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2014年5月 の投稿

加藤清正の生涯

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  熊本日日新聞社編 、 出版  熊本日日新聞社
 加藤清正の発給した文書をもとに、加藤清正の実像に迫った本です。意外な人間像に接し、驚きました。
 加藤清正って、最前線の戦場で戦う勇将とばかり思っていました。しかし、実は後方で最前線を支援する智将として秀吉に重用されていたようです。わずか49歳で病死した清正ですが、晩年は茶の湯や連歌をたしなむ文化人でもありました。
加藤清正が10代までの少年期は、秀吉と同じ名古屋市中村区(尾張国愛知郡中村)で過ごしたことは間違いない。しかし、それ以上は不明で、謎に包まれている。
加藤清正は秀吉の下の武将として名をあげていくが、軍事力より物資調達能力や事務処理能力を期待されていたのではないか。加藤主計頭(かずのえかみ)となり、財務担当者となった。清正は、戦よりも、そろばん勘定に長けていた。
大陸進出をもくろむ秀吉にとって九州は重要な軍事拠点だった。佐々成政が肥後国一揆を招いたとして、その失敗から切腹させられ、その後任として清正は4千石から19万5千石の大名へ一気に大出世した。
秀吉の朝鮮出兵で、加藤清正も朝鮮半島に渡った。そして、加藤清正は朝鮮北部まで進出し、そこで、逃げていた朝鮮王子2人を捕縛した。
しかし、1万人いた清正の軍勢は、逃亡が相次ぎ、漢城(ソウル)に撤退した時点では5500人にまで減っていた。
 清正の虎狩りは有名だが、実のところ、朝鮮に在陣していた多くの武将が虎狩りをしていた。それは、秀吉の養生のため、虎の頭、肉と腸を塩漬けにして送るように指示されていたから。当時、虎は不老長寿の薬として重用されていた。要するに、朝鮮での虎狩りは、秀吉の滋養強壮の薬を調達するためのものだった。ところが、虎の捕獲は危険で、人命をなくすことがあったため、秀吉の命令で中止された。
 要するに、清正が勇敢だったから一人、虎狩りをしていたというのではなかったのです。
関ヶ原の戦いの後、清正は家康に忠義を尽くすようになった。そして、キリスト教の禁圧令が出る前から、家臣団についてはキリスト教の信者であることを認めず、改宗に応じないものは家族ともども見せしめのために処刑した。ただし、一般庶民の信仰は認めていた。
 この本には、加藤清正が夢でみた情景をつづった自筆の書状が紹介されています。これは本当に珍しいものですね。その内容は、秀吉が登場してくるものです。そして、清正は僧に祈祷を依頼しているのです。今でも、ありそうな話です。大恩のある秀吉を、その死後に裏切ったという、うしろめたい気分のあらわれではなかったでしょうか・・・。
 今も、清正公(せいしょうこ)と呼んで加藤清正を愛敬する人の多い熊本県民の愛するシンボル的存在を新聞連載で紹介し、一冊の本になっています。たくさんの写真もあって、とても読みやすいブックレットでした。
(2013年12月刊。2000円+税)

