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2020年9月 の投稿

米国人博士、大阪で主婦になる

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 トレイシー・スレイター 、 出版 亜紀書房
著者には大変失礼ながら、タイトルからは全然期待せずに読みはじめたのですが、意外や意外、とても面白く、ついついひきずりこまれて一気読みしました。
著者はアメリカ北東部のボストンで、きわめて裕福なユダヤ系アメリカ人の両親のもとに生まれ、豪邸で使用人に囲まれて育った白人女性です。英米文学で博士号をとり、左翼傾向のある36歳の独身女性が初めてアジアにやって来て、神戸で企業研修の講師として活動を始めたのでした。
その前、アメリカでは刑務所で受刑者相手に獄中カレッジのプログラムにしたがって文学とジェンダーを教えたり、ホームレスの大人を対象とした文章教室、スラム街のティーンエイジャーの大学進学準備を手伝い、公立大学で移民一世の学生を教えています。
ところが、裕福な両親が離婚したあと、ひたすら自活を目ざして生きてきた著者は次のことをしないことを誓ったのです。
① 宗教にはまる(ユダヤ教に深入りしないということでしょうか…)
② ボストンの住まいを手放す(日本に来てからも、ずっとボストンに家をもっていたようです)
③ 男に依存する(彼氏はいたようですが…)
④ 両親のような伝統的な核家族を形成する(子どもを産まないということでしょうか…)
⑤ 毎日、晩ごはんをつくる(主婦にはならない、食事は外食でいい…)
日本の企業研修の講師料は、3ヶ月だけで刑務所での丸1年分の5倍以上だったので、まっ、いいかと思って日本にやってきたのでした…。
そして、講師生活を始めてまもなく、受講生の一人、日本人男性と恋におちてしまったのです。ええっ、その彼って、そんなに英語が出来たの…。でも、それほど英語が話せたようではありません。それなのに、著者のハートを射落としてしまったのです。目力(めぢから)なのでしょうね。
「男のいない女は、自転車のない魚のようなもの」
これは、ウーマンリブの有名なスローガンだそうです。知りませんでした。聞いたこともありません。魚に自転車が不要なように、女にも男は不要だという意味だそうです。このたとえは、私にはさっぱり分かりません。
二人はついに結婚するわけですが、そこに至るまでには、いろいろな葛藤もあったようです。それはそうでしょう。口数は少なくても意志の強い日本人と、口数が多くて意思も強いユダヤ系アメリカ人のカップルなのですから…。
この本には、ときどき英単語について正しい解説がはさまれています。たとえば、日本人にとってゴージャスとは、豪華や高級というニュアンスで使われていますが、実は、そんな意味はなく、単に「きわめて美しい」ということだそうです。これも知りませんでした。
日本は、欧米と大きく異なり、人と違うことが驚くほどのひずみとなって、「さざなみ」を立てる、きわめて体制順応的な国だとステレオタイプ的に言われている。そして、著者は、これは完全に真実だと確信したのでした。たしかに、ちょっとでも他と違うと、すぐに叩かれるのが日本社会です。
著者は結婚する前、先の誓いの5番目にあるとおり、料理するつもりはないと、きっぱり断言しました。ボストンでは、ただの一度も料理したことはない。なーるほど…。ところが、結婚したあと、夫の父親(母親は死亡)と一緒に自宅で食事をするため、著者も料理しはじめるのでした。まさに、主婦になっていったのです。
そして、この本の最後のフィナーレを飾るのは妊活(にんかつ)です。涙ぐましい努力をして失敗を重ねたあげく、ついに赤ちゃん誕生…。46歳です。おめでとうございました。
著者は、東京でも、アメリカでやっていたような朗読会(フォー・ストーリーズ・トーキョウ)を主宰しているようです。すごいですね。ですから、著者の肩書は主婦ではなく、作家です。
(2016年10月刊。1900円+税)

