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2014年12月 の投稿

勝率ゼロへの挑戦

カテゴリー:司法

著者  八田 隆 、 出版  光文社
 208年12月に国税局の「マルサ」が家宅捜索し、2013年3月に東京地裁で無罪判決が出た。そのとき、佐藤弘規裁判長は、次のように言った。
「今回のことで時間が過ぎ、大切なものをなくしてきたと思います。それを取り戻すのは難しいと思いますが、家族やいろんな人が残ってくれましたね。そういった人のために前を向いて、残りの人生を、一回しかない人生を、しっかり歩んでほしいと思います。私も・・・、私も初心を忘れずに歩んでいきます」
 すごい言葉ですね。よほど心を揺さぶられたのでしょうね。私も、これを読んで胸が熱くなりました。
 この無罪判決に検察側は控訴したが、東京高裁もまた無罪とした。そして、角田正紀裁判長は、次のように説諭した。
 「刑事手続が決着したら、前の仕事には戻れないようだが、あなたは能力に恵まれているし、再スタートを切ってほしい。裁判所も迅速な審理に努力したが、難しい事件でもあり、証拠は1万ページにのぼり、双方の主張を十分聞いたために、一審で1年3ヵ月、控訴審で9ヵ月かかってしまった。もっと早くと、被告人の立場からは思うだろう。これは、裁判所の課題です」
 これまた、素晴らしい言葉です。裁判所のなかにも熱き血汐を感じさせる人がいるのですね。ほっとします。日頃の私は、あまりにも血の通っていないとしか思えない裁判官とばかり接しているものですから・・・。
 「難事件」ということですが、事件はいたって単純です。給与の一部が会社から株式報酬で支払われ、そのとき源泉徴収されていなかったのです。それが故意による脱税だとして摘発され、起訴されました。
 実のところ、そのような扱いをされたのは著者一人ではなく、100人もいたのです。外資系の証券会社ですから、報酬額は一般企業とは違って巨額なのですが、その金額に国税局は目がくらんだのか、無理な「徴発」をし、検察庁が国税局の顔をつぶさないように起訴してしまったということのようです。とんでもない無理な起訴だと思いました。裁判官が代わって謝罪したくなるのも十分理解できます。
 この事件の取調過程には、いくつかの特異な点があります。
 在宅取調に終始しているのですが、検事調書がすべて問答形式になっているのです。検察官の一方的な作文ではありません。すごいことです。著者がたたかいとった成果でした。ただし、調書を訂正してもらいにくいというハンディを負うことにもなりました。
 そして、著者は、自分の取調状況を逐一ネットで公開していったのです。録音・録画の先取りのようなものです。
 検察官の求刑は、懲役2年、罰金4000万円というものでした。一審の無罪判決の言い渡しのとき、佐藤裁判長は次のように言いました。
 「主文、被告人は無罪。もう一度、言います。被告人は無罪」
 言い渡した裁判長も気分が高揚していたのでしょうね。一度では言い足りない思いがあったのです。そして、無罪判決を勝ちとるためには大変な苦労がいることを明らかにした本でもあります。
(2014年5月刊。1400円+税)

