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2013年7月 の投稿

小さな達成感、大きな夢

カテゴリー:司法

著者  木山 泰嗣 、 出版  弘文堂
著者と私は、もちろん年齢はかなり違いますが、とても共通するところがあります。
 その第一は、多読だということです。著者は年間4000冊の本を読むそうですが、私は年に少なくとも500冊は読みます。最高は700冊を超えました。その大半は電車や飛行機に乗って移動中の読書の成果です。したがって、忙しければいそがしいほど、読んだ本も比例して増えます。じっと事務所にいて読書量が増えるということはありません。また、家庭では本を読むことも滅多にありません。家庭にいるときは、インプットではなく、アウトプット、つまりは発信するために書いているのです。
 第二には、著者はたくさん本を書いています。年に8冊の本を出したそうです。これはすごいと思いますが、今の私は真似したいとは思いません。いえ、決してジェラシーからではありません。私にとって、年に1冊の本が出せれば十分なのです。そして、本当に、それを目標として、実行してきました。著者でなくても編集でもかまいません。ともかく、本の出版にかかわれたらいいのです。
 第三に、著者は、他人(ひと)がやっていないことをやってみることにチャレンジしましたが、私もまさにそうでした。関東での3年間の弁護士生活のあと、Uターンして故郷に戻ったとき、新しい分野を切り開くことを決意して、弁護士会への転入申し込み書にそのように書き込みました。そのとき、私は28歳でした。それを実行するのに、私はこだわりました。人権擁護問題、消費者問題に取り組み、そのことで経営的にも安定したのでした。
 著者ほどの本は書いて出版していませんが、自費出版を含めると弁護士生活40年になる今日まで、毎年1冊以上は出版してきました。本当にありがたいことです。
著者は童話『憲法がしゃべった』(すばる社クンケージ)があるとのことです(まだ、読んでいません)。私は、童話ではなく、絵本を出版したことがあります。絵を描くのが好き(得意)な弁護士会職員との共作です。ちっとも売れませんでしたが、私にとっては、いい思い出になりました。
(2013年6月刊。1500円+税)

「ローマの休日」を仕掛けた男

カテゴリー:アメリカ

著者  ピーター・ハリソン 、 出版  中央公論新社
ご存知、かの有名なダルトン・トランボの伝記です。ええーっ、ダルトン・トランボなんて聞いたことがないんですって・・・。でも、映画「ローマの休日」なら見たことがあるでしょ?オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックは、これで映画史上、不動のスターになりました。私も、この映画は何回かみました(テレビでも)。みるたびに泣かせてくれますよね。
 そして『スパルタカス』『ジョニーは戦場へ行った』など、たくさんの映画史に残る名画の脚本を書いています。アメリカ共産党員だったダルトン・トランボはマッカーシズムの赤狩りで映画界を追放され、他人の名前で脚本を書くようになりました。その一つが『ローマの休日』なのです。すごいですね。そして、見事に映画界にカムバックを果たすのでした。
 「ハリウッド・テン」といって、赤狩り旋風の吹き荒れるなかで、仲間を裏切らなかった一人なのです。その点、『エデンの東』のエリア・カザンとは違います。人生の最後まで見事に信念を貫き通したのでした。
 ダルトン・トランボは見事なたたかいをした。才能あふれた芸術家であり、情熱的な活動家であり、そして真の「アメリカ市民」である。トランボはハリウッドにおける1940年代でもっとも卓越した脚本家の一人としての地位をいかし、信念を貫く理想的な人間像を描いた。そして、自らの信念を貫いたがために脚光を浴びる立場を失うと、トランボはまったく新しい生活を始め、1976年に亡くなるまで、言論と思想の自由を一層声高に訴え続けた。
トランボは1年近く警務所に入れられた。アメリカの映画産業で最高の報酬を得ていた作家から、一転して、失業した囚人となった。
 しかし、収監されても、トランボの生活の糧(かて)を奪うことも、市民の反抗というトランボ作品の代名詞をねじ伏せることもできなかった。トランボはハリウッドの闇市場で13年間にわたって脚本を書き続けた。
もっとも大切なことは、トランボは政治をムダ話に終わらせなかったこと。トランボの作品に登場する人物が抱いているのは、怒りというより悲しみだ。多くの右翼政治家が「卑怯なアカ」を悪者にして自らの名を上げようとしていた時代に、トランボは毅然とした左翼だった。同時に、トランボは人道主義者であり、詩的とも言える作品を描く類い稀なる職人だった。
『東京上空30秒』という映画があるそうです。知りませんでした。日本への空爆に志願したB25戦闘機の乗組員のストーリーのようです。トランボは、兵士たちが東京の空襲に備える様子を綿密に描いている。
 戦後、1947年10月、トランボはアメリカ連邦議会に召喚されます。
 トランボは、簡単に答えるように求められたとき、次のように答えた。
 「非常にたくさんの質問にイエスとかノーで答えられるのは、間抜けな奴か奴隷だけだ・・・。これは、アメリカの強制収容所の始まりである」
 1950年夏、トランボはケンタッキー州の連邦刑務所に入れられた。そして1951年11月、出所してメキシコに移住。
 トランボは、最盛期に1本の脚本で7万5000ドル稼いでいた。それが地下潜伏中には、1本わずか1000ドルしかもらえなかった。だから、トランボは質ではなく、量に専念した。
 『ジョニーは戦場に行った』は、いかにも衝撃的な反戦映画でした。上肢も下肢もなくし、実は顔まで奪われた元兵士が、モールス信号で自分の意思を伝達するという話です。といっても、それ以上は思い出せません。トランボは、この小説を自分で書いて、この映画の監督になったのでした。ところが著者は、この脚本の出来はひどいものだと酷評しています。そうなんです。この著者はトランボを天まで高くもち上げているのではありません。冷静に客観的に分析しようとしています。ですから、一味ちがった面白い評伝になっています。
私のような映画好きの人には、こらえられない本です。
(2012年5月刊。3200円+税)

