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2016年12月 の投稿

あきない世傳・金と銀(一)(二)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 髙田 郁 、 出版  角川春樹事務所
 うまいです。読ませます。しびれます。いえ。身も心も温まります。小説って、こうじゃないといけませんね。私は、感嘆のあまり、一人でなんども頭を上下させました。
 大阪の商人の世界にけなげな少女が入っていき、商人として成長していく過程が刻明に描かれていきます。主人公は幸(さち)という女の子です。学者だった父が早く死んだため、大阪の呉服商「五十鈴(いすず)屋」に女衆として奉公することになります。その女衆とは、要するに女中です。店の商売にはタッチせず、あくまで裏方として働くのです。ところが、主人である三代目徳兵衛が早くに病気でなくなったことから、呉服商は経済危機に陥ります。そこに幸が活躍する道が開けてくるのです。
 幸の父親は、商売なんかに関わるなと言っていました。
「自らは何も生み出さず、汗をかくこともせず、誰かの汗のにじんだものを右から左へ動かすだけで金銀を得るのが商人だ。商とは、即ちいつわり(詐)だ」
 これに対して「五鈴屋」の番頭は幸に次のように諭します。
 「真っ当な商人は、正直と信用とを道具に、穏やかな川の流れをつくってお客に品物を届ける。問屋も小売も、それを正業に生きるから、誰の汗も無駄にしないように心を砕く。それでこそ、ほんものの商人なのだ」
 そして、幸がついに「五鈴屋」の商売再建へ乗り出していくのです。このころ呉服商は店売りではなく、なじみの客を訪問して注文をとってきて売る方式のみ。ところが、近江商人が現銀掛値なしの店売りを始めたのでした。
 「五鈴屋」も一度やって、在庫を一掃することができました。では、すぐにこちらに乗りかえるかと思うと、そんな簡単に商売の方法を変えることにはなりません。
幸は、呉服屋仲間に認められるのに成功したのですが、それは「商売従来」を暗唱できたからです。
「挨拶、あしらい、もてなし、柔和たるべし」
見事なストーリー展開です。簡単に読み飛ばすのがもったいないほど、江戸の呉服商の世界にぐいぐいと引きずりこまれていきました。まことに、いい小説とはありがたいものです。読み終えると、気分がはつらつとしてきます。続編が楽しみです。
 
(2016年3月、8月刊。580円+税)
東京銀座の映画館でデンマーク映画『ヒトラーの忘れもの』をみました。
第二次大戦中、デンマークを占領していたナチス・ドイツ軍は連合軍の上陸作戦を防ぐためにデンマーク海岸だけでも200万個という大量の地雷を敷設しました。
終戦後、その大量の地雷の処理を捕虜になったドイツ兵にやらせたのです。
2000人のドイツ兵が地雷処理にあたらされたのですが、その大半が15歳から18歳までの少年兵でした。そして、地雷処理はとても危険な作業であるため、慣れない少年兵の半数近くが死亡ないし重傷を負ったのでした。
この映画は、デンマーク国民すらあまり知らない歴史的事実を忠実に再現しています。ははじめはナチス・ドイツ軍が餓死しようが爆死しようが当然だと考えていたデンマーク軍の軍曹が、大ケガしたドイツ兵が「ママ、ママ」と泣き叫ぶのを見て、ああ、やっぱり、まだ子どもなんだと思い考えを変えていくのです。
とても見ごたえのある映画でした。
福岡県大牟田市にあった連合軍捕虜収容所の所長だった日本軍中尉が戦犯として処刑された事実がありますが、それを映画にしたようなものでしょうか。この国では、そんなことはタブー視され、「自虐史観」だとか野次を飛ばされて、まともな議論すら許されません。
おかしな日本になってしまいました・・・。

