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2015年2月 の投稿

ジュゴンの上手なつかまえ方

カテゴリー:生物

著者  市川 光太郎 、 出版  岩波科学ライブラリー
 沖縄の辺野古の海にも棲んでいるジュゴン。そんなところに基地をつくるなんて、とんでもない暴挙です。
 ジュゴンは人魚のモデル。ジュゴンは基本的にゆっくり泳ぐ。そして、ジュゴンは歌う。しかも、小鳥のような可愛らしい声で。
 ジュゴンは、一生を海で過ごす哺乳類のなかでは唯一の草食性動物である。
 ジュゴンは、一日に体重の10%の量の海草を食べる。日本の鳥羽水族館で飼育されているジュゴンは一日に30キロのエサを食べる。
 ジュゴンが食べた海藻がウンチになって出てくるまでに一週間かかる。
 ジュゴンの天敵はサメ。
 ジュゴンは、旧約聖書にも登場する。
 かつてジュゴンは、八重山諸島を中心に広く分布していた。
 沖縄の名護市の海には、オスのジュゴンが一頭だけ生息している。そして、反対側の古宇利島にはメスが一頭の子どもと一緒に生活している。
 ジュゴンは「ピヨピヨ」と鳴くことが多い。
 ジュゴンの鳴き声を10年間ずっと研究しているというのです。学者って、本当に忍耐強くないと出来ませんね。でも、そのおかげで世界のことが分かるのです。感謝、感謝です。
(2014年8月刊。1300円+税)

美しすぎる数学

カテゴリー:社会

著者  桜井進・大橋製作所 、 出版  中公新書ラクレ
 数学の大好きな知人からすすめられて読んだ本です。
 数式を形にあらわしてみたらどうなるのか・・・。こんなに美しい物体になるとは驚きです。
 数学は芸術である。数学は美しい。数学とは物語である。数学とは言葉である。数学とは道具である。世界は数学でできている。数学ほど役に立つ者はない。数学は人類がつくり出した最高の芸術作品である。
 これまでは、黒板や教科書、液晶モニターを通して、離れたところから眺めて想像するしかなかった数学。それが、数楽アートを手に取とり、その重さを感じながら、見事な技術でカッティングされた直線や曲線を指で触ることができる。
 数楽アートという製品は、もともと存在しなかった。数学で用いられる「2変数関数」を、金属加工技術を使って立体グラフ化した。世界で初めてのステンレス製アート・オブジェ。
数楽アートの一番のポイントは、光。表面に光沢を有するステンレス鋼材を格子状に組み上げているため、幾何学構造が織りなす「光のハーモニー」を楽しむことができる。それによって、立体の構造を把握することができる。数楽アートは、3次元の立体を表現している。
 数楽アートは、光沢を有するステンレス鋼材を用いているため、光をよく反射する。
 数楽アートは、その軌跡をNCデータというレーザー加工機を動かすためのプログラムに変換することで再現している。
 光沢のある鋼材の表面に、傷をいっさい付けることなく切断する。そのために開発された専門技術。
五感を研ぎすまし、ときに呼吸を止めながら、全神経を「数式」の一片一片に集中させる。
数楽アートの実際がいくつか紹介されていますが、いずれも、思わず息を吞む形と美しさです。数学は美しいという言葉を素直に受け入れることができます。
 放物線、円錐、半球、それぞれが、きらきら輝くステンレス板からなる物体として目に見え、手でさわることができるのです。
 従業員100人、売上高30億円という規模の中小企業が果たした偉大な成果です。池井戸潤の小説『下町ロケット』の本を、つい思い出してしまいました。
(2014年9月刊。1000円+税)

