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2015年9月 の投稿

フランスの美しい村

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  粟野 真理子 、 出版  集英社
 このところフランスに行っていません。残念です。この夏は、アベ世間の戦争法案をつぶすために汗を流そうと決意しましたから仕方がありませんが、来年は久しぶりに行きたいなと考えています。フランス語も、毎朝、聞きとり、書きとりは欠かしていません。仏検だって6月に受けましたし、11月にも受けるつもりです。語学ほどボケ防止になるものはありません。
 フランスには「もっとも美しい村」に認定された村が156もあるということです。私も、そのうちいくつかは行ったことがあります。この本には、私の行った村も紹介されています。
 アメリカには、もう久しく行っていませんが、まったく行く気がしません。戦争する国・アメリカというイメージというより、「食(しょく)を大切にしない国」というイメージが嫌やなのです。どでか過ぎるステーキ、そして甘ったるくてボリューム満点すぎるアイスクリーム。いずれも私の好みではありません。
 その点、フランスはどんな辺ぴな村に行っても、美味しい郷土料理があり、口当たりのいいワインを堪能できるという楽しみがあります。しかも、安いのですよ・・・。
 ディジョンのマルシェ脇のレストランには、2晩かよいましたが、エスカルゴもフォアグラも天下一品でした。また、ぜひ行きたいものです。
 映画「ショコラ」の舞台になったのはフラヴィニー・シュル・オズランです。私はディジョンからタクシーで行きました。小さな村の真ん中に、いかにも古ぼけた教会があります。映画にも出てきます。8世紀の建立というのですから、古ぼけているのも当然です。ここには昔ながらのアニス・キャンディがあります。そして、教会前の広場に面したレストランでは、地元の人たちが料理を提供してくれます。牛肉赤ワイン煮込みが名物です。
 もう一つ。南仏にあるレ・ボー・ド・プロヴァンスです。「レ・ボー」は、ごつごつした岩山からなる有名な観光地です。松本清張の本の舞台にもなりました。ここにも、私はアヴィニヨンからタクシーで行きました。レンタカーでまわる勇気がなければ、「美しい村」めぐりにタクシーは欠かせません。レ・ボーに行ったときには、迎えのタクシーが時間どおりに来てくれるか、私は心配してしまいました。だって、他には何の選択肢もないのですから・・・。
このレ・ボーは、フランスではモン・サン・ミッシェル、そしてゴルド(私は行ったことがありません)に次いで3番目に観光客が多いそうです。たしかに大平原にぽこっとそそり立つ岩山は奇岩城を思わせます。レ・ボーには中世の吟遊詩人をしのばせるものがあります。
風景写真だけでなく、おいしそうな料理の写真まである、楽しいフランス旅行に誘う本です。
(2015年5月刊。1800円+税)