鬼はもとより

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  青山 文平 、 出版  徳間書店
 江戸時代の小さな藩の財政立て直しの話です。よく出来ています。アベノミクスの失敗は明らかですが、それは弱者切り捨てまっしぐらだからです。かつての「年越し派遣村」がビッグ・ニュースになったときのような優しさが今の日本にないのは不思議なほどです。
 アベノミクスは、原発・武器・カジノというのが目玉でもあります。とんでもないものばかりです。これで、子どもたちに道徳教育しようというのですから、狂っています。
藩札は、宝永4年(1707年)にいったん禁止された。その後、新井白石の改鋳があり、貨幣の量が激減し、世の中が金不足となって、享保15年(1730年)に再び許可された。
 正貨と藩札を交換する札場の項では、その数や配置のみならず、用員の取るべき態度まで示され、受付の御勤めに限っては、商家に委託するとされた。
 藩札の板行には、小判や秤量(ひょうりょう)銀などの正貨の裏付けが不可欠だ。
 一両の小判を備え金(そなえかね)にして、三両の藩札を刷る。1万2千両を備え金にして、3万両の藩札を刷る。それだけの正貨があれば、いつ、藩札を正貨へ変えてくれと言われても応じることができる。換金さえ約束されたら、紙の金でも立派に貨幣として通用する。
藩札板行を成功させるカギは、札元の選定や備え金の確保といった技ではない。藩札板行を進める者の覚悟だ。命を賭す腹がすわっていなければならない。
 藩札は専用の厚紙でつくり、偽札を防ぐために透かしを入れる。紙の厚い、薄い差を使って絵を描く。偽造防止の手立ては、透かしだけではない。複雑な文様のなかには、市井のものには字とは見分けられない梵字や神代文字がさまざまに組み込まれている。このありかを知らないと、同じ文様のようでもずい分と違ってくる。一枚一枚では分からなくても、多くを集めると、誰の目にも明らかなほどの違いが生じてくる。
 藩札の十割刷りを強行した藩は一揆を招いて、結局、幕府から改易処分を受けて、藩そのものが滅亡した。別の小藩では、強力な藩札によって、他国に負けない強力な特産物を育て、藩が一手に買い上げて領外に売る。その代金は正貨で受けとる。これで藩は丸もうけとなる。
 では、何を特産物とするか・・・。浦賀に、魚油と〆粕、大豆を送ってもうけるという。
 この商法を藩内に定着させるために取られた手法に驚かされます。小説とは言え、ぐいぐいと惹きつけられるのでした。私は、出張先の鹿児島の中央駅に着いて2時間あまり、駅ビルの喫茶店で読みふけったことでした。
(2014年5月刊。760円+税)

祖父はアーモン・ゲート

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジェニファー・テーゲ 、 出版  原書房
 知的な黒人女性の顔が表紙になっています。憂いを秘めたまなざしが印象的です。
 本のタイトルだけではピンとくる人は少ないでしょう。でも、かのナチ強制収容所の所長の孫というサブタイトルをみると、まさかと思います。ナチの所長の孫が黒人のはずはない・・・、と思うのは誤った先入観なのです。
 あの有名な映画『シンドラーのリスト』に登場する残虐なナチ収容所長こそ、著者の祖父アーモン・ゲートなのです。
 アーモン・ゲートは、映画『シンドラーのリスト』のなかで収容所内の罪なきユダヤ人を面白半分に射殺していた冷血なナチス親衛隊指揮官でした。そして、映画で描かれていたとおりの事実があったのです。
シンドラーとアーモン・ゲートの二人は同い年で、酒、パーティー、女性に目がなかった。二人ともユダヤ人迫害によって富を得ていた。ゲートは、ユダヤ人を殺害してすべてを取り上げたことによって、シンドラーはユダヤ人が所有していた工場を受け継ぎ、ユダヤ人を低賃金の労働者として働かせることによって富を得た。
 ドイツ特務機関のスパイとしてポーランドで活動していたシンドラーは、金もうけのためにクラクフへ来た男だった。後に、稼いだ財産の大部分をユダヤ人救出にあてているが、最初は戦争成り金だった。
 アーモン・ゲートとオスカー・シンドラーは、どちらも権力をもっていた。一方は、それを救うために使った。シンドラーは、その従業員1100人を最後まで守ったのでした。
 アーモン・ゲートがライフルを手にもって、短パンをはいてバルコニーに立っている写真があります。このようにして、罪ないユダヤ人を勝手気ままに殺したのでしょう。まさしく、おぞましい殺人鬼です。
 アーモン・ゲートは、17才で右翼思想に傾倒し、ヒトラー・ユーゲンに入会した。1931年にナチ党員となり、やがてナチ親衛隊員となった。幼少時に両親から世話してもらえず、ほったらかしにされたと語っていた。
 気に入らない者がいれば、髪のあたりをわしづかみにして、その場で撃ち殺した。この残酷な人殺しの化け物は、美的な柔らかさを帯びた面持ちで、しかも温和な目つきをもち、巨体で逞しく堂々とした風貌に見えた。
 これは、アーモン・ゲートに仕えていたユダヤ人書記の証言です。
 また、アーモン・ゲートには、ユダヤ人のメイドもいたのです。
 この二人は、結局、殺されずに生きのびていますが、いつ殺されるか分からないという状況がずっと続いていました。恐るべき状況です。
 アーモン・ゲートはドイツの敗戦後に発見・逮捕され、裁判にかけられました。1946年にクラクフで絞首刑に処せられ、遺骨はヴィスワ川に流された。
 長身だったアーモン・ゲートは絞首刑がうまくいかず、二度目になってやっと刑死した。
愛人のルート・イレーネ・ジェニファーはアーモン・ゲートのやったことは何も知らなかったと言いはり、1983年に睡眠薬を飲んで自殺した。
 著者の母は、ナイジェリア人との間に著者を生んだ。生後4週間でカトリック系の養護施設に預けられ、3歳で里親のところに行き、7歳で養子縁組した。実母の写真は出てきません。著者は38歳のとき図書館で、たまたまアーモン・ゲートが祖父であることを知ったのでした。母について書かれた本を偶然に手にしたのです。
 ナチ高官の子や孫たちの人生はさまざまのようです。
 ヒムラーの娘は、ネオナチとして活動している。しかし、たいていは、父親への賛美と、実父への憎しみの間を、いったり来たり、揺れ動いている。すべての子どもに共通していることは、過去から逃れられないということ。ナチの子孫で、不妊手術を受けたとか、自分の意思で子どもをつくらないことにしたという男女も少なくない。自殺者もいる。
 大変重たい内容の本でした。ナチスの影響は、今なお、こういう形でも残っているのですね・・・。
(2014年8月刊。2500円+税)
 一昨日(17日)朝おきて外を見ると、白くなっていました。霜でも降ったのかと思うと、ホラホラ雪が降っているのが見えました。うっすらと積もっているのでした。この冬、初めての雪です。私の娘は「ゆき」と言いますが、前日に戻ってきましたので、「ゆき」を連れて来たね笑ったことでした。
 衆議院の総選挙で投票率52%というのは低すぎます。もっと投票所に足を運んでほしいものです。
 自民党が「大勝」したとマスコミは言っていますが、実際には、得票数も得票率も減らしています(議席も)。小選挙区のマジックで、自民党が議席を維持しただけなのです。民意を反映しない小選挙区はやめてほしいです。
 選挙が終わったら、原発再稼働を次々に認め、武器輸出に国が補助金を出すなんて、恐ろしい話が着々と進行しています。大変な世の中です。

