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2014年12月 の投稿

中東民族問題の起源

カテゴリー:アラブ

著者  佐原 徹哉 、 出版  白水社
 20世紀はじめのトルコにおけるアメニスト人虐殺事件がとりあげられています。
オスマン体制のもとで、アルメニア人は、よく順応し、長くスルタンにもっとも忠実なキリスト教臣民と見なされていた。
 オスマン時代の都市は、居住地区と商工業地に明確に分かれていた。居住地区では、同じ宗教に属する者たちが集まって暮らす傾向にあり、ムスリム、アルメニア人、ギリシア人、ユダヤ人などといった宗教ごとの街区(マハラ)が存在した。街区は、モスクや教会などの宗教施設を除くと民家が集まっているだけの場所であり、とくに用事のない限り、よそ者が入っていくことはなかった。他方、商工業地区は、宗教・民族の違いをこえた都市住民の共通空間ある。都市に居住するアルメニア人の多くが商人・手工業者であったため、ムスリムが彼らと接触する場所も市場だった。市場付近には、大きなモスクもあり、ムスリムが結集しやすい条件も備えていた。そのため、暴動が市場地区で始まり、居住区に向かうのは、暴動が自然発生的であったことを示唆している。
 アルメニアとトルコの双方に陰謀説がある。しかし、両方の説とも荒唐無稽なものであり、史料にざっと目を通すだけで欠陥が明らかになるお粗末な代物だ。ところが、今もって権威ある定説としてまかり通っている。
 武器商人たちが、公衆の面前で武器を売り歩いた。この商人たちは、武器の売り上げを増やす目論見から、虐殺や反乱の噂を利用した。あるときは、キリスト教徒が、またムスリムがまもなく虐殺をはじめるという話が、武器商人のセールストークを通じて拡散した。そのため、人々の疑心暗鬼はとどまるところを知らなくなり、先を争って武器弾薬を手に入れようとする風潮が広まった。さまざまな武器が市場で、店頭で、また道端で堂々と売られた。
 新聞は、武器の入手が合法であり、家族の命と財産と名誉を守るために必要だというキャンペーンを展開し、アルメニア人コミュニティの指導者たちも武器の購入を奨励していた。聖職者たちも武装することを推奨した。
 多数のアルメニア人が軍事訓練をはじめた。このようにして、アルメニア人は、一方的に武装をはじめた。
 アルメニア人の地主は、ムスリム地主よりも、農業経営に熱心だった。あからさまな経済格差が、宗派コミュニティ間の緊張を生む原因となった。半飢餓状態で暮らすムスリム農民たちは、アルメニア人たちのいい暮らしぶりをねたんだであろうし、ときには敵意すら感じただろう。
騒乱がアルメニア人の陰謀でなかったことを証明する、おそらく最良の証拠は、騒乱の間中、アルメニア人が一貫して専守防衛に徹していたことだろう。アルメニア人の方からムスリム側の陣地に攻撃を仕掛けることはなかった。
 アルメニア人たちの一致団結した戦いに比べて、ムスリム人たちの攻撃は、場当たり的だった。人数こそ圧倒的だが、ムスリム人は島合いの衆にすぎなかった。ムスリムたちは、せいぜい拳銃程度の火器しか準備していなかった。ほとんどのムスリム暴徒たちは、手近にあった道具を武器代わりにしていた。これは襲撃に計画性がない、何よりの証拠である。
暴動の小さかった地区では、多くの行政官と治安当局者がアルメニア人を敵視せず、混乱の原因がムスリム民衆の動揺にあると分析していた。この適切な状況認識にもとづいて効果的な予防措置を講した。役人たちが冷静で慎重な態度を示したことで、ムスリムとアルメニア人の双方が一定の信頼関係を保ち、しばしば共同して防衛体制を構築することができた。これは、正しい判断と適切な措置を講じることによって破滅的な事態を回避できたことを意味する。
暴動や略奪を開始したのは、難民や季節労働者だった。
 20世紀の初めに起きた虐殺事件の総括から、冷静な対応によって防止することが出来るものだという教訓が導き出されています。今の日本のような「ヘイト・スピーチ」は、まさに日本を戦争への道にひきずり込もうとする危うい道なのです。絶対に繰り返してはなりません。大変に勉強になりました。
(2014年7月刊。3200円+税)

