法律相談センター検索 弁護士検索
2014年3月 の投稿

あなたはボノボ、それともチンパンジー?

カテゴリー:人間

著者  古市 剛史 、 出版  朝日新聞出版
 ボノボが新種の類人猿として発見されたのは、わずか80年前のこと。発見が遅れた理由は二つ。一つは、アフリカのど真ん中という、近寄りがたい地域に隔離されて生息していたため。もう一つは、ボノボの外見が、チンパンジーにあまりにもよく似ていたから。それほど、チンパンジーとボノボは外見上の区別をつけにくい。
 ボノボは、子どものときから顔が黒い。チンパンジーは、子どものときは、顔が白い。
 ボノボは直立二足歩行がうまい。
 パン属とは、チンパンジーとボノボをふくむ属の呼び名。
 チンパンジーもボノボも、複数のオスと複数のメスを含む数十頭の集団をつくって生活し、その中での性関係は乱婚的だ。子育てはメスだけが受けもち、生後3年以上もお乳を与えて、手厚く育てる。
 オスは一生を生まれた集団で過ごすが、メスは思春期になると、生まれた集団を離れて他の集団に移籍する。
 チンパンジーでは、オス間の順位争いが熾烈をきわめるのに対し、ボノボのオスはあまり順位を気にしない。
 チンパンジーでは、集団内の勢力争いが殺しに発展することがある。ボノボでは、そのようなことは起こらない。チンパンジーでは、優劣関係を確認しあうためのさまざまな挨拶が発達している。ボノボは、優劣のつかない性交渉を挨拶がわりに使う。
 チンパンジーの性交渉はオスがメスの背に乗る馬乗り型が普通だが、ボノボはお互いの顔を見合わせる対面型を好む。
チンパンジーのメスは、妊娠の可能性のある時期にしか発情しない。ボノボの雌は、妊娠の可能性のない授乳期や妊娠中にも発情する。
チンパンジーは、集団内の関係がとても敵対的で、一方が他方を抹消してしまうことがある。ボノボの集団関係は、比較的おだやかだ。
チンパンジーでは、オスがメスに対して圧倒的に優位にある。ボノボのメスは、オスと対等以上にわたりあえる。
 チンパンジーのメスは、ふだんはばらばらに生活する傾向が強い。ボノボのメスはみんな他の集団から移籍してきたよそ者であるにもかかわらず、集団の中心部に集まって緊密な関係を保つ。私たち人間(ヒト)のなかには、チンパンジーも、ボノボも住んでいる。
 ボノボは、何かにつけ、みんなで一緒にやりたがる。仲間があとから到着するのを待っているのは自然なこと・・・。
 ボノボが使う道具らしきものは、雨が降ってきたときに、葉の突いた枝を頭にのせる行動(レインハット)くらい。
 チンパンジーは、独立性の高い大人の集団という感じ。
 ボノボでは、順位の高い母親をもつオスが高い順位につく傾向がある。
 チンパンジーは、オスたちが一列になって歩くことが多い。ボノボは、適当に散開して、だらだらと同じ方向に動くことが多い。
 チンパンジーは、独身心が旺盛で、自らの行動は自分で決め、社会的知能を駆使して生活する。ボノボは、いつも他の仲間のことをきにかけて、できるだけ行動をともにしようと、和気あいあい遊んでくらす。
 ボノボでは、父系社会なのに、メスたちが集団の中心部に集まって実権をにぎっていて、このメスたちに受けられないと、いろいろないじめを受ける可能性がある。
 ボノボは男の子をもつのは大きな意味がある。女の子を産んでも、やがてその子は集団を出て行く。男の子をもたない限り、メスはいつまでたっても、ひとりぼっちだ。
ボノボのメスは45年ほど生きて、生涯を閉じる。
 ボノボでは若いオスが第一位の座につくことが多い。その理由は、母親がもっとも力のある壮年期にあり、メスたちのあいだの第一位についているから。
ボノボでは、肉食するときにメスが肉を支配していて、オスがそれを取りあげたりすることはまずない。ボノボのオスは威勢をはって威嚇することはあっても、メスに対して手をあげることはなく、食べ物にからむ場面では明らかにメスに対して下手に出る。
 人間は、チンパンジー的要素をボノボ的要素の二つを状況に応じて使い分けて生きていますよね。もう少し、優しい生き方をしたいものだと思いました。
 現代の人間にとって、とても参考になる本だと思います。
(2013年12月刊。1300円+税)

