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2020年6月 の投稿

萩尾望都・作画のひみつ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 萩尾 望都 、 出版 新潮社
萩尾望都が絵を描いている様子が写真で紹介されています。
そして、アイデアがかたちになる前のクロッキー帳も公開されています。
著者はクロッキーブックに思いつくままにプロットやセリフを書いていく。このクロッキーブックは、月に1冊は使う。
著者は福岡のデザイナー学院で2年間、ファッションデザインの勉強をしていたので、衣裳にも詳しい。
著者がマンガ家になるのを決意したのは、大阪での高校2年生(16歳)のとき。19歳でマーガレットに金賞で入賞し、20歳で上京した。23歳のとき、「ポーの一族」シリーズ第1作を発表。
すごい早熟なんですね。なにしろ2歳で絵を描きはじめ、4歳のときには四コママンガも描いていたというのですから…。
私は、SF長編「11人いる!」にショックを受けました。絵といい、ストーリーといい、まったく想像を絶しています。これは著者がまだ26歳のとき。
「残酷な神が支配する」にも圧倒されました。まったく考えも及ばない世界とストーリー展開だったからです。
この本には、たくさんの原画が紹介されています。もちろん、ストーリーのあるマンガですから、1枚の絵を描けば足りるというものではありません。ストーリー展開にそって人物が動いていきます。
そのとき肝心なのは、やはり、なんといっても目のようです。ほんのちょっとした目つきの違いがストーリー展開を支えるわけです。そこをうまく描きわけていくわけです。まさしく天才的としか言いようがありません。
手塚治虫を尊敬しているとのこと。やっぱり、ですね。
あまり社会的発言はしていないようですが、3.11についてはマンガにしているようです(すみません。読んでいません)。
「永久保存版」と銘うってあるだけのことがある、豪華カラー図版満載の本です。萩尾望都ファンでなくても、少しでも関心があれば、ぜひ手にとって眺めてみてください。
著者は私と同じ団塊世代。著者の母親は私の母と同じ福岡女専の同級生でしたので、著者の顔写真をみるたびに著者の母親そっくりだと思ってしまいます。
(2020年4月刊。2000円+税)

平将門の乱を読み解く

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 木村 茂光 、 出版 吉川弘文館
平将門(たいらのまさかど)の乱は平安時代に起きた、武士の最初の反乱と言われる、935年から940年にかけての内乱だ。
平将門は、上野国府で「新皇」(新しい天皇)を宣言して、坂東8ヶ国の国司を任命し、新たな「王城」建設まで宣言した。
日本史のなかで、新しい天皇(新皇)を名乗り、朝廷の人事権(除目。じもく)を奪って国司を任命し、新しい宮都の建設まで計画したのは、ほかには南北朝内乱時の後醍醐天皇くらいしかいない。将門の乱は、まさに日本史上まれにみる大事件だった。
平将門が新皇宣言するにあたっては、菅原道真の霊魂と八幡大菩薩がその根拠となっていた。これらのことから、平将門の乱は単に東国で起きた武士の反乱という側面をこえた国家的な問題をはらんだ反乱だったと言える。
この当時、領地・所領は、まだ財産的価値をもっていなかった。
平安時代というのは、そのような時代なのですね…。
平将門は東北地方を強く意識していた。すなわち、鎮守府将軍のもたらす富には、奥羽さらにエゾ地から持ち込まれた、胡禄(ころく)、鷲羽(わしのはね)、砂金、絹、綿、布があった。
平安末期、源頼朝の挙兵について支配者層は平将門の乱に匹敵する大事件であると認識していた。
平将門は、平安京に似せて「王域」を建設しようとした。
「左右大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史」の任命、「内印、外印(天皇の印と太政官の印)」の寸法・文字などを確定した。このように宮都の建設・官僚の任命が矢継ぎ早に実施された。ただし、専門性の高い技術と能力を必要とする暦をつくる暦日博士は人材を確保できずに任命されなかった。
平将門の「新皇」即位は、「みじめな構想」などではなく、思想的・精神史的には京都の天皇・天皇制を相対化するような大きな「画期性」をはらんでいた。
平将門は、自分の国家領域を支配するための政策をしっかりもっていたと認められるべきだ。
平将門は、律令国家・王朝国家が支配の根幹としていた国府を襲い、さらに中国由来の天命思想を掲げ、新興の八幡神・道真の霊を根拠として「新皇」を名乗って王城を建設しようとした。
平将門の乱は、関東という、京・畿内から遠く離れた領域を舞台として起きた反乱だったが、この反乱から読みとれる諸特徴は、まさに全国的な政治的・社会的・思想的な変化を体現するものばかりだった。
京から遠く離れた坂東の田舎武士どもが、ちょっと盾ついたというレベルのものでなかったことを初めて知りました。
(2019年11月刊。1800円+税)

