法律相談センター検索 弁護士検索
2014年3月 の投稿

民主化のパラドックス

カテゴリー:アジア

著者  本名 純 、 出版  岩波書店
 とても興味深い話が満載の本で、インドネシアの実情をよく理解することができました。
 日本にとって、インドネシアは古くからの友好国であり、同時に重要なエネルギー・天然資源供給国でもある。
 1970年代から1990年代後半まで、日本のODA(政府開発援助)の最大受け入れ国はインドネシアだった。
 2億人をこえる人口は、インドネシアを中国、インド、アメリカに続く、世界第4位の巨大国家たらしめている。
 インドネシアで「政治の自由」というスローガンが公に議論できるようになったきっかけは、1989年5月、駐インドネシアで米大使の発言だった。これにまっ先に飛びついたのは、スハルト体制の柱である国軍と、政府の翼賛政党「ゴルカル」だった。国軍は、国会の中に一定の議席を占めていた。軍部は、スハルト大統領との確執を強めていた。
インドネシアの民主化要求の盛り上がりは、体制内部の権力闘争、すなわちスハルト大統領と国軍との勢力争いによって生まれた政治空間だった。
 1965年9月30日に勃発した「9.30事件」は、インドネシア現代史のもっともダークな過去である。この「9.30事件」によって、多くのインドネシア国民は、政治がいとも簡単に死に直結することを記憶に植えつけられ、政治に恐怖を抱いた。その一方で、為政者たちは、自らの意志で大衆が操作され、そのうねりで国が動くことに陶酔する。
 スハルトは「9.30事件」の前に情報を得ていたが、あえて事件の発生を止めなかった。この機会を利用して、軍内のリーダーシップをとり、共産党を壊滅に追い込み、スカルノ体制を国軍主導の下で再建しようと考えた。
泥沼化していたベトナム戦争をかかえるアメリカにとって、陸軍の反共作戦は、好ましい事態だった。アメリカは、インドネシア各地の共産党幹部のリストをスハルト側に渡し、その排除を手伝った。「9.30事件」による死者は少なくとも50万人、多くて300万人と言われている。
 魔女狩りは、地主や宗教指導者などの地方有力者にとって、日頃、敵対する人たちを排除する格好の機会にもなった。
スハルト体制は、国民的なトラウマの上に建設された。スハルトの嫁婿であるプラボウオが「陰の司令官」として軍内で横暴な権限を発揮することに対する静かな不満が、軍内にたまっていった。プラボウオは、陸軍特殊部隊を中心として、不満分子の弾圧工作を展開していった。
 大規模な暴動を扇動してスカルノ体制を崩した経験のあるスハルトには、プラボウオのやっていることに脅威を感じた。プラボウオが治安維持回復作戦司令部の復活という時代錯誤の策に走り、暴動を政治利用したことで、社会混乱は深まり、収拾がつかなくなった。
 軍内の権力闘争は、スハルト辞任劇の核にあたる部分を演出した。
プリブミとは、インドネシア語で、「土地の子」という意味。華人系インドネシア人は、生まれながらに「非プリブミ」のレッテルを貼られ、構造的な差別を受けた。
 自然発生の暴動など、インドネシアではありえない。これは、差別とか怒りではなく、政治の力学である。暴動というのは、イベント企画であり、火付け役から扇動役、暴動役まで準備され、それ相応の報酬が支払われることが前提だ。なかでも、反華人の暴動は、人気のプロジェクトだった。なぜなら、スポンサーは国軍だから、報酬も他と一桁ちがうし、プリブミのためという大義名分があるから、リクルートも楽だった。
ハビビ大統領の後ろ盾を得たウィラント国軍指令は、軍内「改革」のキャンペーンをあげて、プラボウオの勢力の一掃に動いた。この浄化は、陸軍特殊部隊に対してのみ行われた。処罰するかどうかは、ウィラントの意志次策だった。これを読みとった多くの将校が、ウィラントへの忠誠を高め、結果としてウィラントの軍内掌握がすすんだ。その意味で「国軍改革」は、ウィラントにとって政敵排除の道具であり、権力闘争のカモフラージュでもあった。
 東ティモールを切り離して損をするのは、コーヒー農園や砂糖農園の利権を牛耳っているスハルト家と国軍であった。
5年の任期をまっとうすることなく、ワヒド大統領が政権の座を追われた(2001年7月)ことで、民主化時代における政治エリートの権力闘争にある種のコンセンサスが形成された。それは、いくら自由な選挙を経て選ばれた大統領であれ、与党連合の力学を無視して好き勝手はできず、連立を組む他党にきちっと利権を分配し、そのパイプを切るようなことはしないという暗黙のコンセンサスである。与党連合に加わって、大臣職や国営企業へのパイプを獲得し、あらゆる公共事業で与党政治家が一枚かむ仕組みをつくり、そこで吸い上げた金を政党運営にあてる。つまり、主要政党エリートで権力と利権のパイを分けあうことで、政治の談合体制をつくる。これが政権安定のカギであることを、メガワティはワヒドの経験から学んだ。
 国民はメガワティに抱いていた「期待」が幻想であったことを徐々に認識していった。独立の父スカルノの娘として強いカリスマ性、そしてスハルト時代の抑圧のシンボルとして社会がメガワティに抱いてきた「人民の母」「弱者の味方」というイメージが急速に崩れていった。
 スハルト時代、メガワティ支持者のNGOや学生運動は、片っ端からコパススの弾圧を受けた。コパススは、旧体制の抑圧と裏政治工作のシンボルとして、スハルト後、急速に存在力を失った。そのコパススの地位回復をメガワティが助けたのは、なんとも皮肉な話だった。
 2003年5月の戒厳令は、一方で軍の失態を外に漏れにくくし、他方で特定エリートの利益拡大に大いに貢献した。メガワティ政権は、このような国軍のフリーハンドを容認した。
 ほとんど国民に対して語りかけないメガワティに対する不満もユドヨノ評価につながった。ユドヨノにはマシーンがなく、あるのは人気だけだった。
 マシーン政治が勝つのか、イメージ政治が勝つのか。
ユドヨノは得票率60%を確保し、圧勝した。しかし、実行派のイメージとは裏腹に、決断力がないことでユドヨノは有名だった。みんなにいい顔をしたがる。ユドヨノは、ストレートに本音を言うのを嫌うジャワ人の典型だった。2009年のユドヨノ再選は、国民が政権の継続を望んだ結果である。
 スハルト体制下、公然の秘密として国軍はさまざまな「治安サービス」を提供し、ナイトクラブやディスコ、賭博場、売春宿などのビジネスの警備を通じて、多額の自己資金を調達した。これは巨大な利権ビジネスであり、国家の軍事予算の2~3倍にのぼっていた。そこに警察が参入した。国軍のライバルとして台頭してきたのだ。
 違法ビジネスをめぐる軍人と警官の対立が生まれた。
 国軍は新地開拓を求め、人身売買や密輸を手がける犯罪集団との関係を深めていった。
 反対に警察は、国軍から縄張りを奪うと同時に、世間に対して治安維持能力があることを示すためにも、国軍と近い犯罪組織の摘発に力を入れた。
 スハルト時代に強行された開発ビジネスや国軍の利権活動が地方経済をひどく歪ませ、その不平等で不正義が蔓延する経済状況こそが住民紛争の根本原因である。
 アンボンの陸軍兵士は積極的にイスラム教グループを支援し、キリスト教集団への攻撃に加担した。地元警察はキリスト教民兵集団をテコ入れしていた。アンボン市警の警官の7割はキリスト教徒だった。
 国軍は、全国各地で地方政治を弱体化し、国軍改革を骨抜きし、ビジネス利権を確保している。
 インドネシア政治のダイナミックな推移がよくも分析されていると驚嘆しながら、一気に読了しました。
(2013年10月刊。2700円+税)