ジューコフ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジェフリー・ロバーツ 、 出版  白水社
 ノモンハンの戦いでソ連軍の指導者として登場したジューコフ将軍の一生を明らかにした本です。日本の関東軍がみじめに敗退していったノモンハンの戦いで、ジューコフは情け容赦ない戦争指導者としてムチをふるったと思っていましたが、それなりの戦争理論家であったようです。
 ジューコフ将軍は、ノモンハンの戦いに勝利した後、対ナチス・ドイツ戦でスターリンに抜擢されて活躍し、ついにベルリン攻略戦の勝利者たる栄誉を勝ちとったのです。
 ところが、そのあまりの勝利のため、スターリンが疎ましく思って失脚させられてしまいます。
 そして、スターリンの死後に復活し、フルシチョフの失脚によって、再び脚光を浴びるのでした。いずれにしても、スターリン時代に生きのびた将軍として、ジューコフは有名です。
 スターリンが嫌ったのは、ジューコフの自立心と、信念を率直に語るところだった。この資質が戦争中にはスターリンを大いに救った。しかし、戦争が終わり、スターリンが助言を必要としなくなると、目障りな存在となった。ジューコフもスターリンも虚栄心が強かった。スターリンは、自分の副官が人気を集めるのがねたましかった。
 1953年3月にスターリンが死んだとき、独裁者の国葬でジューコフは、葬儀委員の筆頭格として遺体を付き添った。フルシチョフは、ジューコフを国防相に任命した。
 そしてフルシチョフは、自分を脅かす政治家として認識し、国防相から解任した。フルシチョフの失脚(1964年10月)のあと、ジューコフは再び脚光を浴びるようになった。
 ジューコフには規律ただしい学習の習慣があった。家にいるときのジューコフは、本の虫だった。死んだとき、別荘には2万冊の蔵書があった。ジェーコフの家庭生活の中心は読書だった。
 ジューコフは、1920年5月、晴れて共産党員になった。ジューコフは、忠実な共産主義者として、熱狂的とはいえないまでもスターリン個人を崇拝していた。ジューコフは26歳にして連隊長となり、西側の軍隊では中佐に相当地する地位についた。
 ジューコフは、自分にも部下にも厳しかった。それは、功名心につかれた男の生きざまでもあった。
 スターリンによる赤軍粛清の嵐が吹き荒れた1937年から38年にかけては、ジューコフも不安にさいなまれ、いつも逮捕にそなえてカバンを用意していた。
 1935年5月、ジューコフはモンゴルに派遣された。ノモンハン事件の渦中に、ソ連赤軍の戦闘態勢の調査だった。そして、ついには指揮をまかされた。
 ジューコフは、ソ連軍の総攻撃を準備しつつ、それを欺瞞し、隠蔽する工作に成功した。ノモンハンの戦いで勝利したジューコフはスターリンに呼び戻され、対ナチス・ドイツ戦に従事した。
 1940年1月、スターリンは、ジューコフを参謀総長に指名した。
 1941年夏のソ連赤軍は大敗北を重ね、スターリンは、ジューコフを参謀総長から解任した。
 1942年8月、スターリングラードの戦いで、ジューコフは最高総司令官代理に就任した。
 スターリンは、断固かつ非情で不動の信念をもつ男を求めていた。ジューコフは、スターリングラードを救う切り札だった。
 ジューコフの名誉を不朽としたのは、1945年4月のベルリン攻略戦だった。ベルリン攻略戦で、ソ連赤軍は30万人の人的損失を出した。うち死者は8万人にのぼる。
 1944年12月、ヒトラーのナチス・ドイツ軍はバルジの戦いに成功した。ドイツの敗北が目に見えていたのに、ドイツ軍が戦い続けたのは、ソ連軍の報復が怖かったからだ。戦い続けて時間をかせげば、ソ連赤軍より先に西側の連合国軍がベルリンに到達するのではないかと期待していた。
 戦争を通じてドイツ軍は600万人のソ連兵を捕虜にした。その半数は飢えや病気、虐待のために死んだ。報復するなとソ連兵に言うほうが無理だった。しかし、ドイツ女性のレイプに限って言えば、タガの外れた暴虐は報復の範囲をこえていた。ソ連兵にレイプされたドイツ女性は数万人から数百万人と推定されている。その中間くらいだろう。
このとき、ジューコフは、「人殺しの故郷に苦しみを与えよ。目の前のすべてに容赦のない報復をするのだ」と指示した。
 ジューコフ将軍とソ連赤軍について、実際を知ることができました。
(2013年12月刊。3600円+税)

「アラブ500年史」(上)

