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2016年2月 の投稿

東大駒場寮物語

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  松本 博文 、 出版  角川書店
私も18歳から2年間、この寮に入って生活していました。月1000円の学費と同額の寮費でした(と思います)。
6人部屋で生活していましたが、まったく自由気ままな毎日を過ごしました。同じ部屋から3人が司法試験を受けて合格し、私が弁護士に、あと二人は裁判官になりました。あと三人は企業に就職しましたが、うち一人とだけは今も交流があります。
この本は1973年生まれの著者が自分の寮生活を振り返っていますが、駒場寮の廃寮にも直面しています。今は、駒場寮はないのです。まだ跡地には行ったことがありません。
 駒場寮に「中央記録」なるものがあるというのを初めて知りました。寮の正式な記録を残す係があって、廃寮になった今もそれが民家に保存されているというのです。著者は、その記録を読んでいますから、個人的体験をこえています。といっても、東大闘争については誤りがあります。
 「民青は明寮の屋上にピッチングマシンを持ち込んで、全共闘系の学生に向かって石を投げていた」
これはまったくの誤りです。そのころピッチングマシンなるものが使われたことはありません。私も明寮の現場にいましたが、すべて人力です。東大野球部の学生の投げる石は強力なので要注意だったという話はありますが、それは全共闘にも民青側にも、どちらにも言えることです。
この本の著者は、残念なことに『清冽の炎』(花伝社)を読んでいないようですが、そこには東大闘争と駒場寮生のかかわりが生々しく紹介されています。600人もの生活の拠点としていた駒場寮は、基本的に「平和共存」していたのです。
駒場寮は不潔だったと著者は強調していますが、私のころは部屋替えも定期的にあっていて、それほどでもありませんでした。私は今も整理整頓が大好きですが、当時も同じです。ゴミ部屋なんて、あったかなという記憶です。また、こまめに洗濯だってしていました。決して私だけではありません。600人もの寮生がいれば、さまざまだったようですから、すべて不潔だったかのように決めつけられると、私にはいささか抵抗があります。
寮フを35年間もつとめた門野(かどの)ミツエさんのことが触れられています。私もお世話になりました。手紙そして電話の取次ぎを一人でしていたおばちゃんです。その妹さんがあとを継いだということも初めて知りました。
寮食堂では夜9時すぎに残食(ざんしょく)を売り出していました。夕食のあまったものを安く寮生に提供するのです。私も何回となく並びました。育ち盛りは、お腹が空くのです。
私は大学一年生の秋(9月)に1ヶ月を1万3千円で過ごしたという家計表を今も持っています。最低どれだけで生活できるか試してみたのでした。
九州弁丸出しで恥ずかしい思いをしましたので(寮内ではなく、家庭教師先で・・・)、速やかに東京弁を身につけました。東北弁の寮生も同じです。ところが、関西弁の寮生は、いつまでたっても一向に平気で関西弁を話しているので、その違いに圧倒されました。
 私の大学生活は自由な駒場寮での生活の楽しい思い出とともに始まったのです。
                     (2015年12月刊。1800円+税)