僕たちの国の自衛隊に21の質問

カテゴリー:社会

著者  半田 滋 、 出版  講談社
 集団的自衛権についての解釈変更が閣議決定され、いよいよ日本の自衛隊が海外に出かけていって、アメリカ軍と一緒になって戦争をする事態が現実のものになろうとしています。憲法改正することもなく、そんなことをするなんて、まさに無茶苦茶ですが、自公政権そして安倍首相の暴走が止まりません。
 この本は、将来、戦場に行かされる君たちへ・・・、と題するものです。そんなの関係ない、なんて言って、のほほんと構えているわけにはいきません。いつ「赤紙」が来ないとも限らないのですから・・・。
 著者は、20年以上も、防衛省や自衛隊を取材してきた新聞記者です。海外にも、サマーワ(イラク)やアフリカなどの自衛隊の派遣先にも、現地へ足を運んで取材しています。
自衛隊員は22万5千人。陸上14万人、海上4万人、航空4万人。
 日本は、潜水艦を16隻もち、戦闘機は260機を保有している。
 日本の自衛隊は、護衛艦、戦闘機、戦車などの主要な武器が新しくて性能が良く、十分な訓練を積んでいて、自衛官の質と士気が高いことから、世界有数の軍事力をもつと考えて良い。
日本の防衛費は5兆円ほど。人件費・糧食費が44%を占めており、武器を購入する物件費は削られている。
 イージス護衛艦は1隻1400億円、潜水艦は500億円、F35戦闘機は1機100億円する。10式(ヒトマル)戦車は1両10億円。
日本に駐留するアメリカ軍の経費の8割近くを日本が負担している。これは1700億円を超す。
 アメリカの将兵の住む住居の水道・水光熱費までが日本が負担している。もちろん、私たちの税金が使われている。
 日本にいるアメリカ軍は、日本を守るためにいるのではない。日本安保条約によって、アメリカ軍はただ同然で日本にいるが、それでも、自分の都合のよいときに戻ってきてくれるはずだが、本当に戻ってきてくれるという保証はまったくない。なぜなら、自分の都合で、いつだって自分に米軍基地を離れて行動することを認めるという密約があるから。
 イラクのサマーワにいった自衛隊員は、アメリカ軍と一緒になって戦争しに行ったのではなく、あくまでも人道的見地からの復興支援活動だった。だから、自衛隊の装甲車には、大きな日の丸がついていて、漢字まで書かれていた。そして、個々の自衛隊員は、砂漠なのに緑色の服を着て、頭・肩・胸・背中の4カ所に大きな日の丸のワッペンを縫いつけていた。自衛隊員はアメリカの兵士とは違って、戦争に着た分けではないとアピールしたわけである。これは、憲法9条によって交戦権がないことによる制約。しかし、このことによって、イラクへ出かけた自衛隊員は一人の戦死者も出さなかった。それでも、過酷な戦場体験にさらされた自衛隊員の中には日本へ帰国したあと、合計28人もの自殺者を出した。
 集団的自衛権とは、結局、アメリカ軍と一緒になって、中近東などの戦場へ出かけること。
 そこでは、日本の青年が殺し、殺されることになる。戦死者が一人でも出たとき、日本の世論がどう反応するかは怖い。それが国防軍の機能強化に結びつかないという保障はない。
 12月14日の投票日当日、午後から久留米市で、著者を招いて講演会が開催されました。70人ほどの参加者があり、とても充実した内容でした。早ければ、2018年にも憲法改正のスケジュールが具体化される見込みだという話でした。
 その前に、こんな危険な安倍内閣を一刻も早く退陣させる必要がありますよね・・・。
20歳前後の若者向けの本として、とても分かりやすい内容です。ぜひ、お読みいただき、周囲の若者へ、一読をおすすめください。
(2014年10月刊。1300円+税)

