ではない、日本の介護の未来がかかっているという高い認識をもって、最後まで本人が頑張り通したのです。すごいことです。
 第二に、15人の弁護団が介護・福祉の専門家、医療関係者、法律学者との共同作業によって高い水準の書面を作成したこと。死因は窒息死でないとする医学所見を一審判決は排斥し、高裁はその点に判断するまでもなく業務上の注意義務違反が認められないとしたのですが、高裁の裁判官たちも、弁護団の指摘をきちんと受けとめ、一審判決のひどさに呆れていたとしか思えません。
 第三に、広範な支援者による裁判支援の取組。無罪要請署名は一審判決までに2種類45万筆、控訴審で28万筆、計73万筆を集め、それぞれ裁判所に受理させています。全国の福祉施設・医療関係者の注目を集めた事案だったことの反映です。全国の医療、看護、介護、福祉の関係者の支援を結集した事件でした。
解説のわかり良さ
 この冊子の本文では、裁判の流れが写真つきで図解され、また、弁護団による解説があります。藤井篤弁護士(東京)はあずみの里へ130回以上も通ったとのこと。弁護団会議もあずみの里で開かれています。釈明、図解、再発、証言そして迷走、弁論、不当、奮起、解析、説得、結論という項目だてで問題点がきわめて明快に説明されています。主として金枝真佐尋弁護士の執筆のようですが、説得力があり、素人にも分かりやすい文章が流れるように要領よくポイントをしぼって展開されています。
 本件では、死因を窒息と聞かされた遺族が怒って警察を動かしたようですが、まもなく民事的には施設と遺族とのあいだでは示談が成立しました。入所して2ヶ月で死亡という短期間だったことからか、遺族との信頼関係を築けなかったことが反省点としてあげられています。もし顧問弁護士として施設に関わっていたら用心したい点です。
裁判のすすめ方
 一審の裁判所は検察官に対して6項目の釈明命令を出しましたが、検察官が従いませんでした。それにもかかわらず、検察官は予備的訴因を途中で追加したのです。そして、一審裁判所(野沢晃一裁判長)は主位的訴因を排斥しながら、おやつの形態変更確認義務違反という予備的訴因で、有罪(罰金20万円)としたのでした。
 弁護団は、現場再現DVDを作成し、法廷で冒頭陳述のとき上映しましたが、このとき検察官は11回も異議申立しています。裁判所はいずれも却下しました。
 あずみの里で働く人たちが法廷で証言しています。深夜まで弁護士と打ち合わせたこと、一問一答形式で一字一句まで覚えて法廷にのぞんだこと、弁護士が検察官役になって想定質問にこたえるシュミレーションしたことなどの苦労話も紹介されています。それにしても、被告人を支援する集会に参加を呼びかけた証人の証言には「信用性に疑問がある」などと書いた一審判決には目を疑います。
病院と特養の違い
 病院と特養との違いを看護学者(川嶋みどり・日本赤十字看護大学名誉教授)が説明していますが、控訴審判決がそのまま採用しているのはすばらしいことです。つまり、間食を含めて食事は人の健康や身体活動を維持するためだけでなく、精神的な満足感や安らぎを得るために有用かつ重要…有用かつ必要である」、「食品の提供は…医療行為とは基本的に異なる」。まことに正論です。食事はみんなでおいしく食べたいし、甘いおやつだって、人生の最後まで食べたいというのは誰だってもっている自然な心情ですよね。
問答無用の高裁が逆転無罪
 東京高裁(大熊一之裁判長)は証拠請求を却下し、忌避申立も簡易却下したうえ、弁論再開申立も受けつけず、わずか1回の三者打合せと1回の口頭弁論で結審したため、弁護団は最悪の事態を覚悟して上告も決意したのでした。ところが、東京高裁は2回目で逆転無罪判決を宣告しました。裁判所は起訴されて5年以上が経過しているから、これ以上時間をかけずに速やかに原判決を破棄すべきだとしたのです。
 これについては、遺族の心情を考えたら、やはり死因をはっきりさせるべきだったと学者が批判しています。難しいところです。それにしても、ドーナツでは窒息しないというのは知りませんでした。結局、死因は脳梗塞のようです。
巧みな編集に魅せられる
 ともかく、オールカラーで、見出しのつけ方と編集の巧みさに完全脱帽して一気に読了し、その感動の余韻に浸ることができました。刑事弁護のすすめ方の見本、そして読まれる総括文書の典型としてご一読を強くすすめします。
(2021年7月刊。税込1320円)