メモリアル病院の5日間

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 シェリ・フィンク    出版 カドカワ
 
今から10年前の2005年8月、アメリカは、ルイジアナ州のニューオーリンズを襲った強大なハリケーン「カトリーナ」によって、メモリアル病院が孤立したとき、入院患者がどうなったのか。患者の死亡を早めたとして逮捕・起訴された事件の顚末を追った本です。
 ハリケーンが上陸して以来、ニューオーリンズは理性をなくした野蛮な環境に変わっていた。
 ニューオーリンズ市が避難命令を出しても、貧しい黒人の多くは車をもっていなかった。もっていたとしても、早々に交通渋滞にはまってしまった。郡刑務所の職員も、囚人を避難させる予定はないので、例外に指定された。囚人も職員も避難が許されなかったということですね、、、。
 ついにハリケーンが襲来し、メモリアル病院の周囲は水に浸ってしまいます。
 沿岸警備隊のヘリコプターで患者を搬送するのですが、メモリアル病院の患者は187人から130人に減っただけ。スタッフ460人、家族447人、ライフケアの患者とスタッフ52人が残されている。
 病院のトイレは不快な場所と化していた。電気が止まり、非常用発電もうまく作動しない。うだるような暑さのなかにおかれた。
 デマが横行した。近隣の強盗団が病院を制圧し、薬局から薬を強奪しているという連絡を受けて警察官がやってきた。来たのは警察のSWATチーム。もちろん、真っ赤な嘘。早々に退散していった。
 患者はやせ細り、裸に近い姿で横になっている。病院の温度は38度をこえていた。服を着ていないのは少しは身体を涼しく保てるのと、排泄物を手早く処理できるから。
 医師と看護師が、9人の生きている蘇生禁止患者に静脈注射しているのを見た。
 電源が喪失し、吸引装置が動かなくなると、医療スタッフは、気道から効果的に分泌物を吸引することができない。患者を楽にするため、鎮静剤のアチバンとモルヒネが投与された。
  2階にいる患者が死んでいき、何が起きているのか噂が広まるにつれ、安楽死は間違っていると考える看護師が増えてきた。 
 結局、ニューオーリンズでは、カトリーナ襲来後、すぐに入院患者、貧困層、高齢者を中心に1000人以上が死に、その後も、ストレスや医療手当を受けられずに死んだ人は少なくなかった。
 しかし、公立チャリティ病院では、わずか3人しか死者は出なかった。スタッフが逃げ出さず、患者のケアを続けたから。チャリティー病院は、病気の悪い患者から優先して助けた。チャリティー病院は、低所得層の多い地域にあり、スタッフは混乱や危険に慣れていて、たくましかった。スタッフは、非常時でもルーティンを守り、シフトを維持し、ケアを忘れず、パニックを抑えた。あらぬ噂の拡散も防いだ。なーるほど、やはり、日頃が大切なのですね、、、。
 結局、メモリアル病院で安楽死をもたらしたとした医師は、大陪審で不起訴とすることになった。
アメリカの医療制度の欠陥(問題点)が、事態を深刻にしたのではないかと私は疑いました。アメリカは日本のような国民皆保険制度ではありません。お金さえもっていれば、十分な医療を受けられる国ですが、お金がないと、アメリカでは悲惨です。そこにも「自己責任」という間違った原理が働くのです。
日本をアメリカのような、金持ちのみ栄える、軍事大国にしてはいけません。
      (2015年5月刊。2500円+税)

