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2014年12月 の投稿

データで読む平成期の家族問題

カテゴリー:社会

著者  湯沢 雍彦 、 出版  朝日選書
 日本の家族に関する面白いデータが満載の本です。
平成22年(2010年)時点では、男の80%、女の90%は50歳までに一度は結婚している。
 児童虐待は小さなものまで含めると最近は急増し、年に6万件が報告されている。格差が拡大し、低所得家族での親子関係は悪化している。
 夫婦として暮らしている者(内縁を含む)は3200万組あり、年間の離婚件数23万件は微々たるものにすぎない。したがって、制度としての婚姻は健在であり、夫婦と親子の大部分は安定していると言える。
 出生の実数は、平成2年に122万人、平成12年に119万人、平成23年は105万人と減少を続けている。
 婚姻件数は、昭和47年に史上最高の110万件、婚姻率10.4%。その後、急速に下降し、昭和62年に69万件、婚姻率5.7%、平成25年には66万件、婚姻率5.2となっている。このように婚姻志向は明らかに低下している。
 結婚式の費用は、平成23年344万円。ご祝儀226万円を除いて、120万円の負担。招待客の平均は74人で、やや減少しつつある。
 この25年間で目立つのは、再婚の増加。再婚における女性のためらいは、非常に低くなってきた感じである。
 「妻の氏」を称する再婚が、妻再婚の場合に6.6%、夫再婚の場合に4.7%、そして再婚同士の場合には9.0%。この最大の理由は、子連れで再婚する妻とこのために、その姓を変えないようにしたいという思いやりが強まったことによる。
平成1年の離婚件数は15万8000件、平成14年には29万件となった。ところが、平成15年から減少していて、平成23年には23万6000件となった。日本は離婚が多い国とは言えない。先進国の中では、イタリアを除いて、最も低い。100組に1組の夫婦も離婚していない。
 日本では、養子縁組が年間8~10万件ある。日本は世界有数の養子大国である。ところが、特別養子縁組は、この10年間に年間400件未満しか成立していない。
 葬儀費用は平均231万円。高額なのは東北で283万円、低額なのは四国で150万円。
 樹木葬墓地は、供養代を含めて50万円ほど。
成年後見の申立は平成12年に7451件、平成23年は2万6000件で、4倍近くも増えた。禁治産の申立件数の10倍にもなる。認定されたものの累計は21万人。
 しかし、ドイツは、人口が日本の3分の2でしかないのに、年120万人が利用している。日本も120万人が利用して当然なのだが・・・。
これらのデータは、日本の家族問題を考えるうえで、また家族をめぐる事件に対処するとき、必須不可欠の基本的知識と言えます。
(2014年10月刊。1400円+税)