伊能忠敬の日本地図

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 一郎 、 出版 河出文庫
私の住む町にも伊能忠敬が来て測量したようです。町の中心部に、それを記念する碑が建っています。江戸時代に日本全国を歩いて測量してまわって詳細な日本地図をつくったことで有名な伊能忠敬の日本地図にまつわる話が山盛りの文庫本です。
伊能忠敬の関係資料は今から10年前(2010年)に国宝に指定されたそうです。当然のことだと門外漢の私も思います。ともかく貴重な測量図です。ところが、そんな貴重な伊能図がフランスとかアメリカに流出していたようです。それを現地で探し出していく著者の執念にも驚嘆しました。
伊能忠敬の家は息子も孫も若くして亡くなり、いったん絶えたが、幕末に伊能家は再興することができ、伊能図や文書類を維持・管理できたということのようです。大変な苦労が必要だったことでしょうね。ともかくスペースをとったと思いますので…。その資料の保存には伊能家の女性たちが活躍したことも紹介されています。やはり、女性の力は偉大です。
伊能忠敬の書庫から解放されて庶民のものになるのは、伊能図が幕府に提出(1821年)されて50年たった明治になってからのこと。江戸時代には、厳重な実測量を必要としていなかった。
伊能忠敬は商才を発揮して酒造業、米穀売買、金融業を営み、資産3万両(1両を15万円として、45億円)という資産家だった。事業に成功した忠敬は49歳のとき隠居した。息子は28歳。江戸に出て、天文・暦学を志し、19歳も年下の幕府天文方髙橋至時(よしとき)に入門した。忠敬は、地球の大きさが話題になっていることを知ると、自ら、測量してやろうと思った(らしい)。天文・暦学は面白いけれど、かなり難しい。しかし、測量なら自分でもやれる。忠敬はそう考えたのだ。
伊能忠敬は、終始一貫して現場指揮をつとめた。全測量期間を通して従事したのは伊能忠敬だけ。忠敬は歩測で測ったのは、第一次測量のときだけ。第二次測量からは、間縄(けんなわ)を張って測っている。天体観測は伊能隊の表看板で、1晩に、多いときは20個以上の星を測った。忠敬が測った恒星は、こぐま座、カシオペア座、しし座など、誰でも見られる普通の星。忠敬は自宅で測定した恒星の高度表をもっていたので、それと比較して緯度を求めた。伊能隊には経線儀がなかった。結果として、伊能図は北海道と九州がかなり東偏している。
間宮林蔵は忠敬の弟子である。忠敬は日本中を歩いてまわったが、忠敬は持病もちで、それほど体が丈夫なほうではない。なので、測量隊が進行するときには、主催者であるから村々では医師を待機させていた。
貴重な伊能図の発見と紹介が要領よくなされています。ありがとうございました。いちど、ぜひ現物をみてみたいと思いました。
(2021年5月刊。税込1089円)