自民党政治の変容

カテゴリー:社会

著者  中北 浩爾 、 出版  NHK出版
 今回の衆議院選挙では、自民党は、投票数も得票率も、そして議席すら減らしたのに、「圧勝」したという報道がなされています。これは、明らかにマスコミによる意図的な世論誘導でしょう。マスコミは、これまで「政治改革」、「郵政選挙」、小選挙区制、「二大政党制」を大きく唱導してきました。今になってみれば、どれもこれも日本の政治をいい方向に変えたものはなく、悪い方へ、悪い方へとひっぱっていったものばかりではないでしょうか・・・。ところが、今でも、「道半ば」とか言って、小選挙区制が民意を反映しない最悪のシステムだということに目をつむっています。私は許せません。
 本書は、戦後60年の日本政治を、1955年に結党した自民党に着目して分析しています。この本では「保守派」という言葉は使わず、「右派」と「リベラル派」といいます。「タカ派」とか「ハト派」とも言いません。
 押しつけ憲法論にもとづく「自主憲法の制定」という自民党の党是に肯定的なのを右派と呼ぶ。これは、日本国憲法に体現される戦後的価値、安倍の言う「戦後レジーム」からの脱却を目ざすのが右派である。そして、反対に、それを擁護するのがリベラル派である。
 自民党において、リベラル派から右派への主導権の移行、それにともなう政策的な変化を「右派」と定義する。
自民党は結党以来の60年間で非自民八党派の細川護煕(もりひろ)内閣と羽田孜(つとむ)内閣の8ヵ月、民主党の鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の3年3ヵ月を除いて、政権を担当してきた。
 1994年の政治改革で小選挙区比例代表並立制が実現した。自民党は組織的に変容し、「選挙の顔」となる総裁のもと、次第に集権化が進んだ。
河野洋平総裁の率いる自民党は、小沢一郎らの新政党、新進党に対抗して、社会党や新党さきがけと連立を組み、理念的にはリベラル派が優位に立った。
 1998年に、自社さの枠組みが崩れ、二大政党の一角として民主党が台頭するなか、自民党は右傾化していった。
 2001年に自民党総裁・首相に就任した小泉純一郎は、小選挙区制のもとで、鍵を握る無党派層からの支持を求めて、新自由主義的改革を推し進め、利益誘導政治を本格的に解体していった。党員や支持団体は減少を続け、自民党は選挙プロフェッショナル政党に近づいた。しかし、自民党の支持基盤は脆弱化してしまった。それでも、かつてのような利益誘導政治には回帰できない。
そこで、憲法改正を掲げて「草の根保守」動員を目ざす安倍晋三の時代が訪れた。
 戦後の保守合同の最大の立役者は岸信介であった。岸はA級戦犯容疑者として逮捕され、1953年4月の総選挙で政界に本格的に復帰したばかりだった。岸は、政界への復帰にあたって、一度は右派社会党に入党を打診したほど、親近感をもっていた。
 これには驚きました。信じられませんね・・・。
 1966年の自民党の党員は190万人というのが公式発表だった。しかし、党費を納入するのは、そのうち5万人のみ。議員を除くと、4万人。しかし、その大半は支部の役員。残る185万人は、党費を納めず、党員としての自覚のない、名目的な党員にすぎなかった。
高度経済成長は、利益誘導政治を可能にし、一面では自民党の支持基盤を強固にしたが、もう一面では、それを大きく掘り崩した。1967年1月の総選挙での自民党の得票率は49.2%と、五割を下まわっていた。
 社会党が低迷し、公明党と共産党が台頭して、野党が全体として得票率を伸ばし、自民党にとって脅威となった。それは都市部で顕著であり、1967年4月の東京都知事選挙では、社会・共産両党の支持する美濃部亮吉が当選した。
 革新都政とともに、私の大学生活は始まったのでした。青いシンボルマークがなつかしい・・・。
 1972年11月の総選挙は、田中角栄首相の下、社会党は28増の118議席、共産党は26増の40議席へと躍進した。自民党は16減の284議席だった。
 1980年1月の時点で、自民党の党員・党友は321万人をこえた。総裁予備選挙のおかげである。派閥抗争は、ますます泥沼化した。
 2001年、「古い自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉純一郎が自民党総裁に選出されると、実際に自民党の党組織が大きく変容していった。新自由主義的改革を断行し、利益誘導政治の解体を進めた。
 自民党の候補者は、派閥よりも党への依存を強め、個人後援会を培養する必要性が低下し、利益誘導政治が後退した。
 自民党の党員は1991年に544万人だったのが、2006年には119万人にまで落ち込んだ。そして、後援会が衰退した。
 自民党は、全体として国家財政から支出される政党交付金への依存を深め、その配分権を握る党執行部の統制力が強まった。
 自民党の党員は1999年から200万人を下回り、2009年に87万人、2012年には62万人にまで低下した。自民党の掲げる右派的な理念は世論との間に、大きなずれがある。自民党を支持する有権者と比べてみても、自民党の国会議員は相対として右派的であり、政策的なずれがある。右派的な理念は自民党を結束させる機能を低下させるだろう。
戦後の自民党について分かりやすく明快に分析した本です。250頁ほどですので、ぜひ手にとってご一読してみてください。
(2014年5月刊。1400円+税)
 日曜日に庭の手入れをしていると、いるものジョウビタキが何度も、すぐ近くまでやって来て、「何してんの?」という顔で、こちらを見ています。尻尾をチョンチョンと動かし、可愛らしい声をあげる。ひょうきんな小鳥です。スズメより少し大きくて、茶色の小鳥です。
 今年のよんだ本は590冊ほどになりました。全部、私の読書ノートにつけています、そのうち365冊を紹介しています。目下、司法研修所を舞台にした小説に挑戦中です。どうぞ新年も引き続き、ご愛読ください。