折られた花

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  マルゲリート・ハーマー 、 出版  新教出版社
 日本軍が「従軍慰安婦」としたのは、朝鮮・中国の女性だけではなかったのです。インドネシアを占領した日本軍は、そこにいたオランダ人女性を強制的に慰安婦にしたのでした。
安倍内閣は、例の河野談話を見直し、なんとか強制連行ではなく、女性が任意に応じて、金もうけをしていたとしたいようです。とんでもないことです。だまされて連れていかれた人(女性)を「強制連行」ではなかったというなんて、ペテンそのものではありませんか。
 彼女たち全員に共通していたのは恥辱感だ。若いころに自分の身に降りかかったことを恥ずかしく思っていた。悲しみと怒りが、こうした女性たち全員の心に深く根ざした。そして、日本政府が日本軍による強制売春の歴史をたびたび否定するたびに、この女性たちは傷ついた。
 インドネシアは、旧オランダ領東インドであり、推定して3万人の現地女性が日本軍の売春宿で強制的に使役された。
 1942年2月、日本軍はジャワに上陸し、オランダ王国軍は降伏した。
 オランダ王国軍の将兵は、日本軍の捕虜となり、鉄道工事のためにタイへ送られた。
 アメリカ、イギリス、オーストラリアの兵士もふくめ、総数4万2000人の男たちが日本軍の捕虜となった。
少女や若い女性は日本語の書類に、訳も分からないままサインさせられた。それは、「自由意志でやります」という書類だった。性経験のなかった少女たちが、来る日も来る日も、確実に20人ほどの兵士たちに犯された。やりあうのはあきらめ、犯されるままになった。
 1944年のはじめ、オランダ人の少女や女性が抑留所から連行されて、売春を強制されるに至った。200人から300人のオランダ国籍の女性が日本軍用の売春宿に入れられた。
 終戦後、家に帰ったとき、母親は娘を信用しなかった。そして性病が彼女を苦しめた。
箱入り娘として教育を受けてきた彼女は、売春宿なるものが存在することすら知らず、ましてそこで何が行われているかなど知っているはずもなかった。彼女たちは、文字どおり無邪気で純真な少女たちだった。少女たちは最後には抵抗するのを止めた。日本軍は、彼女たちの親がどこの抑留所にいるかを知っていたから、家族に累が及ぶのを怖れたのだ。いつまでも厄介な娘は、一般兵用の売春宿に移された。
戦前戦中に日本軍が海外でしたことを知ると、それは自虐史観だと指摘されるなんて、おかしなことです。真実にしっかり向きあってこそ、ありのままの日本を知ることです。でたらめな歴史観にまどわされたら目も曇ってしまいます。
 日本軍って、アジアの各地で聖戦と称して、本当にひどいことをしたんだと痛切に感じます。
(2013年12月刊。1300円+税)