よこどり

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 小野 一起 、 出版 講談社
タイトルだけでは何のイメージも湧きませんが、サブタイトルは、小説メガバンク・人事抗争ですから、こちらは、ズバリそのものです。
この本を読むと、つくづく銀行とか証券会社なんかに入らなくて良かったと思います。
だって、人事派閥に巻き込まれたり、したくもない汚れ仕事をさせられたりするって、嫌じゃありませんか…。おっと、そんなことを言ったら、フツーにマジメに働いている多くの銀行員の皆さんには申し訳ありませんと、お詫びするしかありません。
でもでも、この本を読むと、銀行のトップにまでのし上がるには、単なる運だけでなく、ギラギラした出世欲、権力欲が必須なんだなと思わせるのです…。これって言い過ぎでしょうか。
主人公は、ある日、やり手の上司から、こう言われた。
「まず、キミの手柄は、すべて私の手柄にする。いいな」
「それから、私の失敗は、すべてキミのせいにする」
「ただ、心配する必要はない。キミも、キミの部下に同じようにやればいい。それが銀行だ」
うひゃあ、ギ、ギンコーって、そんなところだったんですか…、ちっとも知りませんでした。
「自己が担う責任の範囲で、リスクを慎重に取り除き、間違いなく仕事をこなすことが銀行員の基本だ。仕事に隙(スキ)をつくるな。辛いときは、仮面をかぶって組織を生き抜くんだ」
Yは、堅実な手腕とその時々の上司の意向を巧みに汲みとる配慮で、出世の階段を上ってきた。あまり野心のなさそうな振る舞いが、却ってYを高いポジションへと押し上げたのだ。
銀行の人事が、社長を頂点にきれいなピラミッド形を描く。50歳前後から徐々に、肩たたきが進み、グループ会長や取引先へと転出する。肩たたきにあった段階で、銀行内での出世競争は終わる。グループ会社や取引先での地位は、銀行内での最終ポストに連動する。いくらグループ会社や取引先で実績をあげても、最終ポストによって決まったコースが変化することはない。銀行での最終ポストが行った先の企業で逆転することもない。大切なのは、銀行内で、部長で終わったのか、執行役員で終わったのか、常務でおわったのか、という最終ポストの肩書だ。
あとは、銀行の看板を背負ったまま、おとなしく黙って日々を過ごすしか道はない。それが銀行の人事システムであり、秩序だ。
慇懃(いんぎん)な振る舞いは、取引先や行内で、腹の底を見せないために銀行員がよく使う技術の一つだ。ある種のつくりものの笑顔は、相手への不信感を伝える効果的なツールでもある。
銀行の広報担当者は、異動したら記者とのつきあいをやめるのが行内のルールだ。広報部時代の記者とのやりとりに使用するケータイは、銀行から貸与されている。担当が替われば、銀行に返す仕組みになっている。これまた、そうなんだ…と、ため息をもらします。
メガバンクが吸収合併したり、証券会社と合併したり、今や目まぐるしく変化している世の中です。本当に金もうけのことだけを考えて仕事していいのかという大切な問いが出てきませんが、それも寂しい限りだと思いました…。
(2020年4月刊。1600円+税)

