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2018年7月 の投稿

琑尾録(下)

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 呉 希文 、 出版  日朝協会愛知県支部
豊臣秀吉による朝鮮出兵のころ、朝鮮国の人々がどんな暮らしをしていたのか、それを知ることのできる貴重な記録です。
当時の朝鮮では、虎が村人を襲うことが現実にあっていたことも知りました。加藤清正の虎退治は話として有名ですが、朝鮮の村人たちは実際に虎に襲われていたのです。
もう一つ、科挙試験が実施されていたということに驚きました。日本軍の侵攻によって朝鮮の国土が荒廃してしまったという印象が強かったのですが、意外にも朝鮮の人々はしぶとく復興して科挙試験を続けていたのです。
上巻で紹介しましたが、著者は、ソウルに代々住んでいた両班です。
壬辰倭乱(じんしんわらん。豊臣秀吉の朝鮮出兵を朝鮮側は、このように呼びます)のとき、著者は54歳。75歳で亡くなっています。科挙には合格しなかったので、官界では出世できなかった。儒学を学び、文筆にすぐれ、 篤実な人柄で、高い見識をもっていた。
著者の息子(允謙)は科挙に合格し、のちの光海君時代に通信使として日本へ行き、その後は、仁祖朝で領議政というトップ8人の官僚になった有名な政治家である。
12月13日。落とし穴に大きな虎がかかったという。
2月26日。昨夜半、この役所の官婢が虎に襲われ、くわえ去られた。助けを求める声が響いたが、村人たちは恐れて出ていかなかった。
2月27日。賊将の小西行長が日本に兵を要請し、清賊(加藤清正)とともに左右に分かれて上って来るという。大変だ。
3月6日。科挙合格者の掲示が出た。
3月7日。また、虎が山すその民家の庭に入り、寝ていた人を連れ去った。その場で奪い返すことができず、朝探しに行くと、半分食われていたという。何たる痛慣事。凶悪な獣が横行し・・・。誰もが恐れおののき、日が落ちると門戸を固く閉じ、外出しない。
3月21日。科挙試験の合格証書授与のときに着る礼服のことでもめている。
1597年、豊臣秀吉が再び侵略してきた。ソウルは明軍でみちあふれ、国の財政はすでに尽きたという。国家がどのように対応していこうとしているのか、不明だ。何と嘆かわしいことか。明の官庁を置き、明の官僚に住を与え、明の政治をさせるのであれば、わが国のことが明人の手によって操縦されることになり、わが国王は、形ばかりの地位にされる。行く末がどうなるのか分からない。
民の暮しの窮状はますます甚だしくなる。慨嘆の極みだ。
B5判サイズで400頁をこえる大作(別に上巻があります)です。
戦乱に追われる日々のなかで日記にあれこれ書きしるしたことによって、当時の朝鮮の人々の置かれていた状況を少しばかり実感することが出来ました。翻訳、ありがとうございます。
(2018年6月刊。3000円+税)