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 小野賢二・藤原彰・本多勝一 、 出版  大月書店
 1937年(昭和12年)12月、日本軍は激しい南京攻略戦のあと、投降してきた中国軍兵1万5000人を捕虜として国際法に定められた処遇をすることなく、揚子江岸で12月16、17の二日間で殺害した。それは、2ヶ所で3分割して行われたとみられる。
 抵抗できない捕虜集団を機関銃で一斉掃射を操り返して皆ごろしにしたあと、遺体を石油をかけて焼却し、揚子江に流した。
このとき関わった日本軍の将兵の陣中日記が掘り起こされ、活字になったのが本書です。いかにもむごい内容が、小さな手帳などに刻明に、また淡々と書き込まれています。
 この日誌をつけていたのは、南京占領直後に捕虜の大量殺害を行った第十三師団の山田支隊に属していた下級将校と兵士たち。第十三師団は日中全面戦争に拡大した1937年9月に動員が下冷され、新しく編成された特設師団。
特設師団とは、平時から常備兵力として設置されている常設師団にたいするもの。
山田支隊は、歩兵第百三旅団長・山田少将の率いる歩兵三大隊、山砲兵一大隊を基幹とする部隊。歩兵は、会津若松で編成された歩兵六十五連隊、山砲兵は越後高田で編成された山砲兵第十九連隊の三大隊だった。兵士の大部分は現役満期後5年から15年も過ぎた30代の後備兵が主体だった。
特設師団が中国へ動員されたのは、上海戦における中国軍の抵抗が激しく、日本軍が思いもかけない苦戦を強いられたから。上海付近の中国軍は、堅固な陣地に拠り、抗戦の意識に燃えて果敢に戦った。
 たしか、このとき、中国軍はドイツ軍の兵器を供給され、ドイツの軍事顧問国による指導を受けていたと思います。
そのため、日本軍には死傷者が続出し、砲弾まで不足してしまった。そこで、日本軍は急遽、兵力増派に踏み切った。
後備兵が30代ということは、すでに結婚して3人とか4人の子どもがいて、一家の中心となっている人たちだった。師団の将校も幹部候補生出身の予備将校であった。
 上海戦での日本軍の損害は甚大であったから、各部隊とも多数の補充を必要とした。このため、次々に補充兵が各部隊ごとに送られていった。
江南の広い地域に、部隊を追いかける補充兵の集団がなだれのように進んでいった。寄せ集めの補充兵たちを先任の引率者が引き連れていく。さらに、南京への進撃が急なため、後方補給の準備はほとんどなく、兵站(へいたん)線がきちんと確保されてはいなかった。そのため、補充兵の集団は、それぞれ食料の現地微発をくり返しながら進んでいった。これも、掠奪、暴行、強姦などの蛮行を起こしやすい原因となった。
家族を愛し平凡な日常生活を送っていた農民や市民が侵略戦争の最前線に立たされ、微発と捕虜殺害を繰り返していく中で、いつのまにか残虐行為に手を下すことに何のためらいも感じなくなっていた。
 下級将校や兵士の日記のほうが高級指揮官や参謀の日誌よりも、よほど信用できる。というのは、高級指揮官や参謀の書いたものには自己顕示欲にあふれているものが多い。それに対して、他人の目を気にせずに書かれた将兵の日誌の方が、よほど信用できる。
 日本人は、昔から活字が大好きで(文盲は、戦前もごくわずか)、日記をつけるのも大好きです。私も、小学4年生のころの絵日記帳を今も「宝」のように大事にして残しています。
 「12月16日、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、これを射殺する。
 12月17日、2万以上のこととて、ついに大失態にあい、友軍にも多数死傷者を出してしまった」
 「12月17日、夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵を半円形にして機関銃や軽機で射ったと。そのことについては、あまり書けない。
 一団7千余人、揚子江に露と消ゆるようなことを語っていた」
 「12月18日、 昨夜までに殺した捕虜は約2万。揚子江岸に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。
 12月19日、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼い たため、悪臭はなはだし」
 「12月16日、捕虜総数1万7025名。夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し射殺する」
 「12月16日 捕虜、三大隊で三千名を揚子江岸にて銃殺する」
 捕虜となった中国軍の代表から、書面が届けられたこと、それを転記した少将がいました。投降軍の臨時代表は、4日以上も我々はひもじいい思いをしている。故郷に返してほしいと願っています。
日本軍は、捕虜に与える食糧を持っていませんでした。この日記を読めば、南京大虐殺が幻とか嘘だったなど、絶対に言えません。
 日本軍の将兵は日本に帰ってきたとき、自分の書いた日記もちゃんと持ち帰っていたのですね。大変貴重な記録集です。
私たち現代の日本人も、自分がやったことではないとウソぶいて戦前(戦中)の日本軍のした蛮行から目をそらすわけにはいきません、負の遺産もきちんと受け継ぐことが、明日の平和を確保することにつながるのです。
 
(1996年3月刊。582円+税)

