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2015年9月 の投稿

エンタテイメントの作り方

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  貴志 祐介 、 出版  カドカワ
  小説の本質は妄想である。
  この言葉を読んで、のっけから、私はとても小説家になれそうにはないと腰が引けてしまいました。いえ、私が妄想しないというのではありません。しかし、すぐに現実論が妄想を追い払ってしまうのです。
  いかに詳細に説得力をもって妄想できるかが、勝負の分かれ目なのだ。そして、どこまでオリジナリティのある、つまり異様な妄想を紡(つむ)げるのかが重要なのである。
  うひゃあ、ここまで言われたら、モノカキ思考の私としても新たな壁に挑戦せざるをえません。難しいですが、がんばります。
小説のアイデアというものは、じっと待っていれば天啓のように降ってくるものではない。アイデアの種を拾い上げるためには、こまめにメモを取ること。アイデアらしきものが脳裏をよぎったら、すかさずメモして、ストックしておく。常にメモを携帯することは欠かせない。
  アイデアメモが、着想を掌中に引き込むための第一の役割を果たす。
 アイデアは、一瞬のひらめきのことが多い。浮かんだら、そのつどメモしてつなぎとめておくことが重要。忘却とのたたかいだ。そして、なるべく早くアイデアノートに整理する。面倒くさがらすにこまめにメモを取り、それをアイデアノートに昇格させていくことを習慣化する。
  実は、私も長年これを実践しています。トイレの中にこそメモ用紙は置いていませんが、寝室のそばに、また車中にメモ用紙と太ペンを常時おいています。寝ているときに浮かんだアイデアは、起き上がって明かりをつけてメモします。車中では、交差点で停まったときに素早くメモしています。いいアイデアが生まれたと思ったとき、かえってスムースに車が流れてメモができず、そのうち忘れることがあります。そうならないため、走行中でも、脇見運転にならないように注意しつつ、太ペンでメモに殴り書きします。このときのメモ用紙はカレンダーの裏紙を使います。ちょうどよい固さなのです。
想像力を膨らませる思考訓練をする。日常生活によくあるフツーの出来事を「ひとひねり」してみるのだ。アイデアには、熟成期間が必要だ。
想像力をめぐらせて、現実にはありえない世界をつくり出していく。これこそが小説の大きな醍醐味と言える。
 ジャンルやメディアを問わず、多くの作品(前例)に触れておくことは、クリエイティブを志す人間にとって大切なこと。いつか必ず血となり、肉となる。
 私が書評として、こうやって毎日一冊の本を紹介しているのも、いつかきっと私の小説(ベストセラーを目ざしています)の血となり肉となる、こう信じてのことなのです。
 すべての判断基準は、面白いかどうか、なのである。
これまでの私には、この観点がまったく欠けていました。自分として訴えたいこと、そればかりが先行していて、読み手の身になっていなかったのです。それで、いま挑戦中の小説には「面白味」を最大限もり込みたいのですが、日々の生活が面白味に欠けると、それもまた困難です。
 実在の舞台をつかうときには、できるだけ現地をつぶさに、足で歩くように心がける。すると現場にしか存在しない、無形の情報が価値を持ってくる。取材はディテールを深めるために有効な手段だが、知ったことをすべて使わないのも鉄則だ。
 キャラクターの名前は、意外に重要だ。主人公には、現実離れしない程度に「華」のある名前をつけたい。
 私も、小説の登場人物のネーミングには、それなりに気を使っています。
主人公は、読み手がごく自然にその心中を想像できる人物でなければならない。読者の感情移入を促すためには、読者に近い立場のキャラクター設定するのが有効。
 一行目の書き出しがスムースに口火をきれるかどうかは、自分自身がどれだけその世界に入り込めているかにかかっている。
 文章における読みやすさとは、万人にとってストレスなく読み進められるものであることが第一条件である。
 文章におけるスピードとは、各スピードではなく、あくまでも読むスピードだ。
 やたら漢字を使いすぎると、読む人に過度のストレスを感じさせてしまう。
モノカキをモットーとしている私にとっては頂門の一針という点が多々ありましたが、小説家を目ざす人にとって必読文献だと思った本です。
(2015年8月刊。1400円+税)