阿弖流為(あてるい)

カテゴリー:日本史(平安)

著者  樋口 知志 、 出版  ミネルヴァ書房
 ときは平安時代。桓武天皇の治世、東北地方で国家統一に「反逆」した人々がいた。その首領の名は、「あてるい」(阿弖流為)。私は『火怨』(かえん。高橋克彦、講談社。1997年刊。上下2巻)を読んで、すっかりアテルイびいきになってしまったのでした。その後、『蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い』(久慈力、批評社)という本も読みました。そこでは、アテルイは横暴な大和朝廷の軍隊に雄々しく戦い続ける英雄として、その姿が生き生きと描かれているのです。
 ところが、この本では、実はアテルイの真実の姿は平和を愛する男だったというのです。ええーっ、そうなの・・・と思いました。何ごとも、一面的に見てはいけないということです。
アテルイは、国家との戦争のない平和な時期に生まれ、育ち、結婚し、子どもをもった年代まで大きな戦乱のない時代に生きていた。
 アテルイは、胆沢(いざわ)平野に根をはる農耕民系の蝦夷族長だった。アテルイは決して戦闘を専業とする人ではなかった。
 桓武天皇は、征夷と造都を二大事業とした。奈良時代に皇統の本流をなしていた天武嫡系の血統とは無関係の自分が天皇になったことから、それは天命が自分に降下したものと解し、自らを新王朝の創始者に擬し、前例に執着せず、独自の政治路線を邁進していった。桓武天皇の意識の裏側には、自分の出自が傍流で、しかも生母が朝鮮半島出身の卑母(高野新笠)の所生子であるという強いコンプレックスがあった。
アテルイは、自らの率いる軍隊とともに10年以上にわたって大和朝廷の軍隊と粘り強く戦い続けた。しかし、延歴21年(802年)、アルテイは500余人の軍兵とともに坂上田村麻呂に投降した。そして、平安京に連行されていった。坂上田村麻呂の助命嘆願もむなしく、アテルイは桓武天皇の命令で処刑された。ところが、アテルイが処刑されたあと、東北地方では反乱は起きなかった。それは、アテルイが上京する前に、もしも故郷に生きて帰ることができなくても、決して反乱を起こさないように、あらかじめ蝦夷社会の人々に対して言葉を尽くして説得していたから。
 アテルイは、それまでの忍耐強い努力の積み重ねによって、ようやく手に入れた和平のための好条件が、決して水泡に帰すことのないようにひたすら願っていた。
このようなアテルイの強い意思を深く察した蝦夷社会の人々は、その約束を守り、アテルイの刑死という悲しい現実に直面しても、決して未来への希望を捨てることなく、辛抱強く耐えたのだろう。
 アテルイたちは、このようにして、死して蝦夷社会の人々にますます畏敬され、誇りとして、かけがえのない存在となった。
 なるほど、この本で展開されているアテルイに対する新鮮なとらえ方には、大いに共鳴できるものがありました。
(2013年10月刊。3000円+税)