クリミア戦争(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

                                                                          (霧山昴)
著者  オーランドー・ファイジズ 、 出版  白水社
 戦場に冬が到来したとき、イギリス軍とフランス軍に差があらわれた。軍隊の経営能力が証明された。フランス軍は辛くも合格したが、イギリス軍は惨めな不合格点をとった。
 両軍ともクリミア半島の冬の気温がどこまで下がるかの認識すらなかった。フランス軍は、兵士に好きなだけ重ね着することを許した。イギリス軍は兵士に常に「紳士らしい」外装を要求した。そして、兵士が風雨をしのぐための居住環境について何ら配慮しなかった。
 フランス軍は、士官と兵士の生活条件にはほとんど差がなかった。これに対して、イギリス軍は高級な将校は快適な生活を送っていたが、兵士たちは悲惨な生活を強いられていた。泥の中で眠っていた。
 フランス軍とちがって、イギリス軍には、組織的にタキギを集めるというシステムがなかった。
 フランス軍には糧食の供給と調理、負傷者の手当てなど、兵士の基本的な需要にこたえる専門家がすべての連隊に随行していた。すべての連隊に一人のパン焼き職人と数人の料理人がいた。酒保と軍隊食堂の経営は女将に任されることが多かった。
 フランス軍の食事は、共同調理と集団給食が普通だった。フランス軍の食事の眼目はスープ。そしてコーヒー豆も十分な量が供給された。フランス人はコーヒーなしでは生きられない。
 フランス軍の兵士に供給される肉はイギリス兵の3分の1でしかなかったが、健康を維持しえた。フランス兵は農村出身者が多く、食べられるものなら、どんなものでもカエルやカメでも捕まえて料理して食べた。
 イギリス兵は、その大半が土地をもたない都市貧困層の出身者だったので、自分の手で食料を調達し、自力で窮状を切りぬけるという習慣がなかった。イギリス軍に随行する女性がフランス軍に比べて多かったのは、この理由による。イギリス兵には肉とラム酒が十分に供給されていた。しかし、イギリス兵の食事は、フランス軍に比べて貧弱だった。
 フランス軍の病院は、清潔さ、快適さ、看護の手厚さで、イギリス軍よりはるかに優れていた。フランス軍の病院には陽気な生命力が感じられた。
 戦場の外科医療システムを世界に先駆けて確立したのはロシア軍だった。手術の緊急性に応じて患者を区分するシステムであるトリアージを始めたのは、ニコライ・ピロゴーフ。
 ピロゴーフは麻酔術を導入し、1日7時間に100件以上の切断手術をこなした。そして、腕の切断手術を受けたロシア兵の生存率は65%にまで向上した。
 クリミア派遣軍には、看護婦が随行していなかった。ナイチンゲールはロンドンの女性のための病院で無給の院長をつとめていた。ナイチンゲールは、優れた管理能力の持ち主だった。ナイチンゲールは、下層階級出身の年若い女性を採用したが、中産階級の善意の女性は採用しなかった。感受性の敏感な中流夫人の「扱いの難しさ」を恐れていたからである。そして、看護の経験をもつカトリックの修道女たちを採用した。
 蒸気船と電信の出現によって、戦争特派員は記事を書いて新聞記事になるまで5日かかっていたのが、ついには、数時間にまで短縮された。人々が最大の関心を寄せたのは、写真と挿絵だった。
インケルマンで敗北してから、ロシア軍の最高指導部は、権威と自信の両方を失くしていた。皇帝ニコライ一世は司令官たちへの信頼を失い、前にもまして意気消沈して陰うつな顔つきになり、戦争に勝利する希望を失ったばかりか、そもそも戦争を始めたこと自体を後悔しはじめていた。
 休戦状態になったとき、イギリス軍とロシア軍の将兵はタバコを分け合い、ラム酒を飲み交わした。気晴らしに射撃ゲームを始める者もあった。
 パリ和平条約によってロシアは領土の一部を失った。しかし、それよりもむしろ重大だったのは国家の威信が失われたことである。クリミア戦争の敗北は、ロシア国内に深刻な影響を残した。軍隊への信頼が揺らぎ、国防を近代化する必要性が痛感された。鉄道の開発、工業化の促進、財政の健全化を求める世論が高まった。
 トルストイも改革を求める人々のひとりだった。そんな人生観と文学観は、クリミア戦争の経験を通じて形成されたトルストイは将校の無能ぶりと腐敗墜落を目撃した。そして、将校は兵士を残忍に虐待していた。一般兵士の勇敢さと粘り強さに心を動かされたトルストイは、農奴出身の兵士たちに親近感をかんじはじめた。
ロシア農民兵士は、ほぼ全員が読み書き能力をもたず、近代的な戦争に適さないことが明らかになった。
 クリミア戦争には、31万人のフランス人が兵士として動員され、そのうち3人に1人が帰らぬ人となった。クリミア戦争に出征したイギリス兵は10万人近く。生きて帰れなかった2万人の80%は傷病死だった。
クリミア戦争は、兵士に対するイギリス国民の見方に大きな変化をもたらした。兵士は国の名誉と権利と自由を守る存在であるという近代的な国民意識の基礎が築かれた。将軍たちの愚かな失態にもかかわらず、一般兵士が英雄として扱われる時代がはじまった。勇敢に戦ってイギリスに勝利をもたらしたのは平凡な兵士であるという伝説はクリミア戦争から始まった。
 貴族階級出身の戦争指導部が犯した過誤は、中流階級が自信を強める契機にもなった。中流階級が新たに獲得した自信をもっともよく体現していたのはナイチンゲールだった。クリミア戦争は、イギリスの国民性に大きな影響を与えた。クリミア戦争についての上下2冊の大部な本ですが、無謀にも戦争を始めてしまった皇帝と将軍たちの戦争遂行上の愚かな過ちの下で悲惨な目にあう兵士たちの苦難がよく紹介されています。教訓としてひき出すべきものも大きいと思いました。ご一読をおすすめしたい本です。
(2015年6月刊。3600円+税)

