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2015年8月 の投稿

クリミア戦争(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  オーランドー・ファイジズ 、 出版  白水社
 1854年にはじまったクリミア戦争についての詳細な研究書です。
 第一次世界大戦前の時代に生きていた人々にとってはクリミア戦争は19世紀の一大事件だった。損失は膨大だった。少なくとも75万人の兵士が戦死傷者となった。
 ロシア軍は50万人の兵士が亡くなり、フランス軍も10万人の兵士が死んだ。イギリス軍の死者は、2万人だけ。
クリミア戦争は兵代戦の最初の例だった。新型のライフル銃、蒸気船、鉄道、近代的な兵站、電報、革新的な軍事医学など動員された総力戦だった。同時に、クリミア戦争は、古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争でもあった。戦闘の最中に敵味方の話し合いがもたれ、戦場から負傷者と死体を収容するための一時的休戦が頻繁に実現した。
 このクリミア戦争には、ロシアの文豪トルストイが青年士官として従軍している。
 ロシアの正教会の支配するロシアにとって、パレスチナの聖地は、熱烈な宗教的情熱の対象だった。ロシア人とは、すなわちロシア正教の信者だった。
 ロシア帝国は、当時の列強諸国のなかで、もっとも宗教性の強い国家だった。ロシア帝国ツァーリの支配体制は、臣民の信仰を束ねるという形で組織されていた。
 ロシア帝国は、国境問題であれ、外交関係であれ、ほぼすべての問題を宗教のフィルターを通じて解釈する宗教国家だった。
 当時29歳のニコライ一世は、「軍人タイプ」の人物だった。身近なサークルのなかでは礼儀正しく、魅力的な人物だったが、外部の人間に対しては冷淡で峻厳であり、短気で怒りっぽい性格、無分別な行為に走り、怒りから我を失う場面多くなっていった。
 ニコライ一世は、常に暗殺される危険にさらされていた。
 ロシア帝国の軍隊にとって、膨大な損耗率は、決して異常な事態ではなかった。農奴出身の兵士たちの健康や福祉がかえりみられることはなかった。
 ロシア軍は基本的に農民の軍隊だった。兵士の圧倒的多数は農奴が国有地農民の出身だった。ロシア軍は、その規模からいえば、群を抜いて世界最大だった。100万の歩兵、25万の不正規兵(主としてコサック騎兵)を擁している。加えて、75万の予備兵力がある。
 しかし、ロシア軍隊は、他のヨーロッパ諸国に比べて大きく立ち遅れていた。兵士はそのほぼ全員が読み書きの能力をもっていない。貴族出身の士官たちは、わずかな手柄を立てるために膨大な数の兵士の命を惜し気もなく、犠牲にした。
 これに対するトルコ軍は、さまざまな民族からなる混成部隊だった。アラブ人、クルド人、他タール人、エジプト人、アルバニア人、ギリシア人、アルメニア人など、多数の民族が参加していた。
 オスマン帝国の典型的な軍人は、軍事的能力よりも、スルタンの個人的寵遇によって昇進は決まっていた。トルコ軍の指揮官のほとんどは、戦場で役に立つ実践的な指揮能力を備えていなかった。兵士の給与を比較すると、イギリス134ルーブル、フランス85ルーブル、プロイセン18ルーブル、オーストリア兵は53ルーブル、ロシア兵は32ルーブル、プロセインは60ルーブル、フランスは85ルーブル、プロセインは60ルーブルだった。
イギリスのパーマストンは、単純な言葉で大衆に訴えかける必要があり、そのために新聞を活用することを心がけた。
 パーマストンに反対して戦争への流れを押しとどめようとする者は、誰であれ、愛国主義的なジャーナリズムによって袋叩きにあうような社会的雰囲気だった。
 新聞は、販売部数を伸ばすために、戦争へあおりたてた。
まるで、いまの安倍内閣と一部のマスコミの情けない姿そのものですよね。
 クリミア戦争について、イギリスとフランス連合は、それほど目的は明確ではなかった。多くの戦争がそうであったように、今回の東方遠征も、わけが分からないうちに始まってしまった。
 なんとなく戦争ムードがかき立てられ、止められないうちに戦争に至ってしまうのですね。今の日本をみていると、本当に怖いです。
 クリミア戦争の真の目的は英仏両国の利益のためにロシアの領土と影響力を削減することにあると明記されるべきだった。ロシア軍の敗北の最大の原因は兵士が戦意を喪失したことにあった。近代戦において勝敗を分ける決定的な要因は、兵士の士気を維持できるかどうか、だった。
 戦争に至る道筋が解明されている本です。そして、実際に始まった戦争の悲惨な実情も刻明に紹介されています。憲法9条の空文化を目ざす自民・公明のアベ政権は本当に許せません。
(2015年6月刊。3600円+税)

