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2017年9月 の投稿

象徴天皇制の成立

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 茶谷 誠一 、 出版  NHKブックス
今の天皇は象徴天皇制をまさしく慎み深く実践していると思いますが、昭和天皇は戦前の延長線上の考えを最後まで捨て切れなかったようです。
昭和天皇は首相や大臣から内奏(ないそう)と称する政治報告を受け、感想と称して自分の考えを述べ、政治への影響力を保持しようとしていたのでした。驚くべき事実です。
昭和天皇は、「立憲君主」としての自覚のもと、安全保障問題と治安問題に対して関心を示し続け、積極的な姿勢をとっていく。昭和天皇の安保と治安への関心は、反共主義(対ソ脅威論)にもとづく政治信条に由来していた。
昭和天皇は、象徴天皇を実質的な国家元首として認識していたようだ。
昭和天皇は、憲法施行後も、首相や外相などの主要閣僚に対して必要に応じて政務報告を求めた。内奏は、大臣から相談を受ける権利にあたる。天皇からの指摘を受けて再考を迫られることがあった。激励する権利、警告を発する権利をも行使していた。
戦前・戦後の国家指導者層のなかには、天皇制の存続(皇統の維持)と昭和天皇の戦争責任問題を切り離し、前者を後者に優先させる者たちもいた。東久邇宮、高松宮、三笠宮らの皇族や重臣の近衛も天皇制の存続を最優先事項とし、場合によっては昭和天皇を退位させて戦争責任を一身に負ってもらい、皇統の維持をはかるという案を考慮していた。
これに対して昭和天皇は、幼い息子を天皇にしたときに摂政となるべき弟たちを信用できず、退位は出来ないと考えていた。
昭和天皇はアメリカ軍によって日本の安全保障を確保するというのが持論だった。その結果、在沖米軍による日本防衛という形式を考慮し、その意見をGHQ最高司令官のマッカーサーではなく、GHQ外交局長のシーボルトに伝えていた。
そして、天皇の「沖縄メッセージ」は、アメリカの意思決定に影響を与えた。
昭和天皇は、日本国内での共産党の言動にも敏感に反応していた。昭和天皇は、野坂参三の巧妙な宣伝街に不気味さを感じ、潜在的な脅威として警戒心を募らせていた。
昭和天皇と明仁天皇との間には、国民との接し方において違いがある。
昭和天皇は、戦前からの伝統にしたがい「上から」の仁慈の施しという側面が強い。明仁天皇は、国民とのより「対等」な視線での思いやりの施しがにじみ出ている。
昭和天皇は、国家の繁栄が前面に出てくるのに対し、明仁天皇は、国民の幸福を語る。真の意味での象徴天皇制の歴史は、まだ30年ほどでしかない。
今の天皇の生前退位をめぐって、象徴天皇とは何かを日本人はもっと大いに議論すべきだと思います。その点、この本は考えるべき手がかりをたくさん与えてくれます。一読してみて下さい。
(2017年5月刊。1600円+税)