朝鮮と日本に生きる

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者  金 時鐘 、 出版  岩波新書
 著者は、少年時代を済州島で過ごしました。
 若者の父は、謎めいた人物だった。築港工事の現場で働いていたにしては、相当の物知りだった。朝日や毎日という日本語の日刊新聞も読んでいたし、日本語の本が家にたくさんあった。トルストイ全集まであった。
 しかし、父親は著者に対して家のなかで日本語を話すことはなかったというのです。
 著者は、このトルストイ全集を小学(国民学校)6年生のころから読みはじめました。トルストイの『復活』を読んだというのです。すごいですよね・・・。
 日本軍が敗れ、済州島が解放されると、徴兵徴用で徴発されていた3万人の若者をふくめて6万人もの済州島出身者が島に帰還してきた。島の人口は29万人にふくれあがった。
 日本の敗戦直前の大阪市には、32万人もの在日朝鮮人がいた。そのうちの6割強が済州島出身者だった。
四・三事件の前後、済州人は「済州の輩」という悪し様に呼び捨てされるほど、嫌われた。
 「謀利輩」(もりべ)と済州島民は本土の人たちから、さげすんで呼ばれた。もうけのためには、なりふりかまわない輩(やから)たちという意味のコトバ。
 これは、日本から帰国してきた済州島民の一部が思いあまって始めた密貿易に由来する。済州島の人民委員会は本土の組織が滅亡したあとも健在だった。それだけに、本土からみると、済州島は「赤(パルゲンイ)の島」に見えていた。
 1945年、解放された韓国では、筋金入りの右翼反共主義者・趙炳玉がアメリカ軍政によって重用された。国防警備隊は趙炳玉の配下にあり、趙は6.25事案のときに内務部長官をつとめた。趙炳玉は、アメリカの「マッカーシズム」が青ざめるほどの共産主義撲滅推進者だった。趙炳玉にとって、アメリカ軍政に同調しない者は、すべて「アカ」であり、撲滅しなければならない赤色分子だった。
 著者は、1946年暮れ、18歳のとき、南労党に入党した。朴憲永指導部は南労党に改編してまもなく、指導部の拠点を北朝鮮に移した。南労党に入った著者は予備党員として、レポ(連絡員)の仕事についた。レポ要員に決まると、党事務所への出入りが禁止された。非合法活動に入ったのです。
 南労党は済州島内に3000人からの党員をかかえた。そして、その指導する青年組織である「民愛青」は、四・三武装蜂起時の核心勢力となった。
 四・三事件のあと、民愛青の同盟員は、それだけで討伐隊に惨殺された。しかし、四・三事件の前には、同知事が祝辞を述べ、警察署の主任が結成時に臨席して祝うという関係にあった。
 1948年に起きた四・三事件の直前の3.1島民大会には島民の1割をこえる3万人もの大群衆が大会に結集した。3.1島民大会のとき警察が発砲して死傷者が出た。これに対する抗議行動は、ゼネストに広がり、官吏の75%がストライキに参加した。
 4月から5月10日ころまでは、「山部隊」(蜂起側)が抗争の主導権を握っていた。しかし、その後、アメリカ軍に支援された韓国政府は焦土作戦をとり、山部隊を根こそぎ殺戮していった。
そのさなかに著者は済州島を脱出して、日本へ渡るのでした。まさしく間一髪の危機の下の脱出です。四・三事件当事者の一人としての貴重な体験記です。
(2015年2月刊。860円+税)
 8月26日、東京の日弁連会館で法曹と学者の合同記者会見があり、その他大勢の一人として参加しました。前列に最高裁元判事、内閣法制局の元長官、学術会議の前会長、長谷川、石川といった名だたる憲法学者などが座り、一人ひとり自分の言葉で安保法案は憲法違反だと明確に断言します。いわば政府側にいた人たちが、口をそろえて安保法案は違法だと言っていることの意味はとても重いと思います。私は、歴史的な一瞬を目撃している気分でした。
 この共同会見を取材している報道陣は50人ほどもいたと思います。言論、表現の自由も危ないのだから、マスコミ陣も「中立」とかではなく、廃案めざしてともにがんばりましょうという力強い呼びかけが学者からなされたのが強く印象に残りました。
            