日本政治とメディア

カテゴリー:社会

著者  逢坂 厳 、 出版  中公新書
 敗戦直後のNHKには、「出獄者に聴く」という番組があった。1945年10月のこと。徳田球一などの共産党の大物をはじめ、敗戦で解放された思想犯、反戦主義者を次々にラジオに主演させた。特高警察の拷問や刑務所内での虐待、そして自らの信念を自由にしゃべらせ、多くの日本人にショックを与えた。
 1945年12月に始まった番組、「真相はかうだ」は、戦時中の日本軍の残虐行為の実態を描き出し、日本人の再教育と非軍国主義化を狙った。このシリーズは、自衛のための戦争だと信じこまされていた日本人に、それが軍部のたくらんだ侵略だったことを、順を追って解説していった。
 今となっては、NHKがそんなことをしていたなんて、信じられませんよね。今や、NHKは、籾井会長以下、安倍政権の御用達放送と化しつつあります・・・。残念ですね。
 1960年の安保報道について、新聞が抑制的だったのは、そもそも安保改定を是認していたからだ。うむむ、そうだったのですか・・・。
 池田勇人は、大蔵大臣当時、「貧乏人は麦を食え」と失言するなど、高圧的で「荒武者」のような人物と思われていた。官僚出の、性格の激しい池田に対して周囲が心配して、池田は側近と議論を重ねたあげく、「寛容と忍耐」、「話し合いの政治」をモットーとし、「低姿勢」が採用された。
 「庶民になりきる」ため、池田勇人はゴルフと料亭への出入りを止めた。荒武者・高姿勢から、ニコニコ・低姿勢にキャラクターを変更したのだ。
 佐藤栄作は、新聞記者を嫌っており、生真面目な性格で、口も堅く近寄り難い雰囲気の佐藤を記者も嫌っていた。
 「テレビ・カメラはどこかね。テレビ、どこにいるかと聞いているんだ。テレビにサービスしようというんだ。新聞記者の諸君とは話しないことにしているんだ」
 「偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接。国民に話したい」
 田中角栄のスキャンダルについて。外国メディアが報道するまでは、日本のマスコミは報道しなかった。それは、新聞やテレビなどが田中となれあい、「身内意識」があったからではないか・・・。
 1976年7月27日午前、東京地検は田中角栄を逮捕した。私は、この日、偶然にも東京の裁判所に行っていて、騒然とした雰囲気を身近に体験しました。
このころ、NHK経営陣には、政治、とりわけ田中派への配慮が目立った。
NHKの会長職は、法律的には経営委員会で任命することになっているが、実質的には首相ないしその意を体した人物が決めるのが慣例になっている。
 竹下登内閣のとき、15代のNHK会長になった島桂次(シマゲジ)は、大平や田中、鈴木善幸について、「心のそこからの友人」と自称し、晩年の池田勇人に宏池会の今後を託され、「派閥の一員として活動するように」なったと自ら語る大平派の派閥記者だった。
自民党と社会党の「野合」からなる村山政権は、「野合」への嫌悪感から、3割という低い支持率からスタートした。理念なき「野合」は政党そのものへの信頼を奪い去った。
 山田洋次監督は、「政治の裏切りは、人間の心の奥底に染み込んでいき、退廃的な気持ちにしていく」と指摘した。
 1998年の参院選の敗北は、自民党にショックと困惑を与えた。
 自民党は、団体・組織に加入していない一般の国民にとって縁遠い存在になっている。
 小泉純一郎のメディア対策については、第一に、派閥というコミュニケーション・ルートを攻撃して弱体化させ、総理としてのコミュニケーション・ルートを開いて世論に対峙した。第二に、ワイドショーやスポーツ紙、週刊誌などの「軟派メディア」を盛んに活用した。
無党派層が増えたのは、自民党が社会党と「野合」したためだった。無党派へのアプローチを限定的にしたのも自民党だった。というのも、戸別訪問を解禁しようとしたのをつぶしたのは自民党だった。だから、「空中戦」、つまり、テレビに頼らざるを得なかった。
 政権とメディアは、基本的に対抗関係にある。
 いえ、メディアが対抗関係になかったら、単なる政府広報でしかありません。独自の存在価値はないのです。
戦後の日本政治とメディアの対抗そして共同関係の実情を掘りおこした労作だと思いました。
(2014年9月刊。920円+税)