チャイナ・セブン

カテゴリー:中国

著者  遠藤 誉 、 出版  朝日新聞出版
 赤い皇帝・習近平というサブタイトルのついた、中国を分析した本です。
中国共産党の政治局常務委員(チャイナ・ナイン)の一人だった周永康が逮捕された。本来、このチャイナ・ナインは逮捕されないという不文律があった。それを習近平は破った。
 捕まった周永康は江沢民派なので、習近平と江沢民との権力闘争だとみられている。しかし、著者は権力闘争ではないとみています。なぜなら、習近平自身が江沢民派だから。
 少なくとも腐敗問題に斬り込まなければ、中国共産党による一党支配体制は必ず崩壊してしまうから。
 最近、中国で腐敗により摘発・処分を受けた人数は18万人をこえ、チャイナ・ナインの一人だった周永康、さらに中央軍事委員会副主席だった除才厚まで捕まった。前代未聞の事態である。
 習近平は、利益集団の解体を狙っている。利益集団解体の先には、利益を独占している国有企業の改革が待っている。国家の60%の富を0.4%の者が独占しているような現状を打破することだ。富の極端な一極集中化をもたらしている利益集団を解体してからでないと、抵抗勢力が巨大化しすぎていて、前に進めない。
 チャイナ・セブンは「共青団」「紅二代」あるいは「江沢民派」というように、きれいに分けることができない。7人のうち紅二代が3人もおり、かつ「江沢民派」に偏っているのが特徴だ。
 もっとも重要なことは、チャイナ・セブンの圧倒的多数が習近平、またはその父母と接点があること。
 チャイナ・ナインがチャイナ・セブンになっても、中共中央政治局常務委員会では多数決による議決を鉄則とする集団指導体制を実行していることに変わりはない。
 もし今、国家主席が習近平でなかったとしたら、中国は、この10年間の政権のなかで、あるいは崩壊したかもしれない。
 社会主義が生き残るのか、資本主義が生き残るのか。あるいは、一党支配体制が生き残るのか、という壮大な実験に習近平は挑もうとしている。
習近平は、毛沢東に次ぐ力を持った指導者としての地位を気づきつつあると言ってよい。
 2012年1月、胡錦濤は、「腐敗を撲滅させなければ、党が滅び、国が滅ぶ」と、中共中央総書記として最後の言葉を述べた。しかし、この腐敗を招いたのは、共産党の一党支配体制だ。その支配体制を崩すことなく、腐敗を撲滅することなど、できるはずがない。
 腐敗撲滅へ向かって進めば進むほど、共産党統治は政治体制改革を余儀なくされ、政治体制改革を断行すれば、共産党の一党支配は必ず崩れる。進んでも留まっても、崩壊はまぬがれない。
 習近平は、1953年6月15日、北京で生まれた。父親は習仲勛。父親は16年間の囚われの生活を送った。
 習近平は、文化大革命のとき、延安地区へ追放されて苦労している。そして、文革末期になって清華大学に入学することができた。
 中国の四大利益集団は、鉄道閥、石油閥、電力閥、電信閥である。そこは腐敗の巣窟でもある。
 チャイナ・セブンのうち、習近平と李克強以外の5人は、みな2017年の党大会で定年退職してしまう。
 中国の前途を考えるうえで読んでおくべき書物の一つだと思いました。
(2014年11月刊。1600円+税)