新時代を切り拓く弁護士

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  本林 徹 、 出版  商事法務
 これは素晴らしい本です。文句なしに面白い。
 私は編著者より贈呈を受けて、一日のうちに2時間かけてじっくり熟読玩味、読み切りました。大切だと思えるところに赤鉛筆でアンダーラインを引きますので、この本のいたるところが真っ赤になってしましました。
 弁護士とは何か、何をする人なのか、弁護士はどこに工夫し、知恵を絞るのか、そこにどんな困難が待ち構えていて、それをどうやって突破していくのか・・・。
 また、弁護士の「営業努力」の要点は何か、弁護士にとって何が大切なのか・・・。
 東京と大阪においてビジネス法務の最前線で活躍する10人の弁護士が自分の体験を惜しみなく語っています。
 編者は日弁連の元会長です。東京で若手意欲あふれる弁護士100人の前で語られた本林塾の講演録が本になったのです。面白くないはずがありません。弁護士として活動していくヒント満載ですから、まさしく価値ある2300円、安いものです。ぜひ、買って読んでください。
先日、福岡の敬愛する野田部哲也弁護士から、弁護士の仕事に役立つ本をこのコーナーで紹介してほしいという注文を受けましたが、この本は、まさしく私のイチオシの本です。
 本林弁護士は、友だちを大事にする、友人は宝だと考え、無償サービスをいとわないでやってきた。頼みごとを受けたら、嫌な顔をせず最優先で対応する。大学のクラス会も永久幹事を引き受け、友人たちの消息をつかんでおく。少し長期的な視野でものを考えるようにする。顧問先の会社では担当者との絆をふだんから強めておく。会社のなかに自分のファンをつくっていく。依頼者を集めて、毎月のように一緒に研究会をし、年に1回は大規模なセミナーや懇親パーティを開く。
 交渉にあたっては、相手との依頼関係を築きながら、情熱と人間的魅力をもって説得する。そして、社会に役立つことをする。人がやったことのないことに挑戦する。人に喜んでもらえたことを励みにする。これが自分を支えてきたモチベーションだ。
 弁護士は、道草や趣味が不思議に生きる職業である。今井和男弁護士は、優れた弁護士になるためには、優れた弁護士になりたいと強く思って行動することだと言います。
 私も何人か憧れの先輩弁護士がいて、その先輩たちのようになろうと努力してきて、今日に至っています。もちろん、先輩のようになれたとは思っていないのですが、座標軸というか、具体的な目標があるので、ぶれることがありません。
ビジネス社会は大変狭くて、悪い評判はすぐに広がり、良い評判は徐々に広がっていく。
 弁護士にとって必要なものは、信念、お金、ビジネス、判断力、愛嬌、心遣いだ。
 「あなたが決めて下さい」と突き放すのではなくて、一緒に考え、私はこう思うと言う。背中を押して進んであげることが大切。
 暗い状況で来た人を、一筋の光明が見えるようにする。少しの希望をもって帰っていってもらう。その意味で、弁護士は慎重な楽観主義者であることが大切だ。
 國廣正弁護士は、企業は社長の持ち物ではないと強調します。企業は株主、従業員、取引先、顧客というステークホルダーに囲まれた存在である。だから、悪いものは悪いと言うこと、それがまさしく危機管理であり、企業が生き返るために必要なこと。
 弁護士は目の前にある仕事を一生懸命やること。それが結果につながる。
 何か新しい分野をいきなりやるよりも、自分の領域から進めていって、一歩だけ踏み出した仕事をしてみる。
書面にするとき、一回飛んで、すっと頭に入るものになるよう文章は推敲を重ねる。書面は読んでもらうものなので、錯綜した事実関係をきれいに整理して、易しい言葉で分かりやすく書く。
 弁護士はたたかうべきときにはたたかわなければいけない。事実を隠したって必ずばれるし、企業の成長には絶対に訳に立たない。プロフェッショナルとしての弁護士の使命感をもち、究極的には会社のためになると思って、障害を乗り越えていく。
 松村謙一弁護士は、人間は二度死ぬと言います。一つは肉体の死。もう一つは記憶から忘れ去られたときの死。父親も弁護士だった矢吹公敏弁護士は、人を助けてお金がもうかるなんて、こんな良い仕事はないと小学生のときに思って弁護士を志望した。
今の私も、申し訳ありませんが、そう考えています。
矢吹弁護士は、いつも考えているとのことです。歩いても、お風呂に入っていても、何をしていても常に事件を考え、問題点を考えている。これが大切だ。雨垂れ、石をうがつ。ぽとぽとと粘り強く落ちていけば、いつかは石にも穴があくと信じてとにかくやってきた。
 牛島信弁護士は、敵対的買収に関する仕事は、難しいから面白いとします。 
 会社は何のために存在しているのか。会社が存続し続け、毎月、毎年、給料を払い続けることの意味は大きい。会社は社会(雇用)のためにある。人間は、仕事を通じて社会につながることで社会と対等の関係を結ぶことができ、また自立していると感じることができる。
 そして、雇用は緊張感の下になければいけない。
 自尊心のない人間には、人生への幸福感はない。ビジネスマンは日本に雇用をつくり出している。雇用は人々の人生の幸せをつくり出している。
 準備書面は、読みはじめた瞬間から、読んでいくと興味が尽きないように書かれるべきもの。そうか、よく分った。こういう事件なのか、よく分ったよ。息つく暇もなく読み終えて、よく分った。裁判官にそう思わせなければいけない。弁護士は、裁判官の癖もふまえて、きちんとした書面を書いて提出しなければいけない。それを先方の責任に転嫁するようでは、弁護士バッジは返上すべきだ。自分の好奇心にしたがって世の中のことに興味をもつこと。これが弁護士には欠かせない。
 なるほど、なるほど。この指摘には私も大いに反省させられました。
 久保利英明弁護士は、弁護士にとっての営業能力とは、他人(ひと)の話をよく聞いて、コミュニケーションをとって、目の前の人が何に困っているかを探りあてて、迅速に解決してあげることに尽きると断言しています。
 弁護士の本質は正義のための闘争業者だと思うから、人と争うのは嫌だという人には向かない。ただ、闘争が好きで好きでたまらないという人も本当は向かない。正義が好きで、正義のためにはやむをえず闘うこともいとわれないという人が一番向いている。
 私自身も、他人との争い事は好みません。争いの現場からはさっと身を退いて立ち去りたいのです。でも、これは黙っておられないと思ったときには、一言いうようにしています。腕力にはまったく自信がありませんので、口で言うしかありません。
 本当に役に立つ本です。弁護士生活40年以上になる私ですが、改めて、弁護士の仕事の奥深さを感じました。ぜひ、あなたもお読みください。
          (2016年2月刊。2300円+税)