「戦場体験」を受け継ぐということ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  遠藤 美幸 、 出版  高文研
 元日航・国際線スチュワーデスだった著者(現在は歴史学者)によるビルマ戦線における日本軍全滅戦を記憶・再現した貴重な本です。
戦争というものの悲惨さ、というより、むごさをじわじわと実感させてくれます。というのは、拉孟(らもう)の陣地にたてこもる日本軍守備隊1000人近くが中国軍によって全滅させられた事件を丁寧に掘り起こしているからです。
 それができたのは、数少ない生存者がいたこと、その生存者にインタビューできたこと、さらには、現地に出向いて、現地の攻めた中国軍からも取材できたことによります。10年という長い歳月をかけての取材が本書に結実しています。
日本軍の将兵の無残な戦死を記録する貴重な本だと思いました。そして、それらの将兵の多くは、九州出身だったのです。本当に哀れです。
 1944年6月、米中連合軍4万が日本軍の拉孟陣地を包囲した。
 3ヵ月あまりの死闘の末、9月7日、日本軍の拉孟守備隊は全滅した。その拉孟全滅戦の実情が本書によって明らかにされているのです。
 1944年3月、北ビルマを起点としたインド侵攻作戦(インパール作戦)が始まった。これは、ビルマ奪回を狙うイギリス軍の作戦拠点であるインド東北端のインパールを攻略し、さらにはインド独立運動に乗じてインドの反英独立運動の気運を醸成し、イギリスの支配からインドを分断しようということだった。ところが、補給をまったく無視したインパール作戦は史上最悪の作戦となり、日本兵の「白骨街道」を残して終わった。
 1944年7月3日、日本軍大本営はインパール作戦の中止を命じた。
 インパール作戦の失敗後、中国雲南西部の山上陣地であった拉孟の戦略的な重要性が一挙に高まった。
 1944年6月から、拉孟守備隊1300人と、4万人の中国軍とのあいだで、100日間の攻防戦が続いた。日中の兵力差は15倍以上だった。
 連合軍(アメリカ)からの軍事援助で補強された中国軍に日本軍の拉孟守備隊は全面的に包囲され、武器・弾薬そして食糧の枯渇のなかで、1944年9月7日に拉孟守備隊、そして続いて9月14日に騰越守備隊が相次いで全滅した。これによって、日本軍は北ビルマから完全に排除された。
拉孟守備隊1300人と言っても、傷病兵300人をふくんでいるので、実質的な戦闘力は900人もいなかった。それに対する中国軍の総兵力は4万人を上まわっていた。
 この拉孟陣地にも、従軍慰安婦が20人ほどいた。朝鮮人女性15人、日本人5人だった。
 これらの女性の存在理由は、日本軍将兵の性欲はけ口以外のなにものでもなかった。女性たちの恥辱と苦恨は、心身から生涯、消えることはなかった。
 そして、日本軍の拉孟守備隊のなかに、朝鮮人志願兵がいた。それは全体の2割を占めている。
 著者は1985年8月のJAL御巣鷹山事故のとき、JALの社員でした。そして、飛行の安全のためにJALの第二組合を脱けて第一組合に加入したのです。それは、「当然のように」、さまざまな嫌がらせと差別を伴ったのでした。若い女性には耐えられない、ひどさでした。
 日本軍の無謀な戦争と、現代日本における違法・不当な大企業における労務管理の生々しい実態を図らずも結びつけた貴重な本です。
(2014年11月刊。2200円+税)

日清・日露戦争をどう見るか

カテゴリー:日本史(明治)

著者  原 朗 、 出版  NKH出版新書
 来年(2015年)は、敗戦から70年になります。実は、明治維新(1868年)から敗戦の年までは、なんと77年間しかありません。この77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦という4つの大きな戦争を担っています。そして、第二次世界大戦は、15年戦争とも呼ばれています。
 戦前の日本は、ほぼ10年に1度の割合で大きな戦争を遂行していたのですから、まさしく好戦国ニッポンだったわけです。ところが、戦後70年になろうとしている日本は、平和な国ニッポン、戦場で人を殺したこともなければ、日本人が殺されたこともないという、世界にまれな国になってしまいました。
 日本ブランドは、平和、なのです。そんな平和の国、日本のパスポートの価値が高いのも当然です。
 明治・大正・戦前の昭和までの日本は、ほぼ10年ごとに戦争を起こしていた国だった。もっと言うと、日本は、ほぼ5年ごとに戦争ないし出兵をしていた国だった。
 日清戦争、日露戦争というのは、その戦争目的は、最初から最後まで朝鮮半島の支配権を争うものだったし、戦場もほとんどが朝鮮半島だったから、この二つの戦争は、「第一次・第二次朝鮮戦争」と名づけたほうが、より戦争の「実相」に近い。
 1894年7月23日、日清戦争の直前、日本軍はソウル(漢城)の朝鮮王宮を正面から攻撃してこれを占領、朝鮮軍を武装解除し、朝鮮国王の高宗に対して父の大院君を国政総裁とするように強制した。
 日本軍が朝鮮王宮を占領したのだから、これは明確な日本と朝鮮との戦争である。だから、最近では、「7月23日戦争」とも呼ばれている。
 伊藤博文は、陸奥宗光とは違って日清協調派で、日本と清国とが協力して朝鮮の改革を進めようと考えていた。日清戦争は、陸奥と同じ強硬派だった陸軍参謀本部の川上操六・次長の二人で進めた。
 陸奥宗光の日記(「蹇蹇録」)によると、日本は欧米に対しては神経をはりめぐらせ、注意深く慎重に、ほとんど卑屈とも言えるほどの態度をとりつつ、返す力で朝鮮と清国に向かうときには、傲岸不遜ともいえるほどに拳骨を振り上げる。その二面性の対照が興味深いものであった。
明治政府の対外政策は、欧米には、徹底的に丁重に、朝鮮と清国に対しては徹底的に弾圧的にというものだった。
日清戦争の前、日本人の多くは、内心では、誰だって「支那」を恐れていた。ところが、戦争で日本が次から次に勝利をおさめていくと、だんだん勇ましい感情をもち、中国を軽蔑・憎悪するようになっていった。メディアも、中国人を愚弄・嘲笑するような報道を始め、その記事を庶民が楽しむようになっていった。
 このようにして、日清戦争は、日本人の中国に対する感情の一大転換点となった。日清戦争によって、日本に「国民」が誕生し、天皇の権威も確立した。
日露戦争のあと、1905年に「日比谷」焼打事件が起きて、政府は戒厳令を布いた。
 日露戦争のあいだ「勝った、勝った」という宣伝を信じていた民衆は、ポーツマス条約の内容を知って、賠償金もなく、領土の獲得も南樺太だけ、獲得できた利権があまりに少ないと憤慨し、東京など各地で反対集会や警察等への襲撃・焼打ち事件を起こした。
政府は、この事件を小さく見せるために、「日比谷」焼打事件という名前を付けたが、実際には、東京市全体にわたって交番などが焼打ちされ、さらには神戸や横浜など各地にも広がり、初めて戒厳令が布(し)かれた。戦前の日本で戒厳令が布かれたのは3回のみ。このときと、関東大震災、そして二・二六事件のとき。
 「日比谷」焼打事件について、司馬遼太郎が、明治日本はこのときから転落しはじめたと言っている。しかし、その反対に、このときから民衆が政治に登場し、大正デモクラシーに向かって進みはじめたといえる。
 民衆は、勝った、勝ったと思い込んでおり、本当は、日露戦争が「痛み分け」だったことを知らなかった。そして、日清戦争にも勝った、日露戦争にも勝った、日本は不敗の国だと信じ続けていくことになった。これって恐ろしい迷信ですよね。
 司馬遼太郎の小説に書かれていることを史実と思わないようにという指摘が何度も繰り返されています。なるほど、そうなんだと私も思いました。日清・日露の両戦争の意義をとらえ直すことのできる、貴重な新書だと思いました。
(2014年10月刊。780円+税)

