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2018年7月 の投稿

日報隠蔽

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 布施 祐仁 ・ 三浦 英之 、 出版  集英社
アフリカの南スーダンへ自衛隊が国連PKOとして派遣されていたときの日報が実際には存在するのに廃棄されたとして防衛省が隠蔽していた事件をたどった本です。
この隠蔽が明るみになったことで、防衛省は、稲田朋美大臣、岡部俊哉陸幕長、黒江哲郎事務次官というトップ3人がそろって辞任せざるをえませんでした。前代未聞の不祥事です。
ことの深刻さは、単なる贈収賄事件の比ではありません。要するに、戦前の日本軍と同じ体質、国民に真実を知らせず、嘘をつき通そうとする体質が暴露されたという恐ろしい事件です。では、いったい自衛隊が南スーダンで直面していた事態とは、どんなものだったのか、それが今も日本国民に十分に知らされているとは思えません。
すなわち、南スーダンでは、武力抗争、石油資源をめぐる利権争いから内戦状態だったのです。すぐ近く(100メートルとか200メートルしかありません)まで、戦闘が続いていた。戦車や戦闘ヘリまで出動していて、4日間で300人もの戦死者が出るほど激烈なものだった。
それで、野営地にいた自衛隊の派遣部隊の隊長は、女性隊員もふくめた400人の隊員、全員に武器と弾薬を携行させ、各自あるいは部隊の判断で、正当防衛や緊急避難に該当する場合には撃てと命令したのでした。つまり、2014年1月の時点で、自衛隊は南スーダンで発砲する直前までいっていたのです。ところが、このような深刻な事実(状況)は、日本国民にまったく知らされませんでした。
むしろ現場に派遣された自衛隊の幹部は真相を隠蔽したくなかった。真相を伝えたくなかったのは、日本にいるトップの指導部です。国会(国民)対策上、真実が知られたら困るという「大本営発表」と同じように考えたわけです。
ところで、自衛隊員が本当に現地で発砲できただろうかという問いかけもなされています。発砲する相手は、どんな「敵」なのか、それは、14歳から17歳の少年兵、軍服も着てなくてTシャツにサンダル姿の少年兵たちがカラシニコフ銃を連射しながら襲ってくる、そんな状況を目の前にして日本の自衛隊員が銃の引き金を引けるか疑わしいという指摘です。私も、その通りだと思いました。ただでさえ、人を殺すというのはハードルが高いのに、ましてや相手が子どもたちだったら、引き金を引けるとは、とても思えません。でも、そうやってためらっていると、殺されてしまいます。
このようなジレンマに陥った自衛隊員が日本に帰ってから精神のバランスを失って自死に至るというのは、ある意味で正常な反応、必然ではないでしょうか・・・。
安倍首相は国会で次のように放言しています。
「南スーダンは、我々が今いるこの永田町と比べればはるかに危険な場所であって、危険な場所であるからこそ、自衛隊が任務を負って、武器も携行して現地でPKO活動を行っているところです」
南スーダンを日本の「永田町」と比べるなんて、とんでもありません。見識を疑います。
憲法に自衛隊を明記するという安倍首相の改憲論は、このような自衛隊の隠蔽体質を温存し奨励する危険があると私は思います。「日報隠滅」問題の本質を考えさせてくれる本です。
(2018年4月刊。1700円+税)

琑尾録 (上)