ぼくの村がゾウに襲われるわけ

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 岩井 雪乃 、 出版  合同出版
アフリカのセレンゲティ国立公園というと、私が毎週欠かさず楽しみにみているNHK番組「ダーウィンが来た」に舞台としてよく登場して、なじみの場所です。アフリカのタンザニアにあります。ケニアの隣国です。
この近くの村では、野生のゾウに人間が殺され、作物を荒らされているというのです。ところが、ゾウを殺してはいけない。ゾウから殺されても国が補償することはない。
では、なぜ、ゾウが村人を襲うのか・・・。
著者は20年来、このタンザニアの村に出かけ、定点観測を続けています。
今では、早稲田大学の学生も同行しています。私も大学生だったら、連れていってほしいと思いました。
野生のゾウは、「やさしい動物」ではない。村にトウモロコシ畑があれば、巨大なからだで木の柵を押しつぶして入ってきて、根こそぎ食べてしまう。それも、1頭や2頭ではなく、ときには200頭もの大群で村を襲う。畑に入るのを邪魔する村人を踏みつぶし、あの大きくて長い鼻で、ふっ飛ばしてしまう。
ゾウが村に押し寄せてきても、村には銃も車もない。犬が吠えかかると、鼻をブルンと振りおろして、犬をたたき殺してしまう。ここでは犬は単なるペットではなく、野生動物たちからの危険を知らせる重要な役目を果たしている。
ゾウの走る速さは、時速40キロ。ヒトは、平均して時速24キロ(100メートルを15秒)。だから、ゾウから追いかけられると、ヒトは逃げ切れない。
タンザニアの人口は5000万人。日本の半分以下。ところが、年に3%ずつ増えている。ここが日本とは異なる。タンザニアには、130もの民族がいて、スワヒリ語を国語としている。このため国民全員が一体感をもっている。これが民族紛争を防いでいる。
小学校ではスワヒリ語で授業があるが、中学校以上の授業は英語。
小学校の就学率は94%。中学校になると3%に下がる。大学へはわずか3.6%。タンザニアでは、大学生は超エリート。
セレンゲティ国立公園に世界中からやって来る観光客は年間35万人。入園料は大人1日で7800円。タンザニア人だと大人500円。ところが、車のレンタル代やガソリン代が高いので、タンザニア人がセレンゲティ公園に入って観光することはほとんどない。
タンザニアでは、ゾウは200万円、ライオンは80万円でハンティングできる。
タンザニアは、お金は信用されていない。政治が不安定になったりすると、お金の価値が下がってしまう。家畜が食料であるとともに、大切な財産である。
ゾウは、食料を奪うだけでなく、人間の命も奪う。1年間に6人が殺された。ゾウは、怒ると人間を鼻ではたいて投げ飛ばし、とどめに足で踏みつける。ゾウを殺すことは許されていないので、村人はバケツをたたいて大きな音を出す、懐中電灯の光をあてるという、ささやかな抵抗しかない。
いまアフリカゾウは50万頭ほど。その半数がタンザニア、ボツワナ、ジンバブエの3ヶ国にいる。
1980年代の日本こそがゾウ減少の犯人だった。象牙の印鑑が大量につくられた。1984年に象牙が470トンも輸入された。これは、ゾウ1万頭分だった。
野生動物と人間の共存の難しさを考えさせる本でした。それにしても、著者はスワヒリ語が自由に話せるようです。これって、すばらしいことですよね。
(2017年7月刊。1400円+税)