腹いっぱい生きて

カテゴリー:司法

(霧山昴)
出版  角銅立身追悼文集 
 昨年(2014年)6月に亡くなられた角銅立身弁護士をしのぶ文集です。
 角銅弁護士は昭和4年生まれ。敗戦の年の4月、秋田鉱山専門学校採鉱科に入学し、戦後に卒業したあと、古河鉱業に入り、幹部職員へのコースを歩んでいたとき、労働争議に直面します。そのとき、諌山博弁護士が争議団への現地支援に入ってきた姿に感動し、一念発起して司法試験を目ざすのです。
 すごいことですよね。ストライキで会社側職制が労働者側の弁護士の活躍ぶりに接して、自分もそちらの側に移ろうと思って会社を辞めて司法試験を目ざしたというのですから・・・。
 昭和34年に会社を辞職して3年後の昭和37年9月に司法試験に合格。翌38年に司法研修所に入りました(17期)。司法研究所では青法協の議長もつとめ、昭和40年に憧れの諌山博弁護士の事務所(福岡第一法律事務所)に入所します。
 そして、3年後の昭和43年に田川へ移り、飯塚部会に所属します。福岡県弁護士会では、飯塚部会長兼副会長を10年間つとめています。
 社会福祉法人の理事長もつとめるなど、幅広く活動してきました。
 角銅弁護士の旅行好きは有名です。この追悼文集のなかにも、横井久美子(歌手)の「世界ツアー」にリーダー的存在として参加していたことが感動的なエピソードとともに語られています。ベトナム、アイルランド、ポーランド、チリ、ベネズエラ、アメリカ、南アフリカなど、本当に世界各国をまわっています。中村博則弁護士は、このほかキューバ旅行をともにしたこと、日本国内も北海道から沖縄まで旅した思い出が紹介されています。
 前進座の俳優である嵐圭史が葬儀当日、前触れなく参列して、弔辞を読んだという話には感嘆するばかりです。角銅弁護士の度量の深さを如実に物語っています。
タイトルの「腹いっぱい生きて」は、角銅弁護士の口癖であった、「すごいですねぇ」「ゆたかだよねぇ」「ユニークだよねぇ」「イエスバットなんだよ」「やあ」などから、長女のしおり氏(医師)の発案だとのことです。
 角銅弁護士の豊かな人生を偲ぶ心温まる文集になっています。
 角銅先生、どうか安らかにお眠りください。
 と書きましたが、アベ政治はひどいねえ、という角銅弁護士の地声が聞こえてきそうです。そうです。生かされている私たちも、元気にがんばっているとお答えします。
(2015年7月刊。非売品)

心地いい里山暮らし

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  今森 光彦 、 出版  世界文化社
 うらやましい里山生活の日々を写真で紹介している楽しい本です。
 著者は高名な写真家です。生物や自然をたくさん撮ってきました。そして、ペーパーカット作家でもあり、この本にも見事な作品が紹介されています。
 琵琶湖の西岸、大津市の郊外に居を構えたのです。近くには棚田があります。アトリエをつくり、雑木林があり、ガーデニングエリアをもうけました。近くには水田環境もあります。四季折々の花や蝶そして小鳥たちの素敵な写真が紹介されています。私も花の名前を前よりは知っていますが、著者は知識は数段上回ります。
アトリエの庭先にテーブルを出して休憩中の著者の写真が紹介されています。緑ふかいなかで、時間がゆったり流れていくのです。うらやましいほど、ぜいたくなひとときです。
 ガーデニングをも、私とは違って、明確な目的があります。たとえば、チョウの集まる庭づくりです。
幼虫のエサになる食草も、チョウによって異なる。そして成虫となったチョウの好む花も異なっている。アゲハチョウは、ミカン類が好き。カラタチに目がない。エノキは、オオムラサキ、ゴマダラチョウ、ヒオドシチョウに欠かせない。
 そして土づくりにも精を出します。これは私も及ばずながら努力しています。我が家の庭も、黒づんで、ふかふかしています。おかげで、ミミズも大盛況。そして、モグラが生活しています。
著者が私と違うもののひとつが料理です。いかにも美味しそうな料理に挑戦します。もちろん、地元産の食材をつかうのです。
 里山生活には、いろんな不便も実際にはあると思うのですが、こんな素晴らしい四季折々の風景写真を眺めると、里山生活を誰だって堪能したくなりますよね・・・。といっても、私自身も自然のすぐ近くで生活する楽しみを、日々、実感しています。
(2015年4月刊。2000円+税)

