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2014年1月 の投稿

戦争記憶の政治学

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  伊藤 正子 、 出版  平凡社
 ベトナム戦争は、私が物心ついたときには既に進行中でした。大学生時代には、ベトナム反戦デモに何回も参加しました。
 「アメリカのベトナム侵略戦争に反対するぞ」
 こんなシュプレヒコールを何度も何度も叫びました。深夜に、東京・銀座の大通りいっぱいを埋めるフランスデモをしたときには、気分も爽快でした。
 そのベトナム侵略戦争には、韓国軍も加担していました。
 1965年から1973年までの9年あまり、韓国軍の青龍(海兵第二旅団)・白馬(第九師団)・猛虎部隊(首都師団)など、31万人あまりがベトナムに行き、5000人ほどの戦死者を出した。
 この9年あまりのあいだに、韓国軍は1170回の大隊級以上の大規模作戦と55万6000回もの小規模部隊単位作戦を遂行した。そして、韓国軍は4万1400人の「敵」を射殺した。韓国では、ベトナム戦争への参戦は「武勇伝」として語られてきた。
 1999年からハンギョレ新聞はその実情を知らせるキャンペーンを展開し、大反響を呼んだ。
 2000年6月、ハンギョレ新聞社はベトナム参戦軍人2400人に包囲され、パソコンを破壊され、幹部が監禁された。
 ところが、これに対するベトナムの反応は複雑だったのです。
「反韓」感情が国民のなかで強くなり、ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、ベトナム国家はこの問題が全国的に継続的に報道されることを許さなかった。その結果、ベトナム戦争の終結後に生まれた世代が7割を占めるようになったベトナムでは、戦争中に韓国軍が引き起こした事件は当該地域以外であまり知られていない。
 ベトナム戦争によって、ベトナムでは30万人が亡くなり、450万人が身障者になり、200万人の枯葉剤被害者が発生した。でも、アメリカがベトナムに与えた苦痛に比べたら韓国軍の誤りはとても小さいと言える。
 ベトナム戦争に参戦した韓国側のNGOは、「負の歴史を刻んで未来の平和に生かそう」というスローガンで活動している。ところが、ベトナム国家は、それとは逆の「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガンを掲げている。過去に多くの国家から侵略を受けてきたベトナムは、グローバル化する21世紀を生きていくうえで、どの国家とも良好な政治・経済関係を維持・発展させていくために、この方針をとっている。
 2009年、韓国の国会で審議中の法律の条文に「ベトナム参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」とあるのに、ベトナム政府が抗議した。
 金大中(キム・テジュン)大統領は、非常に明瞭な形でベトナムに謝罪の言葉を述べた。その後、ODAによるベトナム中部地域への韓国からの投資が増大した。
 しかし、金大中大統領の謝罪は、自分たちの尊厳を冒瀆したとみなすベトナム参戦軍人たちが反撃に出た。「中途半端」な村の虐殺事件の記憶は、経済発展に慢心することこそが至上命題の現在のベトナム国家にとって、掘り起こしても何の得もない「歴史」にすぎない。
 ベトナム戦争をめぐる公定記憶は、人々の苦しいながらも国家に貢献した誇らしい記憶である。しかし、「輝かしい勝利」になんら貢献していない、生き残りの人たちが語る「ハミ村の虐殺」は、ベトナム国家の公定記憶になりえないのだ。つまり、韓国軍による虐殺の記憶は、ベトナムでは、ナショナリズムと結びついた記憶にはならない。結びつけようとした時点で、ナショナリズムがほころびてしまう。この点が、日韓や日中の関係ともっとも異なるところである。
 私が韓国軍のベトナム参戦とその問題点を知ったのは、1989年に『武器の影』(岩波書店)、1993年に『ホワイト・バッジ』(光文社)を読んでからのことです。それが今、ベトナムが経済成長優先策のもとで難しい局面を迎えているのを知り、複雑な気分になりました。
(2013年10月刊。2800円+税)