昭和陸軍秘録

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  西浦 進 、 出版  日本経済新聞出版社
 戦前は、陸軍の軍務局軍事課長や東條英機陸軍大臣秘書官など歴任し、戦後は陸上自衛隊で初代の戦史室長をつとめた人物の聞き書きです。陸軍中枢にいた人物ですので、内情がよく分かります。
 陸軍の機密費が14万円あった。これを高級副官が保管していた。
 梅津美治郞陸軍次官は、これをケチったというか、合理的に運用しようとした。すると、それまで機密費からお金をもらっていたダニのような人物が梅津次官の悪口を言いはじめた。
 お金の恨みは恐ろしいと言うことです。
あとで刺殺された永田鉄山は非常に頭のいい、思いやりのある人物だった。派閥に入らないことをモットーにしていた。
 永田鉄山は陸士16期の衆望を担っていた。東條は17期、山下奉文は18期。
荒木陸軍大臣は、極端な人事をやり、その不平がひどかった。
 昭和15年に、中国共産党が百団大戦で暴れた。そこで、国民党軍を主敵としていたのを切り換えて、中共軍を主敵とした。その結果、昭和18年に、中共軍の勢力は一番下がった。そのときの日本軍の主役は岡村大将だった。
 国民党軍の暗号は初めからすっかり解けていた。しかし、ロシア系の暗号である中共軍の暗号は、なかなか解けなかった。
 中国にいた不良日本人、そして不良朝鮮人が日中の関係に非常に大きな悪影響を及ぼした。アヘンの密売をやっている日本人が北京あたりに非常に多かった。
 昭和14年の秋は、米騒動が起きたり、非常に暗い時期だった。ノモンハンは芳しくないし、独ソ不可侵条約が出来てドイツからの牽制効果はなくなるし、支那事変が2年たってもいっこうに解決の曙光がないので・・・。
 東條は、あの当時、非常に強気だった。彼我の力関係をかなり甘く見ていた。
 ノモンハン事件では、情報が不足していた。向こうの後方輸送力を誤判してしまった。
 ドイツのソ連進撃は既定の事実だろう。ドイツの攻勢は初期は有利に進展するだろうが、いずれ日本の支那事変と同じようになる公算がきわめて高い。だから、日本としては情勢の進展を待つ。年来の宿敵だからといって、すぐにドイツの尻馬に乗ってロシアに攻勢をかけることはない。早急に強引なことはせず、もう少しじっくり様子をみるべきだと考えた。
 しかし、初期にドイツ軍が非常に有利な状況だったので、参謀本部のなかに、日本も北へ向かって進撃する準備をしろという声が強まり、関特演が始まった。
 ミッドウェイ会戦のとき、日本の航空母艦が4隻とも全部やられたことを知らされた。しかし、作戦課から、これは絶対に口外するなと言ってきた。だから、参謀本部でも、ごく一部の人しか本当のことを知っていなかった。
 東條英機は、非常に温情もあり、細かいことによく気のつく人だった。部下の家族の病人とかには人一倍、気をつかった。仕事の上ではやかましいけれど、それほど嫌な奴だという気持ちはなかった。
 精励恪勤なことは、ちょっと比較できないほど。また、天皇に対しては誠実無比だった。
 陸軍内部の軍人たちの息づかいまで伝わってくるような臨場感あふれる聞き書きでした。1967~68年の聴きとりです。
(2014年9月刊。3600円+税)

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