戦車将軍グデーリアン

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 角川新書
ドイツ国防軍のグデーリアン上級大将は、1940年5月の頂点から、1941年の対ソ戦におけるモスクワ前面での敗北、そしてヒトラーから解任へと転がり落ちた。
ドイツ敗戦の後は、戦犯裁判の被告となることは免れたものの、栄誉も財産も失い、悲境のうちに死んでいった。
グデーリアンは、ドイツ装甲部隊を育て、指揮し、勝利をもたらした最大の功労者だという見解が定着していた。しかし、それは主としてグデーリアン本人の書いた回想録『電撃戦』によるもので、実は、不正確なものだった。
そして、グデーリアンは語っていないし、認めてもいないが、ナチス・ドイツ軍によるユダヤ人をふくむ住民の大量虐殺に加担もしくは目をつぶっていたという事実があった。
グデーリアンはヒトラーを信奉し、反共・反ユダヤ主義の信念で一貫していた。
グデーリアンとマンシュタインは陸軍大学校の同期生だったが、この二人は決して仲がいい関係ではなかった。
グデーリアンはベック陸軍参謀総長とは違憲があわず、むしろベックを装甲部隊にとっての障害をみなしていた。このベックは、戦争を避けるためクーデターを起こしてヒトラーを排除することまで考えついて、結局、ヒトラー暗殺に失敗して命を失った。
1940年5月10日に発動された「黄号」作戦で、グデーリアンはアルデンヌ突破を成功させた。ところがクライス装甲集団司令官は、グデーリアンを命令違反と単独行動として激しく叱責した。このクライスの背後にはヒトラーもいたので、さすがのグデーリアンも従わざるをえなかった。
そして、それは、ダンケルク停止命令となった。この停止命令は、ヒトラーが自己の権力を保全・強調するためのものだったというのが、今の私には一番もっともらしく思えます。いずれにしても、ドイツ国防軍のなかでも決して一枚岩ではなかったのですね…。
そして、そこに「軍事の天才」と自称するヒトラーの独断と思い込みによる作戦指導があって混迷をきわめたのでした。
ソ連攻略を目ざしたドイツ軍のバルバロッサ作戦については、その目的が明らかでなかったと著者は評価しています。ソ連軍は頑強に抵抗しましたし、ソ連の国土はぬかるみのためドイツ軍の戦車は立ち往生してしまったのです。
グデーリアンは、ヒトラー暗殺計画の一味から参加するよう誘われたのですが、結局、日和見を決め込んだのでした。日和見ということは、ヒトラー側へも通報していないということです。肝心な決行の日には自宅にいたようです。暗殺がうまくいくか失敗するか、いずれにしても自宅にいたらアリバイがあると考えたということです。
ドイツ軍の「電撃戦」なるものは、当の本人がそのように主張しているだけで、実は落氷の綱渡りだったという。真相なのですね…。
『独ソ戦』を補完するものとして、コロナのせいで客がまばらになった福岡・六本松のコーヒーショップで一心に読みふけりました。
(2020年4月刊。900円+税)
日曜日の夜、寝る前に楽しみの「ダーウィンが来た」を見ようとしていると、テレビのある和室から「キャーッ」という家人の悲鳴が聞こえてきました。何事か…。それはそれは見事なムカデがいました。地元ではゲジゲジと呼んでいます。15センチほどもある、テカテカとした光沢のムカデが泥壁にへばりついていました。慌ててハエ叩きで叩いてみましたが、へっぴり腰で叩いたせいで、手応えもなくポロリと床に落ちてしまいました。決してくたばったとは思えませんが、動作は鈍くなりました。電線コードが近くにあって叩きにくいので、掃除機の吸い取り口をムカデにあてました。すると、ムカデはするっとテレビ台の下に逃げ込んだようです。仕方なく、重たいテレビ台を2人がかりで上げてテレビ台の下を懐中電燈で照らしてみましたが、見つかりません。いやあ困りました。こんな部屋でムカデなんかと一緒には寝れない、そう言って家人はさっさと逃げ出してしまいました。
翌朝、掃除機のゴミ吸収袋を取り出そうとすると、ガサっと動くのです。逃げ切ったと思ったムカデは掃除機に吸い込まれていたのでした。いやあ、最近の掃除機の吸引力って、すごいパワーをもっているんですね…。
自然に近いところに住んでいると、家の中の床に太いナメクジがいたり、庭にモグラや土ガエルだけでなくヘビまでいたり、あまりうれしくない隣人とも近所づきあいをしなくてはいけません。歩いて5分の小川にホタルが乱舞するのを見れるというのは、こんな環境であることを意味します。
夏に草取りをしていてヒマワリを見上げると、ヘビがからまって昼寝しているのを見て、あれえ…と腰を抜かしてしまう出来事が起きたりもするわけです。