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 呉 希文 、 出版  日朝協会愛知県連合会
秀吉の侵略を受けた朝鮮側の一文化人の記録です。
上巻だけで480頁ほどもある大部な日記なのですが、朝鮮半島で平和に暮らしていた人々が突然、日本の武装兵に襲われ逃げまどっている状況が刻明に記録されています。
1592年4月、日本軍(「倭賊」と表記されています)が侵入してきて、1601年2月末にソウルに戻るまでの9年間の日記です。山中の岩かげで風雨をしのぎながらも記し続けた日記です。著者は両班(やんばん)で男性なので、ハングルではなく漢文で書かれています。
日本軍は戦国時代に戦争に明け暮れていたので、いわば歴戦の勇士です。これに対して朝鮮のほうは、1392年に朝鮮王朝が成立して以来、200年続いた平和の国でしたから、日本軍の侵入は、まさに青天の霹靂、何の備えもありませんでした。ずるずると後退していったのも当然です。そして、明軍が入ってくるのですが、明軍の接待も食糧の供出など、朝鮮の人々にとっては大きな苦労を余儀なくされました。
著者はソウルに住む名門の両班。本人は科挙に合格できなかったので、在野にいて、高い人格と学問ある人として周囲から尊敬されていた。その息子の一人が科挙に極隠し、日本への訪問団の一人となるなど、活躍した。
タイトルの「琑尾」とは、中国の古典、四書五終のなかの詩経に出てくる言葉、「琑たり尾たり流離の子」(うらぶれおとろうたさすらい人よ)からきている。したがって、「流離記」という意味。
1592年4月16日。倭船数隻が釜山に現れたというしらせが届く。夕方には釜山が陥落したというしらせ。驚愕する。城主が堅く守らなかったのだろうか。
4月19日。賊(日本軍のこと)は兵を三路に分け、まっすぐ京城に向かい、山を超え、大河を渡り、無人の野を行くようだという。哀れな民衆は、ことごとく賊の槍の餌食になったという。王がはかりごとも立てず、まず自分から逃げるとは、深く深く残念なことだ。わかほうの軍務長官は、軍の威厳を示そうとして大きな枝をふるって、あちこちで厳刑を加えるので、ムチ打たれて倒れる者も多く、人々の怨みはつのり、いっそ敵に攻めこられる方がよいと考えるほどになっていた。
たのみとするところは、今は義兵の旗揚げだけだ。聞くところでは、倭賊侵入後、嶺南の人は投降し、敵の手引きをする者が非常に多く、また徒党を組んで倭賊の声をまねて村に侵入し、村人が逃げ散ったあと、財産を略奪していく者も多いという。噂では、倭賊は、嶺南で両班女性のみ麗しい者を選んで5隻の船に満船して先に自分の国に送り、厚化粧させて売り飛ばしたという。
デマも記録されています。
琉球国人が日本全国の軍備が空になっているのに乗じて、平秀吉(豊臣秀吉のことです)を刺殺した・・・。
8月、明軍が来て、平安道の士気が上がる。
8月。三国時代以来、戦火のわざわいは何度も受けたが、島夷によるこのように酷い侵略は未曾有のことだ。今は、八道すべてが賊に躁躙されるという。わが国はじまって以来の大変事だ。
11月。村内の若者たちが集まって、すごろくをしている。負けた者は、両眼のまわりに墨を塗られてみんなの大笑いのタネにされる。
戦火のなかでも、このような余裕はあったのでした。
12月。大臣たちは心を合わせて回復しようとするのではなく、いまも東西の派閥に分かれて攻撃しあっている。国王の政庁と王世子の政庁との間に不和をかもしだしている。
1593年7月。倭賊は、南部の海岸地帯に倭城を築いて居すわり、周辺で耕作したり略奪しながら、日明平和交渉というだましあいを続けている。
11月。することもないので、末娘と碁石遊びで日を過ごし、流浪の寂しさを紛らわす。
1594年4月。最近、乞食が減った。ここ数カ月でみな飢え死にしてしまったので、村の中を乞食して歩く者がなくなったのだ。嶺南や幾内では人肉を食っているとささやかれている。遠い親戚など殺して食うというのだ。倭賊の投降者が続々と上京していき、少しでも気に入らないことがあると怒鳴りつけ、剣を振りまわしたりする。
1596年7月。李夢鶴の乱が起きたときの状況も日記に詳しく記録されています。
慶長元年閏(うるう)7月に日本の幾内で大地震が起きたとことも9月2日の日記に登場しています。情報伝達の早さ、確実さにおどろかされます。
噂では、日本国で去る8月、和泉県で地震があり、家があっという間に倒壊し、関内の兵士数万人が圧死した。
いやはや、かくも詳細な日記を戦火に追われるなか漢語で書き続けていた知識人(両班)がいたとは、驚きです。当時の知的水準の高さを如実に示しています。
日本文にするのには大変な苦労があったと思いますが、貴重な労作です。多くの人に読まれることを願っています。下巻が楽しみです。
(2018年6月刊。3000円+税)