若冲

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山 昴)
著者  澤田 瞳子 、 出版  文芸春秋
 京都の錦高青物市場に店を構える老舗の「枡源」の四代目の店主は、商売そっちのけで絵を描くばかり。稼業は弟たちにまかせっきり。
江戸時代、対象をじっくり観察して描く生写は、画家には必須の素養だった。粉本(ふんぽん)模写を基本とする狩野派ですら、これは同様で、長崎からもたらされた動植物の生写や、将軍の鷹狩や社寺参詣に際しての行列図作成は、御用絵師たる狩野家の重要な任務の一つだった。
 加えて、国内屈指の学問興隆の地である京都では、本草学の隆盛にともない、動植物の詳細な写し絵が多く求められた。それゆえ、京の画家は、生写の腕こそが画技を左右すると見なし、みな懸命研鑚を重ねていた。
 そう、ところ狭しと掛けまされた鮮麗な絵には、一つとして生きる喜びが謳われていない。そこに描かれるのは、いずれ散る運命に花弁を震わせる花々、孤立無援の境遇をひたすらかみしめるばかりの鳥たち。身の毛がよだつほどの孤独と哀れみが、極彩色の画軸から滔々とあふれ出している。
 若冲の絵って、本当に、そんな印象を与えていますよね・・・。
 見る者に鮮烈な印象を与える若冲の絵に秘められた奥深い情念を、あますところなく文章で表現した本でした。圧倒されました。
(2015年6月刊。1600円+税)

織田信長「天下人」の実像

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山 昴)
著者  金子 拓 、 出版  講談社現代新書
 織田信長の実像に迫った新書です。
 信長は、秀吉とちがって、全国統一をかかげて権力をふるおうとしていたとは考えられない。信長の行動基準は、あくまでも天下静謐の維持という点にあった。
 信長においては、官位によって彼の「天下」の外にあって好意的・従属的な関係を結んでいる諸大名までをも統一的に秩序づけようという考え方はまったくもっていなかった。
 しかし、将軍推任を受け、信長は、それまでの天下静謐の維持という大義名分を自己否定するかのように、征服欲をむき出しにしたいくさを中国・四国方面に仕掛けるという最終決断をしたのではないか。
 だから、光秀が、それまで一貫していたはずの天下静謐のための戦いという目的から逸脱しつつある信長の動きを頓挫させようとしたのではないか。となると、天下静謐を根底から揺るがせたのは、光秀ではなく信長だったことになる。
 本能寺の変の直後、朝廷は光秀を天下人とみなして、京都の安全保障を要請する使者を遣わすなど、謀叛人扱いをせず、それなりの対応をしている。基本的に朝廷は、自分たちを保護してくれる人間であれば誰でもよく、武家権力者が誰であるべきだという理念を前提として動くことはなかった。
 信長が印章につかった「天下布武」(てんかふぶ)というのは、将軍を中心とする幾内の秩序が回復することを指す。戦国時代の室町将軍において、維持すべき支配領域とは京都中心の「天下」であった。それは、日本全国を意味していない。
 信長は、天下静謐を維持することを自らの使命とした。信長の勢力拡大は、天下静謐に歯向かう敵と戦った結果として生じた。
 信長は官位に対してみずから選択するほどの知識はなかったし、また執着心もなかった。
 信長は積極的に左大臣任官を希望していない。
 譲位についての天皇の頑張な拒否があり、逆に積極的な譲位推進の思惑もない。信長は、どうにかして左大臣を辞退しようとしたものでもない。任官がないことを承知のうえで、信長は天皇の譲位延期を受けいれたはず・・・。
 信長の実像を明らかにしようという、意欲的な内容にあふれた新書です。
(2014年8月刊。880円+税)

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