「男はつらいよ」を旅する

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 川本 三郎 、 出版  新潮選書
1969年(昭和44年)夏、私が大学3年生のときにスタートした映画です。その年の1月に、東大安田講堂「攻防戦」があり、3月から授業が再開されました。
私の記憶では、東大の五月祭のとき、25番大教室でみたと思うのです。少なくとも翌年の五月祭です。大教室が学生の笑い声で揺れ、心の震える思いがしました。大学紛争(私たちは闘争と呼んでいました)で荒さんだ学内で、久しぶりに学生の笑いがはじけたのです。泣き笑いのある、ホロリとさせる人情話でもあります。
当初の観客は50万人。第8作(1971年)で100万人をこえ、第10作では200万人突破というのですから、そのすごさに声も出ません。
1年に、夏と正月に、律気に繰り返された寅さん映画の大半を私はみています(残念なことに全部ではありません)。
寅さん映画を「なまぬるい」と評する映画評論家がいるそうですが、私には理解できません。といっても、同世代の女性にも、「私はみないわ」と断言する人がいて驚きました。好きなら好きで、はっきりしてよ、私はどっちつかずのストーリーなんて見てられないのよ、というんです。なーるほどね。でも、その、うじうじしているところがまたいいんですけど・・・、と反論しようとして、思いとどまりました。
葛飾柴又には、最近行ってませんが、私も2回か3回は行ったことがあります。いかにも東京の下町風情だと思ったのですが、この本によると、柴又は決して下町ではなく、市中から遠く離れた「近所田舎」なのだそうです。つまり、郊外の行楽地なのです。下町ではないんですね・・・。
おいちゃんの店は、39作までは「とらや」、そのあと「くるまや」に変わっているとのこと。気がつきませんでした。現地に行くと、そっくりの草だんごを売っている店がありますよね。
さくらが博さんとアパートを出て、一戸建ての家に住むようになった家は、平成3年(1991年)、鉄道開通のときに撤去されて今はないそうです。
私は、弁護士になってまだ10年にもなっていないころ、NHKの朝の番組に出演し、おばちゃん(三崎千恵子)と話したことがあります。生放送(全国放送)でしたから緊張もしましたが、いい経験でした。
この本は、寅さん映画で登場している全国各地を著者が取材してまわってレポートしたものです。映画が撮影された当時にはあった線路や駅、そして商店街がなくなっていることが次々に伝えられ、物悲しくなってきます。
JR各社は金もうけ本位で、金持ち向けの七つ星とかナンタラには力を入れて、田舎のローカル線をどんどん廃線にしていきました。公共交通機関としての使命を投げ捨ててしまっていることに怒りを感じます。国労つぶしの負の遺産です。
先日の大雨で被害にあった日田市の小鹿田(おんだ)焼の里までロケ地だったなんて知りませんでした。第43作、「寅次郎の休日」です。後藤久美子が出ていて、宮崎美子も出演している映画なので、みているはずなのですが・・・。
寅さん映画48作の全作品に出演している女優がいるというのを初めて知りました。谷よしのという脇役専門の女優です(2006年に死去)。商人宿に寅が泊まって、「いらっしゃい」とお茶を運んでくる女中役です。「邪魔にならない。目立たない。まるで風景のように歩いたり、たたずんだりできる人」、というのは山田洋次監督のほめ言葉です。60年以上の女優生活で1000本の映画に出たというのですから、想像を絶します。
著者は、寅さんシリーズが長続きした理由のひとつに出演者の顔ぶれが固定していたことをあげています。おなじみの俳優が出演して、観客に、そこに家族がいるような安心感を与えた。この点は、私も、まったく同感です。そして、山田監督があきさせないマンネリズムから脱却し続けたという点に頭が下がります。
女優ナンバーワンは、なんといってもリリーさん(浅丘ルリ子)です。
「幸せにしてやる?大きなお世話だ。女が幸せになるには、男の力を借りなきゃいけないとでも思っているのかい?」
胸のすくタンカです。浅丘ルリ子は、これで女を上げた。
「寅さんロケ地ガイド」という本(DVDマガジン)があるそうですね。まだまだ日本全国には、行ったことのない、行ってみたいところがたくさんありますよね。それを知ることのできる本でもありました。いい本をありがとうございました。
(2017年5月刊。1400円+税)

大坂商人旅日記、薩陽紀行

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高木 善助(東條 広光) 、 出版  鹿児島学術文化出版
江戸時代も末の文政・天保のころ、大阪と鹿児島を10年間のうちに6回も往復した大坂商人がいました。片道20日ほどもかけています。あちこち寄り道して、それを画張にスケッチして残したのです。
ときの薩摩藩主は島津重豪、そして調所広郷が財政改革にとりくんでいた当時です。従来の銀主(大名貸しの商人)たちに見放された薩摩藩は新しい銀主を求めて、著者たちを重用することにしたのでした。
大坂の豪商・平野屋五兵衛の分家筋にあたる著者は、そんなわけで薩摩の現地まで出かけたのでした。当時の大名貸しの平均的な利息は年利9.6%(月利0.8%)だったのに対して、年利2.4%におさえたというのです。
それでも、新しい銀主には、俸禄や資金運用でのメリットがあったのでしょう。
薩摩藩は、紙の原料である楮(こうぞ)の皮を年貢の一つとして領民に納めさせ、地域の紙漉(かみすき)職人に下げ渡して、紙を漉かせて、お金を払って藩に納めさせていた。
この紙をなるべく高く、大坂で売りさばいて収入を得ようというのです。
この著者の旅日記には、当然のことながら、その経済的な仕組みは書かれていません。
著者の描いた絵は島の目で見たような風景画です。よほどの観察眼がなければ描けません。ただ、残念なことに人物はほとんど描かれていません。
したがって、当時の人々の生活を知ることは難しいのですが、江戸時代の風景画としては、感度(構図も写真も)は良好です。
(2016年10月刊。1482円+税)