江戸看板図聚

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 三谷 一馬 、 出版  金曜日
 ヨーロッパの街並みと日本の街路との最大の違いは看板にあると思います。色と形、ネオンサイン、電光掲示など、それこそありとあらゆる工夫を凝らした看板が商店の前だけでなく、ビルの壁一面を飾っています。
 夜のイルミネーションの派手派手しさにも独特のものがあります。
 フランスの店も、もちろん看板は出しています。ただ、街並みは厳しい景観規制が働いているようで、あくまで調和優先で、控え目なのです。ですから、落ち着いた気分で街並みを散策することができます。
この本は現代日本の街路にあふれる看板が、実は江戸時代の伝統をきちんと受け継いでいることを如実に証明しています。
 看板の重要性が増すのは江戸が開かれて以降のこと。商業が発展し、京阪の商人は江戸に商品とともに看板を送り、「下り看板」と称して商品に権威づけをした。
 商家が繁盛すると、看板の権威は一層まし、大金をかけて大看板をつくったり、漆や金銀を使った豪華な看板が目につくようになった。
江戸時代の看板は、看板屋のほか、武士、僧侶、学者、書家、作家、画家など、さまざまな人が手がけた。
有名な良寛が書いたものと伝わっている飴屋の看板もある。
看板書きの書体は、唐様(からよう)でもなく、御家流でもなく、さりとて提灯(ちょうちん)屋のものとも違っていた。
「一膳めし」屋の看板もありました。「二八そば」だけでなく、「二六そば」の看板も紹介されています。「貸本屋」もあります。もちろん新刊本を売る店もあります。
よくぞこれだけの看板の図を文献から集めてきたものだと驚きます。
 眺めているだけでも楽しい図聚です。また、江戸時代を知るためには欠かせないものだとも思いました。
 
(2016年9月刊。1250円+税)

腸のふしぎ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 上野川 修一 、 出版  講談社ブルーバックス新書
腸の時代が到来した。世界中の生命科学者たちが、いま腸に注目している。「サイエンス」誌は、過去10年間の化学上の十大成果の一つに腸内細菌の研究をあげた。
たしかに、いまや「腸内フローラ」という言葉は、どこでもよく目にするものとなっていますよね。
腸は消化管の主役であり、もっとも重要な存在である。
生命体が一つの受精卵からつくられるとき、最初につくられるのが腸である。そして、腸は、からだのなかにある外界である。外部の空間を最大限に内部につくり出している。
ヒトは超雑食性の動物であるが、この超雑食性の獲得には、高度な腸の動きが必須とされる。
腸には、立派な神経系がある。腸の神経系は、消化管の運動をコントロールしている。
腸の免疫系の強大な力には、がん細胞の増殖を強力に抑える働きもある。小腸には、ほとんどがんが見られないが、それは腸管免疫系のおかげだとみられている。
人体の腸内には、100兆個をこえる細菌が星のようにきらめいている。その重さは1キロに達し、1000種以上に及ぶ腸内細菌のほとんどは酸素のない大腸にすんでいる。大腸には、酸素なしでも生きていける生物が充ち満ちている。腸内細菌たちだ。
小腸は長さ5~6メートル、大腸は1.5メートル。小腸の直径は平均して3センチ。
小腸で食物が分解するのに要する時間は2~3時間。
人間が1年間に食べる食物は、1トン近い。これを体内に取り入れて分解し、からだを構成している60兆個の細胞をつくり、あるいは入れ替え、そしてエネルギー源に変えている。
腸神経系は、主として食物をゆっくり適正な速度で、消化管の下方に送るぜん動をコントロールしている。
小腸は、胃の次に位置する消化管の中心的存在である。胃や大腸、その他の消化管がない動物は存在するが、小腸のない動物はいない。
小腸のなかに吸収細胞が1600億個いるが、その寿命は実に短く、誕生して死ぬまで平均1.5日でしかない。
腸は、脳の力を借りることなく、入ってきた食物の情報をもとに自らがなすべき働きを選択している。
大腸には、小腸にある「ひだ」や突起は存在しない。食成分中で大腸が吸収するのは、一部の水分とミネラルだけ。そして、100兆個に及ぶ「腸内細菌」をすまわせて、「共生」関係を築き上げている。腸内細菌がつくる酪酸は、大腸のぜん動運動を刺激し、便秘を解消するという効果をもたらす。
腸は、独自にぜん動運動をし、また消化液を分泌する。これは、腸が「自ら考えている」ことを示すものである。腸と脳は、あるときには連絡をとりあい、また、あるときは無関心を装うという、不即不離の関係にある。
ぜん動運動は、食物の分解、吸収が効率的に行われるよう、腸が独自の判断で行っている物理的な作業である。この運動は、腸独自の判断によってセロトニンなどの神経伝達物質が脳神経系とは独立して放出されることで、日々営まれている。腸が「第二の脳」と呼ばれるのは、複雑なプロセスを経るぜん動運動を脳から独立してコントロールしているためである。
人間のからだのなかで最大の免疫系が腸管に存在する。全身の50%以上が腸管免疫系中に集中している。免疫細胞は、すべて骨髄でつくられた造血幹細胞が変化して出来上がったもの。唾液にふくまれる免疫細胞は、すべて腸管にある免疫部隊の総司令部から派遣されたものである。
腸内フローラを構成する腸内細菌は、平均して4~5日間、体内に滞在したあと、体外に排出される。腸内の有害菌といっても、常時からだに悪い作用をしているわけではない。腸内の状態が悪化して有益菌が減少し、有害菌が異常に増加した場合に、病気の原因となる。
腸内フローラは、「お花畑」の名前に恥じず、整然とした区画割りがなされている。
腸内フローラのバランスを良くするには、規則正しく、栄養バランスのとれた食生活を心がけ、ストレスを解消できる生活スタイルを確立すること。
腸の大切さをよく理解することが出来る本です。
(2015年12月刊。860円+税)