カテゴリー:アラブ

著者  ユージン・ローガン 、 出版  白水社
 アラブの近代史を上・下2巻にまとめた本です。宗教の違いとは、こんなにも大変なことなのか、ついため息を尽きたくなるほどの重苦しさを覚えました。
イギリスによる1917年のイラク・バグダットの解放は、1798年のナポレオンのエジプト解放と何ら変わりがなかった。イギリスは、1916年に軍事同盟国であるフランスとの間で、すでにアラブ世界の分割に同意していた。
 2003年に、アメリカのブッシュ大統領が独裁的なサダム・フセインの支配からイラク国民を解放するために侵略戦争の準備をしていたころ、アラブ人は占領というオオカミが解放という羊の毛皮をまとっているという相変わらずの事実をみんな知っていた。一国の国民の知性を見くびって侵攻するほど、恥ずべきことはない。
 「マムルーク」とは、アラビア語で「所有された者」つまり「奴隷」を意味する。しかし、マムルークは、エリート軍人階級を形成していた。彼らはユーラシア平原やカフカス地方のキリスト教領土からカイロに連行され、そこでイスラム教徒に改宗させられ、武術の訓練を受けた。一人前のマムルークになると、やがて奴隷の身分から解放され、支配階級エリートの仲間入りをする。
マムルークは、白兵戦における究極の戦士だった。1249年にはフランス王ルイ9世の十字軍を敗北させ、1260年にはモンゴル軍をアラブ領土から追い払い、1291年には最後の十字軍をイスラム領土から放遂した。このように、中世最強の軍隊を次々に打倒した。
オスマン人はいろいろなテンでマムルーク人に似ていた。どちらの帝国でも、エリートはキリスト教奴隷の出身者だった。
 マムルークと同じく、オスマン人も奴隷のなかから新兵を補充するという独自の制度を活用した。それは、イエニチェリ(新兵)と呼ばれる最強の歩兵軍団を構成した。
 オスマン帝国の軍国の軍隊や政府内でエリート階級入りするのは、だいたいイエニチェリ出身だった。
 18世紀に入って、オスマン人の世界で、「国民兵」という概念が登場した。それまでの兵士は、奴隷出身の軍人階級と思われていた。労働者や農民から徴用された兵隊(国民兵)という概念は耳新しいものだった。イエニチェリの兵士たちは妻をめとり、息子も「イエニチェリ」に入れるようになった。
 1807年、イエニチェリは反乱を起こし、セリム3世を退位させ、「新式」軍を解隊した。
 マムルークとして、ハイルッディーンは奴隷から政治勢力の最高峰にまで出世した最後の人物だった。
 1875年、オスマン帝国の中央政府は破産宣告寸前だった。この20年間に、オスマン帝国は16ヶ国とのあいだで、総額10億ドルもの借款契約をした。借款が増えるたびに、オスマン帝国の経済は、ヨーロッパのよる経済支配に強く牛耳られるようになっていた。借款が成功しても、自国の経済に充てるための投資にあてることができたのは、わずか1割ほどの2億2550万ドルほどでしかなかった。
 ヨーロッパの帝国主義がアラブ世界の触手を伸ばしはじめたのは、1875年以降のこと。フランス軍のアルジェリア征服が始まった。1847年までに、11万人のヨーロッパ人がアルジェリアに入植した。1870年、25万人のフランス人の入植者をもつアルジェリアは正式にフランス領に併合された。
 イラクで「1920年の革命」として知られる1920年の蜂起は、現代イラク国家のナショナリストの神話の中で、1776年のアメリカ革命に匹敵する特別な地位を占めている。欧米人の大半は1920年の蜂起をまったく知らないが、イラクの小学生たちは、何世代にもわたって、ファルージャ、ルクーバー、ナジャフの町で、外国軍と帝国主義に抗議して立ちあがったナショナリストの英雄たちことを学びながら成長している。
 パレスチナのユダヤ人コミュニティは1882年から1903年にかけて、2万4000人から5万人へと倍増した。さらに1914年までに、ユダヤ人の総人口は8万5000人に達した。
 ユダヤ人の入植と土地購入は委任統治のはじめから、パレスチナに緊張状態を高めた。
 1922年から29年にかけて、7万人ものシオニスト移民がパレスチナにやって来た。そして、ユダヤ民族財団はパレスチナ北部の土地24万エーカーを購入した、移民の急増と土地購入の拡大が1929年にパレスチナでの暴動を次々に起こす原因となった。
 ドイツでナチスが政権をとったあと、移民流入のピークは1935年で、6万2000人が入国した。
 1938年から39年のあいだに、100人以上のアラブ人が死刑を宣告され、30人以上が実際に処刑された。これは、パレスチナ・アラブ人のイギリス支配への抵抗運動だった。
皮肉なことに1930年代、アルジェリアの完全な独立を要求したのは、フランス本国で外国人労働者として働く活動家たちだった。フランスにいる10万人をこえるアルジェリア人労働者たちのなかで政治活動をしていた一握りの人々が、共産党を通じてナショナリズムに肩入れした。
 パレスチナにユダヤ人の民族領土をつくるというシオニストの夢を実現させたイギリス政府に、ユダヤ人入植者が戦争を仕掛けるなんて信じられないだろう。しかし、第二次世界大戦がすすむなかで、イギリスはパレスチナのユダヤ人コミュニティから、ますます攻撃にさらされるようになった。
 複雑怪奇という言葉がぴったりくるアラブ世界の動きとその意義が、生々しく、そして総体として語られています。大変勉強になりました。
(2014年1月刊。3300円+税)

