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2014年3月 の投稿

文化大革命の真実・天津大動乱

カテゴリー:中国

著者  王 輝 、 出版  ミネルヴァ書房
 これは文化大革命について書かれた本の中でも、とても珍しいものだと思いました。
 なにしろ、著者は、文化大革命の始まりから終わりまで、つねに天津市の共産党委員会の責任ある地位にいて、その全課程を語っているのです。ちょっと、これはありえないことですよ・・・。
党内闘争の一つの突出した特徴は、「惟上是従」(上の者の命令に下の者が唯々承諾々と従う)という普遍的な政治理念である。
 党内闘争のもう一つの特徴は、「左」であればあるほど、より革命的であるという情緒だ。
 党内闘争には、さらにもう一つの特徴がある。それは、ほとんどすべての人が自己防衛のために行動するということ。闘争が始まると、人間関係に異常な緊張がもたらされ、自己を防衛し、他人を公然と批判することが人々の行動規範となる。
 「文革」という大きな災禍は、それまでの中国共産党の政治運動の流れの単なる必然であり、それまでの政治運動における「左」の集大成だった。中国において長期にわたって存在してきた封建主義専制と「極左」が一時に発露したものであり、中華民族にとって貴重な反面教師的教材となった。
 「文革」中のもっと奇異な現象の一つは、造反と保守、攻撃するものと攻撃されるものが互いに自らを革命的だとし、自分こそが毛主席の教えに従って行動していると考えていたこと。「一つの共通の革命目標のために共に進む」無数の人々が、同じ目標の実現のために行動していたにもかかわらず、生きるか死ぬかと行った状況で対峙することになってしまい、武器まで持ち出す事態となり、多くの人の血が流れることになった。
「文革」が始まったとき、広範な労働者、農民、基層幹部は、長年にわたる中国共産党への指示と厚い信頼によって、当時の、一切を打倒するというやり方にはなかなか賛成できず、いわゆる「保皇派」「保守勢力」の力が強かった。そこで、人生経験の浅い中学生を組織して闘争へ動員することは、こうした局面を打開し、政治闘争を展開するために必要なことだった。
 天津市の機関内部では造反組織の主流は「温和」派であり、幹部グループは全体として相対的に言って危険ではなかった。
 1967年1月、中共天津市委員会は完全に崩壊した。同日、人民解放軍が天津に進駐し、ラジオ放送局など58の重要拠点を軍事管制下においた。
 周恩来も「文革」の重要な執行者だった。周恩来が「文革」において多くの幹部を守った事実は無視できないが、これは物事の一面を表しているだけ。周恩来は、一貫して毛沢東の顔色をうかがいながら行動し、毛沢東の意図に背くことはあえてせず、また出来なかった。
 1949年、中国共産党は銃によって天津を攻め落とし、その政権を築いた。しかし、「文革」において共産党は、中央の支持、民衆の発動、軍隊のうしろ盾によって、自らが築いた政権を打ち倒した、各部門の主要な権力を握ったのは軍隊幹部だった。軍隊幹部の権威は地方幹部と比べて非常に高いものだった。
 もし周恩来が毛沢東を支持しなかったら、二つの可能性が考えられる。一つは、動乱がさらに大規模なものになり、被害もより深刻なものとなったこと、もう一つは、「文革」の終息を早め、損失も若干小さなものになったという可能性だ。
 江青たち「四人組」は「文革」において、したい放題のことをしたが、唯一の思いのままにできなかったのが軍権であった。
 1967年11月から中共天津市委員会の第一書記を務めた解学恭は、上部の指示にとにかく従い、言うとおりにしすぎたという問題があった。上に言われるたびに、そのとおり実行し、風向き次第で言動を変えた。対人関係でも杓子定規で融通がきかなかった。だから、複雑な状況下で、政治闘争の犠牲になったのも当然だった。解学恭には、上層に後ろ盾になる者がいなかった。
 「文革」は大動乱であり、大災害だった。
 「文革」は限りなく高い地位にある領袖・毛沢東が自ら発動し、自ら指導したものである。毛沢東は至高最上の領袖となり、どんな監督や制約も受けず、個人の欲するところをなし、「文革」という大動乱を引きおこした。
 中国にも、もちろん秘密警察(公安)は存在する。しかし、政治闘争の主役ではない。文化大革命でも重要な役割は演じていない。むしろ、文化大革命で決定的な役割を演じたのは軍だった。毛沢東は文化大革命が軍の内部に波及するのを禁止した。ゆえに、軍幹部は大部分が批判も打倒もされなかった。
 毛沢東が行わせた大事なことの一つは、紅衛兵に「親を批判」させたこと。毛沢東こそが「本当の親」なら、自分の親を批判できる。毛沢東は「親」になることで、中国人のエートスの変更を迫った。
文化大革命がどのように進行していったのか、天津市を舞台として、じっくり、その推移を追うことのできる本です。
(2013年5月刊。4800円+税)