漂流するトモダチ、アメリカの被ばく裁判

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者  田井中 雅人、エィミ・ツジモト 、 出版  朝日新聞出版
3・11大震災のとき、アメリカ軍がトモダチ作戦を展開していたことは知っていました。アメリカ軍が大震災を利用して、それを口実に軍事演習を展開していたと考えていました。
ところが、たとえば原子力空母ロナルド・レーガンの乗組員5000人が大量の放射能を浴びて、その結果、多くの兵士たちが白血病などにかかって苦しんでいるというのです。そして、彼らは裁判に訴えます。その原告は400人以上にのぼります。
トモダチ作戦で、アメリカ軍と自衛隊は、過去に例のない規模で「共同作戦」を実施し、「日米同盟の絆」を盛んにアピールした。
原告らは東京電力を被告として、アメリカのカリフォルニア州サンディエゴの連邦地裁に提訴した。損害賠償として1000万ドル、懲罰的賠償として3000万ドル、医療費をまかなうための1億ドルの基金の設立。これを原告らは求めている。
空母レーガンは、攻撃海域で、何度も放射性プルーム(帯状の雲)に包まれた。熱い空風が吹き抜け、口の中にアルミホイルをなめたような感触だった。甲板にいた乗組員は、やがて皮膚が焼けるように熱くなって、ヒリヒリした。そして、頭痛に襲われた。
空母は艦載機が発着するため、常に外気にさらされている。これに対して、駆逐艦はカプセルのようなもので、圧力調整された艦内には外気が入ってこない。巨大な換気フィルターは、放射性物質をしゃ断するので、放射能による汚染の心配はない。
その空母レーガンには5000人もの乗組員がいて、「浮かぶ都市」のようなものだ。警察もあれば、刑務所もある。空母レーガンの艦長は指揮官として、「水が汚染している恐れがある。飲むな」と全乗組員に指示した。3日目のこと。
レーガンの航海日誌によれば、3月16日夜から翌17日朝にかけて、5時間ほどプルームに入っていた。症状としては、全身に「はっしん」し、しこりを感じる、頻脈などなど・・・。
東電側は、法廷で次のように明言した。
被告東電は、たとば放射性物質の放出は認めるが、その放射量はきわめて微量。
トモダチ作戦に従事した7万人もの兵士から、300人から400人の被害者が出たという情報が著者にもたらされた。
トモダチ作戦によるアメリカ軍兵士たちの被害回復を目ざす裁判にも注目しようと思いました。。
(2017年10月刊。1600円+税)

焼身自殺の闇と真相

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 奥田 雅治 、 出版  桜井書店
2007年6月、名古屋市営バスの若い運転手が牛乳パックに入れたガソリンを頭からかぶって火をつけ、自殺を図った。この焼身自殺の原因は職場にあったにちがいない。
しかし、その手がかりは、本人が書いて残した上申書と進退願しかなかった。職場の同僚の協力は得られない。遺族の依頼を受けた水野幹男弁護士は裁判所に証拠保全を申請した。そのなかに「同乗指導記録要」があった。
「葬式の司会のようなしゃべりかたはやめるように」
「葬式の司会のようなしゃべりかた」というのがどんなものなのか、私は想像できません。ただ、その話し方が非難されるようなものには思えないのですが・・・。
そして、バス車内で老女の転倒事故が起きたのに気がつかなかった運転手だと「特定」されたのでした。
彼は、2月から6月までの4ヶ月間のあいだ、次から次に、身に覚えのない災難にあっていることが次第に判明していった。そこで、公務災害として遺族は労災申請します。
バスで転倒したという女性もなんとか探し出して本人と会い、乗っていたバスが全然ちがうものだということも判明しました。
ところが、公務外という結論が出てしまったのです。しかし、遺族はめげずに再審査を請求します。そして、再審査を担当する審査会の委員長の弁護士が突然、辞任するのです。独立性と公平性が保障されていないので責任をもてないからというのが辞任理由でした。それでも、審査会は反省することもなく、棄却されてしまったのでした。やむなく、名古屋地裁に提訴することになり、裁判が始まりました。
法廷には、元同僚も勇気をふるって出廷して証言してくれました。同じ日に3人もの職制がバスに乗って同乗指導したことを認めつつ、それは偶然のことだと居直る証言もあり、一審は有利に展開していたはずなのですが・・・。
一審判決は公務災害と認めませんでした。当事者が主張していないことまで持ち出し、「たいした失敗ではないのだから、自殺するほどの心理的葛藤はなかった」としたのです。あまりにひどい一方的な判決でした。
ただちに控訴し、名古屋高裁では証拠調べをしないままに判決を迎えます。そして、逆転勝訴の判決が出たのでした。
「葬式の司会者のようなアナウンス」とは、小さい声で抑揚のない話し方ということなのですね。このような表現は、相手をおとしめる言葉であると高裁判決は断じました。
さらに、バスの内の転倒事故についても、そのバスで事故が起きたと断定することは困難だというきわめて常識的な判断が示されたのでした。
そこで、「被災者が、接客サービスの向上に努める名古屋市交通局の姿勢を強く意識して、精神疾患を発症するに至ったとみられることからすれば、被災者の精神疾患の発症は、公務に内在ないし随伴する危険が現実化したものと認めることが相当」だとしました。
それにしても、認定まで実に9年もの年月を要したというのも大変でしたね。それでも一審判決のようなひどい判決が定着しなかったことが何よりの救いでした。
ながいあいだの遺族と関係者のご苦労に心より敬意を表します。
(2018年2月刊。1800円+税)