おだまり、ローズ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロジーナ・ハリソン 、 出版  白水社
 イギリスの上流階級の生態がよく分かる本です。
 じつは、私の家にも若い女性がお手伝いとして同居していたことがあります。私が小学生のころです。小売酒店で、子どもが5人もいて(私は末っ子です)。ちっとも広くない家に住み込みの女性がいたなんて、今ではとても信じられません。要するに裕福ではない家にも、ほんの少しでも余裕があれば(実際には、そんな余裕というかスペースはなかったと思うのですが・・・)、かつては行儀見習いと口減らしを兼ねて住み込みで働く人がいたのです。
 同じように、ノリ作業のシーズンには長崎県の生月島から大量の出稼ぎ人が有明沿岸には住み込みで働いていました。もっとも、これは、後で聞いただけで、そんな光景を見たわけではありません。要するに、少し前、つまり50年も前の日本では、住み込みの奉公人というのは、ちっとも珍しいことではなかったのです。今では、そんな光景は、どこにも見あたりません(と、思いますが、どこか、まだありますか・・・?)。
 この本のオビには、「型破りな貴婦人と型破りなメイドの35年間」と書かれています。
 貴婦人は、イギリス初の女性国会議員です。もちろん、スーパーリッチ層で、お金の苦労などしたこともありません。それに仕えたプライドの高いメイドの語る体験記ですから、面白くないはずがありません。
 ふむふむ、そうなのかと、ついつい深くうなずきながら、往復の電車の2時間の車中で364ページの本を満足感に浸って読了しました。
 イギリスには厳然たる階級社会が今もあるようです(フランスにも・・・)。著者が仕えた家では、娘たちとも、あくまで主人とメイドの関係だった。友人ではなく、単なる知人でもなかった。
 上流階級では、子どもたちは、母親から目に見える形の愛情が与えられることはなかった。しかし、本当は、愛は目に見える形で子どもに与えられなくてはならないものだ。
 主人の家族とメイドとの間には、はっきりした境界線がある。自分の地位や期待されている役割、許される言動と許されない言動を正確に判別する必要があった。
 メイドは、真珠かビーズのネックレスは許容範囲内で、腕時計もかまわない。しかし、それ以外の装飾具をつけるのは、顰蹙を買う。化粧もしないほうがいいとされ、口紅をつけても、とがめられた。だから、外出中に、主人(奥様や娘も)とメイドとが主従を取り違えられることはなかった。
 レディー・アスターは、淑女ではなかった。ころりと気を変えて、メイドにも頭を切り換えることを要求する。メイドとして、1日18時間、年中無休で集中力を切らさずにいることを求められた。奥様は、イギリス初の国会議員として活動した。
 一度つかった服を洗濯せずに身につけることは決してしない。
 ボタンホールの花も、香りの高い花が、毎日、新しく届けられた。クチナシ、チューベローズ、マダガスカル・ジャスミン、スズラン、そしてラン。香りの高い花ばかり。
メイドとして物を言うと、返ってくるのは、「おだまり、ローズ」のひとことだけ・・・。
 奥様は感情が顔に出る。化粧はほとんどしない。香水はシャネルの五番のみ・・・。
メイドとしての著者にとって、睡眠は貴重なものだった。夜9時から朝6時までは、何があっても自分の時間として確保し、10時過ぎまでで起きることは、めったになかった。仕事をきちんとこなそうと思えば、心身ともに健康でなくてはならず、そのためには毎晩しっかり睡眠をとる必要があった。
イギリスの貴婦人は、丹那様は、はっちゅう替えるけれど、執事は絶対に替えない。
 奥様が旦那様と子どもを連れて旅行するときには、雌牛を1頭と牧夫を同行させた。子どもたちに飲ませる牛乳の質にこだわったからだ・・・。
これには、腰を抜かすほど驚いてしまいました。スーパーリッチって、そこまでするのですね・・・。
 よくぞ、ここまでことこまかく書いてくれたかと思うほど、詳細な上流階級の生態です。「私は見た」という家政婦の話以上に面白い本だと思いました。
(2014年10月刊。2400円+税)