憲法改正のオモテとウラ

カテゴリー:司法

著者  舛添 要一 、 出版  講談社現代新書
 今や東京都知事である著者が、野に下っていたときに書いた本なので、自民党を激しく批判しています。なにしろ、自民党から「除名」されたのですから、批判するのも当然です。ところが、この本が出るころには、自民党推薦で東京都知事候補になっていたのでした。ですから、報道によると、この本でも批判のトーンが当初よりも緩和されているといいます。
 それでも、自民党の改憲草案と鋭く批判しているところは、幸いに残っています。
憲法改正とは、政治そのものである。これは、私も、まったくそのとおりだと思います。
 立憲主義を分かっていない国会議員に任せて大丈夫なのか・・・。
 これまた、私も同じで、大きな不安感が募ります。
著者は、自民党の改憲草案(第一次)のとりまとめの責任者だった。
 ところが、第二次草案を一読して驚いた。右か左かというイデオロギーの問題以上に、憲法とは何かについて基本的なことを理解していない人が書いたとしか思えなかった。
先輩が営々として築いてきた、過去における自民党内の憲法論議の積み重ねが、まったく生かされていない。
 憲法とは、国家権力から個人の基本的人権を守るために、主権者である国民が制定するもの。つまり、法によって権力を拘束するもの。
 「個人」を「人」に置きかえてしまうと、「人」の対極は犬や猫といった動物のこと。「個人」のような「国家権力」との緊張感はない。
 家族構成員間の相互扶助などは、憲法に書くべきようなことではない。
 自民党内部でも、それなりに意見交換していた。自民党内の独自派は、中曽根康弘、安倍晋三の両氏のみ。協調派は、宮澤喜一、橋本龍太郎、与謝野馨、福田康夫であった。
 自民党内で改憲草案を作成するに至る政治の動きがよく分かり、面白く思いました。
(2014年2月刊。900円+税)

