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2016年9月 の投稿

イスラム過激派 二重スパイ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  モーテン・ストーム 、 出版  亜紀書房
 デンマーク生まれの白人青年が若いころ非行に走ったあげく、ある日突然回心してアッラーの教えに救いを見出し、イスラム教徒になります。そしてアフリカにまで渡ってイスラム過激派の一員として活動していくのですが、その活動にも疑問を感じて再び回心し、今度は捜査機関に協力するようになるのでした。
初めはデンマークの警察、そしてイギリス、最後はアメリカのCIAまで登場してきます。
一匹狼のような危険人物を逮捕するのには役に立つことでしょうね。でも、ウサマ・ビン・ラディンの暗殺が平和をもたらすはずもなく、もたらさなかったのと同じで、たとえアウラキー人を暗殺したところで、イスラム過激派が消えてなくなるわけではありません。
 アメリカもイギリスもお金のつかい方をまったく間違っている、私はそう思います。何人かのスパイを操作するために何千万も何億円も支出するくらいなら、砂漠の緑化作業をすすめたほうが、よほど効果的なお金のつかい方です。
 ところが、そんな大金は実はCIAをはじめとするスパイの秘密捜査に従事する人々の高額の飲み食いにまで使われているようです。なあんだ、「生命をかけて」過激派とたたかっている振りをして、自分たちも甘い汁を吸っていたのか、、、。だから、びっくりするほど高いお金をかけて要人の暗殺ごっこが止められないのですね。
CIAなどの高官も、 たまに自爆犯人に殺られてしまうことがあるわけですが、これも自分たちが無人機をつかって平気で違法な要人暗殺を次々にやっていることへの仕返しなのです。こんな暴力の連鎖こそ一刻も早く打ち切りたいものです。スパイに頼らない、平和維持活動をみんなで模索したいものですよ。
 500貢もの大作です。二重、三重スパイとして活動していた若者の無事を願わずにはいられません。
(2016年7月刊。2700円+税)

「もう一つの大学紛争」

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  鈴木 元 、 出版  かもがわ出版
 もう50年近くも前の大学紛争を当事者の一人として振り返った本です。全共闘の暴力についての鋭い指摘は、私もまったく同感です。
1967年、68年に大学に入学した学生は、まともに勉強できないまま、大学紛争に巻き込まれた。毎晩のように全共闘の暴力にあって、投石したり、角材で反撃し、殴られてケガをした。少なくない学生にとって、いい思い出は皆無に近い。マスコミに登場して、全共闘的思考をよしとしている人間の大半は、大学生時代に心情的には全共闘であっても、ゲバルト活動を1年も続けていた人間はいないだろう。そんな行動をしていたら、学力を確保できなかったし、卒業すら出来なかったはずだ。何より、自らの暴力活動によって立ち直れないほどの精神的ダメージを受けたはずで、いま全共闘運動を誇りをもって語れるとは思えない。
マスコミに登場して、いまだに全共闘の思考や行動に意味があったかのように発言する人物の大半は、あのころ全共闘の周辺をうろうろしていて、心情的な共感をひけらかしていただけの者が多いとしか思えない。それほど、全共闘の暴力は残虐なものだったし、物理的にも心情的にも破壊的だった。
それは、全共闘の内部で内ゲバという悲惨な殺人事件が横行したことからも言えることです。
暴力的闘争は内戦状態をつくり、多大な犠牲者を生み出す。たとえ、権力掌握に成功しても、それは、支配者を変えた新しい暴力的独裁国家になる。その指導権をめぐっても暴力がつかわれ、残忍な内部闘争が展開されていくだろう。国民の幸せを願うものは、「暴力的闘争の終焉」を肝に銘じるべきである。
この点についても私はまったく同感です。内ゲバ殺人事件は、まさしく恐怖政治です。
この本は、京都の立命館大学における全共闘の暴力とたたかい学園を正常化していった体験を振り返っています。暴力支配とたたかうことの大変さがひしひしと伝わってくる本でもありました。
「全共闘世代」というのは、全共闘の思想的影響を受けた人たちがマスコミに就職して、いまもって共感をこめて述べている言葉であるが、全共闘を支持していたのは、せいぜい大学生全体の2%くらいだった。私の知る限りでも、全共闘シンパを自称している人が何人もテレビや新聞社に入っていきました。
そして、大学紛争が終わったとき、大半の学生は就職したら、紛争のことを素早く悪夢だったかのように忘れてしまったのでした。
ところが、東大・京大などと違って、私学卒の学生は下手に大学紛争にかかわっていたことが世間に知られたら、ますます就職できないというハンディを負っていた。うむむ、なるほど、そうだろうなと私は思いました。
東大闘争の全過程については、小熊英二の『1968年』(上・下)にも引用されていますが、『清冽の炎、1968年、東大駒場』(全7巻、花伝社)をぜひ読んでほしいです。大変な労作に深い感銘を受けました。今後とも、元気にご活躍ください。
(2016年8月刊。2200円+税)