クルスクの戦い.1943

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  デニス・ショウォルター 、 出版  白水社
 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相というのがサブ・タイトルです。1943年の7月から8月にかけて、独ソ両軍あわせて将兵200万人以上、戦車と突撃砲が6000両以上、航空機も4000機以上が激突していますから、史上最大の戦車戦というのは誇大でもなんでもありません。そして、この本では、そのうちの狭義の「クルスクの戦い」を主として扱っています。7月5日から12日までの「プロポフカの戦い」です。このとき、ドイツ軍は兵員7万、戦車・突撃砲300両で攻め、守るソ連軍は兵員13万、戦車・突撃砲600両でした。
 ヒトラー・ドイツ軍はその前の1943年2月までにスターリングラードでソ連軍によって壊滅的敗北を喫しています。ですから、一挙にドイツ軍が敗退していくかというと、そうではありません。高度に発達した戦車(パンター、ティーグル)や飛行機そして、練度と士気の高い軍人集団だったのです。
 ドイツ軍はスターリングラード敗戦の雪辱と失地回復を狙って乾坤一擲のツィタデレ作戦を展開します。クルスク突出部にいるソ連軍をドイツ軍が北と南の二方向から攻めて包囲殲滅しようとしたのです。結局、このドイツ軍の作戦は失敗し、ドイツ軍は退却していきます。ソ連軍は冬だけでなく、夏でもドイツ軍に勝てることを証明したのでした。
 でも、そのために払ったソ連軍の犠牲は、ドイツ軍のそれをはるかに上回っていました。
 クルスク戦における損害は、ドイツ軍が戦車などの装甲戦闘車両250両、兵員5万5000に対して、ソ連軍の犠牲は装甲戦闘車両2000両、兵員32万となっている。数字だけをみればドイツ軍が戦術的には勝っていた。しかし、敵の6倍の人的損害、8倍の装甲戦闘車両の損害を出しても変わることのなかったソ連軍の数量的優勢がクルスクの戦いの帰趨を決定した。
 これほどの犠牲を出してまでも、ソ連軍は戦い続けることができた。それはなぜなのか・・・。これは今もまだ完全に解明しつくされたとは言えない問題である。
 この本は、この狭義の「クルスクの戦い」の状況を、詳細に語り尽くしていて、その疑問を解明しようと試みています。
 ソ連では、戦争中に40万人もの戦車兵が養成された。そのうち30万人以上が戦闘で死んだ。これは、ナチのUボート乗組員の戦死率に匹敵する。しかし、その数は10倍も多い。
ソ連軍の戦車兵は「どうせ死ぬなら、なるだけ多くのヒトラー主義者を道連れにしてやろう」と決意していた。
ソ連軍は戦争をサイエンス(科学)として見たが、ドイツ軍はそれをアート(技芸)として解釈した。
 1942年に、ドイツ軍は東部戦線だけで、毎月平均10万以上の戦死者を出していた。そして、戦車5500両、火砲8000両、25万両の自動車を失った。さらに損失処理された2万機の航空機の3分の2はソ連で失われた。
 ドイツ軍の戦車設計は、防護と加力と対照的に機動性と信頼性を重視していた。ソ連軍のT-34戦車は、ドイツ軍の戦車のできることは何でもできるうえに、装甲が優れ、さらに強力な76ミリ砲を搭載していた。これに対して、ドイツ軍のパンター戦車は、納入台数250両と少ないうえに、重量45トンを支えるエンジンに問題があった。
 ティーガー戦車は航続距離が200キロ、時速32キロでしかなかった。しかも、ツィタデレ作戦の開始時には128両しか配備されていない。
 ドイツ軍の戦闘機訓練生は飛行時間の70時間で現場の部隊に配属された。それに対してソ連軍はわずか18時間にすぎなかった。
 ヒトラー以下のドイツ軍首脳部において、ツィタデレ作戦は、ギャンブルだという認識で一致していた。
 ティーガー戦車をやっつけるには、洗練された技能が必要だった。射程の近くに引き寄せて、その車体ではなく無限軌道に砲火を集中する、冷静な頭と確実に狙いを定めることが決め手となる。ソ連軍は、その両方を兼ね備えていた。
 ドイツ軍は戦闘開始初日の7月5日に装甲戦闘車両を500両以上も投入したが、その半数がその日の終わりまでに動けなくなっていた。
 クルスク戦のソ連軍戦車兵のなかには女性兵士も少なくなかった。T-34戦車の窮屈な操縦室に比較的らくに収まり、そしてそこから出るのも容易だった。操縦手だけでなく、車長や砲手にも女性兵士がいた。ソ連のT-34戦車の34両のうち、26両が撃破された。ドイツ軍は、ツィタデレ作戦の過程で38人の連隊長と252人の大隊長を失った。
 いやはや、実にすさまじい凄惨きわまりない戦場の実相が詳細に発掘・紹介されています。
 クルスク戦車戦に関心のある人には必読の本だと思いました。
(2015年5月刊。3900円+税)