25年目の「ただいま」

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 サルー・ブライアリー 、 出版  静山社
映画「ライオン」の原作本です。私は涙を流しながら読みすすめめした。なにしろ、5歳の男の子が言葉もよく通じない喧騒の大都会カルカッタ(今はコルカタ)で、一人ぼっちで数週間、路上生活して生き延びたのです。そして警察に行き、施設に入れられてオーストラリアへ養子としてもらわれていったのでした。
この本を読むと、世の中には危険がたくさんあり、悪い人間(子どもを金もうけのために騙す奴)も多いけれど、善意の固まりのような人だって少なくないということを実感させられます。
25年たって、大人になってグーグルアースで記憶をたどってインドの生まれ故郷を探しあてたというのも驚異的ですが、なにより故郷に実母がそのままいて、息子の帰りを待ち続けていたというのには胸を打たれます。なにしろ25年間も息子が生きて帰ってくるというのを信じて動かなかったというのです。信じられませんよね。母の愛は偉大です。
5歳の男の子がカルカッタの路上で数週間も生きのびられたというのには、もともとこの男の子が貧乏な家庭で生まれ育っていたので、食うや食わずの生活に慣れていたということもあるようです。みるからに賢い顔をしています。とはいっても、インドでは学校に通っていません(5歳だからではなく、貧乏だから、です・・・)。
家に食べるものがないため、ときには母親に鍋をもたされて、近所の人たちの家をまわって、残り物を下さいとお願いして歩かなければいけなかった。夕方になれば家に戻って、手に入れたものをテーブルの上に出し、みんなで分けあった。いつも腹ペコだったが、それほど辛いとは感じていなかった。
やさしい母親がいて、二人の兄たちそして面倒をみるべき妹がいて、楽しい家庭だったのです。
家にはテレビもラジオもなく、本も新聞もなかった。単純で質素な生活だった。そんな5歳の男の子が突然1000キロも離れたカルカッタへ列車で運び込まれ、ひとり放り出されたのです。
カルカッタは、無秩序に広がる巨大都市。人口過密と公害、圧倒的な貧困で悪名高い。世界でもっとも恐ろしくて危険な都市の一つ。そこへ裸足、お金も何も持たない5歳の男の子が駅の大群衆にまぎれ込むのです。
警察官に見つかったら牢屋に入れられると思ったので、警察官や制服を着た人々は見つけられないようにした。地面に落ちた食べもののかけらを拾って生き延びた。
危険はあまりに多く、見抜くのは難しい。他人に対する猜疑心が強くなっていた。
世の中の人たちのほとんどは無関心であるか、悪者であるかのどちらかだ。同時に、たとえ滅多にいないとしても、純粋な気持ちで助けてくれる人がいる。
何に対しても注意深くあらねばならない。警戒すること、チャンスを逃さずつかむこと、その両方が必要だ。
インドでは、多くの子どもたちが性産業や奴隷労働、あるいは臓器摘出のために売り飛ばされている。その実数は誰にも分からない。
映画をみなかった人にも、ぜひ読んでほしい本です。5歳の男の子がどうやって危険な大都会のなかで生き延びていったのか、その心理状態を知ることは、日本の子どもたちに生きる力を教えてくれると確信します。
(2015年9月刊。1600円+税)

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