ハーレムの闘う本屋

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者  ヴォーンダ・ミショー・ネルソン 、 出版  あすなろ書房
 むかし、私も一度だけ夜のハーレムに足を踏み入れたことがあります。小さなライブハウスに行き、生演奏のジャズを間近で聞かせてもらいました。
 昼間、ハーレムを観光バスで案内されたとき、ガイド氏がここは火事が多い、それは火災保険が目当てだったり、立退き要求のいやがらせだったり、と説明してくれました。昼間から何をするでもなく街角にぼさっと突っ立っている人々を見て、やはり怖い気がしたものです。
 この本は、そんなハーレムの一角に堂々と黒人専門書の本屋を営んできた黒人男性の生きざまを紹介しています。その知恵と勇気に、読んだ私も大いに励まされました。
 映画『マルコムX』の本物のマルコムも、この書店の常連だったそうです。何枚もの写真が紹介されています。
わたしは、「いわゆるニグロ」ではない。「いわゆる」とつけたのは、ニグロは物であって、人間ではないからだ。この言葉はつくられた言葉だ。ニグロは、使われ、虐げられ、責められ、拒まれる「物」なのだ。それがニグロの役割だ。それを受けいれ続ける黒人に未来はない。すごい言葉ですね。43歳のときにこう言ったのでした。
ルイスは、19歳のときに泥棒して捕まったとき裁判官にこう言った。
「俺は、生計を立てるためにやったことがもとで、ここに入れられたんだ。白人だって、同じことをしてるのにさ」
「何のことだ?」
「盗みだよ。あんたたちはアメリカにやって来て、インディアンからアメリカを盗んだ。それに味をしめて、今度はアフリカへ行って俺の祖先を盗み、俺たちを奴隷にしたんだ」
まったく、そのとおりなんですよね・・・。
人々は、ルイスを「教授」と呼んだ。その理由について、ミショーはこう答えた。
「黒人関係の本については、人に教える立場だからだろう。大学で習う知識が悪いわけではないが、ひとつのことで生きてきた人間の経験を見くびっちゃいけない。それに私には、これ以上は言えないという制約がない。口ごもることはなし、原稿を見てしゃべるわけでもない。飼い慣らされたニグロは、靴をみがいてやっている連中の機嫌を損ねないように言葉を選ばなければいけないからな・・・」
「ここに知識がある。頭に知識を入れることより大事な仕事はない」
ルイス・ミショーの本屋はハーレムの7番街にあって名所になっていた。
65歳のルイス・ミショーは朝起きたとき、今日は何も起きそうにないと思えば、何かを起こす。そういう人間だ。もめごと大歓迎。
ルイス・ミショーの弟は、こう言った。「本屋は大成功だった。俺の考えは間違っていた。頭のいかれた兄貴は、黒人に本を買わせた。白人にもだ。それも、アフリカ中心主義の本を。俺なら絶対買わない」
マルコムXが暗殺される前に、ルイス・ミショーはマルコムXにこう教えた。
「白人には責任をとってもらわなければいけないことがたくさんある」
「マルコム、そんなときには、ニワトリは最後にはねぐらに帰るものだ、と言えばいい」
マルコムXは1965年2月22日、教会で説教を始めたとたん散弾銃を持った男たちに殺された。まだ39歳だった。
ブラック、イズ、ビューティフル。しかし、知識こそが力だ。ハーレムで暴徒が荒れ狂って略奪が横行したときにも、ルイス・ミショーの本屋は無事だった。誰も手を出さなかった。ルイス・ミショーは言った。
「私は暴力を好まない。言葉を武器としてたたかっている。でも、なぜこれほど多くの黒人が怒りに駆られているかは理解できる。暴力は天国から始まった。神は敵である悪魔に対して暴力をふるった。神は悪魔を天国から追い出したが、それは暴力だろう。旧約聖書は、神が暴力を認めていることを一貫して描いている。神にとって暴力をふるうことが正しかったのなら、必要なときが来れば、私にとっても正しいはずだ。切り倒されるときに、黙って立っているのは樹木だけだ」
すごい人がいたものです。本好きの私には、こたえられない本でした。同好の士に対して強くご一読をおすすめします。
(2016年4月刊。1800円+税)