虚像の政商(上・下)

カテゴリー:社会

著者  高杉 良 、 出版  新潮文庫
 いつものことながら読ませます。この著者の筆力には、進むたびに驚嘆するばかりです。ぐいぐいと修羅場に引きずり込まれ、ついつい憤慨してしまったりするのです。
 今回の舞台は、政商です。いつの世にも、政治をビジネスチャンスとしか見えない守銭奴のような人間がいます。でも、まあ、それが軍需産業でないだけ、まだ平和な社会なのかもしれません。といっても、安倍首相は、武器輸出三原則を緩和してしまいましたから、おいしい軍需産業が大型公共事業にとって代わるのかもしれません。いやですね、というより怖いことです・・・。
 解説文を紹介します。
 ある銀行のトップが、こう言った。
 「池井戸潤も許せないが、高杉良はもっと許せない」
 高杉良は銀行にとってのタブーに挑戦している。池井戸は銀行を取りまく「闇」にはアタックしていない。闇に踏み込むには、作者にも危険を恐れない覚悟がいる。高杉良は、見ていてハラハラするほど、それを当然のものとして小説を書いてきた。
 百田尚樹は、出光佐三を偶像視しているのに、高杉良は、労働組合のない、社員にとって息苦しい会社をつくった男として出光佐三を描いている。
 この小説のモデルは、オリックス会長の宮内義彦。高杉良の『週刊新潮』の連載が終わったとき、宮内義彦は、「ホッとした」ともらした・・・。
 宮内義彦は、まさしく政商の典型です。規制緩和のかけ声に乗って、自らビジネスチャンスをつくり出して、大もうけしていったのでした。本当に許せません。まさに、宮内義彦は「利権を食うひと」でした。
 公職につく者が、その地位により誰より早く得られる情報を活用して事業を推進すれば、それがどんなに崇高な精神で行われたとしても、うさん臭いものに墜落してしまう。ましてや、崇高な精神なんて、全くなかったとしたら・・・。
 「改革」とは名ばかり、大きな虚業を生み出して、日本経済をむしばんでいった・・・。
 宮内義彦が組んでいた竹中平蔵については、次のように断罪されています。まったく同感です。
 「デフレ不況のさなかに無用なまでに厳しい資産査定を断行し、日本経済の屋台骨を支える多くの中小企業の息の根を止めた男だ。自らの失敗を恥じるどころか、円安による輸出企業の好調で、マクロ経済が底を打ったことを、銀行の不良債権処理による功績とすり替えた、稀代の詐欺師と評する向きもある」
 こんなロマンのない男たちを書きながら、その部下を主人公としてロマンを感じさせつつ、一気に展開し、さらにリース業界の専門用語まで駆使するのは、さすが、さすがと言うほかありません。
(2014年4月刊。750円+税)

日露戦争史(2)

カテゴリー:日本史(明治)