混浴と日本史

カテゴリー:社会

著者  下川 耿史 、 出版  筑摩書房
 日本では混浴風景は当たり前のことでした。いえ、戦前の話ではありません。少し前のことですが、二日市温泉で旅館の内湯に入ると、脱衣場こそ男女別でしたが、湯舟は区別がありませんでした。残念ながら、私たち以外は誰もいませんでした・・・。
 40年前、司法試験受験のあと東北一人旅をしたとき、山上の露天風呂に入っていると、隣に女子校のワンゲル部員がどやどやと入ってきたので、あわてて湯から上がった記憶もあります。
 もっと前、私が小学校低学年のとき、大川の農村部にある親戚宅に毎年行っていましたが、そこは部落の共同風呂があり、夕方になると入っていました。そこも男女共同でした。家には五右衛門風呂がありましたが、みんなでワイワイ楽しそうに世間話をしながら入っていました。
 この本は、日本人にとって混浴というのが戦後にいたるまで、なじんだ風景であったことを写真とともに明らかにしています。
 『伊豆の踊子』(川端康成)や『しろばんば』(井上靖)にもその情景が描かれているそうです。すっかり忘れていました。
 ところが、実は、昔から当局は混浴を禁止しようとしていたのでした。
奈良から平安時代にかけても混浴が流行していました。奈良の街には坊さんが1万5000人、尼さんが1万人もいた。当時の奈良の人口が10万人と推定されているので、4人に1人は僧尼が占めていた。そして、朝廷は大和守・藤原園人を検察使として奈良に派遣した。藤原園人は混浴禁止令を発した(797年)。
 鎌倉時代に入り、有馬温泉には「湯女」(ゆな)というサービスガールが登場した。そして、源頼朝は「1万人施浴」を実施した(1192年)。うひゃ、知りませんでした。
 江戸時代の銭湯は混浴だった。江戸の女性の多くは田舎から出てきていたが、田舎では混浴があたりまえだったから、江戸の街でも男性との混浴に抵抗がなかった。
 明治になって、外国人が日本の混浴風景に驚いているのを知り、あわてた日本政府は混浴禁止令を出した。
老若男女は、まるで市場や街角で出会うように気兼ねなく挨拶する。初めて目にする外国人は、この驚くべき素朴さにびっくり仰天だったのです。
今も全国には混浴温泉は、実のところ、少なからずあるようです。
(2013年7月刊。1900円+税)