ある反戦ベトナム帰還兵の回想

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 W.D.エアハート   出版 刀水書房
 
私と同世代(団塊世代)のアメリカ人の相当部分はベトナムの戦場へ送られ、死んだり負傷したり、また心に深い傷を負って帰国しました。
著者もその一人です。なんとか生きて帰り、大学に入ったのですが、あまりに過酷な戦場体験がときとして暴発してしまい、恋人から逃げられるのです。
詩人でもある著者による、小説のような体験記です。
電車の行き帰りと裁判の待ち時間をつかって、一日で一気に読了しました。ずしんと重たい読後感のある本です。
アメリカ兵が長くいればいるほど、ベトコン(ベトナム人のアカ)が増える。年々、ベトコンは強くなる。アメリカ軍のおかげだ。アメリカ人は、戦車やジェット機、ヘリやらを、その傲慢さと一緒に持ち込んでくる。そのおかげでベトコンは、まるで田んぼに新しく米が育つように成長していく。
オハイオ州兵がケント州立大学の学生6人に発砲した。それで4人が死んだ。
地球の反対側にアメリカの青年を送り込んで死なせるだけでは終わらなかった。アジア人と戦わせるだけではすまなかった。今度はアメリカの兵隊たちを、アメリカの子どもたちにまで向けてきたのだ。そのとき、オレは悟った。今こそ、長くかかったが、言い訳やプライド、むなしい幻想を捨て去るべきときだ。
3年近くものあいだ避けてきた、厳しい、冷酷な、このうえない苦い真実を直視すべきときだ。この戦争(ベトナム戦争)は、恐ろしいほどに間違っている。オレの愛する国は、そのために死にかけているのだ。オレは自分の国に死んでほしくはなかった。
オレは何かをしなければならなかった。戦争を今こそ止めるべきだ。そして、オレがそれをすべきなのだ。
ダニエル・エルズバーグによって「国防総省白書」(ペンタゴン・ペーパーズ)が暴露され、著者もそれを読んだ。
間違い?ベトナムが間違いだって?冗談じゃない。調子のいい二枚舌の権力者たちが、力ずくでこの世界を造り替えるための、計算ずくの企みだったのだ。アメリカの支配者層は邪魔なものは何であろうと破壊してもいいとする道徳心をもった偽善的犯罪者集団なのだ。三つ揃いと、いくつもの星のついた軍服の冷血な殺人者の嘘つきどもだ。彼らは、毎年毎年、善良な家庭の子どもたちを、コメづくり農家と漁師の国(ベトナム)を相手として戦わせるために送り込んだ。 
その間、自分たち自身は、上等な真白い陶器の皿で、うまいものを食っていたんだ。農民も漁民も、外国人(アメリカ人)から自分たちの国を解放しようとしていただけだった。生きるために穀物を育て、魚を獲ることだけを願っていたのだ。ベトナムに行く前に、そのことを知ってさえいたら、、、。
オレはバカだった。無知で、お人好しだった。ペテン師、そんな奴らのために、オレは殺人者になってしまった。そんな奴らのために、おのれの名誉、自尊心、人間性まで失ってしまった。
そんな奴らのために、オレは自分の生命まで投げ出そうとしていたのだ。
奴らにとって、オレはほんの借り物の銃、殺し屋、手下、使い捨ての道具、数のうちにも入らない屑でしかなかった。真実がこれほど醜悪だとは想像さえできなかった。
ベトナムなんて氷山の一角でしかなかった。アメリカは、自由、正義、民主主義と言ってはきたものの、誰にも何もしてこなかった。アメリカが望んだのは、こちらの望みどおりの条件でビジネスを展開する自由だった。つかみとれるだけの大きなパイの分け前だった。それは、共産主義も社会主義も、それ以外のどんな主義とも関係ない。
戦友たちが次々に死に、傷ついていくなかで、生きて帰ったものの、深く心に傷ついていた著者がベトナム反戦運動に参加するに至る過程は、実に痛々しいものがあります。
いま、日本はアメリカの言いなりになって自衛隊を海外の戦場に送り出そうとしています。それこそ、日本の政財界のためです。金もうけのためです。日本を守るためという名の下で、汚い金もうけを企んでいるのです。
アベ首相のすすめている戦争法の危険な本質をよく理解できる本でもあります。
(2015年5月刊。3500円+税)
 