世界を動かす海賊

カテゴリー:社会

著者  竹田 いさみ 、 出版  ちくま新書
 古くはマラッカ海峡、そして今はソマリア沖の日本関連の船舶を守ることは大切です。
 しかし、だからといって、自衛隊を軍隊にして重武装し、それらの海へ派遣すべきだということにはなりません。そんなことで守られるのなら、アメリカ海軍が世界中にいるわけですから海賊なんていないはずなのです。
 海賊行為とは、国際法にしたがえば「公海」において、「私的目的」のために行う「他の船舶」に対する「暴力行為」や「略奪行為」を示す用語として明確に定義されている。
インド洋を航行する船舶は1ヵ月に4000隻、1年では5万隻にのぼる。日本関係の商船は、そのうち1割の5000隻とみられる。
 また、スエズ運河とアデン湾を航行する船舶は1年間で2万隻、日本関係は1割の2000隻ほど。武装して海賊の出没する海域で、これだけの民間商船が危険に直面している。そのため、大半の民間商船は、武装した海賊グループから身を守るため、MSCHOAと
UKMTOという二つの海洋安保保障のネットワークに登録し、情報交換を緊密にしている。
 海賊の発生件数は1991年の107件が2012年には297件と、3倍に増加した。
 ソマリア海賊は、チーム制を導入し、母船と小型ボートを組み合わせている。一つのチームの基本単位は3隻からなる。司令塔となる母船が1隻と、小型ボート2隻の3隻だ。一つの海賊チームには、10~20人の海賊で編成される。ソマリア社会の基本単位である血縁集団(クラン民族)ごとに編成される。
 ソマリア海賊は、ロシア・モデルの自動小銃とロケット砲を標準装備している。いまでは、中国のGPSと衛星電話を所持している。小型ボートは、ヤマハ発電機の船外機を2機設置している。
ソマリア海賊が獲得した身代金は1年間に1億ドル、100億円ほどと推定されている。そして、身代金としては、2008年以降に印刷された新券の米国100ドル紙幣が指定される。これは、北朝鮮が密造する米国ドルの偽造紙幣をつかまされないための用心でもある。この身代金のおかげで、ソマリアの集落には、トヨタのラドクルーザーが走り、レンガとセメント造りの1戸建て住宅が建設ラッシュとなり、衛星放送を受信できるパラボラアンテナが林立している。
 身代金の大半は、ドバイやケニアなどのソマリア周辺国から英国や欧州に還されているとみられている。
このソマリア海賊は、ソマリアのクラン(民族)社会が独自に創設したコーストガード(沿岸警備隊)の出身者とみられている。コーストガードの人材研修プログラムは、米英欧の大手民間セキュリティー企業によって担われたが、それによって養成された人間が海賊に変身していった可能性がある。
日本は海上自衛隊の護衛艦をアデン湾に派遣している。そして、アフリカのジプチに活動拠点を設置し、活動を続けている。そして、2011年3月11日、日本の海上保安官8人がソマリア沖の海賊を逮捕し、日本へ護送した。
このソマリア海賊の裁判は東京地裁でおこなわれていましたが、通訳の確保は大変だったようです。何しろ、ソマリア語の話せる人が、日本にそんなにいるとは思われませんから・・・。
 この本は、海賊処理の難しさを現場取材を通じて明らかにしています。関心のある人には必読の書だと思いました。
(2013年5月刊。760円+税)