海軍の日中戦争

カテゴリー:日本史

(霧山昴)
著者  笠原 十九司 、 出版  平凡社
 目からウロコが落ちる、とはよく言われますが、まさしくこの本のことです。私も、すっかり騙されていたのですね。しかも、大山事件という謀略事件のあったことを初めて知りました。満州某重大事件というのは、張作霖爆殺事件でしたが、こちらは、帝国海軍が大山中尉にオトリになって死んで来いと命令していたというのです。
 そして、戦後、帝国海軍は、陸軍が悪かったのだ、海軍は戦争に反対していた、善玉だという事実に反するキャンペーンを展開して、それに成功したのでした。私も、それに騙されていたというわけです。安倍政権と防衛省幹部の危険性がますます明らかになりつつありますが、軍部独走を許したら、とんでもないことになることが、よく分かる本です。400頁、2500円という大作ではありますが、私はぜひ一人でも多くの人に読んでほしいと思いました。
陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。
 戦後、海軍は陸軍の東條英機に次いで開戦責任のあった海軍の嶋田繁太郎の死刑判決を免れるために口裏あわせの工作をした。
 東京裁判にあわせて、海軍は陸軍に引きずられて太平洋戦争に突入したのであり、海軍は本来、「平和的、開明的、国際的」であったという「海軍、善玉論イメージ」を意図的に流布した。そして、マッカーサーと会い、天皇の免責とあわせて海軍の免責をも勝ちとった。
 マッカーサーも、古領政策を容易にするため、陸軍の東條らに全責任を負わせることにし、ここに「談合」が成立した。
 うむむっ、なに、なに、そういうことだったのか・・・。まったく欺されていました。恐るべき海軍の知能犯。
帝国海軍は、国の命運や国家利益、さらには国防よりも海軍という組織の利益を優先させる、強いセクショナリズム集団だった。
 国防という本来の任務から乖離し、組織を肥大化させることを自己目的にした。海軍あって国家なしだった。
 海軍の首脳部は、陸軍に対抗して、いかに多くの海軍の軍事費を獲得し、軍備を拡張するか、海軍組織のことばかりを考えていて、国家の存亡や国民の命は二の次に考える組織だった。戦争は軍がやるものだ。軍にまかせておけ。軍のことには干渉するな。
  開戦前の昭和16年11月5日、海軍は、次のような命令を発した。
「帝国は自存自衛のため、12月上旬、米・英・蘭に対し開戦を予期し、諸般の作戦準備を完整するに決す」
客観的には明らかな侵略戦争を始めるときでも、このように「自存自衛」だというのですよね。安倍政権による集団的「自衛」権の行使のための戦争立法案と同じ論理です。
 ところで、開戦前の和平工作にあたっていたはずの広田弘毅外務大臣について、部下である外務省の局長が次のように評しているのを知りました。広田弘毅は戦犯として処刑されましたが、福岡県弁護士会の3階にその書が掲げてあったため、故諌山博弁護士が問題にしました。
 「広田外務大臣が、これほど都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった。非常時日本に、彼のごとき外務大臣をいただいたのは日本の不幸であるとつくづく思う」(7月17日)
 「広田外相は時局に対する定見も政策もなく、まったくその日暮らし、いくら策を説いても、それが自分の責任になりそうだと逃げをはる。頭がよくて、ずるく立ちまわること以外にメリットを見いだしえない。それが国土型に見られているのは不思議だ」(8月18日)