帝銀事件と日本の秘密戦

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版 新日本出版社
帝銀事件とは1948年1月26日、東京で発生した銀行強盗殺人事件。銀行員12人が毒殺され、現金・小切手500万円が盗まれた。画家の平沢貞通が8月に逮捕され、9月に犯行を「自白」。しかし、裁判では一貫して否認して無実を主張したが、1955年に死刑が確定した。その後、19回も再審請求したが、すべて却下(今も請求中)。平沢は死刑執行も釈放もされず、事件から9年後の1987年5月に95歳で死亡した。
この本は帝銀事件の捜査にあたった警視庁捜査一家の甲斐文助係長の個人的なメモ(全12巻、3000頁、80万字という膨大なもの)を著者がパソコンに入力してデータとして整理しなおしたものをもととしています。
10人以上の銀行員に対して、平然と毒を飲ませ(行員を安心させるため自分も一口飲んでいる)たという手口、しかも、2回に分けて飲ませ、即死ではなく数分後に全員が死ぬ毒物という、素人にはとても出来ない手口。それは、人を何度も殺したことのある、しかも毒物の扱いに慣れた者でなければやれないことは明らか。素人の画家に出来るような手口ではない。
この甲斐捜査手記によると、捜査本部は、毒物(青酸化合物)を扱っていた日本陸軍の機関、部隊にターゲットを絞って捜査をすすめていたことが判明する。これらの関係者は、帝銀事件の犯人は、そのような機関ないし部隊の出身者だし、青酸化合物は青酸ニトリールだと特定した。もちろん、そのなかには、例の七三一部隊もふくまれている。
石井四郎にも何回となく面談して追求しているのですが、いつものらりくらりだったようです。それにしても、著者は、戦後3年もたってない1948年1月(犯行日)から8月までのあいだに、日本軍の秘密戦争機関・部隊のほぼ全容を警視庁の捜査本部が把握していたことに驚いています。ただし、占領軍が七三一部隊の石井四郎以下と取引して、「研究」資料の提供とひきかえに免責したこと、世間には一切秘匿にしたままにするという大方針でもありました。
その結果、日本軍が中国大陸で残虐非道なことをしていたことを日本国民は知らされず、知ることなく、ひらすら戦争の被害者とばかり思い込むようになって今日に至っているわけです。
この本のなかに、七三一部隊と同じことをしていた日本人医学者の次のような述懐が紹介されています。恐るべき内容です。戦争は本当に怖いものです。
「はじめは厭(いや)であったが、馴(な)れると一つの趣味になった。
オレが先に飲んでみせるから心配しなくともよいから飲めと言ってやった。捕虜の茶碗には印をつけてある(ので、自分は安心して飲める)」
目の前で生きた人間に毒物を投与して死に至らしめる残酷な実験が「馴れると一つの趣味になる」というのは、戦争が、あるいは軍事科学に歯どめなく没入することは、人間の正常な倫理観を破壊してしまうことを示している。戦争に勝利するため、研究成果をあげるという大義名分がかかげられたとき、真面目な人間、使命感をもつ研究者であればあるほど、人間性を喪失してしまうという戦争の恐ろしさを示す実例だ。いやはや、人を殺すのが「趣味」になった科学者(医師)がいたのですね。チャップリンの映画「殺人狂時代」を思い出します。
七三一部隊と同じようなことをしていた「六研」での話…。
人間には荷札をつけ、青酸ガスを吸わせて、「1号は何分(で死んだ)、2号は何分」と観察する。そして、その死後の遺体処分は、特設焼却場で電気仕掛けでミジンも残らないようにしてしまう。粉にして上空に飛ばしてしまう。
「捕虜」とされているのは、「反満抗日運動」によって捕まった中国の人々であったり、ロシア人であったりした。
七三一部隊は敗戦直前の1945年8月11、12日の2日間で、残っていた捕虜400人近くを全員殺した。4分の1は縄を一本ずつ与えたので、首吊り自殺した。残りは青酸カリを飲ませたり、クロロホルム注射で殺して「処理」した。青酸ガスで殺したという報告もある。
いやはや、日本陸軍というもののあまりに残酷な本質に接すると、同じ日本人として身の毛がよだちます。本当に残念ですが、中国の人々には申し訳ないことをしたと思います。これは決して自虐史観なんかではありません。
1948年は、極東軍事裁判でA級戦犯に対する判決が出された年であり、BC級戦犯の裁判はまだ継続していた。大牟田にあった連合軍捕虜収容所の初代・二代の所長は捕虜虐殺(アメリカ人2人が死亡)によって死刑となり、絞首刑1号そして2号となりました。
この同じ時期に同じような、はるかに大量の「捕虜」殺害をした七三一部隊の石井四郎部隊長以下は免責され、やがて要職を歴任していったのです。
平沢貞通は、政治力学に翻弄された哀れな犠牲者だった。まさしく、そのとおりです。
大変な労作に驚嘆してしまいました。
(2020年7月刊。2000円+税)