「在日特権」の虚構

カテゴリー:社会

著者  野間 易通 、 出版  河出書房新社
 「ウソも十分に繰り返せば、人は信じる」
 これはナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの言葉。
たしかにデマ宣伝も繰り返していると、なんとなくもっともらしくなり、特定集団に負のイメージを定着させ、それを前提として物事がすすんでいくことになります。ですから、「在日特権」なるものの嘘は、徹底的に、しかも何度となく繰り返し暴いてしまうことが大切です。なんとなく人々の身体に嘘が染みついてしまわないようにする必要があります。
 憎悪を煽動する側は、その憎悪煽動そのものが目的であり、ときには楽しい趣味ですらあったりする。
「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が問題としている「在日特権」とは、①特別永住資格、②朝鮮学校への補助金の交付、③生活保護の優遇、④通名制度、の四つ。
 宝島社と別冊宝島が、「在日特権」というコトバの流布に加担した責任は大きい。売らんかなで本をつくり、「在日特権」デマを利用して在日コリアン一般に対する憎悪を煽った主体である。うむむ、許せませんね、これって・・・。
 特別永住資格は、日本人より有利な権利をもつという意味ではない。日本人とほぼ変わらぬというだけのこと。
 終戦の時点で、在日朝鮮人や台湾人は日本国籍を有していた。なぜなら、朝鮮も台湾も「帝国日本」が領土として支配していたのだから。終戦によって、その資格や法的地位を他の外国人と同じに扱うことができるはずもない。このような歴史的経緯が立法に反映されるのも当然のこと。
 また、「在日」であっても犯罪をおかせば国外撤去になるし、その実例もあるのに、「在特会」は、「在日」は絶対に国外退去にならないなどという嘘を言いたてている。
 年金については、日本が国民年金に在日外国人を加えるようになったのは、1981年に難民条約を批准したことによる。1982年、国民年金から国籍条項が撤廃され、外国人も加入できるようになった。国民年金への加入が認められるまで、「在日」の多くは無年金で放置されていた。
 仮名口座の開設が違法になったのは、2003年に施行された口座の開設を禁じる本人確認法による。
 生活保護受給者のなかで外国人の占める割合は3%でしかない。そのうち「在日」は2%でしかない。
在日に「特権」があるかのように思い込んでいる人が残念ながら少ないようです。私たちは、きちんと事実を知り、デマを見抜く力を養わなければいけません。
 それにしても、「在特会」って、いじましい団体ですね。他人を蹴り落として何が楽しいのでしょうか・・・。本人たちが、きっと、現実の日本社会で大いなる疎外感を味わっているのでしょうね。そして、その本当の加害者を見抜くことなく、同じ「被害者」たる弱者同士でたたきあっているのです。本当に残念な状況です。
(2013年11月刊。1600円+税)