アルピニズムと死

カテゴリー:人間

著者  山野井 泰史 、 出版  ヤマケイ新書
 ここまでして山登りするのかと、ついつい深い溜め息が出ました。
 何度も死の危険に直面し、山の仲間が何人も死んでいます。そして、凍傷のため手足の指は満足にありません。さらには、山の中を走っていて熊に顔をかじられ、鼻をなくしたというのです。いやはや・・・。
 山に出かけるのは、年間70回。40年の間に3000回近くも山へ登りに行って、なんとか生きて返ってきて今日がある、というわけです。それでも、著者が死ななかった理由。
 それは、若いころから恐怖心が強く、常に注意深く、危険への感覚がマヒしてしまうことが一度もなかったことによる。
 自分の能力がどの程度あり、どの程度しかないことを知っていたから。
 自分の肉体と脳が、憧れの山に適応できるかを慎重に見きわめ、山に入っていった。
 山登りがとても好きだから、鳥の声や風や落石や雪崩の音に耳を傾け、心臓の鼓動を感じ、パートナーの表情をうかがいつつ、いつ何時でも、山と全身からの声を受けとろうと懸命になる。雪煙が流れる稜線、荒い花崗岩の手触り、陽光輝く雪面、土や落ち葉の色、雪を踏みしめたときの足裏の感触・・・。山が与えてくれるすべてのものが、この世で一番好きだ。
ソロクライマー(単独登山家)はリスクが高い。実際にも、多くの悲しい現実がある。しかし、この世のもっとも美しく思える行為は、巨大な山にたった一人、高みに向けてひたすら登っているクライマーの姿なのである。
山中でトレイルランニングをして身体を鍛える。家でも腹筋運動のほか、酸素をたくさん取り込めるように、15分間は腹式呼吸の練習をする。
 脂肪はもちろん、大きな筋肉をつけないように注意し、毎日、体重計に乗る。
 体力に余裕があれば、登山中でも視野を保て、危険を見抜く能力を保つことができる。
 トレーニングは、肉体だけでなく、想像するイメージトレーニングもする。下半身に乳酸をためないようにする。
私は、著者が今後も無事に、好きな山登りを続けてほしいと思いました。
(2014年11月刊。760円+税)