あれから―ルワンダ・ジェノサイドから生まれて

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 ジョナサン・トーゴヴニク 、 出版 赤々舎
1994年4月から6月にかけての100日間で、中央アフリカのルワンダで80万人もの人々が「インテラハムウェ」と呼ばれるフツの民兵によって残虐に殺された。そして、このとき多くの女性民兵によって繰り返し暴行された。この性暴力によって、2万人と推定される子どもが産まれた。また、母親の多くはHIV(エイズ)に感染して苦しんだ。
著者は2006年に訪れたときに撮った写真と、それから12年たった2018年に撮った写真を並べ、母親と子どもたちに心境をたずねています。
子どものなかに大学に進んだという人もいて、救われる気持ちでした。もちろん、母親も子どもも生物学的な父親を許すはずもありません。ところが、ここでも父親に会いに行ったり、許すと言う子どもがいるのです。まことに人生は複雑・怪奇です。
自分が人殺しで暴行犯の子だと知ったことによる悪影響はある。人殺しと暴行犯の娘だというレッテルを貼られたくないので、もし父親が生きていても、あんなことをした人と自分とを結びつけたくはない。母にひどいことをしたのだから、許すことなど考えられない。きっと他の女性も暴行したことだろう。いったい、どうやってそんな人を許せるというのか…。
性暴力の結果とともに生きていくのは、簡単なことではない。今でもフラッシュバックがある。これはきっと死ぬまで続くんだろう。
娘が性暴力から生まれたことによる最悪の結果は、娘には家族も、祖父母も、父も叔母も、私以外には誰もいないということだ。
一度だけ、父親と会った。父が刑務所にいるときに会いに行った。父にひとつ質問した。なぜ、刑務所にいるの、そしてぼくが聞いたことは本当なのか…と。父は恥じて、話したがらなかった。真実を伝えることを避け、沈黙が流れた。
自分の経験を子どもに話せていなかったら、おそらく気が狂っていただろうと思う。自分の心を解放してやる必要があった。今はもう、何も恥ずかしいことはない。
自分の父親が誰かを知る必要はない。知っても悲しくなるだけだろう。父親は人殺しで、ひどいことをしたんだから、そんな父親と自分を結びつけたくはない。知りたくない。父親は普通の人間ではないだろうから、知らないほうが、まだいい。ジェノサイドのときの性暴力から生まれたことによって、悲しさ、恥、そして低い自己肯定感が自分に植えつけられた。自分が誰であるかをめぐる真実を知ったことで、ようやく自分自身を受け入れることができた。
自分の父親が誰かを知る気はまったくない。自分が人殺しから生まれたと、人間性にとって何の価値もない人間から生まれたと考えるだけで、とてもひどい気持ちになる。正直に言って、自分の民族性が何なのか分からない。自分はフツでもツチでもない。ツチかフツのどちらかとして認められたいとも思わない。ぼくはルワンダ人として認められたい。
自分の父親を許せるかどうかは分からない。難しい。父がフツなので、自分もフツだと思う。子どもは父親の民族を受け継ぐものだから、私はフツ。
ジェノサイドの追悼週間になると、母はトラウマのせいで、私を人殺し呼ばわりする。母にジェノサイドの犯人と言われるのは、やはり辛い。母は私が父親と同じフツだという。でも、自分がツチかフツかというのは、自分にとっては重要なことではない。私はルワンダ人であり、それが大切。
以上、いくつか紹介しましたが12年たって、大学に行く年齢の子どもたちにもインタビューした結果が紹介されているのが大きな特徴の写真付きの証言集です。
ビフォー・アフターというか、2006年に撮った母と子(息子または娘)の写真が、12年後の2018年に撮った写真と対比させられていて、子どもたちが、内面の苦悩はともかくとして、たくましい大人になっていることに、少しだけ安心できます。それにしても、人物写真がくっきり鮮明に、よく撮れていることに驚嘆しました。
(2020年6月刊。3500円+税)