中国抗日映画・ドラマの世界

カテゴリー:中国

著者  劉 文兵 、 出版  祥伝社新書
 中国では反日教育が日頃から徹してやられているとよく言われますが、この本は映画やテレビにおける「抗日」をテーマにした作品、ドラマがつくられている舞台裏を明らかにしています。なーるほど、だったら、日本と変わりないじゃん、と思ってしまいました。
戦前の中国(1941年)では、日本軍の恐ろしさをあまりに強調しすぎると、国民が恐怖にかられ、かえって戦意を喪失するのではないかという批判があり、日本軍の残虐な真実をストレートに表現しなかった。
 なーるほど、映画は真実を伝えすぎても、逆効果になることがあるのですね・・・。
 農民をふくめた一般の観客に対して、いかに分かりやすく抗日のメッセージを伝えるのか、当時の映画人たちは腐心していた。
中国の反戦映画には、日本兵が二通りの姿で登場する。一つは残虐な「敵」であり、もう一つは、中国の民衆に共感して抗日運動に参加する「同志」である。
 1945年8月から中華人民共和国が成立する1949年までの4年間に150本の劇映画が造られたが、抗日戦争にまつわるものは30本ほどでしかなかった。そして、日中の大規模な戦闘を題材にしたものは、まったく見当たらない。これは8年にわたる抗日戦争によって国民党政府が財政上の困窮状態にあったため、スペクタクルを盛り込んだ本格的な戦争映画をつくるだけの環境になかったことによる。
 蒋介石は、みずからの政権の正当性を主張すべく、抗日戦争を勝利に導いたのが国民党の力であったことを、映画をはじめとするメディアを通じて国民へ広めようとした。
 しかし、表面的には国民党が優位だったが、実際には、多くの映画人の心は明らかに共産党に傾いており、国民党のプロパガンダ映画の制作に手を貸そうとはしなかった。左翼的映画の急速な台頭を危惧した国民党政府は、映画検閲の基準をより厳しくした。
 中国共産党が政権を握ってから、政府は戦争映画を重視した。映画撮影所は軍部の直轄下におかれ、映画人は現役の軍人として丁寧に扱われた。
 抗日映画に出てくる日本人は、強力な敵として描かれているのは、注目すべき点である。
 しかし、1950年代半ばから、中国映画における日本兵の描き方には大きな変化が起こった。
 戦争映画では、中共軍の高級将校が登場してはならないとされた。それは、誰をモデルにしているか、すぐに分かってしまうこと、すると映画に取りあげてもらえなかった将校たちの不満を招くという理由からであった。
 加えて、その後の中国共産党内部の権力闘争において、1959年に彭徳懐が、1971年に林彪が失脚し二人が関わった「百団大戦」や「平型関戦役」など、共産党軍と日本軍との大規模な戦闘を取りあげることも完全なタブーとなった。そこで生まれたのが、抗日ゲリラ戦ものである。そこでは、時と場所を特定することなく、抗日戦が描かれている。
 1966年の映画『地下道戦』は、結局、18億人がみることになった(2005年までに)。爆発的にヒットした。もともと民兵に戦術を身につけるために制作された映画だが、娯楽作品として中国の国民に受容された。
 1960年代の中国映画に登場する日本軍人は、かつての残虐さと恐ろしさの代わりに、その愚かさと滑稽さが強調された。日本兵をあえて嘲笑の対象として描くことによって、残忍な日本人という従来のイメージを書きかえ、中国の国民のなかに鬱積していた日本人に対する深い憎悪を、笑いのなかで発散させようとする政治的な意図が働いていた。
 文化大革命の10年間に、中国でつくられた映画は、わずか数十本のプロパガンダ映画のみだった。そこで登場する日本兵は、文革以前より、さらに滑稽でかつ無害な存在だった。
 1985年になると、中国政府は国民党が率いた日本軍との正面戦の意義を客観的に評価するようになった。
 中国の映画については、中国人の一般観客がみたい物語と、政府が見せたい物語、国際映画祭で賞をとるための物語が分離していった。
 コメディタッチの抗日アクション映画は、ほとんど中国国内市場に限定して流通しているが、一つのジャンルとして確立し、現在なお人気は衰えていない。
 中国のテレビドラマ市場は、中国の産業において、もっとも市場メカニズムが支配する世界となっている。視聴者の教育レベルは決して高くはない。だから芸術性を追求するどころではない。
 抗日ドラマがブームになった要因は、主としてブームになった要因は、主として市場の側にあり、政府はむしろドラマに対する指導や規制に追われている。
 抗日ドラマの主な視聴者は、毛沢東時代を経験し、かつ、その時代に強いノスタルジーを抱く中高年層であり、彼らの支持により、一定の視聴率が保証される。
 国共内戦を描くときには、適役が同じ中国人であるために一定の配慮が必要だし、リアリティも求められるが、敵役を日本軍にしたら、格別の配慮はいらないし、ドラマティックな設定や暴力的な表現がいくらでも可能になる。そして、大物スター俳優でなくても、一定の視聴率は確保できるので、制作予算も少なくてすむ。つまり、エンターテイメント性をともないながら、歴史に向きあうというパターンの抗日ドラマが実際に多くの視聴者に受け入れられている。それは、日本の「水戸黄門」のような世界なのである。
 この解説は、本当によく分かりました。なるほど、なるほど、です。
(2013年10月刊。800円+税)