民衆の教育経験

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 大門 正克 、 出版 岩波現代文庫
戦前の日本の子どもたちと学校との関わりが明らかにされています。
「生活極めて困難故に本人を要す」
これは戦前の小学校の内部書類にくり返し出てくる文章だというのですが、私はとっさに何のことやら分かりませんでした。要するに、生活が大変なので、子どもを学校にやれない、不就業を認めてほしいという申請書にある文章なのです。
その理由は、さまざまです。小さい弟妹がいる、病人がいる、一家多人数、年寄りがいる…。ところが、「戸主54歳」とか「戸主人力車夫」というのもあり、いったいこれは何なのか…。
ともかく、生活するに子どもが必要なので、学校にはやれないという申請書を出して、それが認められていたのです。これは、東京都下の田無(たなし)町の小学校のことで、ときは日清(1894年)、日露(1904年)戦争のころのことです。
長野県の五加村では、日清・日露戦争のころ、女子の未就学が減少し、男子だけでなく、女子も6歳になると小学校に通うようになった。ところが、日露戦争のころには、家計補助や子守を理由とした女子の中途退学者が膨大に出現し、女子の多くは卒業を待たずに尋常小学校をやめていた。
初等教育の定着は、むしろ農村で先行して、大都市では遅れた。
明治期の小学校では、日ごろ、教室で、「国家有為の人物」になる必要性をくり返し説かれていた。
山形県豊田村では、1931年ころ、白米を食べる農家が一般的であり、副食物は自家栽培の野菜で、肉類や魚が食卓にのぼることはまれだった。食事は銘々膳を用いる農家が多く、飯台(ちゃぶ台)を使うのは非農家の俸給生活者くらいだった。
日光や灯火が少なく、暗い室内で作業したり本を読み、家の中には煙が立ちこめているため、子どもをふくめて一家全員がトラホームにかかっている例が少なくなかった。
東京市内の農家の女性は農家に嫁ぐことを嫌い、農家の青年が結婚しようとすれば、遠方の農村から相手を探さなければならなかった。農家の親のなかにも、娘を農家に嫁入りさせたくないというのもいた。
下層農家の女子まで、農家に嫁ぐことを好まず、女中や女工として都市にはたらきに出ることが増えた。
東京の中野駅近くにあった桃園第二尋常小学校では、1931年9月の柳条湖事件に始まる満州事変のあと、子どもたちは、「らんぼうな支那」、「我が(日本軍)兵士は、実に正義のために今、寒い満州で意地の悪い支那人と戦っている」と書いた。「らんぼうな中国」に対する、「正義の日本」という対比です。学校は満州事変のころの民衆動員の有力な場となっていた。
戦前、戦中の子どもたちの実像を知ることのできる貴重な文庫本です。
(2019年9月刊。1420円+税)