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 奥野 克已 、 出版  亜紀書房
この本のタイトルは、まだ続いていて、「と暮らして人類学者が考えたこと」となっています。
ボルネオ島に暮らす人口1万人の狩猟採集民あるいは元・狩猟採集民をプナンと呼びます。そのプナンの人々と共同生活した学者による興味深いレポートです。
プナンが旧石器時代からの生き方を今日まで維持しているという証拠はない。しかしプナンが定住農耕民とは異なる遊動民のエートスをもち、人類は元来こうだったのではないかと思わせてくれる行動やアイデアにあふれている。
マレーシアのサラワク州を流れるプラガ川の上流域の熱帯雨林に現在、およそ500人のプナンが暮らしている。
プナンは、生きるために、生き抜くために食べようとする。プナンは、森の中に食べ物を探すことに1日のほとんどを費やす。食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしている。プナンにとって、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない。プナンは「生きるために食べる」人々である。
森に獲物がないときは、何日も食べられないことがある。獲物がとれたときは、食べたいだけ肉を頬張る。食べては寝、寝ては食べる。1日に4度も5度も食べ続ける。
赤ん坊にオシメはない。赤ん坊が便を垂れ流すと、母親は特定の飼い犬を呼び寄せて、肛門を舐めさせきれいにする。犬が赤ん坊のこう門をぺろぺろと舐めると、赤ん坊は気持ちがいいのと、こそばゆいのとで、きゃっきゃっと騒いで喜ぶ。
プナン語に「反省する」という言葉はない。プナンは、後悔はたまにするが、反省は恐らくしない。プナンは状況主義だ。くよくよと後悔したり、それを反省へと段階を上げても、何も始まらないことをよく知っている。
プナンに生年月日を尋ねても、答えられる人は誰ひとりとしていない。自分がいつ生まれたのか覚えていないし、周りの誰も知らない。プナン社会にはカレンダーがない。
プナン社会では、人の死は、ふつうの出来事である。プナンは遺体を土中に埋めたあと、死者を思い出させる遺品をことごとく破壊し尽くし、死者の名前を口に出さないようにして、死者と親族関係にある人々の名前を一時変える。
プナンは未来を語ることもしない。子どもに対して、「将来、何になりたいの?」と、将来の夢を尋ねることは、まったく意味がない。プナンは生まれ育った森での暮らしのなかに自己完結するような人々であり、職業や生き方に選択肢はない。
プナンは腕時計をはめる。しかし、その腕時計は単なるファッションであって、時間はあっていない。時間はどうでもいいのである。
プナンは、すべての人物に、あらゆる機会に参画することを認める。機会もまた分け与えられる。何かをするときに、独占的にするのではなく、みなで一緒にしようとする。
プナンは、参画したメンバーの間の平等な分配に執拗なまでこだわる。プナンは、あるものを、得たものを均分することにこだわって生きてきた。
プナンは独占しようとする欲望を集合的に認めない。分け与えられたものは、独り占めするのではなく、周囲にも分配するよう方向づける。
プナンの父母と子どもたちは、食事の機会をふくめて、常にできるだけ一緒にいよう、行動をともにしようとする。プナン社会では、子が親の膝もとで生きていくすべをゆっくり、じっくりと学び、ゆるやかに親のもとを巣立ちながらも、その後も親たちの近くで暮らす傾向にある。
プナンは学校に行きたがらない。父母や家族と離れてまで、そんなことはしたくない。プナンの子どもたちは、学校に行きたくないから、行かない。学校教育は定着しない。
プナンは、遠くに長く出稼ぎに行くようなことはしない。都市生活をするプナンはいない。プナンは一生涯、森の周囲で暮らす。森の中では、掛け算や割り算は役に立たないし、英語を身につけても使う機会がない。
ボルネオ島の熱帯にこんな人々が住んでいたのですね。人間の欲望とは一体何なのかを考えさせられました。
(2018年6月刊。1800円+税)