オバマの医療改革

カテゴリー:アメリカ

著者  天野 拓 、 出版 勁草書房 
 アメリカという国は本当に遅れた、野蛮な国だとつくづく思いました。だって、国民皆保険なんて、あたりまえのことでしょ。日本もヨーロッパも,
みんな当然のように古くから実施しているじゃないですか。政府が国民皆保険にしようというと、そんなのは社会主義だ、アカだなんて共和党の議員が絶叫して反対するだなんて、本気ですかと言いたくなります。信じられません。
 クリントン政府が失敗し、今度、オバマ政権がようやく実現したアメリカの国民皆保険制度は、なんと民間保険会社への加入を義務づけるものだなんだそうです。またまた民間の保険会社の金もうけ話になってしまうのです。それでも反対する人が多いなんて・・・。
 アメリカの制度は、日本や多くのヨーロッパ諸国の制度とはきわめて性格が異なる。アメリカのものは民間保険をベースにしている。日本などの国民皆保険制度は、基本的に公的な医療保障制度を中核としている。アメリカの制度は、民間の医療保険を中心とする。既存の医療制度をベースに国民皆保険制度の実現を目ざすものである。
 2010年3月、オバマ大統領が署名して医療改革法が成立した。それまでアメリカでは、1910年代に皆保険を導入しようとして、いずれも失敗に終わっている。医師会は国民皆保険制度は「社会主義化された医療」につながるという反対キャンペーンを張った。
 私などは、社会主義化されても大いに結構だと思うのですが、アメリカでは、とんでもないことの代名詞になっているようです。
 メディケアは、65歳以上や一定の病気をもつ人、障害者などを対象とするもので4700万人15%が加入している。受給者の3分の2が女性であり、6割がメディケアとメディケイドを重複して受給している。
メディケイドは、低所得者を対象とする医療扶助制度。2010年に5084万人(16.5%)の加入者がいる。2001年には3017万人だったから、10年間で2000万人の増加である。メディケイドは、アメリカの医療制度における「セーフティネット」であり、3100万人の児童をカバーしていて、アメリカの出産の4割を財政的に支援している。2011年度のアメリカ人口3億人あまりのうち、民間医療保険の加入者は2億人近い(64%)。
 しかし、戦前の1940年には、総人口1億3200万人のうち、医療保険に加入していたのは1200万人、10%にすぎなかった。戦後になって、民間保険の加入者は急増している。アメリカの医療制度のもっとも大きな特徴は、4861万人(16%)もの無保険者が存在すること。無保険加入者の多くは、19歳から64歳までの成人。無保険者はマイノリティに多い。ヒスパニックの30%(1578万人)、アフリカ系20%(772万人)、アジア系17%(270万人)。
ヒスパニック系の無保険者は1990年に700万人だったのが、2000年には1120万人へ急増している。
無保険者のうち就労者が2800万人で、年に1週間も働いていない人が1310万人もいる。無保険者は家計所得が中程度のミドルクラスのあいだで着実に増加している。
 無保険者問題が深刻なのは、それが個人、家族、コミュニティ、経済などに広範な影響を及ぼすからである。
 アメリカへの不法移民は850万人から1180万人まで増加し、それが180万人もの無保険者の増加につながった。アメリカぜんたいの無保険者の690万人の増加の27%になる。
アメリカは国民皆保険をうたいながらも、2019年時点で2200万人が無保険者のまま取り残される。アメリカは先進民主主義国のなかで、唯一、今後とも多くの無保険者がかかえ続けていくことになる。
民間保険会社は、健康状況の悪い人間の保険加入を拒絶しようとする傾向にある。
 マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』をみて、私はアメリカではうかうか病気になれないなと思いました。民間保険会社の査定・選別は営利主義一本槍でありまるで人道に反しています。
 アメリカ人の多くが医療改革を望んでいながら、現状維持を志向し、改革によって負担をこうむるのを嫌悪する傾向にある。
アメリカ先進国のなかで、もっとも医療費が高い国である。国民医療費は2兆7000億ドル(2011年)、1人あたり医療費は8680ドル。前年度より3.9%伸びている。国民医療費がGDPに占める割合は18%である。
 アメリカにおける医療費が高いのは、システムの大半が投資家によって所有されていることにある。医療ビジネスは、投資家を満足させるだけの利益を必要としている。
 病院は、効率的であるよりもむしろ利益の上がるサービスの提供に集中する傾向にある。それがコストの高騰につながっている。
 今日の民間保険の大半は投資家によって所有されたビジネスである。アメリカの民間保険産業は、その保険料から少なくとも5000億ドルの収入を得ている。その管理運営コストと利益が、医療費を何十億ドルも押し上げている。
 こんなアメリカのようにしようというのが安倍政権の考え方です。やめてほしいです。大金持ち中心の国にするなんて、とんでもありません。
 340頁もある。大変貴重な労作です。
(2013年10月刊。3800円+税)

