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2013年9月 の投稿

憲法問題-なぜいま改憲なのか

カテゴリー:司法

著者  伊藤 真 、 出版  PHP新書
著者は、自分のことを護憲派だと思ったことはないと言います。
 ええーっ、だって・・・と思うと、次の言葉で救われます。なるほど、なるほど、です。
 自分のことを改憲派でもなく、「立憲派」だと思っている。
 著者が現憲法にも変えたほうがいいという点も示唆に富んでいます。たとえば、こうです。
 現憲法は人間中心であるがゆえに、動物や植物に、さらにいうと地球と共生していくという視点がない。地球環境に言及する条項もあっていい。なーるほど、ですね。
 しかし、憲法の基本から逸脱すると、憲法で社会を良くするつもりで改正したのに、逆に悪くなってしまったという自体を招きかねない。
 604年に聖徳太子が制定したといわれる十七条の憲法にも、立憲主義の考え方が隠れている。「官吏は賄賂をとるな」(5条)、「任務をこえて権限を濫用するな」(7条)、「国司や国造は人民から勝手に税をとるな」(12条)という条項には、国民を守るために国家権力を縛ろうという意図が込められている。
 このように、マグナ・カルタより600年も早く、日本には国家権力を縛る考え方が存在していたわけである。
ちなみに十七条憲法でよく紹介されている「和をもって貴しとなし」というのは、このころあまりに争いごとが多くて裁判が増えすぎたので、いい加減にしろ、もっと仲よくなりなさいというものであって、日本人が仲良くしていたというのではありません。誤解しないようにしたいものです。
安倍首相と自民党の96条改正先行論は、改憲の「裏口入学」であって、真の目的は戦争放棄を誓った9条の改正にある。
 自民党改憲草案の前文には、日本は「天皇をいただく国家であって」としている。これは、国民の上に天皇がいて、権威のある天皇に国民が従属しているという構図を想起させる。そして、改憲草案の前文第二段には、日本が戦争加害者になったことに触れていない。
 夫婦同姓が日本の伝統的な家族のあり方だというのは誤解。夫婦同姓がスタンダードになったのは、明治以降のこと。それまでは夫婦といえども別姓があたりまえだった。有名な北条政子は源頼朝と結婚しても名前は変わっていない。
 個人の尊重は、立憲主義にもとづく憲法の根底にある大事な考え方である。人間を身分や制度から解放して、かけがえのない個人として尊重しようとするもの。一人ひとりが多様に生きていることこそがすばらしい。それが個人の尊重の意味。ところが、自民党の改憲案は「個人」から「個」をとって、「人」とした。「個」をとったということは、人を自立した個人ではなく、「人」という集団としてとらえているということに他ならない。
 人を個人として扱われなくなれば、個人としての責任も曖昧になる。
人々が苦労して発展させてきた立憲主義の歴史をふまえたとき、時代の針を巻き返すような自民党の改憲案を認めることが、はたして正しいことなのかどうか、ぜひ考えてほしい。
 わずか250頁の新書ですが、最新の知見と論点を盛り込んで改憲論の問題点をじっくり考えさせてくれる本になっています。一読をおすすめします。
(2013年7月刊。760円+税)