満州航空の全貌

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  前間 孝則 、 出版  草思社
 満州国の知られざる裏面史が明らかにされています。
15年戦争の幕開けとなった満州事変が起きたのは1931年(昭和6年)。奉天郊外の柳条湖での満鉄線の爆破事件に端を発する。
 1932年3月、日本のかいらい国家である「満州国」の建国が宣言された。そして、同じ年の9月、満州航空が誕生した。関東軍の揚力な後押しを受けて雄設された満州航空は、関東軍と一体となって大陸進出そして大陸支配の先兵として活躍した。満州全域に定期航空路網をつくりあげた満州航空は、途中から分離した満州飛行機製造をふくめると最盛期には8000人もの従業員を擁していた。
 満州航空は、国策の民間航空会社だったが、その現実は、群雄割拠する軍閥が各地域を支配しており、反日・抗日勢力のリアクションを受け、緊張を強いられながら運行する日々だった。
 関東軍は満州事変の時点において航空機を一機も保有していなかった。もちろん、航空輸送部隊も持っていなかった。
 満州航空の裏の顔は、軍命にもとづく「軍臨便」だった。満州航空は、「関東軍の二軍」「覆面部隊」などと呼ばれていた。軍人の移動や視察、負傷兵や武器・弾薬の輸送、危険のともなう偵察や邦人救出などを行っていた。
 満州航空の設立にあたっての出資金(資本金)350万円は、満鉄が150万円、満州国政府が100万円、住友が100万円出資した。このとき、三井・三菱は出資していないが、それは関東軍に対して不信感を抱いていたから。
 満州国はアヘン専売による利益を重要な財源としていた。アヘン中毒者は日本占領下で急速に増大していった。日本はアヘン専売利益の拡大を狙った。このアヘンを満州航空は運んでいた。アヘン2000トン、1000億円にもなる。
日本の関東軍そして満州国はまさしく死の商人として存続していたわけです。おぞましいことです。決して戦前を美化してはいけません。
 ところで、この本には杉野元兵長が生きていて、満州にひっそり生活していたと書かれています。日露戦争のとき「軍神」広瀬中佐が亡くなる直前、「杉野はいずこ」と叫んで探しまわった、あの杉野兵長です。実は生きていたのですが、名誉の戦死をしたことになっていたので、生きて故郷に帰ったとき、「おまえはもう日本にはおれない」と言われ、満州に渡って生活していたという話です。本当だとしたら、むごいことですね。
 いろいろ満州国の実態が分かる本でした。
(2013年5月刊。2600円+税)

基地で働く

カテゴリー:社会

著者  沖縄タイムス編集部 、 出版  沖縄タイムス社
 沖縄にある米軍基地は、かつてアメリカのベトナム侵略戦争の前線基地でした。また、米軍基地には、かつての731部隊のような化学兵器を扱う部隊だけでなく、核攻撃の部隊も常駐していました。
 この本は、そんな米軍基地で働いていた日本人従業員に取材し、その実態を暴いています。大変な労作だと思いました。
 沖縄の米軍基地で働く従業員数のピークは6万7800人(1952年)。
 明らかな人種差別があった。上からアメリカ人、フィリピン人、ジャパニーズ。一番下が琉球人。トイレも、琉球人だけが別だった。
 アメリカ軍の高等弁務官6人のなかで、キャラウェーは強烈だった。ありとあらゆる面で琉球政府に口出しした。
 1969年、ベトナム戦争が泥沼化していたとき,米軍は沖縄の大型クダボートをベトナムに派遣しようとした。全軍労(全沖縄軍労働組合)は、戦地への派遣反対闘争に取り組んだ。しかし、24人の日本人労働者をこっそりベトナムへ連れていった。3ヵ月後、全員が無事に日本へ帰ってきた。良かったですね・・・。
 アメリカ軍は,北部訓練場内にベトナムの現地集落を再現し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)兵の制圧を想定した訓練をした。そのとき、日本人住民が現地人役として訓練に呼ばれ、中学生まで参加した。ベトナム人の代役をすると、大人は1日1ドルの日当がもらえた。
 知花弾薬庫には、267化学中隊という部隊があった。69年に毒ガスが漏れる事故が起きた。ベトナム戦のまっただ中、弾薬庫は24時間フル稼働した。倉庫に弾が入りきらず、道の両脇に弾薬箱をずらっと並べて、ほろをかけた。あれだけの弾をつかっても、アメリカはベトナムに負けた。
 ベトナム戦争が始まったころは、アメリカ兵は「正義の戦争だ」と自信満々、意気揚々としていた。しかし、1970年ころには、兵隊の目が暗かった。ベトナムでは、子どもさえ信用できない、怖い、と兵隊が言っていた。
 基地で働く人々は、沖縄戦を生きのびたのに、またまた人殺しの手伝いをしていていいのかという意識にさいなまれるようになった。
 復帰直前まで、沖縄の基地には核兵器が大量に貯蔵されていた。1960年代後半には、千数百発にのぼった。1967年1月、核地雷の操作訓練中に放射性物質がもれ、アメリカ兵1人が被爆した。
 アメリカ兵がPXで万引きするのは、捕まって刑務所に入れば、ベトナムに行かずにすむから・・・。アメリカ兵にとって安心なのは、沖縄と海の上だけだった。アメリカ兵はベトナム戦争に行く前は紳士的だけど、帰ってくると、人が変わったように乱暴な言葉づかいになった。
 人を殺しているから、普通の精神状態ではなかったのだろう。ベトナム戦争へ出撃が決まったパイロットの壮行会は、明日は死ぬ身だから浴びるほど飲んでめちゃくちゃになる。
 その多くが二度と戻って来なかった。翌日は死出の旅路だから、ホンモノの送別会だった・・・。
ベトナム戦争と結びつきの深かった沖縄の米軍基地の実際を、改めて知ることのできる貴重な本です。
(2013年11月刊。1905円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.