光とは何か

カテゴリー:宇宙

著者  江馬 一弘 、 出版  宝島社新書
 真空の空間では、目の前を通り過ぎる光線が見えることはない。目の前の宇宙空間は真っ暗にしか見えず、そこを光が通過していることには気がつかない。
 なぜなら、宇宙空間は、ほぼ真空であり、光を散乱されるものがほとんどないから。
光は、ほかの物質と出会うことで、初めて何かが始まる。
 光の正体は、空間を伝わる電気的な波である。
 光の三原則とは、光の直進、反射、屈折に関する法則のこと。光は、障害物にぶつからない限り、まっすぐに進む。
 光が2億9979万2458分の1秒間に進む距離が1メートルである。
 分子や原子などのミクロのレベルで考えると、鏡に反射したあとの光は、鏡に反射する前の光とは、厳密には「別のもの」。鏡にあたった光は、「そのまま」鏡を通過する。それとは別に別に、鏡に光が当たることで、鏡の中の分子や原子が振動して、光を放つ。その光が「反射光」として、人間の目に見えている。
 光が屈折するのは、光の速度が変化するため。光は透明な物体の中を進むとき、その速度は物体の種類によって変化する。それが光の屈折を生む。
 ダイヤモンドの中での光速は、真空中の4割ほどにまで減速する。
 宝石となる物質のほとんどは、屈折率が高い。
 光の色ごとに屈折の度合いが違うのは、プリズム中での光の速度が、色ごとにわずかだけど異なるため。
 赤色の光は原則の程度がやや小さいので、屈折する角度も小さい。
 紫色の光の速度の程度がやや大きいので、屈折する角度が大きい。昼間の空が青く見えるのは、空気中の分子が赤色の光よりも青色の光の方が強く散乱することが原因。
 海が青く見えるのは、散乱の効果よりも、水が青色の光を吸収する効果の影響が大きいから。ニュートンは、「光線に色はない」と言った。
 色とは、この世界に実在するものではなく、光の波長の違いを胸が「色」というイメージで認識しているだけ。つまり、色を実際に「見ている」のは脳であり、色という感覚をつくり出しているのは心である。
物質のなかで電子が振動すると、光(を含めた電磁波)が生まれる。
 電子が振動すると、振動する電場が生まれて、それが波のように空間を伝わっていく。それが光(を含めた電磁波)である。
 じつは、光は波ではない。光の正体は粒である。
 結局、光は波としての性質と、粒としての性質をあわせ持つ、不思議な存在なのである。
 フシギ、不思議、変テコリンな存在である光について、少しばかり頭を悩ませてみました。面白いですよね、こんな話って・・・。
(2014年7月刊。900円+税)

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