リンパの科学

カテゴリー:人間

著者  加藤 征治 、 出版  講談社ブルーバックス新書
リンパとは、血管から周囲の組織に漏れ出た成分である「組織液」を吸収したもので細胞成分(主にリンパ球)と液体成分(リンパ漿)が生まれる。
 リンパ官系の源流は、組織液を吸収する毛細リンパ官である。
 心臓という「ポンプ」をもたないリンパ管では、からだの位置(重力)や姿勢によって、リンパ管周囲の筋肉などの組織が動くことにともなって受動的な管壁の収縮が生じ、くねるような蠕動(ぜんどう)運動をしたり、弁の開閉によってリンパが行ったり来たりする振り子運動などによって運ばれる。
 リンパは、リンパ節内でいろいろの生体反応を起こしながらも、やがて静脈に合流するまで流れ続けていく。リンパは、いくつもの細いリンパ管が合流した集合リンパ管に集められ最終的には血管に入って血液に戻る。
 リンパは血清に比べて、総タンパク量が少ない。リンパは分子量の低いアルブミンのほうが、グロブリンより60%多い。リンパのほうが、血液より粘土製が低く、さらさらで流れやすいため、ゆっくり流れていても循環できる。
 リンパ管を流れるリンパの中の血球をリンパ球と呼ぶ。
 リンパは、その大部分が液体成分であり、赤血球をほとんど含まないため、薄い黄色である。リンパの中にある血球は白血球であり、その大多数がリンパ球である。リンパが身体中を一周して元に戻るまでには、12時間かかる。リンパの流れを手助けするためには足首をぐるぐる回したり、ふくらはぎをもんだりするのが効果的。
 胸管やリンパ節の輸出リンパ管内のリンパは、免疫担当細胞である多数のリンパ球を含んでおり、全身をめぐって、局所の臓器における免疫反応に働いている。
 リンパ節から胸管に流れるリンパは、免疫反応を起こすための免疫担当細胞の供給という観点から欠くべからざる存在である。
 リンパ組織は、体内における警備室のようなところで、細胞や異物などの抗原が入ってくると、まず警備員として最前線で働くマクロファージ(大食細胞)がそれらを取り込み、その情報がリンパ球に伝えられる。細胞にとりこまれた抗原は、リンパ管内のリンパに乗って、近くのリンパ節に運ばれる。リンパ節内では、「免疫戦争」(抗原-抗体反応)が起こり、特異的な抗体(タンパク質)が産生される。そのときリンパ節の肥大(ぐりぐり)が確認できる。
 大切な人体内のリンパのことを知ることのできる本です。
(2013年6月刊。900円+税)

ぼくらの文章教室

カテゴリー:社会

著者  高橋 源一郎 、 出版  朝日新聞出版
文章というのは、それを書いた人の「顔」ではないか、と思えてくる。
あえて、ここには紹介しませんが、この本の冒頭にある短い文章は、まさしく、その典型的な例証だと思います。
 アップルのスティーブ・ジョブズの話も紹介されています。私は『驚異のプレゼン』という本を読んで知っていましたが、なるほど、すごい文章です。ともかく、思わず身体がぐらぐらと揺さぶられるほど、心がうたれます。
 毎日毎日、何の変哲もない単調な作業の続く労働現場にも、見方をちょっと変えると、モノカキの大いなる題材がころがっている。要は、それをとらえる視点があるかないかの違いだ。なるほど、そうなんでしょうね・・・。
 人間は、苦痛のあまり、考えることをやめてしまうことがある。しかし、人間は考えることによって初めて人間になる。
 その場所、与えられた場所、そこで生きねばならぬ場所、いまいる場所、そこに住む自らの姿を見つめること、それが「素人」の考える、なのだ。そのために「素人」は「文章」を書く。遠くまで出かける必要はない。「文章」が書かれている場所はどこでもいい。
 いつか必ず文章がうまく書けるようになる方法はある。それは、文章を読むこと。それも、「ただ」読むのではない。優れた文章、誰もかけないような文章、一見ふつうだけれど、読めば読むほど、それがもっている強い力に引きずりこまれてしまうような文章、そのときには分からなくても、ずっとあとになって「あっ」と小さな叫び声をあげ、自分が一つステップを上がった気になってしまう文章などなど。それらを、自分の中に「しみ通らせる」ように読む。
できるだけ細かく、どのように書かれているのか分析し、解釈して読む。そして、それを限りなく繰り返す。
 私が10年以上も、こうやって他人の文章を書き写す作業をしているのも、文章作法の一つなんですよね・・・。モノカキ思考の私には、とても学べる、実践的な内容の文章教室でした。
(2013年4月刊。1600円+税)