歴史の読み解き方

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  磯田 道史 、 出版  朝日新書
 日本人とは何かを考えるとき、必読文献の一つだと思いました。
室町時代の庶民は家の墓所は持っておらず、家の意識はうすかった。中世までの日本人は近世に比べて流動性が高く、しばしば移住していた。
 「親元と定住」の文化は江戸時代にできたもの。中世的な武士の集団は寄せ集めだった。江戸時代的な武士の集団は石のように固まって密集していた。
 武士の世界は家格によって気質が違う。10石以上の上土は独立性が強く、藩主にも、ずけずけと物を言うように育てられる。傍若無人で、わがままな人が多い。高杉晋作や大隈重信がこの部類。
これに対して福沢諭吉、大久保利通、西郷隆盛など50石以下の徒士(かち)は小役人で実務能力がある。家督を相続するときに筆跡とソロバンの試験があった。能吏タイプが多い。徒士は身分にこだわる上士とちがって学校教育に抵抗がない。旧武士のうち、この薄いこの徒士層が日本の近代化に大きな役割を果たした。及木希典・児玉厳太郎、大山厳・・・。日露戦争の将軍はほとんど禄高50石くらいの徒士出身。日露戦争の将軍に旧農民はいない。旧大名もいない。彼らは徒士の文化で育った特殊な人たちであり、一般の日本人ではない。
テレビの水戸黄門では悪代官だらけだが、あれは嘘。代官は大勢の武士のなかから学問のある清廉な者を選んでいた。
 藩の最高意思決定者は藩主・大名と思われがちだが、これは半分以上、間違い。藩主が藩政をみていたのは江戸前期の100年間くらい。のちには、「家老と奉行の合議」で決めた。ただ、藩主は家老や側近などの人事案には口が出せた。
 江戸中期以降、通常、藩主は家老会議には出席しない。藩主は、企業でいうと、社長というより会長か最高顧問といったほうがよい。
 家老が人事を決める。藩主は報告を受けるが、人事は多くは先例と家格で決まる。家老はほとんど世襲で、秘書役に操られていることも多い。実質、藩の意思決定は誰がしてるのか分からない。
 日本人は追いつめられると強い。どんな変革も改革ものみ込む。
 日本人は、いったん負けの原因を認めると変わるのは早い。安定を好むので、安定が失われそうになると、不安になって一気に改革に向かう。
 日本人は外部から大きな変化の波を受けると、変わりやすい。
日本全国が均一に識字率が高かったのではない。明治前期までの日本では、識字率は京都の周辺と、東海・瀬戸内海が非常に高く、東日本や東北・南九州は低かった。