集団的自衛権容認の深層

カテゴリー:社会

著者  纐纈  厚 、 出版  日本評論社
2014年7月1日は、後世に長らく記憶される日となった。安倍内閣が集団的自衛権の容認を閣議決定した日だ。
 力には力で対抗するという旧態依然とした力の論理や、抑止の論理が今なお幅をきかしている。しかし、武力による対応は、しょせん緊急避難的な措置にすぎず、恒久的な対策にはなりえない。それは、かえって戦争を呼びこみかねない危険な選択だ。いま必要なのは、長期的な視点に立った戦略的平和論の構築である。私たちは、武力に依存しない平和社会を築きあげていく知恵をしぼり出す必要がある。
 歴史の事実からすれば、力を背景とした外交とは、本来の意味の外交ではなく、戦争を誘引する罠が潜んだものである。
 安倍晋三のすすめる政治潮流は、赤裸々な国家権力による社会統合路線であり、民衆動員路線である。
 そして、安倍首相の自主国防路線の延長上には、核武装国家構想が存在している。
 日本の防衛費には、軍人恩給が含まれていない。遺族年金は軍人恩給の一種である。日本は欧米諸国と異なり、これらが防衛費として扱われていない。軍人恩給は年間1兆円に達しており、これを防衛費に取り込むと、日本の軍事予算は、フランスと同等以上となり、世界6位となる。
 いま、陸上自衛隊は、戦車を1300両も保有している。1両11億円(1990年度)もする。なぜ、この狭い国土に1300両もの戦車がいるのか。それは、軍事的意味というより、陸上自衛隊の存在(プレゼンス)と防衛(軍需)産業との癒着関係から生まれたものとしか考えられない。ホント、そうですよね。戦争でもうかる嫌な人々がいるのですね・・・。
 そして、海上自衛隊は、136隻の艦船と300機近い航空機を保有している。イージス艦も10隻を保有しようとしている。
 日本は、世界有数の武器輸入大国である。それは、アメリカの軍需産業を支えている。
 自衛隊は、アメリカとの同盟関係に便乗しながら、もう一方ではアメリカ軍への従属性を希薄化させ、自立した国防軍への変貌の機械をうかがっている。
 2009年6月、防衛参事官が廃止された。これは、防衛参事官(文官)が制服組(武官)を統制する文官統制のシステムを廃止したことを意味している。
 統合幕僚会議から統合幕僚監部への組織再編にともなう、統合幕僚部議長の三自衛隊に対する統合運用権の付与は、文民統制をその根本から破壊し、最終的には同議長が軍政と軍令を一元的に掌握するための第一歩である。
 防衛省は、2009年8月、防衛大臣直属の自衛隊情報保全隊を新設した。三自衛隊の統合部隊として防諜を任務とする防諜組織である。1967年の発足時に60人だったのが、2003年には調査隊から保全隊になったときには900人の部員を擁した。
 保全隊とは、要するに現代における「憲兵組織」なのである。平時にあって国民を監視し、有形無形のレベルで国民への規制を加え、言論や活動の自由を束縛する行為を常態化する。そして、戦時においては、国民の戦争への動員を円滑化させる役割を担う組織なのである。
 日本の自衛隊が「国防軍」を目ざしていること、そのとき、アメリカ軍から相対的に自立することも目指しているのではないかという鋭い指摘がなされています。
(2014年11月刊。1800円+税)