骨が語る日本人の歴史

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 片山 一道   出版 ちくま新書
 
日本人とは何者なのか。アイヌ民族と同じように、琉球民族というものが存在するのか、、、。
骨考古学の知見から日本人を解明した、画期的な新書です。
現代日本人は、身体特徴に限ってみても、日本人の歴史のなかでは突飛すぎる存在である。背が異常に高く、顔が小さく、顎(あご)が細く、脚が長く、足が大きい。これは、日本列島の人々の歴史においてはすばらしいのだが、それも、ここ70年ばかりの現象でしかない。
では、江戸時代の日本人は、どんな身体をしていたのか、、、。男性の身長は166~149センチ。女性は152~136センチ。江戸時代の日本人の背丈の低さは記録的だった。
大顔で、大頭、長頭、寸詰まりの丸顔の人が多かった。
江戸時代の人々は、鉛汚染による健康被害に悩んでいた。鉛白粉(おしろい)によるもの。そして、虫歯が多く、梅毒も流行していた。
乳児の死亡率は14%と高いけれど、55歳にまで達していたら、70歳までの寿命があった。
明石原人、高森原人、葛生原人、牛川人。いずれも、今では虚像とされている。
沖縄本島で発見された港川人は、琉球諸島に限定された人々と考えられている。
日本列島に住んでいた縄文人の起源を東南アジア方面に限定する説は、もはや了解事項ではない。
縄文人は、骨格が全体に骨太で、頑丈である。頭骨は、さながら鬼瓦の風情である。
縄文人は、短軀、下半身型でがっしりとした体型、大顔で大頭のユニークな顔立ち。豆タンク型だ。縄文人は、鼻と顎が特徴的。平均身長は、男性158センチ、女性147センチ。
日本人の歴史における平均身長は、男性で160センチ内外だった。縄文人の歯には、抜歯と研歯の風習があった。
縄文時代は1万年と長い。それに比して、弥生時代は700年ほどと短い。
弥生時代よりも、次の古墳時代のほうが、多く存在したのかもしれない。
日本人の歴史では、古墳時代のころまでは「中頭型」だった。鎌倉時代から江戸時代にかけて「長頭型」が多くなる。そして、明治以降、だんだん短頭化し、戦後は、「過短頭型」の人が大半を占めるようになっている。
日本列島に、北から西から少数の人々が流れて来た。それらの人間が長い時間をかけて風土マッチしながら、練金術師がブレンド・ウィスキーを溶けあわせるように混合融合し、独特の身体特徴をした縄文人が生まれていった。
弥生時代には、朝鮮半島を平穏な海路が開けていた。だから、多くの人々が行き来していた。いつも渡来人はいたし、中世の倭寇のころまで、渡来人はいただろう。
縄文人が雲散霧消して、弥生時代の渡来人に総入れ替えしたというものではない。
琉球諸島に住む人々は、文化基盤は違うものの、身体特徴は本州域の日本人と大差ない。言語は、日本語の流れにある。アイヌとは、事情を異にしている。
日本人を骨考古学の立場から、じっくり観察していますので、納得できる内容になっています。
(2015年7月刊。820円+税)
 

遊廓のストライキ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  山家 悠平   出版 共和国
 
戦前、女性を縛りつけていた遊廓でストライキが頻発していただなんて、驚きます。
第一の波(ピーク)は、1926年5月から10月までの半年間。このとき、広島、大阪、下関、品川などで娼妓たちの集団逃走と自由廃業要求が続いた。第二のピークは、1931年2月から2年間も続いた。全国9ケ所の遊廓でストライキが起こったが、うち半数が九州だった。佐賀武雄、小倉旭町、門司馬場、佐世保勝富、大牟田新地町。
1930年(昭和5年)、遊廓が全国に542、娼妓が5万2千人、芸妓8万人が働いていた。当時、日本には公娼制度があった。公娼制度とは、政府公認の管理売春制度である。
女性たちは、所轄の警察署に娼妓として登録し、鑑札を受けることで売春営業が許可された。鑑札料として、「賦金」と呼ばれる特別の税金を月々納める義務を負っていた。
遊廓の女性は、奉公契約をむすんだ奉公人であり、多額の前渡金に拘束されていた。奉公契約の形はとっていても、鞍替え(実質的な転売)の権利は抱主にあり、実際には人身売買だった。
娼妓たちは、貸座敷免許地内に居住しなくてはならず、警察署の許可がなければ、免許地の外に出ることも出来なかった。
女性たちには強制的な性病検査を義務づけられた。この目的は女性の保健・治療ではなく、兵士の保護にあった。
女性が前借金を返すためには、1日平均して3人の客をとる、年間1000人近い客をとらなければいけない。これが6年のあいだ続く。多いときには一晩で10人以上の客を相手にすることも珍しくはなかった。
6年で遊廓のなかの女性はだいたい入れ替わっていた。
娼妓の9割が10代後半から20代の女性で、30代後半になると遊廓を離れていた。
戦前、全国各地にあった遊廓の実情を調べた本です。大正期の労働運動の高揚期にあわせて遊廓でもストライキなどがあっていたとはまったく知らず、呆然としてしまいました。
(2015年5月刊)