旅する江戸前鮨

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 一志 治夫 、 出版  文芸春秋
この本を読むと無性に江戸前鮨が食べたくなります。江戸前鮨と海鮮寿司とは違うものだというのを初めて知りました。海鮮寿司はナマモノだけど、江戸前鮨は煮たり焼いたりして手を加えているので、食中毒の危険がない。
この違いを世間が知らないうちに食中毒で誰かが死んだりしたら、生レバー刺しがたちまち禁止されたように、寿司店でも「ナマ禁止、手袋着用」となるだろう。
カウンターに座って、目の前の寿司職人が手袋をしていたら、やはり興冷めですよね。
私は回転寿司なるものを一度も食べたことはありません。寿司にしても、娘たちが帰ってきたときに「特上にぎり」を奮発するくらいですので、年に2回あるかないか、です。それでも、一度は銀座でおまかせコース2万円というのを食べてみたいという夢はもっています。そんな店は予約が半年先まで埋まっているそうなので、無理な話でしょうか・・・。
これからの鮨屋にとって一番大切なのに、人間を仕込むとか、人間をつくることになってくる。鮨を売るというよりも、自分を売る。人間力がカギ。
江戸前鮨の真骨頂として、コハダの握りがある。コハダはシンコ、コハダ、ナカスミ、コノシロと名前の変わっていく出世魚。塩と酢の加減、締め方、身の硬さ柔らかさ、酢と飯の一体感、そして姿の美しさ・・・。
江戸前鮨とは、シャリに合うように魚を手当すること。魚に塩をあて、昆布じめにしたり、漬けにしたり、煮付けにしたりする。ときに火も通す。これに対して海鮮寿司は、単に酢飯の上に新鮮な魚をのせるだけ。
鮨屋は、いまや、あらゆる職業のなかで最後に残った「理不尽の砦」だ。労働基準法を守れば鮨屋は成りたたないとはよく言われる。職人の拘束時間は長く、技術を習得するまでの修業は辛い。上下関係も厳しい。
鮨屋は、人間力が問われる場であり、客も職人も勘違いしやすいところでもある。
「すし匠」では、入ってきた見習いが飯場にすぐに立つことはない。早くて数年の歳月が必要。
「無駄な時期というのは大切。無駄な時期をいかに与えるか、無駄な時期を無駄と思わせないでやらせることも大切。人間って、無駄がないとダメなんだ」
東京・四ツ谷で超有名な鮨店を営んでいた著者は50歳にしてハワイへ旅立ち、そこで今では評判高い鮨店を営業しています。この店の食材は基本的にハワイ原産のもの。日本の魚よりハワイの魚は味がすべて薄いので、塩や昆布を日本より強めにする。
すごいですね。ハワイ原産の魚を素材として江戸前鮨をハワイの客に出しているのです。「すし匠ワイキキ」は、ひとり300ドル。つまり3万円ほど、ですね。
私はハワイには行ったことがありません。フランス語を勉強している私は、やっぱりニュー・カレドニアのほうがいいんですよ・・・。
(2018年4月刊。1300円+税)

大根の底ぢから

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 林 望 、 出版  フィルムアート社
われらがリンボー先生は、お酒を飲まない代わりに、美食家、しかも手づくり派なのですね。恐れ入りました。私は、「あなた、つくる人。わたし、食べる人」なのですが、料理できる人はうらやましいとも思っているのです。
「たべる」と「のむ」というのは、古くは違いがなかった。「酒を食べませう」、「水たべむ」と言った。「たふ」とは漢字で「給(た)ふ」と書く。いただく、ちょうだいするという、敬意のふくまれる丁重な言葉なのだ。敬意がないときには、単に、「食う」と言った。ええっ、そ、そうなんですか・・・、ちっとも知りませんでした。リンボー先生の博識には、まさしく脱帽です。
初夏の何よりの楽しみとして、柿の若葉の天ぷらがあげられています。これまた、驚きです。
タケノコは孟宗竹(もうそうちく)と思っていますが、孟宗竹とは、渡来植物で江戸時代に薩摩に中国からもたらされたのが全国に広がったもの。これまた、全国津々浦々でタケノコつまり孟宗竹がとれると思っていた私は、思わずひっくり返りそうなほどの衝撃でした。
しかも、リンボー先生は、旬(しゅん)のタケノコを茹(ゆ)でて、マリネにして食べるんだそうです。なんとも想像を絶します。
関東は柏餅(かしわもち)、関西(とくに京都)は、粽(ちまき)を食べる。九州生まれ育ちの私は、子どものころ、実はどちらも食べた記憶はありません。
リンボー家では、料理は、朝晩ともリンボー先生の担当で、奥様は料理しない。そして、家でつくる料理は飽きがこない。うむむ、これは分かります。
でも、実は、リンボー先生は、月に2回か3回は、なじみの寿司屋で握りをつまんでいるのです。私などは、寿司を食べるのは、それこそ、年に2回か3回もあればいいくらいです。回転寿司など、これまで一度も行ったことはありませんし、これからも行きたいと思いません。
寿司屋に行って、カウンターに座って寿司が差し出されたら、すぐに食べるのが、まず何より大切なこと。職人の手を放れて目前の寿司皿にすっと置かれたその瞬間に、まさしく阿吽(あうん)の呼吸でこちらの口中に運ばなくてはならない。それでこそ、握るほうと食べるほうの気合いが通いあってほんとうの寿司の味が分かるのだ。
リンボー先生が「なまめかしい食欲」なんて書いているので、例の「女体盛り」かと下司(げす)に期待すると、なんと、「なまめかしい」とは「飾り気のない素地としての美しさ」ということで、拍子抜けします。
私と同じ団塊世代(私が一つだけ年長)のリンボー先生は、緑内障になってしまったとのこと。私は、幸い、まだ、そこまでは至っていません。白内障とは言われているのですが・・・。
季節の食材をおいしくいただく喜び。こんな美食こそ人生の最良の楽しみの一つだと痛感させてくれる本でした。リンボー先生、ますます元気に美味しい本を書いてくださいね。
(2018年3月刊。1800円+税)