教える力

カテゴリー:社会

著者  井村 雅代 、 出版  新潮社
思わず息を呑む迫力、そのすごさにたちまち圧倒されました。
 私と同じ団塊世代の「鬼」コーチの女性の話には、いちいち、なるほどなるほどと深くうなずくばかりです。
たとえ世間的に高名であっても、実力が低いと出場メンバーから外してしまう。そして、問われると、本人に「あなたが下手だったからよ」と率直に告げる。スポーツは結果がすべて。そのことを肝に銘じた40年間のコーチ人生が語り尽くされています。
 私も弁護生活が40年になります。ここまで言い切れるほどの自信はありませんが、それでも、言わなければいけないことは言っているつもりです。
私はテレビを見ませんし、オリンピックも見たことがありません(見るスポーツは私の関心外なのです)。だから、水泳のシンクロナイズド・スイミングも見たことがありません。
 著者は、そのコーチになって40年。選手たちをただシゴくのではなく、選手を目的地に連れて行って、そこで最高の演技をさせることのみを考えている。
だから著者は、あの橋下徹を痛烈に批判しています。橋下のパフォーマンスによって子どもたちが傷つけられるのは許せないし、現場無視はひどいと弾劾します。まったく同感です。マスコミの前に出ると、橋下徹はコロッと豹変するのです。
 選手をのばすためなら、叱ることも怒鳴ることも、日常茶飯にやっている。しかし、どんなに大声で怒鳴っているときでも、常に頭のどこかで冷静に選手の状態を観察している。
 著者は、日本代表コーチとして6回、中国のヘッドコーチとして2回、連続8回、すべてのオリンピックで、メダルを獲得した。これはすごいことです。すごすぎて声も出ません・・・。
中国のヘッドコーチになるときには、日本側から、「裏切り者」とののしられたとのこと。困ったことですね。これって、心の狭い人の言う文句でしかありません。
 シンクロ選手に走らせてはダメ。シンクロの基本は水中の無重力のなかで自分の軸をつくることなのだから、思い筋肉をつけたらダメ。そうではなくインナー・マッスルをつける。そのため、マット運動とマシンのトレーニングを徹底してやる。マシンで早歩きして、脂肪を落とす。そして、ウエイト・トレーニング。
選手の心をとらえるには、ただ上から命令しているだけではダメ。ときには自分も選手のところまでおりていって一緒に努力する。自らが身をもって示すことで、言葉による厳しい要求も説得力を増す。朝の8時半から、夕方7時半まで、お昼ごはんを入れても、一日9時間の練習をする。
 中国の選手は、省同士の争いがきつい。「オール中国」の意識をもたせるのは大変だった。
選手と向きあうときに一番大切なのは国の違いなんか関係なく、心がつうじあうこと。そして、心が通じ合うためには、自分が嫌われることを怖れてはダメ。嫌われることを怖れず、分かりやすい指導者になることを目ざす。
 選手から絶対的な信用を得るためには、ここぞと思うときに「鬼」になれなくてはダメ。選手から試されなくなるまでが、コーチのたたかいだ。
選手を信用させるのには、なんといっても指導者(コーチ)の情熱だ。かといって、熱心さのあまり、がんじがらめに追いつめて、選手をダメにしてしまったら、元も子もない。コーチの難しさは、そこにある。この選手には、いま逃げ道が必要だと思ったら、ぱっと救いの手を差し伸べてやる。
気の弱い選手がいる。大きな試合では致命的な短所になる。それを克服するためには、いろんな試合に出させて、勝たせる経験が必要だ。選手の心に芽生えた恐怖心を取り除いてやる必要がある。
試合の直前、必要なのは体力の温存よりも自信。何ものをも怖れない、攻める気持ち。そのためには、徹底して練習する。何か心配事があるときには、一人にしてはダメ。誰かと一緒にいると、気が紛れる。プレッシャーとか緊張は、とことん味わって、そこを突き抜けるしかない。
 他人(ひと)を感動させるためには、まず自分ができる人にならなければダメ。
競争の原理のない集団と、リーダーに目的とする具体的な策のない集団は、必ずダメになる。結局、選手に一番大切なのは、「心」だ。心の才能が必要。心の才能がなかったら、選手はうまくならない。緊張しなければダメ。大きな試合の前の「心地よい緊張」は絶対に必要だ。
 著者、井村雅代は圧倒的な、信念の人である。
 ところが、小学生のころは、大人しく真面目な性格で、運動も鈍(どん)くさかったという。人は変われば変わるものなんですね。
あなたに一読を強くおすすめします。元気が出てくる本です。
(2013年4月刊。1200円+税)