「核兵器も戦争もない世界」を創る提案

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 大久保 賢一 、 出版 学習の友社
これまで核戦争が実際に起きなかったのは、運が良かっただけという著者の指摘には、私もまったく同感です。同じことは、3.11の大震災による福島第一原発事故についても言えます。あのとき、アメリカ人は一斉に日本から脱出し、逃げ出したのですが、それはメルトダウンが関東一円を死の街にしてしまう危険が現実的なものだったからです。原発に欠陥があったから、なぜか水がたまっていて大爆発が起きなかったというのを知ったとき、私も心底から胆が震えてしまいました。これは樋口英明元裁判官も著書で強調しているところですが、そんな現実を少なくない日本人が忘れていて、安倍前首相の「アンダーコントロール」を真(ま)に受けているのが本当に残念です。
これまで核戦争が起きなったのは、核兵器が存在するおかげだ。平然とこのように言う人の神経が著者には理解できない、と言います。核兵器が存在していたから核戦争が起きなかったというのは、二つの現象を表面的に並べたたけで、論理的な説明にはなっていない。
著者は、こんなたとえ話を持ち出しています。「ニューヨークにワニがいないのは核兵器があるおかげだ」、「憲法9条は北朝鮮の核開発を止めることができなかった」、「お前が生きていられるのは、オレのいるおかげだ」。こんな異論が成り立つはずもない。まったくそのとおりです。
1980年6月、アメリカのカーター大統領の安全保障担当大統領補佐官のブレジンスキーは、深夜、軍事顧問からの電話で叩き起こされた。ソ連の原潜から220発のミサイルがアメリカ本土に向けて発射されたという。ブレジンスキーは、直ちに報復攻撃できるよう戦略空軍に核搭載爆撃機を発進させるよう指示した。次の電話では、ソ連のミサイルは2200発と告げられた。全面攻撃だ。ブレジンスキーは妻を起こさないことにした。30分以内に、みんな死んでしまうからだ。その後、3度目の電話があって、誤警報だと判明した。これは笑い話としてすませていい話では決してありません。いつでも、実際に、ちょっとした間違いから核戦争が起きる危険があるからです。
アメリカで起きた原発事故だって、そこで働いていた人々が故意に重大事故をひき起こした可能性があるとされているものがあります。ヒューマン・エラーというものです。
「俺はもつ、お前はもつな、核兵器」
アメリカやロシアなどの核兵器大国は自分たちが核兵器を持つのは正義だけど、他の国がもつのは不正義だなんて、一方的な論理にしがみついています。インド・パキスタン・イスラエルは、それが不満で核不拡散条約に入らず、北朝鮮は脱退してしまいました。
核兵器禁止条約は発効したのに、日本政府は今なお、背を向けたまま。
「かえって国民の生命・財産を危険にさらす」とか、わけの分からないことを言っている。要は、アメリカの核の傘のもとにいれば安全、アメリカに楯つくなんてもってのほか、という従属根性まる出し。そこには自主性のカケラもない。
「平野文書」なるものがあるそうです。私が読んだことがありません。日本国憲法をつくるときにマッカーサーとわたりあった幣原元首相の側近だった平野三郎という人が1951年に幣原本人をインタビューした記録のようです。
幣原は、戦争をやめるには武器をもたないことが一番の保証だと断言した。
幣原は「武装宣言」は狂気の沙汰であり、軍拡競争から抜け出そうという「非武装宣言」こそ世界史の扉を開くとした。今は夢想家のように思われ、あざけ笑われるかもしれないが、百年後には正しいことを言った預言者として正当に評価されるだろうと語ったというのです。まさしく先見の明がありました。
少しでもまともなことを言い、行動したりすると、自民党のタカ派からは、「あいつは共産党だ」と言われる。自分に反対するものは、みんな「共産党」と言うんだというエピソードも紹介されています。
そんなことでくじけてはいけません。正しいこと、必要だと思ったら、声を上げ、行動に移すことです。
著者は長く反核・平和運動に従事してきて、現在は日本反核法律家協会の会長もつとめています。もっと読みやすい編集・体裁にしてほしいと思いながらも、内容の重さにひきずられて読了しました。160頁の小冊子です。ぜひ、あなたもお読みください。
(2021年8月刊。税込1540円)