ブラックウォーター、世界最強の傭兵企業

カテゴリー:アメリカ

著者  ジェレミー・スケイヒル 、 出版  作品社
 「殺しのライセンス」を持つアメリカの影の軍隊は、世界で何をやっているのか?
 これが本の帯についたフレーズです。イラク戦争での民間人の虐殺、アルカイダ幹部など反米分子の暗殺、シリア反体制派への軍事指導などの驚くべき実態。そして、アメリカの政府界の暗部との癒着が暴かれています。
この悪名高いブラックウォーター社は今ではありません。といっても、名前を変えただけです、今では、「アカデミ」と名乗っているとのこと。シリアでの反アサド勢力の武装兵士たちを訓練し、同社の傭兵がトルコからシリアへ数千人単位で派遣されているという。また、ウクライナにおける動乱にもかかわっている。
ブラックウォーターは、日本では、つがる市(旧車力村)のレーダー警備にあたっていた。
 イラクで2005年6月から2007年9月までに、ブラックウォーターが関わって死者が出た発砲事件は少なくとも10件あった。
 ブラックウォーターは、単なる警備会社の一つではなく、アメリカによるイラク占領でもっとも重要な役割を果たしていた傭兵企業だった。ブラックウォーターが、この役目を担い始めたのは、2003年夏に2700万ドルの随意契約を受注してからのこと。それは、ポール・ブレマー大使の警護をする契約だった。
 イラクでの最初の契約から2007年後半までのブラックウォーターは、国務省を通した「外交安全保障」関係だけでも10億ドルの契約を得た。
 マリキ首相はブラックウォーターの追放を訴えたが、その後もブラックウォーターはイラクに居続けた。これは、イラクに主権がないことをはっきり示したということ。
 イラクでサービスを提供していた傭兵企業は170以上あったが、ブラックウォーターは、これらのなかで最新鋭集団と広く認められていた。
アメリカ要人の警備にあたっては、イラクの一般市民の生命はまったく軽視された。
 ブラックウォーターは、軍ではなく、アメリカ政府直属の監督下にあった。
 2005年から2007年10月までにイラクにいたブラックウォーターの要員が砲火を開いた件数は195件、そのうち80%以上で、最初に発砲したのは、ブラックウォーターだった。
 ブラックウォーターは、イラクにいる隊員を120人以上も解雇した。これは、イラク派遣の人員の7分の1にあたる。
 イラクの戦場には、推定10万人の民間契約要員がいた。
 対テロ戦争とイラク占領は、アメリカに多くの企業を生み出したが、ブラックウォーターほど華々しく権力と利益を手にし、隆盛を成しとげた企業は、ほとんど存在しない。
 ブラックウォーターは、アメリカをふくむ9ヶ国に2万3000人以上の傭兵を派遣している。ブラックウォーターは、武装ヘリコプターを含む20機以上からなる航空隊を擁している。
 ノースカロライナ州にある本部は、世界最大の民間軍事施設であり、1年に数万人の警察官や「友好国」の部隊が訓練を受ける。
ブッシュ政権が宣言した「対テロ戦争」で最大の受益者となったのは、ブラックウォーターだった。オサマ・ビン・ラディンが、今日のブラックウォーターを作ったのだ。
 多くのアメリカ兵は、傭兵に恨みを抱いていた。平均的なアメリカ兵(歩兵)が1週間かかって稼ぐお金を、傭兵は一日で稼いでいる。
ブラックウォーターの契約要員は、殺されるか不具にされる可能性が高いことを知りながら、自らすすんでイラクへ行った。契約書には、その点が明記されていた。
 ブラックウォーターは、アメリカ国内のカトリーナ災害のときにも出動し、巨額の利益をあげた。
2008年、イラクにおけるアメリカ軍の現役兵の人数と民間契約要員数は1対1だった。
 アメリカ当局の個人警備サービスは、2003年には500万ドルの支出だったのが、2006年には6億1300万ドルまではね上がっている。
 民間軍事企業に戦争の重要な役割を任せることは、必ず大きな腐敗を生み出すものだと思いました。そして、それは、また無責任体制ともつながっていきます。「イスラム国」の「隆盛」も、この民間軍事会社頼りと無関係ではないでしょう。軍事に頼るだけでは、本当の解決にならないことに一刻も早く、アメリカ国民は気がつくべきだと思いました。
 500ページもある大部な労作です。
(2014年8月刊。3400円+税)

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