 江戸時代の日本は、現代の私たちが思っている以上に、銃のある社会だった。人口4000人の村に277丁もの銃があった。江戸時代以来の日本人の家庭から銃や刀が消えたのは、アメリカ軍の占領によるところが大きい。
 江戸時代の奉行所・代官所は税務署と代用監獄ほどの役割しか担っていなかった。今日のこまかな行政サービスは、庄屋と村の仕事だった。犯罪が発生しても、犯人は村人たちが捕まえてくる。奉行所は、牢屋と番人さえおいておけばよかった。
 江戸時代の治安が良かったことの理由として、刑の厳しさがあげられる。事件が起きて領主のところにもちこまれると、その犯人は死刑になる可能性が高い。それで、江戸時代には、「お上」の領主裁判を回避する文化ができあがり、これがこの国の法文化になっていった。
 江戸時代の前半、人はすぐ死刑にされていた。水戸藩では1646年から1666年までの21年間で1000人が捕まり、うち104人が死刑になった。ところが、江戸の後期になると、町の組織が犯罪を抑止した。地域共同体が犯罪抑止に機能していた。そのため江戸時代の治安は良かった。
 幕末の長州藩の意思決定のやり方が紹介されていますが、これは圧巻です。
上段の間の真ん中に藩主が座り、藩主の左手と右手に家老が列座する。会議中、藩主は基本的に発言しない。
 最初に月番の家老が発言する。たとえば・・・。
「今日は攘夷の決行についてどうするか、評議してください」
すると、次の間という一段低い部屋の末席に座っている官僚たちが議論を始める。これが何時間も続き、大声で怒鳴りあったりする。その間、上の段にいる藩主と家老たちは無言で、一切しゃべらない。3時間でも4時間でも聞き続ける。
 下座、末席の者たちがはげしく議論して、そろそろと思うと、家老が意見をまとめる。そして、次の瞬間に、藩主が「そうせい」と言う。これが鶴の一声となって、合議の一同は、反対派も賛成派も一斉に平伏して決定に服する。長州藩では、こうやって藩の意思がしっかり決まっていた。藩主の権威づけのもと、断固たる決定ができたわけであるから、みなが服することになり、決定から実行までのスピードが速い。これがあとで政事堂というものになる。
 明治維新になって、各藩がこれを真似しはじめて、日本中に政事堂ができた。
 こうやって国会の下地が出来ていったわけですね。まったく知りませんでした。
 有名な五箇条の御誓文のなかに「万機公論に決すべし」とあるのも、きっと、このような実績をふまえたものだったのでしょうね。
 この本で語られていることは、どれも近代日本そして日本人の成り立ちにとって大きな意義のあるものばかりです。230頁ほどの新書ですが、いたるところに赤エンピツで棒線を引いて、この新書も真っ赤になってしまいました。
(2013年12月刊。760円+税)