アメリカン・プリズン

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 シェーン・バウアー 、 出版 東京創元社
アメリカでは刑務所までが民営化され、私企業による金もうけビジネスの場となっていることは知っていましたが、実はその歴史は大変古いものだったのでした。そして、勇敢なジャーナリストが民営刑務所の職員に志願して潜入したのです。
民営化刑務所では、当然に金もうけ優先なので、なすべきことをせずに経費節約として人件費等をバッサリ切り捨てていった。すると、当然のことながら、刑務所内部は荒廃していった。矯正教育どころではない。時給わずか9ドルの刑務官が丸腰で1人あたり176人の受刑者を監視するという、とんでもない状態が生まれた。
受刑者が荒れたら、刑務官のほうもストレスがたまる。みんな長続きしないので、刑務所を運営する会社はどんどん求人する…。
平均して刑務官の3分の1がPTSD(心的外傷ストレス障害)に悩まされている。これは、イラクやアフガニスタンからの帰還兵士よりも多い。刑務所内のあちこちに、職員向けの自殺防止ホットラインのポスターが貼られている。刑務官の自殺率は平均すると一般市民の2.5倍。そして、刑務官の寿命は短い。自殺しながった者も、平均寿命よりも10年も早く死んでいる。刑務官の仕事は、とにかく危険すぎる。敵をおおぜいつくったことをよく覚えていたほうがいい。
受刑者の3分の1は精神的な問題をかかえていて、4分の1はIQが70未満だ。
刑務所が人を更生させるって、よく言われるけれど、人を更生させるのは刑務所ではない。自分で自分を更生させるしかない。
アメリカの大部分の刑務所には、はっきりした人種の溝がある。アーリアン・ブラザーフッドやメキシカン・マフィアなどの人種別の刑務所ギャングによる所内政治が存在する。
刑務所の収容者の75%が黒人、25%が白人の刑務所では、異なる人種どうしが一緒に食堂のテーブルを囲み、運動場にたむろし、大部屋で眠る。
一般的な刑務所は人件費に次いで多いのは医療費。ルイジアナ州の刑務所は、平均して予算の9%を医療費に充てている。州によってはさらに高く、カリフォルニア州のある刑務所では予算の31%を医療費が占めている。
ほとんどの受刑者には、弁護士を雇う余裕はないので、裁判に勝つのはほぼ不可能になる。それでも、CCAは2008年までの10年間で600件の裁判で和解している。
現金がなければ刑務所で生きていくのは、ほぼ不可能。一般国民が合法的にお金をつくる唯一の方法は血を売ることだった。また、新薬の治験者も割が良かった。
アメリカの刑務所人口は増え続けている。10年間で、26万3千人から54万7千人に倍増した。そして、2009年のピーク時には州刑務所と連邦刑務所をあわせて160万人に達した。刑務所は利益を生むどころか、州と国のあわせて年間800億ドルの費用を要するようになった。
民営刑務所は公営刑務所より受刑者同士の傷害事件が28%多く、民営刑務所の受刑者は公益刑務所の受刑者の2倍近くの武器を持っている。
移民収容所は、民営刑務所の足をひっぱっている。民営化された監視塔に人員を置かなくなったのと同じころに、作業プログラムも削られた。職業訓練プログラムの多くが廃止され、工房は物置になってしまった・・・。
日本もアメリカにならって、刑務所の民営化をすすめていますが、いったい民営刑務所の真実の姿を私たちは、どれだけ知っているでしょうか…。アメリカの民営刑務所内に突撃したジャーナリストの勇敢さをたたえます。
(2020年4月刊。2100円+税)

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