銀河系惑星学の兆戦

カテゴリー:宇宙

(霧山昴)
著者  松井 孝典 、 出版  NHK出版新書
 真夏は、夜寝る前にベランダから天体望遠鏡をのぞいて月の素顔を見るのを私は楽しみにしています。その月面にたくさんある「あばた」(クレーター)は、なんと天体衝突によって生まれたというのです。
物質科学的に超高速の天体衝突で生じるような、超高圧下でつくられたような鉱物が発見された。これらのクレーターの多くは、40億年以上も前にできたもの。
 それが無数にあるということは、40億年前の月では、無数に天体衝突が起きていたことになる。
 そして、月のマントルには、地球のマントルと同じくらいの水が含まれている。最古の結晶化年代は44.17億年である。
 地球に降ってくる隕石の多くは、宇宙空間に漂っていた塵やガスが凝縮してつくられた鉱物が単に集まっただけの集合体である。隕石の多くは、今から45億年以上前にできた。いちばん古い隕石は、1969年2月(例の東大・安田講堂攻防戦の翌月です)にメキシコに落下した。推定5万トン。ただし、大気中で爆発した。粒子が直径100キロメートルほどの天体になるまでに数百万年かかる。
 太陽系は、45億6600万円前に誕生したことが分っている。
 ブラックホールは「穴」ではなく、きわめて密度の高い天体である。周囲の物質をとり込みながら、無限の重力崩壊を続けているようなもの。
 銀河の中心には太陽の1億倍もの物質をもち、超巨大ブラックホールが存在している。
 冥王星が惑星ではないとされたのは、2006年に太陽系の惑星の定義が定められたから。惑星の定義は三つ。
 ① 太陽を回る軌道上にある天体
 ② 重力が物体の強度を上まわるだけの質量を持ち、静水圧平衡に近い形をしている天体。
 ③ その軌道の近くには、ほかの大きな天体が存在しない。
 冥王星は、この条件を満たしていないので、「準惑星」とされた。
 地球上にある広大な海を形成するほど大量の水はいったいどこから来たのか・・・?
 実は、それは彗星によって運ばれてきた可能性がある。
 えーえっ、ななんという不思議なことでしょう。想像できません・・・。
 最初の原始的微生物、あるいはウィルスも、宇宙から来た可能性が否定できない。地球が誕生する以前に、宇宙には生命の萌芽があったのではないか・・・。
 生命は宇宙で誕生し、それが彗星によって育まれ、運ばれ、彗星が地球に衝突することで地球に生命がもたらされた。
 むひゃあ、そんな、そんなことがあるのでしょうか・・・。ところが、著者は、この仮説を否定できないというのです。
 いやはや、宇宙にハテは果たしてあるのかと同様、無限の難問が宇宙には満ちみちています。
(2015年12月刊。780円+税)
 先週、私の町は断水騒ぎで大変でした。マイナス7度になって水道管が凍結し、破裂してしまったのです。水が使えないとトイレも風呂もダメです。コンビニやスーパーから水やパン、弁当がたちまち姿を消してしまいました。水のありがたさを改めて実感したと会う人ごとに話したものです。電気より、灯油やガスより、何より水が生活の基本なのですよね。本当に大変でした。
 それにしても、都市生活って、案外もろいのですよね。これで原発事故が起きたら、どうしようもありませんね・・・。

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