 「ご都合主義、無定見」というのは、いまの安倍首相そのものですね。このような首相をいただいたのは、日本の不幸だとつくづく思います。
 大山事件というのは、1937年7月7日の廬溝橋事件の直後におきた大山勇夫中尉が8月9日夜に中国軍の飛行場付近で射殺された事件のことです。これによって海軍は和平工作を破綻させて第二次上海事変に突入し、日中戦争が全面化していったのでした。
大山中尉は、大川内伝七・上海海軍特別陸戦隊司令官から、口頭で「お国のために死んでくれ」と命令され、現地に赴いたことが証明されています。
 「名誉の殉職を遂げ」た大山中尉は、すぐに大尉となり、正七位に叙せられ、遺族にはそれなりの補償金が支給されています。
 それにしても、軍隊とは、むごいことをするものですね。26歳の独身男性に対して、侵略戦争の口実をつくるために死んでこいと命令するのです。これが軍隊なんですね。
 本当に恐ろしいところです。
 軍隊では、威勢のいいのが幅を利かす。国家の前途を憂えるとか、軍縮とか、そういうことを考え、口に出すような軍人は軍中枢から次々にはじき出されていった。
開戦前、海軍が「アメリカとは戦えない」と言ったらどうなったか。海軍は今まで、軍備拡張のためにずい分な予算をつかってきたじゃないか。それでいながらアメリカと戦えないと言うんだったら、海軍の予算を削って、陸軍によこせと言われてしまう。だから、陸軍からそんなことを言われないように、負けるとか、戦えないとか、一切言わないようにした。
 海軍は「対米航空決戦」に備えることを口実として膨大な予算を獲得し、航空部隊の軍備を拡充し、兵員の大増員をはかり、日中戦争を利用して、十分な戦闘訓練を重ねてきた。それでいながら、「今さらアメリカと戦争できないとは何事だ」という陸軍の批判・攻撃をかわすために戦争をはじめた。陸軍に非難され、けなされた海軍の面子を保つために日米戦争を始めたわけである。「身内の論理」そのものと言ってよい。
 そこでは日本という国の運命よりも、陸軍と海軍というセクショナリズムの対立と張りあいの果ての対米戦争突入なのである。
 悲惨な結果をもたらす戦争というものが、このような馬鹿馬鹿しい「論法」の下で始まることに呆れ、かつ怒りを覚えます。自民・公明の安倍政権の戦争立法の成立を許してはなりません。
 まさしくタイムリーな出版です。ぜひ、あなたも早めにお読みください。
(2015年6月刊。2500円+税)
 ことしの夏はどこにも行かず、安保法案の廃案を目ざす取り組みに汗を流しました。日本の行く末を誤らせないため、引き続きがんばります。
 この夏の楽しみは孫に遊んでもらったことでした。来たときには生後4ヵ月で、寝返りもちゃんとできなかったのに、1ヵ月ではいずりまわるまでになりました。
 赤ちゃんの顔の百面相は見飽きることがありません。目線があってニッコリしてくれるのも可愛いいし、甘え顔もすぐ分かります。そして、激しく泣いて自己主張するときは強烈です。まさに全存在をかけて叫びます。
 赤ちゃんは早寝早起きですから、私も朝6時には起きて、一緒に遊んでいました。
 1ヵ月間、わが家にいて赤ちゃん中心の生活でしたが、その顔を思い出すだけでも、自然に笑みがこぼれ出します。小さな赤ちゃんの威力は絶大なものがありますね、、、。

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