風は西から

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 村山 由佳 、 出版  幻冬舎
巻末の参考文献の一つに『検証ワタミ過労自殺』(岩波書店)があげられていますので、ワタミが経営する居酒屋の店長が過労自殺をしたことをモデルとした小説だと推察しました。
それにしても、過労自殺する人の心理描写はすごいです。驚嘆してしまいました。
なるほど、責任感の強い真面目な若者が、こうやって自分を追い込んでいくんだろうな、辛かっただろうな・・・と、その心理状況は涙なくしては読めませんでした。
でも、この本に救いがあるのは、彼の両親と彼女が全国的に有名な居酒屋チェーンに立ち向かい、苦労して過労自殺に至る経過を少しずつ明らかにしていき、労災認定を勝ちとり、ついには社長に謝罪させ、相応の賠償金も得た経緯も同時に明らかにされていることです。そして、その勝利には我らが弁護士も大いに貢献しているのでした。世の中には、苦労しても報われないことも多いのが現実ですが、苦労は、やはり報われてほしいものです。
辞めていった店員を店長が率先して悪く言う。完全な人格否定だ。なぜ、そうするか。必要だからやる。辞めていった奴を、今いる人間にうらやましいとか賢いと思わせたら終わり。みんな、後に続いて辞めていき、使える奴なんて誰もいなくなってしまう。だから、残ってる奴に、辞めることは無責任で、はた迷惑で、最低最悪の選択だってことをとことん刷り込んでおく。そして、たまに、おごってやって誰かの悪口を言わせると、いい具合のガス抜きにもなるし・・・。なーるほど、そういうことなんですね。
テンプク。店長が全体のコントロールを誤って赤字を出してしまうこと。
ドッグ。毎週土曜日の本社での定例役員会議に店長が呼び出されること。役員の前で、なぜテンプクしたのか報告する。中身は、吊るし上げ。言葉のリンチ。どれだけ説明しても、まともに聞き届けてもらえない。何を言っても、店長としての自覚や努力が足りないことにされてしまう。揚げ足をとられたり、あからさまに挑発されたり・・・。
土曜日の朝のドッグ入り。土・日は忙しい。下準備が必要。少しでも寝ていたい。それが分かって呼びつける。こんなに不名誉で、面倒で、体力的にもとことんきつい日に二度とあいたくなければ、自分の無様なテンプクぶりを反省しろってこと。つまりは、見せしめ。
「正確なデータもなしに、なんでもいいから成績を上げろなどという無茶は言っていない。常識的なラインに、あと少しの挑戦や努力があれば達成できる範囲のプラスアルファを加味して、無理なく設定された売上目標・・・。要するに、会社が店長に望むのは、ある程度の強固な意志さえあれば、今後実現可能な目標を、毎日、着実にクリアすることだけ。じつに簡単なことだ」
このように理詰めで言われるのです。店長は売上が良くないときには、人件費を減らすため、パートを早く帰らせ、自分のタイムカードを早く帰ったようにして、実際には店に泊まりこんでしまうのです。
安倍政権の「働きかた改革」というのは、結局のところ、このような過労自殺を助長するだけだという批判はあたっているとしか言いようがありません。
「カローシ」が世界で通用するなんて、不名誉なこと、恥だと日本人は自覚しなくてはいけません。
(2018年3月刊。1600円+税)

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