「ニッポンの裁判」

カテゴリー:司法

著者  瀬木 比呂志 、 出版  講談社現代新書
 同じ著者による前の『絶望の裁判所』は、いささか刺激的すぎるタイトルでもあり、いくらか抵抗感がありましたが、今回は、タイトルにふさわしく読みやすくなって、日本の裁判所の抱えている問題点が鮮明になっているという印象を受けました。とは言っても、「明日は、あなたも殺人犯!!」というサブ・タイトルには、ギョギョッとされますよね。そして、唖然、呆然、戦慄、驚愕、日本の裁判は中世並み、というのにも、やや心理的に抵抗を覚えます。
 とは言うものの、私も、やる気のなさそうな裁判官にあたったり、「理論」が上すべりするだけで、事案の適正妥当な解決を考えようともしない裁判官に日々接していて、呆然として、立ちすくんでしまうことも多いのです・・・。
 裁判官は、ある種の総合的直感にもとづいて結論を出している。裁判官は、主張と証拠を総合して得た直感によって結論を決めているのであり、判決に表現されている思考過程は、後付けの検証、説明に過ぎない。
 裁判官は、訴状や双方の準備書面そして主要な書証で8割は心証を決めている。証人や本人の証言を聞かなければ判断がつかないというのは2割程度しかない。弁護士生活40年をこえた私も、この点は、きっとそうなんだろうなと思います。
 民事の判決は、必要以上に長くて読みにくいが、訴訟の肝心な争点については、そっけない形式論理だけで事務的に片付けてしまっているものがかなり多い。のっぺりとした官僚の作文である。
 裁判官を人間機械のようにみる考え方は明らかに誤りである。実際には、裁判官は、あなたと何ら変わりのない生身の人間であり、その人間性や能力が、裁判の質と内容に大きく関係する。このように、裁判官も人間であり、また、国民にとって重要な裁判ほど、裁判官の人間性に深く影響される。
 最高裁長官は、やめてしまえば、ただの人。矢口洪一のような独裁的人物でさえ、腹心の部下たちに裏切られ、退官後は大きな影響力をもちえなかった。この点は、検察とは大きく異なる。検事総長などは、まだ実質的な決定権をもっていない小僧っ子と言われるほど、検察OBたちの力は強い。
 私の同期の検事総長だった人を見ても、そうかもしれないなと思ってしまいました。
 裁判所当局は、原発(原子力発電所)訴訟について方針転換している。
 一般に、動いているものを差し止めするのには、大きな勇気と決断力が必要となる。
 福島原発事故は、客観的にみても「想定不能の天災」などでは全くなかった。
 最高裁の千葉勝美裁判官について、その権力擁護者的な姿勢は実に一貫していると、著者は厳しく指摘しています。エリート裁判官としての歩んできた裁判官について、このように実名で批判することこそ、今の日本に求められているものではないでしょうか。その点で、私は、この本と著者を高く評価します。もちろん、千葉裁判官には反論する権利があります。第三者としては大いに反論してほしいところです。
 民事保全事件の激減を著者は問題としています。この点も、私は本当に同感なのです。というのは、弁護士生活40年のうち、当初の20年間ほどは仮処分・保全事件がありましたが、この20年間は、まったく保全・仮処分事件がないのです。申し立てたこともなければ申し立てされた人の相談を受けたことも、ほとんど記憶にありません。
 裁判所に対する人々・企業の期待が激減していることの反映ではないかという指摘は、まったくそのとおりではないかと思うのです。でも、そんなことではいけませんよね・・・。
かつての法廷には緊張感があった。弁護士は、裁判官の言うことには、よく耳を傾けた。裁判官も、当事者の言い分を丁寧に聞いて、紛争の本質や背景についての見きわめ、そのために真に紛争解決にふさわしいものを考えようという姿勢があった。だから、和解でも判決でも、その結果に納得できた。
 でも、最近は、そういうことがない。裁判官は記録をきちんと読まず、和解で早く事件を片付けたいという姿勢が露骨だ。
 今の日本では、優等生の質の劣化がはなはだしい。だから、学生から裁判官になる人々の質の劣化は当然のこと。
 日本の裁判官にあまり期待しすぎてはいけないと思う一方で、やはり、裁判官らしく公正かつ妥当な紛争の解決を目ざしてほしいものだと思っている次第です。ぜひ、あなたも読んでみて下さい。
(2015年1月刊。840円+税)

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