著者  半藤 一利 、 出版  平凡社
 この本を読んで、もっとも驚いたのは203高地をめぐる死闘が、実のところ、あまり意味がなかったということです。
 203高地の前に、日本軍がロシア軍を攻略して確保した海鼠(なまこ)山の望楼から旅順港を見おろすことができた。これによって、日本軍の重砲隊による砲撃が確実なものとなった。旅順港内にいたロシア軍の旅順艦隊の戦艦は次々に炎上させられ、修理不可能な大損傷を受けた。戦艦に積載されていた大砲はすべて陸揚げされ、そのための将兵も全員が陸上にあがった。旅順艦隊は、すでに「浮かべる鉄屑」となってしまっていた。
 そして、造船所、石炭庫、火薬庫も日本軍の砲撃の目標とされ、艦艇の修理は不可能になっていた。では、その後の旅順要塞攻略作戦とは、いったい何だったのか・・・。何のためにあれほどの日本軍将兵が死傷しなければならなかったのか・・・。
本当に、むなしいというか、悲しくなってきます。乃木将軍の指揮する日本軍は、世界最強の堅固なロシア軍要塞の前でバンザイ突撃を強いられ、無残にも全滅させられていったのです。ちょうど、その状況を日経新聞に連載中の小説が描写しています。
日本での民草の動きは、乃木将軍の指揮する第三軍が旅順要塞をなんとしても陥落させなければならない方向へとねじ曲げていった。それまで海軍が強く要望していた旅順港内のロシア旅順艦隊の撃滅という当初の目的は、すでに達成されていることもあって、どこかに飛んでしまっていた。
 これは、本当にひどい話だと思います。ところが、旅順要塞を攻略した乃木将軍は、今なお、日本では依然として偉大な英雄です。
 著者は次のように書いています。
乃木や児玉のどこが、そんなに偉いのか、よく分からない。乃木は近代要塞というものを知らなかった。過去にドイツ留学して戦法を学んだがために、人間の肉体をベトン(要塞)にぶつけるという正攻法を与えられた作戦命令にしたがって、誠実に実行した。そして、惨状を繰り返した。無能な軍司令部の命令によって突撃・攻撃を続行しなければならなかった将兵こそ、悲惨である。203高地は、無際限の犠牲をはらって無理矢理攻め落とす必要はなかった。それでは死傷した将兵たちに申し訳ないので、事実を隠蔽して、「神話」をつくりあげた。死闘に死闘を重ねて、203高地を陥落させ、それによって旅順艦隊を絶滅させたという「神話」である。
 乃木将軍の第3軍が突入した兵力は6万4千人。死傷者は1万7千人。戦死者は5千人をこえる。鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)という言葉しかない・・・。
 それにしても、怒りがこみ上げてくることがあります。これだけ前線で死傷者を出していながら、第3軍の司令部は、乃木将軍も参謀も、誰も最前線の山上に立つことがなかったというのです。これはひどいです・・・。最高司令官は前線忌避症にかかっていた。
 旅順に来て、第一に幸福なのは負傷者である。次は、病者。その次は、戦死者。生き残ったものほど馬鹿げたものはない。どうせ死ぬものと決まっている。生きて苦しむのは大損だ。
日露戦争の終わったあと、高級指揮官の多くが、日本兵は戦争において、実は、あまり
精神力が強くない特性をもっていると語っていた。
 日経新聞の小説にも、日本軍兵士の自傷行為の多さが戦場で問題になっていることを紹介しています。それはそうですよね。誰だって、死にたくなんかありませんよ・・・。
だけど、日本兵の精神力が弱いことを戦史に残すのは弊害がある。そこで、真実は書かず、きれいごとだけを書いた。その結果、リアリズムを失い、夢想し、必要以上に精神力をたたえ、強要することになったのだ。
 なーるほど、そういうことだったんですね・・・。死を恐れない、精強な日本兵って、どこにいるのかと思っていましたが、ようやく謎が解けた気がします。そうなると、現代ヤクザと同じ世界のような気がします。その一部には、世話になった親分のためには「鉄砲玉」になるのも辞せずと言いう無謀な若者がいるのでしょう。しかし、たいていは、私と同じように死にたくないし、痛い目にもあいたくない。できるだけ楽をしていたいという気持ちをもっていると思います。
 ロシア軍はクリミア戦争のときセヴァストポリ要塞戦の体験を踏まえて、旅順要塞を、その足もとにも及ばないほど堅牢なものにしていた。これに対して、攻める日本軍は、要塞攻略という近代科学戦への認識が欠けていた。陸軍中央部の「要塞」についての無知に、すべての責任があった。
 著者の博識・強覧には、まったく脱帽せざるを得ません。400頁をこえる2巻目の大著ですが、一気に読み通しました。第三巻が楽しみです。
(2013年2月刊。1600円+税)
 今年もホタルが飛びかう季節となりました。日曜日の夜、早めに夕食をすませて、薄暗くなってから、歩いて、近くにある「ホタルの里」に出かけました。たくさんのホタルが飛んでいました。草むらのホタルをそっと手のひらに乗せて、じっくり観察しました。
 少しこぶりのホタルです。ゲンジボタルのようです。集団で一斉に明滅するのが、幻影のようです。

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