私の最高裁判所論

カテゴリー:司法

著者  泉 徳治 、 出版  日本評論社
著者はバリバリの司法官僚なのです。なにしろ、裁判所に46年間にて、その半分22年間は最高裁の事務総局にいました。民事局長、人事局長、事務総長を歴任したのです。典型的なキャリア司法官僚なのですが、意外や意外、けっこう反抗精神も旺盛なのです。やっぱり好奇心旺盛ということからなのでしょう・・・。
 私が、むかし弁護士会の役職についていたとき、それを書いた本を読んで面白かったという著者の感想を伝えてくれた弁護士がいました。そんなわけで、出会ったこともない著者ですが、なんとなく親近感を抱いてきました。
 著者は6年3ヶ月間の最高裁判事のときに、36件の個別意見を書いた。多数意見と結論を異にした「反対意見」が25件。結論は多数意見と同じだが、その理由が異なるものが4件、多数意見に加わりながら、自分の意見(補足意見)を書いたのが7件。
 これは、すごいと思いました。こうでなくてはいけませんよね。私も司法界に入って、最高裁の裁判官になれなかったのだけが残念でした。本気で心残りです。私とほぼ同世代の大阪・京都の弁護士が最高裁の裁判官にチャレンジしましたが、私もチャレンジくらいはしたかったのでした・・・。
 それはともかくとして、少数意見の表明は、決してムダなことではない。まずは全体の議論の質を高めるものである。本当にそうなのです。今日の少数意見は、明日の多数意見になりうる。いま意見を言わないと、いつまでたっても変わらない。裁判官の心といえども、真空状態で働くわけがない。
 高裁が1回の弁論で結審する傾向にある(次は判決となる)。証人や当事者の尋問がある事件は少なく、2.5%ほどしかない。そして、国民は最高裁に対して、誤判阻止の砦、正義にかなった事件の解決を求める。
 しかし、最高裁は3つの小法廷しかないのに、毎年6千件もの事件が押し寄せてくる。最高裁が発足以来65年間に法令違反判決を下したのは、わずかに8件しかない。処分の違憲判決、決定も10件のみ。ところが、おとなりの韓国の憲法裁判所は、22年間に違憲判決を632件も下している。
最高裁の調査官は38人。全員が調査官室に配属され、裁判官全体を補佐する。特定の小法廷や裁判官を個別的に補佐するものではない。
 裁判官の個別意見は、自分で起案する。著者は日本の裁判官があまりにも少ないので大幅に増員すべきだと強調しています。
 裁判官が少ないために民事裁判が遅延し、人々の裁判所離れが生じている。
 裁判を迅速化して民事裁判の機能を高め、裁判所が社会の歯車とかみあっていかなければならない。そのためには、裁判官をもっと増やす必要がある。
 裁判所予算にしても、国の予算のわずか0.348%というのは、いくらなんでも小さすぎる。まことにもっともです。著者の個別意見や少数意見のところは、申し訳ありませんが、飛ばし読みしました。それにしても、司法官僚のトップにいた著者の思考の柔軟性は驚くばかりです。
(2013年6月刊。2800円+税)

