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2019年9月 の投稿

日本占領史、写真でわかる事典

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 平塚 柾緒 、 出版  PHPエディターズ・グループ
1945年8月、敗戦直後の日本の様子が写真でとらえられています。
降伏した日本へアメリカ軍が乗り込んでくるとき、マッカーサーは実は日本軍の反撃をまだ心配していたようです。なので、日本軍のもっていた飛行機はみなプロペラを外すよう命令していました。
首都東京は一面、焼け野が原です。ところが、敗戦と同時に人々は復興に走り出しました。
東京に進駐してきたアメリカ軍は、10日後には丸腰で都内をうろつくようになりました。日本軍の反撃など、何の心配もいらなかったのです。考えてみれば不思議です。「鬼畜米英」を一夜にして解放軍として受け入れるとは・・・。
この写真集には、東京裁判の被告となったA級戦犯全員の被告の顔写真が2回紹介されています。1回目は肩書とともに、2回目は判決の結果です。
別の本の書評で紹介しましたが、アメリカ軍はナチス・ドイツを裁いたニュルンベルグ裁判のときとちがって、日本軍が中国大陸で南京事件をはじめとする残虐行為をしたことを日本人に大々的に広報し周知させようとはしませんでした。その結果、日本軍が中国や東南アジアで行った残虐行為を知らないまま、多くの日本人は戦争被害者という認識だけをもって今日に至ったのです。このことが今日の「なんでも反日」プロパガンダにつながっています。
アメリカ軍は、関東・東北へは相模湾と館山海岸から上陸し、関西へは和歌山湾岸から上陸したことを初めて知りました。上陸用舟艇をつかってまさしく海岸から上陸している写真があります。港に軍艦を横づけしなかったのは、なぜなんでしょうか・・・。
敗戦時、連合国の捕虜が日本全国3万2418人収容されていて、うち1割の3500人が死亡したとのことです。
マッカーサー一家は、アメリカ大使館に生活していて、第一生命ビルを接収してGHQの本部とした。マッカーサーは、朝8時に起床し、午前10時に皇居に面したGHQに出勤。午後2時にGHQを出て大使館の自宅に戻って昼食をとり、昼寝。午後4時にGHQへ行き、午後8時まで仕事をして、大使館に帰る、夕食のあとは、夫人たちと西部劇などの映画をみる。就寝は夜12時ころ。日本の国内旅行は一切しなかった。
昭和天皇は1945年9月27日、アメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪ねた。昭和天皇は当時46歳か・・・。
1948年11月3日、皇居前広場で中央カーニバルが催された。日本全国のお祭りを一堂に集めたのだ。100万人もの見物客が押し寄せた。なるほど、写真で大群衆がいることを実感できます。そして、デモ隊が行進する様子も写真にとらえられています。
写真で敗戦直後の日本の様子を確認することのできる貴重な事典です。480頁、5000円もする大作ですので、せめて全国の図書館にもれなく置かれてほしいものだと思いました。
(2019年5月刊。5000円+税)
石舞台古墳をみてきました。永年の念願でした。飛鳥駅前でレンタサイクルを借りました。1400円。フツーの900円より500円高い電動自転車です。奈良駅の観光案内所の女性からは、平坦地で15分なのでフツーでいいと言われましたが、念のため、電動にしたのです。これが大正解でした。
駅前から軽快に走り出します。快晴です。日差しがギラギラ照りつけるので途中のコンビニで麦わら(まがい)帽子を買いました。1000円。実は、その手前、途中でキトラ古墳へ間違って走って、おかしいと思い引き返し、中学生を引率している教師に尋ねて石舞台を目ざしました。「上り坂もあって大変ですよ」と声をかけられたのですが、まさにそのとおりでした。電動自転車でなければとてもとても走れません。平坦地ばかりなんて、とんでもありません。といっても、30代までなら、何の苦もないことでしょうが・・・。途中のコンビニで買った麦わら(まがい)帽子をかぶり、狭い道をのぼって、ようやく石舞台古墳にたどり着きました。
田園のなかというより、森の入口に近いところに平坦な空地があり、まさしく巨石が積み上げられています。もとは土に埋もれていたのか、長年の風雨にさらされていつのまにかむき出しになったようなのです。
周囲をめぐってみると、巨石の下に羨道(せんどう)室があり、なるほど墓室だと実感できます。蘇我馬子の墓というのが定説です。曽我氏族はこの飛鳥あたりを勢力圏にしたらしいのですが、今はただ平野と森の一帯で、ところどころに民家がある程度です。こんな辺ぴなところを拠点としていたというのですか・・・。