国民食の履歴書

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 魚柄 仁之助 、 出版 青弓社
明治になってから日本に入ってきた洋風調味料の御三家はソース、カレー粉、マヨネーズ。とはいっても、和食の伝統がこれら御三家によって破壊されたというわけではない。むしろ、それらを和食にうまく調和、同化させたのが現在の日本食。なーるほど、ですね。
インドのカレーと違って日本には日本のカレーがある。イギリスのウスターソースではない日本のソースがある。肉とチーズを食べるフランス人のマヨネーズと、魚と米を食べる日本人のマヨネーズが違っていて、何も不思議はない。なるほど、なるほど、そう言われたらそうなんですよね…。
本場インドでは、サラっとした「汁カレー」。イギリスは、バターで小麦粉を痛めたルウを使ってドロリとさせた。日本では、イギリス流のドロリとしたカレーこそがカレーであるというのが定着している。そうですよね、日本人にとって、カレーは、ドロリとしていなくてはカレーではありません。チキン、ポーク、ビーフが手に入らないときには、身欠きニシンを入れたカレーもあるそうです。戦前の大正時代の料理の本で紹介されています。
日本のマヨネーズは、欧米のマヨネーズとは異なる、独自のもの。マヨネーズが「自分でつくるもの」から「買ってくるもの」になったのは、戦後のこと。ええっ、戦前はマヨネーズは家庭でつくるものだったんですか…、それは大変でしたね。
絶対に油が分離しないスピードマヨネーズをつくる秘訣は、練乳(コンデンスミルク)をコップ3分の2杯だけ入れて混ぜること。練乳が乳化剤の役割を果たして、油の分離を防ぐ。ええっ、そんな裏技があったのですか…。
日本のソースは、初めのころはショーユ(醤油)からつくっていた。
日本のギョーザ(餃子)の大半は焼きギョーザ。私の大好物でもあります。大正13(1924)年には、東京に「ビターマン食堂」としてギョーザを食べさせる専門店があったそうです。1人あたりの年間ギョーザの消費量日本一は宇都宮と浜松で争っていましたが、何と宮崎が日本一になったというニュースが先日、流れていました。結局は、全国3位になったようです。
中国は水餃子が主であり、皮が厚い。かなり前に大連に行ったとき、何種類ものギョーザを食べさせてくれる店に案内されて、腹一杯、思う存分に焼きギョーザを食べることができました。ギョーザの命は皮づくりにある。西洋料理のラビオリは洋風餃子。日本のギョーザは皮が薄いのでおかずに適している。これは納得です。たくさん食べたいですから…。
肉じゃがが日本で「おふくろの味」となったのは1980年代だそうです。これには驚きました。たしかに、1960年代に東京で大学生をしていましたけれど、そのころ肉じゃがなんて聞いたことはありません。私のちょっとしたぜいたくな一品料理はレバニラ炒めでした。
料理本に「肉じゃが」が登場するのは1975(昭和50)年ころだったということです。私が川崎市で弁護士を始めたころになります。この本には、それまでの「肉豆腐」が「肉じゃが」に変わったという説を紹介しています。いずれにしても、川崎市内の居酒屋で「肉じゃが」を食べたことはなかったように思います。
なんだか読んでいて楽しくなる料理の本でした。
(2020年1月刊。税込1980円)

和算

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 小川 束 、 出版 中央公論新社
江戸時代、庶民においても「読み、書き、珠算(そろばん)」は必要なものと考えられていた。江戸時代の人々は、みな算数が社会において重要な知識、技能であることを理解していた。「そろばん(珠算)が何の役に立つのか」などと文句を言うモノはいなかった。江戸時代、珠算は必須の技能だったからだ。
神社に奉納した絵馬のようなものとして算額がある。江戸時代、数学の愛好者は互いに問題を解いたり、算額を奉納していた。神社は数学の発表の場だった。現存する最古の算額は、1683年のもの。関ヶ原合戦(1600年)から83年たっただけ。このような算額奉納は世界に例がなく、日本独自の文化現象。現存している算額は884枚だが、復元された91枚、文献に出てくる1646枚を加えると、2621枚にのぼる。
算額は天明(1781~1789)年ころから急激に増えはじめ、1800年から1809年にピークを迎えた。この10年間だけで、算額は300枚近い。算額は東日本に多く(東京369枚。次は岩手184枚、福島153枚、長野109枚、新潟105枚)、西日本は比較的少ない。
江戸時代の人々が数学を学ぶとき、初歩を終えると、数学を教授する師匠の下に入門するのが普通だった。数学にはいくつかの流派がある。
数学を教えながら、全国各地を歴訪した人がいたというのも驚きです。法道寺善という安芸国(広島県)出身の人です(1820年生まれ)。法道寺は、豊前(大分)、肥後、長崎、北陸道、東山道を遊歴し、各地で数学を教授したといいます。
江戸時代の人々にとって、もっとも身近な算学(数学)の教科書は、「塵劫記(じんごうき)」だった。1627年に刊行された、この本によって近世日本の数学文化は一挙に花開いた。
江戸時代の数学は世界的にみて最先端をいく成果をいくつもあげた。関孝和は日本の和算の創始者。関は存命中は1冊の本しか出していないが、一般人には難しすぎる傑作だった。
江戸時代の数学は、抽象的な計算技能と、その応用分野としての平面幾何、立体幾何から成り立っていた。そんな数学文化が継続できたのは、幾何の問題を無尽蔵に生み出すことができたから。そこには、図形の美しさという美的感覚、複雑な計算の完遂という高揚感があった。
なーるほど、すばらしいんですね。アルファベットも、X・Yもない時代、そして0(ゼロ)もなくて、どうやって計算していたというのか、ぜひ知りたいところなんですが…。
(2021年1月刊。税込1980円)

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