ヒトラーの娘たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ウェンディー・ロワー 、 出版  明石書店
 「ヒトラーの娘たち」は、社会の片隅に追いやられた社会病質者(ソシオパス)ではない。彼女たちは、自分の暴力が帝国の敵に対する正当な報復だと信じ、そのような暴力行為も忠誠心の表れだと考えていた。
 数十万人ものドイツ人女性がナチ占領下の東部(ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア)へと移り、ヒトラーの殺人マシンの不可欠なパーツと化していた。
 1939年の時点でドイツ人女性4000万人のうち3分の1の1300万人はナチ党組織に積極的にかかわり、女性ナチ党員の数は終戦まで着実に増えていった。
 ナチスの絶滅収容所の女性看守の平均年齢は26歳で、最少は15歳だった。身の毛のよだつような仕事に志願した女性は、大量殺害の現場を雇用とチャンスをもたらしてくれる場と考えていた。立派な制服、高い給料、そして権力を振るうことに魅力を感じた。収容所に入った囚人に対して人間味のある態度で接していた女性看守はほとんどいなかった。
 多くのドイツ女性は、幼少のころ、日常的にユダヤ人と接触していた。そして、ユダヤ人が迫害されるようになったとき、日をつむる社会規範が生まれた。そして、それは、ドイツ人女性に独自の強さの体現を求める期待と結び付いていた。
 ヒトラーのジェノサイド戦争の日常業務に貢献したのは1万人いる秘書のほか、文書係、電話交換手などの事務補助員だった。
ナチス親衛隊員の花嫁になったドイツ人女性は24万人、社会の新しい人種的エリートとして迎えられた。
 大量殺人にさまざまな方法で加担したドイツ人一般女性の数は、それを阻止しようとした比較的少数のものに比べれば、数えきれないほど多かった。大半は好奇心からだけど、これに物欲も加わり、多くのドイツ人女性が東部に何千とあったゲットーで、ホロコーストに直面していた。
 ゲットーのユダヤ人居住区からユダヤ人が一掃されると、ドイツ人たちが役立ちそうな物を戦利品として持ち帰るために集めてまわった。
大量殺人の経済効果を高めるため、親衛隊、警察指導者、地域の軍司令官そしてナチ党官僚は、ユダヤ人の財産を没収し、再分配する仕組みをつくった。それを知ったドイツ人女性秘書が故郷の母へ、ナチ福祉団から服を受け取らないようにと手紙で知らせた。それは殺されたユダヤ人の物なのだから・・・と。
 ベルリンそしてウィーンのゲシュタポ本部では女性の割合は非常に高く、戦争末期には40%にまで達した。ユダヤ人の誰を殺すかという選択は、実際には受付のドイツ人女性にまかされていた。
ユダヤ人は商品と見なされていた。ゲシュタポ事務所の職員は移送されてきたユダヤ人たちから盗みとった食料を、ユダヤのソーセージと呼んで、たっぷり堪能した。「人間というゴミ」以外は、何も無駄にしてはならないとされていた。
ドイツ人女性秘書は、ナチの殺人マシーンの中心にいた。
ナチ支配下の全ヨーロッパに、実は4万ヶ所ものユダヤ人収容所があった。地域のコミュニティと融合した存在だった。これらの収容所をつくり、運営し、また訪れた加害者、共犯者、目撃者は多かった。想像されてきた以上に多くの人々がユダヤ人の組織的な迫害と殺人に関与し、知っていたのだ。少なくとも50万人のドイツ人女性が東部地域でジェノサイドをともなう戦争を目撃し、その遂行に貢献した。
そして、その暴力行為で罪に問われることのなかった女性たちは、この事実を封印し、否定した。加害者たちは、戦後、死んだ総統ヒトラーに対してではなく、お互いに対して忠誠と守秘の誓いを守り続けた。「密告者」として中傷されることのないよう保身に走った。
そんなわけなので、ホロコーストの罪を問うために一人でも証人を確保できるということ自体が、ごくごく例外的だったのです。
 ナチスの殺人マシーンが、実は、普通の女性で良き母親でもあると同時に、殺人を苦にしない鬼にもなって支えていたということがよく分かる本でした。これも戦争の恐ろしさの一側面なのですね・・・。
(2016年7月刊。3200円+税)