潜伏キリシタン村落の事件簿

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  清文堂
まったくのオドロキです。福岡の筑後平野に今村天主堂があり、最近も『守教』(帚木蓬生)という小説になりました。大刀洗町の今村地区は江戸時代を通じて、ずっと切支丹として村ごと維持してきたのでした。
同じことが天草でも起きていたのです。しかも、その信者の規模は少なくとも5千人だったのです。幕府への公式報告書には6千人とされていました。そして、なんと、一人も刑死者を出していないというのです。信じられません。
島原の一揆のあとでも天草に、それだけのキリスト教信者がいることを知って、幕府当局は事なかれの穏便な処理方針をとったのです。なぜか・・・。
私も天草には行ったことがあります。エイのヒレ(エイガンチョと呼びます)を食べた覚えがあります。そして、今ではイルカ・ウオッチングで有名ですし、恐竜の化石が出たところでもあります。ですから、また機会をつくって天草に行ってみたいと考えています。
江戸時代の後期、文化・文政のころ、19世紀にさしかかるころです。肥後国天草郡の最大の島、下島西海岸の村々で5千人をこえる潜伏キリシタンの存在が明るみに出た。いま、天草氏にある大江天主堂の近くの天草ロザリオ館には、数多くのキリシタン遺物が展示されている。それは天草の村人たちが「隠れ部屋」をつくって、キリシタン信仰を守り続けてきた、何よりの証拠である。
最後のバテレン(宣教師)、斎藤パウロが寛永10年(1633年)に天草の上島の上津浦で捕まった。
なぜ、天草にキリシタン信仰が根づいていたのか。それは、貧困と貧富の格差がひどかったからだ・・・。
天草の人口増加はすさまじい。万治2年(1959年)に1万6千人だったのに、寛政6年(1799年)に11万2千人、文化14年(1817年)には13万2千人となった。
全国的にみると、江戸後期の人口は微増でしかなかったのに、天草の人口増加は驚異的である。これもカトリックの影響でしょうか・・・。
潜伏キリシタンは、仏教を信仰する「正路の者」と日常生活をともにし、仏教関係の行事をこなしつつ、その裏でキリシタンだけの信仰生活を送っていた。
潜伏キリシタンは、7日間を区切りに生活し、7日目を「ドメンゴ」(ドミンゴ、日曜日)と呼んで、仕事を休み、神に祈りをささげた。
天草を統治する島原藩の基本方針は、「5千余」の潜伏キリシタンを処罰せず、もとの状態、仏教信仰の「正路」の状態に戻すというもの。そのため、性急な取り調べをせず、余裕をもって、柔軟に対処していくことにした。
なぜ、そうしたか・・・。急に村民を吟味(ぎんみ)すると、徒党、逃散などの騒動が起きたり、村つぶれになったりするので、気長に取り扱えという。要するに、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」と同じで、百姓を確保しておきたかったのでしょう。
幕府も潜伏キリシタンの処遇には困った。結局、5千人もの潜伏キリシタン5千人全員が、その罪を問われることはなかった。それどころか、対処にあたった関係者は幕府から褒賞(ほうしょう)された。時代は変わった・・・。
5千人とも6千人ともいう天草の潜伏キリシタン(実は、もっといたようです)は、藩当局から黙認されていたというわけです。そのおかげで、このような文献を読むことができました。
(2017年11月刊。1800円+税)

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