フィンランドの教育はなぜ世界一なのか

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 岩竹 美加子 、 出版  新潮新書
大学で法学部の人気が落ちて、経済学部の人気が上昇しているそうです。その有力な原因の一つが、学生の金もうけ志向にあるとのこと。
国(年金)が頼りにならず、なんでも自己責任の風潮が広まるなかで、多くの学生が金もうけに走っていると聞くと悲しいばかりです。
お金はそこそこあればいい。それよりも世のため、人のため。他人(ひと)に喜ばれる仕事をしたい。そんな学生が増えてくれることを願う毎日です。
著者は、フィンランドで実際に子育てした日本人女性(ヘルシンキ大学非常勤教授)。
フィンランド教育の良さは、何よりもそのシンプルさにある。入学式や始業式、終業式、運動会などの学校行事がない。授業時間は少なく、学力テストも受験も塾も偏差値もない。統一テストは、高校を卒業するときだけ。学校には、服装や髪形に関する規則もなければ、制服もない。部活も教員の長時間労働もない。
フィンランドには教育に関して地域という考えはなく、連絡協議会や青少年育成委員会など、学校をとりまく煩雑な組織はない。
フィンランドでは教育の無償化は徹底している。小学校から大学に至るまで教育費は無償。小中学校では、教科書やノート、教材等も無償で支給される。学級費その他の費用負担もない。給食は、保育園から高校まで無料。
教科書や鋼材は学校に置いていくので、重たいカバンをもって通学する子どもはいない。
学校からの連絡はメールなので、プリントや手紙もない。
17歳以上には、給付型奨学金、学習ローン、家賃補助など学習支援をする。学習ローンの保証人は国であって、親や親族ではない。
フィンランドには受験はなく、受験のための勉強もない。中学を卒業したら、高校と職業学校に進路が分かれ、普通、18歳で卒業する。大学には応用科学大学というものもある。
高校卒業の日には、親が親戚などを招いて大きなパーティーを開く。
一斉卒業、一斉就職という社会の仕組みはない。
フィンランドの小学校のクラスは20人から25人ほど。授業時間は、日本の半分ほど。
フィンランドでは性教育が重視されている。ところが、日本の義務教育では、性交を教えない。東京でフツーの性教育を実践した学校に対して自民党の都議が不適切だと攻撃した「事件」がたびたび起きています。教育現場を委縮させる政治の不当な教育介入です。
フィンランドには戸籍はなく、入籍という考え方もない。
フィンランドの教育は、何より子どもたちに考える力が身につくことを重視している。
これこそが今の日本の子どもたちに欠けていることではないでしょうか・・・。
アメリカから必要もない兵器を爆買いさせられて軍事予算だけは青天井で増加しつつあるのと反対に、大学の授業料は上昇する一方で、学生の奨学金も少ないうえに、有利子。日本の教育システムは、とんでもなく間違っています。司法修習生の給料を廃止したのも、その延長線上にありました。日本もフィンランドに学んで、教育費一切の無料化に踏み切るべきです。
大量人殺しのための戦闘機より子どもの笑顔あふれる教室を増やしてほしいものです。うらやましいタメ息とともに、チョッピリ勇気がもらえる新書でした。
(2019年7月刊。780円+税)

ダイヴ・トゥ・バングラデシュ

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 梶井 照陰 、 出版  リトルモア
私はインドにもバングラデシュにも行ったことがありません。バングラデシュというと、日本の大手衣料品メーカーが現地で安く縫製させて、日本で「高く」売りつけているというイメージです。
まずは表紙の写真に圧倒されてしまいます。夜の駅に無数としかいいようのない大群衆がホームにひしめいている写真です。ええっ、こんなにバングラデシュって、人口が多いのか・・・、と思わず息を呑みます。
著者は僧侶であると同時に写真家です。高野山で修業して真言宗の僧侶になり、世界各国を取材してまわっています。バングラデシュに2013年から2018年まで通って撮った写真が紹介されています。
2013年4月にバングラデシュ(ダッカ)で縫製工場の入っていたビルが崩落したときには死者1127人、負傷者2700人以上という大惨事でした。
低賃金で働かされる縫製工場に発注している世界的衣料メーカーは、GAP,H&M、ZARA、ユニクロなど、世界的ブランドのメーカーです。
線路のすぐ脇にまでスラム街が広がっています。スラム街の貧しさから抜け出すために、男は劣悪な環境の炭鉱で働き、女は売春婦になっていく・・・。いやはや、なんとも言いようのないほどの貧困と人々の多さです。しかし、そんななかでも原発建設の反対を訴えるデモ行進があったりもするのです。希望がないわけではありません。
まさしく、雑然、混沌とした世界が奥深く広がっているのがバングラデシュのようです。その一端を垣間見た思いがしました。
(2019年5月刊。2900円+税)