弁護士の経験学

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 髙中正彦・山下善久・太田秀哉ほか 、 出版  ぎょうせい
困難な時代をどう生き抜くか、失敗続きの人生、それでも何とかなる!
オビのフレーズです。本のサブタイトルは、「事件処理・事務所運営・人生設計の実践知」となっています。現役として活動している弁護士全般にとって大変役に立つ内容となっています。
私は、この本に書かれていることの大半について、まったく同感だと思いながら、福岡までの帰りの飛行機のなかで一気に読みあげました。
福岡県弁護士会では、このところ懲戒処分を受ける弁護士が相次いでいます。先日は、福岡県弁護士会自体が監査責任を問われた裁判の判決が出ました。幸いにも弁護士会の監督責任は認められませんでしたが、これをギリギリ詰めていくと、あまりに統制が強すぎて息苦しくなってきます。すると、戦前のように行政の監督下においたらいいとか、強制加入をやめてアメリカのように自由化せよということになりかねません。それは、いずれも権力をもつ人が大喜びする方向です。
自由業としての弁護士と、権力を抑制・監視する存在としての弁護士と、弁護士は独立した存在であり続ける必要と意義があると私は確信しています。そして、強制加入団体としての弁護士会は、その制度的保障なのだと思います。
それはともかくとして、懲戒処分を受けた弁護士には共通するところがあると本書は指摘しています。
虚栄心が強い人、見栄っ張りの人。性格的に弱いため、自制が利かない人が多い。
弁護士の仲間内でも孤立していると危険。IQの高さは関係ない。
弁護士の依頼層は、その弁護士の人格の投影である。
弁護士の誰もが転落するリスクを負っている。それは、弁護士業務が楽しいことばかりではないからだ。苦しいときに独りぼっち。そんなとき、果たしてとどまることが出来るのか。自分は絶対に大丈夫だといっている人はリスクが大きい。
ハッピーな終末を迎えるためには投資も必要。もっとも大切な投資は、自己への投資、とりわけ健康に対する投資である。 
収入を増やし、支出を減らすこと。まとまった大きな収入があったとき、ダメな人は豪遊してしまう。そうではなくて、半分は定期預金にしておく工夫がいる。
弁護士がうつ病にならないためには、依頼者とともに泣かないこと。
依頼者と一歩でも距離を置いていてこそ、冷静な判断が出来ると私は考えています。岡目八目です。
弁護士に対する苦情のなかには、うつ病だとか脳出血の後遺症があるということが少なくない。これは悲しい現実です。
法律事務所をわたり歩く弁護士には、能力のない人、協調性のない人が多い。
この本の前半は、弁護士業務を適正かつ円滑にすすめていくうえで大変参考になることが盛り沢山です。
反対尋問は、弁護士の仕事の花だ。反対尋問は意地悪であることが求められる。わざと順番を逆転させ、予想の裏をかくという工夫もする。
証人尋問のリハーサルのとき、答えまで覚え込ませるのはよくない。それでは学芸会の台本のようになって、緊張感が希薄になってしまう。答えを覚えておこうという意識が先行すると、ちょっとした反対尋問でもボロボロになる危険がある。
クレーマーには、毅然とした対応することが原則。できる限り話は聞く。しかし、それで満足することはない。だから、きちんと当方の見解を述べて対応を打ち切ること。長く話を聞けばよいというものではない。話を聞くのは、喫茶店など、外部の開けた場所が望ましい。密室の面談室で1対1で会うの危険だ。
嘘を言う人。自分が絶対に正しいと言い張る人。ずるい人。自分に都合のいいことしか話さない人。時間にルーズな人。頼んだ書類をもってこない人。話し方がぞんざいな人。自慢話を長々とする人。みな要注意だ。
とても実践的な本です。ご一読をおすすめします。
(2016年12月刊。3000円+税)

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