ブルゴーニュ公国の大公たち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジョセフ・カルメット 、 出版  国書刊行会
ボルトーと並んで有名なワインの名産地、ブルゴーニュ地方には中世に大きな公国があったのでした。その首都デイジヨンには大きな館があり、今では市庁舎と立派な美術館になっています。昔の栄華をしのばせる偉容には圧倒されます。
そして、デイジョンもボーヌも、まさしく美食の町です。星があろうとなかろうと、心ゆくまで美味しい食事を堪能することができます。ボーヌには2度行きましたが、ぜひまた行きたいところです。
初代ブルゴーニュ公のフィリップ・ル・アルディは、1342年生まれ。背が高く、頑健で、よい体付きをし、丸々と太っていて。色の黒い醜男だった。明敏な洞察力こそは、機を見るのに敏な感覚、決心とあいまって、公の主な長所とも言えた。
 二代目ブルゴーニュ公のジャン・サン・プールは、勇敢で大胆で、ひねくれ者で、際限のない野心家だった。1407年11月、ルイ・ドルレアンがジャンによって暗殺された。ジャン・サン・プールは、野望をみたすためには、目的のためには手段を選ばず、緊迫した情勢を解決できるなら、犯罪であってもやってのける政治家だった。逆にオルレアン公の方がブルゴーニュ公の暗殺を図っていた。だから、正当防衛しただけのことだと喧伝された。
 英国軍がヘンリー5世の下にアザンクールでフランス軍を大敗させた。ジャン・サン・プールはヘンリー5世と結んだ。そして、1419年9月、ルイ・ドルレアン公殺しの張本人が、モントロー橋の上で暗殺された。
 三代目のブルゴーニュ公は、フィリップ・ル・ボンである。背は高く、風采は立派、人並みすぐれ、見栄えする容姿の持主だった。その私生活は庶外れの自由奔放さで、30人の愛人がいて、公認の私生子は17人いた。
 このフィリップ・ル・ボンの時代に、あのオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクが登場する。ジャンヌ・ダルクは、金貨1万エキュという巨額でもって英国人に売られた。裁判長のピエール・コションは、残忍な対英協力派、何でもやってのける聖職者だった。フィリップ・ル・ボンはジャンヌ・ダルクの裁判をちゃんと知らされていた。
 四代目で最後のブルゴーニュ大公は、シャルル・ル・テメレール(突進公)である。
 自分にも、他人にもきびしく我慢を知らず、粗暴で執念深く、すぐに逆上した。
 ブルゴーニュ公国では、民衆的な劇が非常に好まれ、数多くの俳優がいた。まばゆいばかりのロマネスク芸術の一派が花を咲かせた。
ブルゴーニュ宮廷は、15世紀に、稀にみる輝きを発した。祝宴は、公家のお得意芸の一つだった。パントマイム、人体を組みあげてくるお城、軽業の見世物などが宴会にはつきものだった。たえず工夫をこらしていることが決まりだった。
 ブルゴーニュ公国には、制度上の一体性はまったくなかった。
ブルゴーニュ公国は、現在のフランス、ベルギー、オランダ(の一部)、ルクセンブルクなどにまたがった広大な版土を有していた。
そんな中世のフランス公国を知ることのできる本格的な歴史書です。
(2000年5月刊。6500円+税)

月神

カテゴリー:社会

著者  葉室 麟 、 出版  角川春樹事務所
8月初めに網走刑務所(旧)を見学してきました。2度目の訪問ですが、20年ぶりに行ってみると、すっかり見学者向けの近代的施設ができていました。
 それでも、放射線状に並ぶ、天井の高い監獄の部屋は当然のことながら昔のままです。こんな高い天井から脱獄した囚人がいたなんて信じられません。今も、まさしく脱獄しようという男が天井のはりから外へ出ようとしています。その人形が不気味です。そして五寸釘寅吉という脱獄を繰り返し、最後は模範囚となった人物の人形が門のそばで待ち構えてくれます。
 夏でも20度あまり、寒になると、零下20度の世界。そんな厳しい寒さのなかで働かされていた囚人たちは哀れです。
 この本の主人公は、福岡藩の藩士だった月形潔が、幕末の嵐を生きのびて北海道に新設された集治監(監獄)の初代典道(所長)になったのでした。網走ではなく、樺戸のほうです。
 ですから、まずは幕末期の福岡藩で何が起きていたのかが語られます。福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は尊王攘夷(そんのうじょうい)派に対して厳しい態度でのぞんだ。彼らが藩主の威光を恐れず、それどころかたてつく存在であるのを嫌い、警戒した。
 江戸で桜田門外の変、そして坂下門外の変が起きた。
 長洲藩は禁門の変をおこして、敗北した。福岡藩内の情勢は複雑だった。尊王攘夷派も幕の中枢にのぼっていった。そして、彼らは薩摩と長洲が連合するよう働きかけていた。
 そして、藩主は筑前尊攘派を弾圧した。リーダーである月形洗蔵は斬首された。
 明治となり、石狩地方に樺戸(かばと)集治監が設置されることになり、その初代典獄に月形潔が就任した。
 囚人たちは道路建設工事に施設された。囚人1150人のうち、900人が発病し、死者は211人にのぼった。
 月形潔は初代典獄を3年つとめて福岡に戻り、明治27年に48歳のとき病死した。
 囚人のなかには政治犯もいたと思うのですが、ひたすら典獄として秩序維持にいそしむ潔の心情が哀れです。
 幕末から明治の雰囲気を知ることのできる本です。
(2013年7月刊。1600円+税)

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