ノモンハン1939

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  スチュアート・D・ゴールドマン 、 出版  みすず書房
 アメリカの学者がノモンハン事件を徹底的に分析・検証した本です。
 1939年5月から9月まで、戦闘が断続的に続いた。
 この紛争は単なる国境衝突事件ではない。10万人もの人が、また1000もの装甲車両と軍用機が4ヵ月のあいだ激烈な戦闘に投入された。死傷者は4万人にのぼる。宣戦布告なき小戦争だった。
 日本軍は、攻撃機が200機、陸軍唯一の独立戦車旅団も出動した。
 ノモンハンでの戦いが頂点に達したとき(1939年8月)、ヒトラーとスターリンは独ソ不可侵条約を締結した。だから、スターリンは、ノモンハンで日本に対して断固たる措置をとることができた。
 満州事変のあと、日本の陸軍内では、「関東軍」は中央の命令を無視する部隊として定着した。
満州における日本の軍事作戦は1931年秋から翌年春まで続いたが、極東地域におけるソ連の軍事的弱点を知っていたスターリンは、厳正中立の政策をとった。ソ連が軍事介入しなかったばかりか、国境線沿いで示威活動することもなかった。
 1937年時点で、ソ連赤軍は順風満帆とはとても言えない状況にあった。その2年前に始まったスターリンの大粛清が規模と激しさを増し、軍に波及していた。赤軍の首脳部がほとんど粛清され、消えていった。
 1937年6月の時点で、日本の陸軍は、司令官レベルの処刑は赤軍の統制を乱し、日本にとって赤軍はもはや恐れるに足りない存在だと結論づけた。
 1936年11月に、日本はドイツと防共協定を結んでいた。
 1939年3月、ドイツ軍がチェコスロヴァキアに侵攻した。
 1938年6月、ソ連のリュシコフ少将が日本に亡命した。
 1938年の張鼓峰の戦いでソ連軍に敗北したことによって帝国陸軍の名誉と威信は大いに傷ついた。関東軍は、屈辱感を味わった。
 砲や戦車、飛行機といった物質面で質量ともにソ連が優位に立っていることが明らかになったにもかかわらず、日本軍の首脳は、この点をまったく顧みなかった。
関東軍の小松原中将は当時52歳。帝国陸軍きってのロシア通だったが、戦闘を経験したことはなかった。かつて、ハルビンで特務機関長をつとめていた。
 辻政信少佐(関東軍作戦課)は、奇矯な人種差別者で、獣性をむき出しにして蛮行に及ぶことがあった。辻少佐のつくった「満ソ国境紛争処理要綱」は、問題を解決するより、むしろ紛争をひきおこすためにつくられたようなものだった。
 関東軍を抑え込むためには、軍司令部の人員を大幅に異動させるという強硬な措置が必要だった。だが、ときの参謀本部には、あえて波風を立てるようなことを考える者は誰もいなかった。関東軍は野放しにされ、独断にもとづく行動を許されたも同然だった。
 日本軍の過剰な自信は、日本軍の情報活動の不満の結果でもあり、原因もある。ソ連の戦力を関東軍が過小評価し続けたのは、彼らの慢心に帰することができる。
 陸軍大臣の板垣中将は顔見知りの辻少佐を擁護した。
 1939年に満州国にあった自動車のうち、関東軍がつかえたのは800台。これに対してソ連は420台以上の自動車を動員し、兵站業務をすすめていた。
 ノモンハンでは、飛行機とパイロットの数において、ソ連が2対1で日本に優位に立っていた。ノモンハン事件で日本軍の死傷者は2万3000人。これに対して、ソ連は2万6000人。
 しかし、赤軍の力がはっきり実証され、関東軍が無残な敗北を喫した事実は否定しようがない。関東軍はソ連に対する全面戦争を決断した。しかし、陸軍中央はそれを許さず、大々的な人事異動を行った。こうして関東軍司令部の中枢グループは崩壊した。ところが、別の場所で息を吹き返した。
 ノモンハン事件で関東軍の味わった苦い経験は、深い刻印を残し、それが北進から南進への日本の方針転換への主な要因となった。
 ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の有力な開戦論者になった。服部卓四郎中佐と辻政信少佐である。この二人は参謀本部作戦課の中枢にポストを得た。
 1939年に起きたノモンハン事件が、日本とヨーロッパに大いなる影響をもたらした大事件だったことがよく分かる本です。
(2013年12月刊。3800円+税)
 私の住む団地の桜が満開となりました。熊本城の桜は8分咲きでした。週末がちょうど見頃になりますね。
 ハクモクレンそしてシモクレンも、あちこち満開です。我が家の庭のチューリップもに日に日に花が増えています。春は、いいですね。なんだか浮き浮きしてきます。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.