秘録・核スクープの裏側

カテゴリー:社会

著者  太田 明克 、 出版  講談社
外務省トップの事務次官・駐米大使を歴任した村田良平は回顧録のなかで、アメリカ軍の核搭載艦船の通過・寄港を日米事前地議の対象外とする日米間の「秘密の了解」つまり密約があることを明言した。さらに、「事前地議」のない限り核の持ち込みはない」としてきた歴代・自民党政府の国会答弁は「虚偽」だったと告白した。
 1963年3月。ケネディ大統領に対して、海軍ナンバー2は次のように報告した。
 「1950年初期から日本に寄港した航空母艦にはいつも核兵器が搭載されている。太平洋に展開する空母機動部隊を構成する駆遂艦や巡洋艦も同様に核装備している」
 核が日本の港や領海に持ち込まれていたのは明らか。なのに、自民党の歴代政権は「事前地議の申し出がアメリカ側からない限り、いかなる核の持ち込みもない」とのウソをつき続けた。
 安保条約が改正される前の旧日米安保条約の下では、アメリカが日本に核兵器を持ち込むことに何の制約もなかった。アメリカ軍の核搭載空母オリスカニが1953年秋に初めて横須賀に寄港したのを初めとして、1950~1960年代にかけて核搭載艦船の日本寄港は常態化していた。
 この核密約は、まぎれもなく官僚主導で管理・継承されてきた。外務省が信頼して真相を報告していた首相・外務相は限られていた。橋本龍太郎・小渕恵三は報告を受けていた。
核巡航トマホークは、あまり信頼性のおける兵器ではなかった。トマホークの複雑な誘導システムには問題があったが、GPSを使ったトマホークもいくつか軌道をはずれた。
 アメリカは敵国のジャミング(通信妨害)を恐れて、核攻撃時にはGPS機能を使わないことにしている。だから、太平洋や日本海に展開するアメリカの攻撃型潜水艦から核巡航トマホークが発射されたとき、いくつかが日本や韓国に間違って打ち込まれる事態もありうる。これは笑い話ではない。
 2013年3月時点で、アメリカが保有する作戦に作用可能な核弾頭5000発のうち、長距離型の戦略核は1737発。短距離型の戦術核200発と配備されていない予備用がある。ロシアの方は1492発の戦略核と、2000発の戦術核を保有している。中国の核戦力は240発。
沖縄に初めて核兵器が搬入されたのは1954年末から1955年初頭にかけて。沖縄に貯蔵された核兵器は多種多様だった。18種類もの核兵器が1972年の本土復帰まで配備されていた。
 1967年段階で、アジア太平洋地域にアメリカは3200発もの核兵器を陸上で貯蔵していた。沖縄には、その3分の11300発があった。韓国に900発、グアムに500発だった。
日本の歴代政治指導者とそれを支える官僚組織は、みずからの核保有オプションをあきらめ、その代わりに同盟の盟主であるアメリカの核戦力に国防の根幹を委ねる国策をとり、「核の傘」を、しぶしぶと言うよりは、能動的かつ主体的に受け入れてきた。
 核密約問題の底流には、核兵器の所有者はあくまでアメリカだが、世界唯一の戦争被爆体験をもつ日本が、盟主の「核パワー」と核抑止力論を前提とした国防政策にどっぷり漬かり続けてきた。日米は軍事的な意味あいにおいて、まずまぎれもない「核の同盟」なのである。
 共同通信記者として長年にわたって取材してきた執念を感じることができました。
(2013年4月刊。1700円+税)

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