豊臣大坂城

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  笠谷 和比古・黒田 慶一 、 出版  新潮選書
 大坂城と豊臣秀吉・秀頼について、最新の学説が展開されている面白い本です。
 城内の対面所は、表御殿のなかで最大かつ最高級の殿舎だった。なぜなら、対面は近世封建制度上、大名たちの地位と格式を現出させる、もっとも重要な儀式であったから。
 豊臣大坂城は、増大な惣構え掘を有していた。これに対して徳川大坂城は外郭の防御施設をもたない裸城同然の城である。基本的に、外郭の防御施設をまったくもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
 朝鮮の役の当時、秀吉軍の火縄銃の精確さに恐れをなした朝鮮正規軍は逃散した。しかし、火砲については、明(中国)・朝鮮側に一日の長があった。朝鮮の火砲は基本的に大型だった。ただし、これは主として艦載砲だった。
 関ヶ原の戦いなどで用いられた大砲は、朝鮮の役のときの歯獲品だろう。
 日本軍の大砲は「石火矢」の名前の通り、大石を砲弾として、火薬の爆発で飛ばす「射石砲」だった。
 関ヶ原合戦の果実をもっとも享受したのは、実は徳川ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将だった。石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)ら88の大名が改易され、その領地416万石が没収された。領地削減された大名分をあわせると、632万石にのぼる。これは全国の総石高1800万石の3分の1をこえる。そして、この没収高の80%、520万石が豊臣系大名に加増された。
 徳川と家康は日本全土の3分の1の領地しか有しておらず、豊臣系大名が3分の1を占めるなど、3分の2は外様大名であるので、その支配は容易ではなかった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂を本質としていた。
 関ヶ原合戦の勝利への貢献度にしたがって、恩賞として領地が配分されたのであって、これは家康の深謀遠慮でも何でもない。そして、全国規模での領地再分配に際して領地宛行の判物・朱印状の類は一切発給されていない。
 これって、明らかにおかしい、いわば異常事態ですよね・・・。
 関ヶ原合戦における家康方東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしたのではなく、合戦後における家康の立場は、依然として豊臣公儀体制の下における大老としての地位を抜け出るものではなかった。すなわち、家康は、幼君秀頼の補佐者、政務代行者にとどまっていた。
 西国は、そのほとんどが豊臣系国持大名の領地によって占められている。
 西国支配は、もっぱら豊臣系譜の大名によって構成される特別領域として扱われた。
 この地域の支配に関する第一義的責任は大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康と徳川幕府は、それを通じて間接的にこの領地に対する支配を及ぼそうと構想していた。
秀頼は、秀吉の嫡子であること、それによって秀頼が成人した暁には、武士領主の上に君臨して政権を主宰するべき存在であると考えられていた。
 当時の人々は、秀頼がいずれ関白に任官するであろうということを、当然のこととして受けとめていた。秀吉が構築した豊臣公儀体制は関ヶ原合戦のあとも、解消されることなく持続していた。したがって、秀頼が一大名に転落したという理解は誤りなのである。秀頼は、いずれ成人したら公儀の主催者の地位につくであろうことも、人々の通念として遍在していた。
 家康にとって、関ヶ原合戦の勝利は自前の徳川軍事力によってではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に依存してのことだった。それもあって、関ヶ原合戦も、「太閣様御置目の如く」と表現されたように、秀吉の構築した豊臣公儀体制は持続していた。
 家康は、この豊臣公儀体制を解体したり、乗っとたりはせず、そこから離脱した。
 家康は、その体制から抜け出して征夷大将軍に任官することによって、自らを頂点とする独自の政治体制、すなわち徳川公儀体制を構築したのだった。
 こうして豊臣系譜の諸大名は、豊臣秀頼に対する忠誠を維持したままで、かつ徳川家康の指揮・命令に服することになった。
 朝廷から年賀慶賀の勅使は慶長8年以後も毎年、大阪の秀頼の下に派遣されていた。
 豊臣の家臣は、徳川家を慕って臣従しているわけではない。家康がいなくなったあと、秀忠につき従わなければならないという義理はどこにもないのである。
 慶長14年を境として、家康はこの併存体制から抜け出そうとした。「国家安康」の字は、意図的なものであった。それを口実として家康は動き出した。
 大変面白く、知的刺激にみちみちた本でした。
(2015年4月刊。1400円+税)

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