幕末史

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  半藤 一利 、 出版  新潮文庫
 明治維新と言っても、明治の初めには、ほとんど維新という言葉は使われていなかった。「御一新」だった。へー、そうなんですか・・・。維新の会も馬脚があらわれて、ついに失墜してしまいましたよね・・・。
ペリー提督の率いるアメリカ艦隊が日本にやってくるという情報は、その前から日本に入ってきていた。だから、来た時には、三人の与力が船で近づき、フランス語で「速やかに退去すべし」と書いたものを高くさしあげた。
 英語ではなく、フランス語なのですね。いったい、誰が書いたのでしょうか・・・。
アメリカはオランダに日本との交渉の仲介を頼んだ。オランダは、それを断り日本の長崎奉行を通じて、「アメリカはいずれ艦隊を率いて日本に来るだろう」と幕府に知らせた。ペリー来航(1850年)の3年前のこと。
勝海舟は、中国におけるアヘン戦争が勃発したとき18歳だった。22歳のとき、佐久間象山を訪ねて、世界情勢を学んだ。そして、剣術をやめてオランダ語を学びはじめた。
 日本に来たペリーは、当時59歳。ペリーには、早く帰りたい事情があった。国書とともに持参すべきお土産品を持っていかなかった。国際儀礼に反することの指摘を恐れた。しかも、水と食糧が減っていた。また、中国で「長髪族の乱」というのが起こって、中国にいる在留米人の保護を急ぐ必要もあった。
 江戸幕府は、250年間、「由らしむべし、知らしむべからず」を大法則としてきたが、広く町民をふくめて意見を出すよう布告した。勝麟太郎(31歳)、河井継之助(27歳)も意見書を出した。
明治元年に勝海舟は46歳、岩倉具視(ともみ)44歳、西郷隆盛42歳、大久保利通39歳、広沢真臣(さねおみ)36歳、木戸孝允(たかよし)36歳、江藤新平35歳、井上馨34歳、三条実美(さねとみ)32歳、板垣退助32歳、後藤象二郎31歳、山県有朋31歳、大隈重信31歳、伊藤博文28歳。これは今の官僚なら、部長が課長クラスである。そんな若さで新政府がトップメンバーを占めて、政治を運営していたのだから、てんやわんやだったのも当然のこと。
 それまでの日本人のなかに天皇家に対する尊崇の念があったとは言えない。当時の日本人は、将軍を公方(くぼう)様と呼んで唯一の支配者と思っていた。天皇はミカドであり、朝廷を内裏(だいり)ないし禁裏(きんり)と呼んで、およそ関係のない遠い存在としていた。ミカドはたしかに存在していたが、公方さんの方がずっと大事だった。
 幕末のころ、長州も薩摩と同じく長年にわたって密貿易でお金を稼いできたので、資金はたっぷりもっていた。
天皇という言葉は明治20年代になってから日本人に普及しはじめた言葉であって、それまではコトバとしてあるだけだった。
 共和国の建設を説く勝海舟や大久保一翁は天皇をほとんど意識していなかった。
 大久保利通は、「非義の勅命」は勅命ではないから、従う必要はないと高言した。尊皇なんてどこ吹く風。自分たちの正義にあわなければ、勅命もへちまもない。天皇をうまく使って国家を乗っとる。そのための玉(ぎょく)と考えていた。天皇陛下がすごく尊いものだという意識は藩長の人々にもなかった。幕末の日本人が天皇中心の皇国日本をつくりあげようとしたというのは歴史の事実に反すること。
 幕末の孝明天皇は病的なほどの外国人嫌いだったが、幕府に変わって政権を握るという意思はまったくなかった。ましてや、倒幕なんてとんでもない。むしろ朝廷と幕府が仲良くしながら進めていく朝幕体制に強い希望を抱く、明らかな公武合体論者だった。
 講話調ですから、とても分かりやすくて面白い幕末通史になっています。
(2013年7月刊。710円+税)

変り兜

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  橋本 麻里 、 出版  新潮社
 こんなにいろんな形と色のカブトがあるなんて、ちっとも知りませんでした。
 戦場のオシャレは命がけ、とありますが、大将たちはまさしく命がけの戦場で精一杯のおしゃれをしたのです。
徳川家康の19歳のときの甲冑(かっちゅう)はゴールド尽くしです。戦場で光り輝いたことでしょう。
 「井伊(いい)の赤備(あかぞなえ)」で有名な井伊直政のカブトは朱塗りです。戦場に朱塗りで固めた一団が現れたら、さぞかし脅威だったことでしょう。
 伊達政宗の重臣の伊達成実(しげざね)の南蛮鎖兜(くさりかぶと)は、なんと、巨大なムカデをその前面につけています。ムカデは怪異なる動物で、毘沙門天の仲間だった。
 蝶兜(ちょうかぶと)もあります。こちらは、優美な蝶のイメージです。
毛利家伝来の兜には、孔雀の羽で装い、ヤクの白い毛がついている。
 ウサギの頭がそっくりカブトになっているのもあります。ウサギの耳がピンと立っています。
 サザエの形をしたカブト、しゃちほこ形のカブト。いろんなものがあります。なんと、ハマグリをのせたカブトまであります。
見るだけで楽しいカブトの写真集です。
(2013年9月刊。1600円+税)

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