花森さん、しずこさん、そして暮らしの手帖編集部

カテゴリー:社会

著者 小榑 雅章、 出版 暮らしの手帖社 
 わが家にも子どものころから「暮らしの手帖」はありました。黒地をバックとした藤城清治さんの切り絵に見とれ、実験の成果である数値の羅列に奇異な感じを受け、結論としての商品評価のところは興味深く読んでいました。といっても、わが家の大人たちが、その実験成果を生かして買い物をしたという話は聞いていません。
 この本は、「暮らしの手帖」の創成期に編集者の一人として編集部に入った若者のの体験記でもあります。
 花森さんは女装することでも有名でした。でも、いつもスカートを着ていたわけではなさそうで、なんとなく少し安心しました。
 花森さんは、東大を出て戦争中に大政翼賛会で働いていました。「欲しがりません、かつまでは」、とか「ぜいたくは敵だ」の作者だと言われました(実は違うそうです)。
 花森さんは、「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。当時は何も知らなかった。だまされた。しかし、そんなことで免罪されるとは思っていない。これからは絶対だまされない。だまされない人を増やしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてももらっている」、と語った。
 そして、「ぼくらの暮らしと政府の考え方がぶつかったら、政府を倒す、ということだ。それが本当の民主主義だ」とも言っています。さすが、ですね・・。
戦前、大日本帝国の臣民には、まずお国があった。「お国のため」がすべてに優先していた。お国の言うことに、国民は、へへーと従った。しかし、順序は逆だ。なによりもまず、国民が先だ。国民の暮らしだ。
 「暮らしの手帖」が実名で商品評価を発表したため、企業側から誹謗、苦情、懇願、哀訴、抗議、訴訟を受け、それをすべて乗り越えてきた。
  「暮らしの手帖」創刊号(1948年)は1万部。私の生まれた年です。
 10号(1950年)は7万部。30号(1955年)は21万部、38号(1957年)には52万部。わずか7年間で一挙に7倍以上になった。
 ひとにものを教わるときには、徹底的に何も知りません。どうぞ教えてくださいという態度が大切だ。知ったかぶりが一番嫌われる。職人さんを先生だと思って聞け。相手が、大変だ、この人は本当に何も知らないんだと思うと、親切に教えてくれる。
これは花森さんの説いた取材の要諦(ようたい)です。
テレビの「とと姉ちゃん」をみているわけではありませんが、広告のない「暮らしの手帖」には子どものころから何となく親近感がありましたので、読んでみました。
(2016年6月刊。1850円+税)
いま、町から本屋が消えていっています。悲しいことです。インターネットで注文すればいいじゃないかと思うのはネット中毒の人です。活字中毒の私は、やはり本屋に行って店頭で本を眺め、ときに手に取ってみるときこそ至福のひとときなのです。
この17年間で、2万2296軒あった本屋が1万3488軒になったそうです。8808軒も減っています。日本全国で、年に518軒が閉店しているというわけです。本屋は日本の文化のシンボルです。もっと大切にしたいものです。ぜひみなさん、本を買って読みましょう。私の本も忘れずに買ってくださいね。お願いします。

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