耳鼻削ぎの日本史

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版  文春学芸ライブラリー
耳鼻削ぎは、「みみはなそぎ」と読みます。
耳塚としては、京都の方広寺が有名です。秀吉の朝鮮出兵のとき、討ちとった朝鮮人の耳を日本に運んできて埋めたとされる塚です。
正しくは鼻塚なのだが、江戸時代以降、「耳塚」と誤伝されている。
著者は、「耳鼻を削ぐ」ということの意味を深く追求しています。
日本中世社会において、「耳鼻削ぎ」は女性に対する刑罰だった。これは一見すると、残虐な刑罰だと思えるが、実は死一等を免除するという、宥免措置、ぎりぎりの人命救助措置だった。
ええっ、そうなんですか・・・。つまり、殺されるのに比べたら、耳鼻削ぎのほうがましだ、という切実な感覚が当時の人々にあったというのです。
日本の中世社会においては、女性を男性と同じように処罰するのは避けたいとする心理(観念)があった。浅はかな女性に男性と同じ法的責任を負わせることはできないというのが、女性の刑罰が軽減された理由だった。
このように、耳鼻削ぎは、現代の私たちが思うように残酷なものとは考えず、むしろ温情的な処罰だと考えられていた。
戦場で、大将クラスを討ちとったときには、首を戦功の証とした。しかし、雑兵については、首ではなく耳や鼻でかまわないという認識があった。
秀吉は、朝鮮人の鼻をまつった鼻塚を方広寺をつくったパフォーマンスとして鼻供養しようとしたのだった。敵兵の菩提をも弔う慈悲深いリーダーとしてのイメージを人々にアピールしようとしたのだ。
全国各地の耳塚・鼻塚は、実は、形状や立地から「耳塚」と呼ばれるようになっただけで、本当に耳や鼻を埋設したものではなかったようです。
面白い研究の本として最後まで一気に読み通しました。
(2019年3月刊。1400円+税)

福島の記憶

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 飛田 晋秀 、 出版  旬報社
3.11で止まった町。こんなサブタイトルのついた写真集です。
まずは、大津波の恐ろしさに圧倒されます。
大きな船が陸に打ち上げられ、無残な船体をさらけ出しています。そして、建物はスッポンポン、もぬけのカラです。
駅があり、電車が停車したまま。
地震で火災も起き、津波に流されて火災が広がった。久之浜町では、家の今に車が突っ込んだまま。
3.11の恐ろしさは津波の被害だけではなく、放射能汚染にある。
楢葉町(ならはまち)では、津波の被害があったところが広大な空き地となり、そこに除染土壌を入れたフレコンバックが置かれている。
川内(かわうち)村は、原発事故のため中心地は無人。人の姿は見えない。至るところにフレコンバックが置かれている。
都路(みやこじ)町では、放射能被害が影響したのか、元気だった中年の女性が6年後に亡くなった。
葛尾(かつらお)村は、地震の影響は少なかったが、原発事故のため、全村避難した。村の風景を写真にとると、ありふれたフツーの田舎の光景だ。しかし、どこにも人がいない。牛も鳥もそして犬や猫の姿も見かけない。村全体で3000頭の牛を飼育していたのが、今や、雑草に家がのみこまれている。
富岡町の目抜き通りに桜が見事に咲いた。しかし、この桜も放射能に汚染されている。
除染作業をしたあとでも、1.62とか1.67マイクロシーベルトという高い線量だ。
町なかでもイノシシが出てきて徘徊している。除染したあとでも3.15マイクロシーベルトを示しているのを見ると、除染作業って本当に有効なのか疑問をもってしまう。
大熊町では放置された家の玄関先がなんと24.2マイクロシーベルト。かつてはにぎわった商店街は、今や完全な無人街。不気味だ。
双葉町(ふたばまち)には、有名な「原子力、明るい未来のエネルギー」という大看板があった。原発の「安全神話」は、今なおなくなってはいない。日本経団連は、幸いにも実現しなかったが、これほど危険な原発をベトナムやトルコなどの海外へ輸出しようとしていた。正気の沙汰ではない。
無人の商店街のキャプション(説明書)は、「地震被害だけなら復興が進んでいたはず」と書かれている。
抜けるような青空の下に広々とした草原が延々と続いています。いやはや東北地方も狭い平野ばかりではないのです。アベ首相の「アンダーコントロール」宣言をせせら笑うかのようにフレコンバックがあちこちに広がっています。
よく出来た写真集です。全国の図書館には必携ですね。
(2019年2月刊。1800円+税)

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