ロング・グッバイのあとで

カテゴリー:社会

著者  瞳 みのる 、 出版  集英社
 ザ・タイガースは、私の青春時代と深く結びついています。
 4年間、ステージに立ってスポットライトを浴びていた著者が40年刊の沈黙を破って語った本です。読みながら、私の来し方も振り返ることのできた本でした。
 たくさん心に残ることが書かれていましたが、なんといっても、次のフレーズが最高です。
 自分たちの老化をあらゆる面で認めざるをえない年齢になって、なるほど僕らは団塊の世代なんだと思うようになった。
 同世代から元気をもらおう。そして、同世代に人に元気を返そう。そんな元気が僕らのなかにぐるぐると回り、それが上下の世代の刺激になって、もっと活気、元気、楽しみ、喜びにあふれた社会になれば、こんなに素晴らしいことはない。
 「団塊の世代と共に生きていくことが大事だよ。僕は団塊の世代から離れないよ」
 これはザ・フォーク・クルセイダーズの北山修の言葉です。本当に、そのとおりだと思います。
 私が大学生時代の学園闘争(東大闘争)の1年間を「小説」として再現した(『清冽の炎』1~7巻。花伝社)のも、そのつもりでした。とても残念なことに、ほとんど反響がなく、売れませんでした。でも、後悔はしていません。あの1968年当時の熱気をいつかは追体験してみたいと思う若者があらわれる。そのときには、私の本が必ず役に立つと確信しています。
著者は、ザ・タイガースの一員として脚光を浴びながら、さめた思いをしていたようです。だからこそ、きっぱり芸能界から足を洗ったわけです。
 僕はドラム演奏をしながら、青春の貴重な時間を売っているだけなのだと思うようになっていた。いつまでもアイドル路線を強いられ、いい年齢(とし)をして、いつまでも可愛い子路線の歌ばかりうたわされる。バラエティー番組にだされて、ふざけさせられる。だけど、やせても枯れてもミュージシャンなのだというほこりがあった。ベトナム戦争や時代や社会の流れに無関心ではいられなかった。
 著者は定時制高校生のとき、民青(日本共産党の青年組織のようなもの)に加入しています。ですから、社会に関心があったのも当然です。
 ザ・タイガースを解散し、芸能界を去る直前、1971年1月24日、有楽町のちゃんこ料理店で送別の宴が開かれ、著者も参加しています。私は、司法試験受験勉強の真最中です。当時の日記が残っていますが、1日中、私は勉強していました。
そして、著者は有楽町から京都へトラックで京都に戻っていたのです。1年間で貯めたお金1000万円を軍事資金として、大学受験勉強に打ち込むのでした。著者は見事に慶応大学に合格しています。えらいですね。
 当時の1000万円は、まさに大金です。私は、月3万円ほどで寮生活を過ごしていました。
 著者は、ザ・タイガース時代にフランス人の彼女がいたとのこと。フランス語が少し話せる私としては、かなわぬ夢を先に実現した著者を少しうらやましく思いました。
 とても赤裸々に自分を語っていて、ますます著者が好きになりました。本当に、いい本でした。ありがとうございます。
(2011年8月刊。1200円+税)
 きのうの日曜日、夜のうちに雨もやみ、朝からのやわらかい陽差しになってくれました。白梅にメジロが8羽、無心に花の蜜を吸っていました。愛敬たっぷりの小鳥です。
 庭のあちこちに黄水仙が咲いて、なんだか心が浮き浮きしてきます。チューリップもぐんぐん伸びています。もう少しで、ツボミになりそうです。
 花粉症さえなければ、春が一番好きな季節なのですが・・・。

「愛国」の技法

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  早川 タダノリ 、 出版  青弓社
 戦前の日本が「戦争を愛する国」へ向かうためには、権力と軍部による並々ならぬ思想動員があったことがよく分かる本でした。それにしても、驚くべき発見がいくつもありました。
 その一。日本人には、昔から日の丸を掲げる習慣があったわけではないということです。最近では、正月になっても、「日の丸」を掲げている家庭はまず見あたりません。今では、日本にそんな習慣はないと断言してよいでしょう。そして、実は、それは昭和10年代になっても同じことだったのです。そこで、政府は国威発揚キャンペーンの一環として、「日の丸」を掲げるように大々的に取り組んだのでした。
 なーんだ、という気がしました。いま、安倍政権は、憲法を改正して「日の丸」を国旗と定めようとしていますが、とんでもない時代錯誤でしかありません。ところが、教職員と子どもの思想を統制することだけは明確です。
 その二。戦前には徴兵保険というのがありました。富国徴兵保険相互会社というのがあって、徴兵されると、保険金がおりるというものです。これで入営に要する費用をまかなったのでした。この保険会社は大もうけしたようですが、いまでも「フコクしんらい生命」として現存しています。
 その三、出征兵士の妻の姦通問題に警察が目を光らせていて、その妊娠状況まで警察が管理していました。個人のプライバシーより出征兵士の士気を重んじていたというわけです。
 その四。これが一番の驚きでした。軍人稚児隊というものがあったというのです。写真があります。千葉県流山市にできたもので6歳とか7歳の少年勇士11人から成る部隊があったとのこと。この当時、子どもの軍服は大流行していた。七五三などのとき、ありふれた服装だった、というのです。
 陸・海軍も「軍事思想の涵養に資する」として、大将服や将校服の着用を認めていた。
 世の中が軍国主義に一色に染まるとこういうことが起きるのですね。こんな世の中にならないように、今がんばりましょうね。
(2014年1月刊。2000円+税)

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