幕末維新と自由民権運動

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 江島 香 、 出版 柳川市
コロナ禍によって水郷・柳川の川下りもさっぱりのようです。
その柳川が幕末から明治にかけてどのように動いていたのかを明らかにした本です。
私は柳川における自由民権運動の状況を知りたくて、本書を購入しました。というのも、明治時代、代言人そして弁護士の人数において、筑後地方は福岡・北九州と互角の勝負をしていたのです。要は、それほど自由民権運動が盛んだったということです。いったい、なぜなのか…、とても興味があります。
本書を読んで、その謎が解けたというところまではいきませんでしたが、自由民権運動が活発だったこと、内部では激しい対立・抗争があっていたことを知りました。
自由民権運動が始まったのは、明治7年(1874年)1月に、民撰議院設立の建白書を提出したことから。明治10年代、国会開設を求める運動は全国に広がり、2100をこえる結社が結成された。
明治13年(1880年)、柳川の城下町を中心とした結社である協集社、三池郡の盍簪社が結成された。その前の明治8年、大阪に愛国社が設立されたが、自然消滅し、明治11年9月に再興大会が開かれた。
明治11年5月に、福岡の向陽社が主導して、九州連合会は福岡会を開いた。明治12年10月には久留米まで九州連合会が開かれ、柳川からも参加した。
三池郡の盍簪社(こうしんしゃ)は、永江純一(のち福岡参議会議員そして衆議院議員)や、陸軍大将による立花小一郎などが参加していた。明治13年4月に、公同社と改称した。
福岡では明治12年12月、向陽社が主導して筑前共愛会が成立した。
明治13年には、旧柳川城下に協集社という結社が成立していた。そして、同年3月、大阪で開かれた愛国社は国会期成同盟と改称された。
明治政府は明治14年10月に明治23年に開設すると発表した。
明治14年ころ、主権論争がたたかわれた。永江純一らは主権は国民にあるが、君民統治と主張し、由布九郎たちは主権は天皇にあると主張した。そして、この意見の違いから、有明会は分裂した。
明治15年、集会条例など政府の規制が強まり、運動は萎縮した。そして、同年、柳河改進党が結成された。明治18年、九州改進党が解党したのを受け、柳河改進党も解党した。
明治19年後半から、大同団結運動が盛り上がった。同年7月、福岡県全域を基盤とする政談社が設立された。
明治22年3月、大同団結運動の中心人物だった後藤象二郎が黒田清隆内閣の大臣として入閣したため、この大同団結運動は一時混乱した。
明治22年2月に熊本で開かれた旧九州改進党大会には九州全域から2800人もの参加があった。ところが、会の性格をめぐってもめて、大同団結どころか、大会から退場する人々がいた。そして、大同派と非大同派という派閥が生じてしまった。非大同派の永江純一たちは政談社を退社した。
永江純一は江戸時代には庄屋、明治になってからは戸長をつとめている。野田卯太郎は、みやま市の農家の出身。この二人が福岡県会議員になったのは、明治19年のこと。非大同派は、政治経済をふくめた地域社会の発展を重視していた。そして、二人とも徳富蘇峰に近い立場だった。
明治21年2月、外務大臣に就任した大隈重信は、条約改正に取り組んだが、そのなかの一つに外国人判事の大審院任用があった。もちろん、これには猛烈な反対運動がおきた。
うひゃあ、知りませんでした。日本の大審院判事に外国人判事をおくなんてことを大隈重信たち当時の偽政者が考えていただなんて…。とんでもないことです。
幸か不幸か、大隈重信は馬車に爆弾を投げつけられて負傷し、この条約改正は中止され、辞職した。
福岡そして南部の筑後地方には自由民権運動参加した人の層が厚い(熱い)ことをひしひしと感じさせます。それが、代言人そして弁護士を志向する若者をひきつけていったと言えないものでしょうか…。本文400頁もの力作です。
(2020年3月刊。1500円)

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